三六話 おくすりやーやーなの!
元々、この身体にはオクリー本来の記憶と人格が宿っている。
前世の意識が覚醒するまで、オクリーという人間は極々一般的な家庭で慎ましく暮らしていた。
風向きが変わったのは、故郷の村が邪教徒に襲われてからだ。
施設に囚われて困惑の最中、一〇歳の時に何の因果か前世の記憶に目覚めた。それからは本来のオクリーと前世の俺が融合し、記憶を共有する形になったのである。基本的に表に出ているのは前世の人格で、オクリー本来の要素は引っ込みがちだ。
だが、親の愛を知らずに育ってきたとはどういうことだ?
前世の俺にも今世の俺にも両親がいる。虐待や育児放棄などは受けていないし、親の性格が悪かったわけでもないし――曲がりなりにも愛を受けて育ってきたはずだ。ヨアンヌは何を見ていたのだろう。
ヨアンヌの柔らかな身体に抱きしめられながら、激しく動悸する心臓を押さえつける。不愉快な違和感の正体を確かめるべく思考を回していると、ヨアンヌが俺の額に熱っぽい吐息を吹きかけてきた。
「アタシ達の心臓、こんなにおかしくなっちゃってる。……ねぇ聞いてみてよ、オクリー?」
顔を横向きにされて、無理矢理胸の中に抱え込まれる。耳朶が押し潰される感覚と共に、熱くなった耳の表面がヨアンヌの体温と溶け合う。冷たい表皮の下に潜む温もり。その柔らかい双丘の下で、かき鳴らすような心臓の音が響いていた。
人間ひとりを生かすには過剰すぎるほどの、煮え滾る蒸気機関の如き轟音。莫大な人間のエネルギーが猛り狂っている。不休で動き続ける強靭な心臓が、直接俺の肌に触れようと手を伸ばしていた。
どこか馴染みのある鼓動音。不可解な感覚に戸惑いながら、俺はされるがまま彼女の心音に聞き入っていた。
「オマエもアタシの記憶が見えたんだろう? どうだった?」
驚きつつ彼女の上気した顔を見上げる。彼女のスプリットタンが自身の潤んだ唇を舐めていた。
ヨアンヌは何を知っている? 確かに俺はヨアンヌのそれらしき記憶を見た。問題は彼女がそれを言葉に発してきたことだ。言葉にして伝えてきたということは、それなりの確証を持っているということに他ならない。ただの偶然で相手の記憶を幻視したわけじゃないなら、この精神攻撃を仕掛けたのはヨアンヌなのだろう。
「……ヨアンヌ様が精神干渉の魔法を?」
「魔法? 何のことだ」
「え?」
ヨアンヌはとぼける様子もなく率直に反応する。その様子には混じりっけのない本心が現れていた。
俺は知っている。ヨアンヌはその性格故に嘘をつくのが凄まじく下手くそだ。彼女の表情や声色を観察すれば、フアンキロの魔法を使うまでもなく真偽が分かるほどにヨアンヌは正直者なのだ。
「まあ、魔法みたいなものだよな。アタシ達がこうして出会えたことはさ」
突然ロマンチックなことを口走るヨアンヌ。今度は自分の番と言わんばかりに、俺の胸を婀娜な手つきで探り当ててくる。そのまま服の中に手を突っ込んできて、指の腹で回して確かめるように胸骨の上をなぞり始めた。
「……あはっ。オマエのここ、ドキドキしてる。――可愛いよ……」
勝手知ったる動作。まるで俺の胸を切り開いたことがあるかのように、ヨアンヌはいじらしい所作で胸を擽ってくる。爪で虐めるようにかりかりと溝をなぞり上げ、俺の反応を楽しむように螺旋状の双眸で覗き込んでくる。
彼女は衣服の上から己の胸を握り締め、皺が放射線状の模様を描くほどに強く掻き抱いた。
「オマエはアタシの何を見た? もっと知ってほしい。もっとドキドキしてほしいよ、オクリー」
耐え難い悦びと興奮と不安が入り交じったヨアンヌの顔。彼女の圧に気圧されながらも、俺は真実を解明するべく彼女に食ってかかった。
「……私はヨアンヌ様とアーロス様との出会いの場面が見えました」
「そうか。次は何が見たい?」
「次と言われてましても――それよりも、ヨアンヌ様は具体的に何が見えましたか?」
その質問をした途端、俺の中にあるオクリーの部分が不安を感じて悲鳴を上げそうになった。自分の中にある朧気な記憶が信頼できなくなったのか、身体がぶるぶると震え出す。
途方もない拒絶感。忌避感。ヨアンヌの答えを聞きたいような、聞きたくないような。俺という人間が前に進むためには必要なことなのに、どうしようもなく戦慄してしまう。俺はその迷いを振り払い、ヨアンヌの言葉に精神を集中させた。
彼女の小さな口から言葉が紡がれる。
スローモーションになるほど加速した俺の意識は、次の瞬間には暗転してしまいそうなほどの衝撃を叩きつけられた。
「オマエが孕み袋の中から産まれる瞬間だよ」
主観と客観の齟齬。ヨアンヌから放たれた言葉は、俺の心を容易く混乱に陥れた。
(――孕み袋? 今世の俺は、あの孕み袋の中から産まれたとでも言いたいのか?)
前世である日本の記憶が暴かれないで良かったという、ほんの一欠片の安心感はさておき――ヨアンヌの言葉に嘘はないと何故か確信を持って断言できた。何の根拠もない彼女の言葉を嘘だと切り捨てることは容易かったはずなのに、何故かできなかった。
凄まじい吐き気が喉奥を抉る。彼女の言葉を否定したい気持ちが全身を駆け巡り、オクリー自身の記憶を掘り起こそうとする。
故郷の村。両親。友達。近所のおじさんおばさん。
(まさか……オクリーとしての記憶は全部作り物だったのか……?)
そんなはずはない。
俺は故郷の名前を言える。
███の村だろう。
(……あれ?)
……出てこない。
いや、村じゃなかったか。
街だ。███の街……。
(……………………)
両親の名前。思い出せない。
友達の名前。思い出せない。
よく考えたら、顔も分からない。
思い出せるとかそういう問題じゃなくて、分からないのだ。イメージの中は砂嵐が掛かっている。
……何故そんな歪な状態になっているんだ?
ふと思い起こすと、俺の脳裏には、子供の頃に受けさせられる洗脳カリキュラムの内容が思い浮かんでいた。
(確かに俺は洗脳カリキュラムを体験させられた。……その時に頭の中を弄られていた? 魔法とか薬で? そんな馬鹿な! 何をされるか知識があるぶん警戒はしてたはずだぞ……)
原作にも描写があった。……あったはずだ。洗脳カリキュラムに使用されるのは……そう……。
……あれ、何だっけ?
多分精神に干渉する何かしらの薬だ。
本当に?
間違っているかもしれない。
じゃあアーロスの魔法か?
でも彼の魔法を多数の人間に掛け続けるのは現実的に不可能のように思えるのだが――
(おい、おい……原作知識はどうした? 心の拠り所だった前世の知識はどこに行った!? 思い出せよ俺! いつどこで何を仕込まれた!?)
薬を食事に混ぜられた? それとも圧力を掛けられて薬を飲まされた? はたまた脳を弄られた?
思い出せない。頭を掻き毟っても、目から涙が出そうになっても、滓ほどの記憶も出てこない。
(あ……)
……そうだ。
一〇歳の頃に前世の記憶に目覚めた俺は、邪教の施設から逃走しようとした。その時、監視に見つかって三日間監禁された。
あの時だ。孕み袋から産まれ、洗脳を受けてきた子供は逃げ出そうなどと考えるはずもない。異質な子供と看做された俺は、偽の記憶を植え付けられたのだ。
陽炎のように歪む記憶の中、誰かに掛けられた言葉が脳内で反響する。
“この子は?”。
“脱走を計画していました”。
“理由は?”。
“話そうとしません”。
“ふむ、孕み袋から投薬して急成長させると何かと上手くいかないことも出てくるようですね”。
“いかが致しましょう”。
“再教育です。その際適当な記憶を植え付けておきなさい”。
“記憶ですか”。
“ええ、応急処置です”。
――思い出した。孕み袋から産まれた子供は投薬によって急激に成長させられ、誕生して数日ほどで肉体年齢が一〇歳に変化するのだ。肉体の急成長に精神面が追いつかないので、そこから数ヶ月かけて更なる投薬による自我形成が行われる。
形作られるのは命令に従順な自我。順調に成長すれば、教祖や幹部の言うことに何の疑問も抱かない人形のような人間が誕生するわけだ。
なるほど、俺が再教育を受けたのは一〇歳の時。従順な自我を形成する際に起きたバグとして処理されたのだろう。
薬を仕込まれて都合の良い記憶を植え付けられていたが、今まで蓋をされてきた記憶が今になって解き放たれたわけだ。
俺は身体の内側に疼く衝動を押さえ付ける。
記憶を都合よく書き換えて、人の命を弄び、その一生を棒に振らせて――
俺達は一体何なんだ? 奴らは神気取りか?
教団の人間は全員狂っている。人間の命を何だと思っているんだ。
俺の中のオクリーの部分が、現実を突きつけられて壊れていく。自分には何も無かった。帰るべき故郷も、血の繋がった家族さえも。孕み袋の中から産まれたのでは、父親も母親も分かりはしない。
人格の破壊が進む。邪教に引っ張られる心と、正教に逃げ出したい心が分離していく。記憶操作すら心地良いと思う狂気の人格が胸の中で暴れ回り、正常だった俺の心を侵食している。
俺の正気を繋ぎ止めていたのは、皮肉にもヨアンヌから与えられる刺激だった。彼女の指が俺の身体をなぞり、熱を帯びた吐息が首筋に当たり、唇が落とされる度に現実に引き戻される。戻されてしまう。
何故普通の感性を持った邪教徒が万が一にも現れないのか分かった。正気にならない方が楽だからだ。幸せだからだ。何も知らないフリをしていれば、アーロス様が導いてくださるからだ。あぁ、自分の運命を他人に委ねるのは何と楽なのだろうか。
……吐き気がする。あの男は邪悪だ。ここまでのことをされて、まだ邪教徒に与すると?
答えは断固として否だ。極悪非道の親玉を止めなければ。殺さなければならない。
(……アーロスには、前世の記憶を覗かれてないよな?)
アーロスの影の支配を受ければ、自供という形で全てを吐かされる。そのため、前世記憶所有が露呈した可能性はないと切り捨てた。
ヨアンヌに前世の記憶を見られなかった理由は分からない。ひとつ考えられるのは、そもそも前世の記憶を有している状態が特殊すぎるということか。
オクリーという男の身体を支配しているのは俺自身だが、読み取られる記憶はあくまで今世の肉体が経験したことに限られるのではないか、というのが俺の希望的観測に基づく予想だった。
また、記憶が交換されたのは、恐らく薬指を交換したことによる記憶転移の影響だ。心臓などの重要な臓器ならともかく、薬指を交換した程度で記憶転移が現れるかは分からないが……魔法攻撃や薬の影響でないならそうとしか考えられない。
いつ俺の前世の記憶が漏れ出すかは分からない。この世界に魔法が存在する以上、この法則が破壊されない保証がないからだ。
そして、前世の記憶がヨアンヌに渡ってしまった瞬間……俺は逃れられぬ死に直面することになる。
元々邪教徒殲滅のタイムリミットはあったが、これまで以上に時間を無駄にできなくなった。早く幹部になって、せめてアーロスだけでも殺さないと。
(うっ……まただ。思考の片隅に、なあなあで敵対心を窘めようとしてくる人格がいる。どうにかしてこの人格を取り除かないと、瞬発力の試される場面で決断に迷いが生じる可能性があるな……)
何となく、ダスケル奇襲の日を思い出す。あの日、ヨアンヌに抱えられて眠りについた後――何故俺はベッドでなく拘束器具の上で目を覚ましたのだろう。
一度引っかかると、思考が止まらなくなる。
ヨアンヌの愛と狂気に隠された違和感の正体。暴れ回る心臓の原因。操作される思考回路。
もしかすると、だ。
記憶転移の予想は正しくて、何か重要な臓器を交換されたのではないか。
例えばそう、心臓のような臓器を――
「ヨアンヌ様。質問なのですが、私の心臓を交換しましたね?」
口をついて出た質問に対して、ヨアンヌは狂気の笑みを浮かべた。
「凄い、どうして分かったんだ!?」
「返してください」
「え、何で?」
「さっき互いの記憶を見れてしまったのはそれが原因です。それだけじゃない、性格にも影響が及んでしまうんですよ。このままではヨアンヌ様がヨアンヌ様でなくなってしまう! それでいいんですか?」
「いいよ、むしろ大歓迎だ。アタシがオマエ色に染まっていって、オマエがアタシ色に染まっていく。それって素敵なことじゃないか?」
一番最初に殺さないといけないのは、ヨアンヌかもしれない。話すだけ無駄な狂人。俺の身体を勝手に弄くり回しやがって――
あぁ、何て可愛らしい女の子なんだろう。こんなに俺のことを好いてくれるなんて――
殺したい。
「…………」
どうして分かってくれないんだ、ヨアンヌ。俺は怖いんだよ。俺が俺じゃなくなるのが。普通の人間は耐えられないんだよ。どうして分かり合おうとしてくれないんだ。
「はい、ヨアンヌ様。素敵だと思います」
俺は涙を流しながらヨアンヌを抱き締めた。
俺の心は完全に汚染されていた。
 




