一一八話 オクリー・マーキュリーの到達点
脊椎を通った怒りの感情が、双方の腕へとおりる。
ヨアンヌは徐に右手を突き出し、オクリーも左手でそれに応じた。
盾と拳が擦れ合いながら交差し、すれ違う。
ヨアンヌの拳骨がオクリーの正中へ狙いを定める。目にも止まらぬ速さ。真正面から激突するかに思われたが、すり抜ける。オクリーの身体が沈み込み、『聖鎧』の欠片がヨアンヌの顎を打ち砕いた。
「ぐっ……!?」
後の先。白虹の盾がヨアンヌの下顎を完全に破壊し、片側の顎関節が皮膚ごと断絶して舌が露出する。
ヨアンヌからすれば毛ほどのダメージにもなっていないが、完璧なカウンターを打ち込まれた精神的ショックにより、少女の身体が大きくよろめいた。
その隙を見逃さず、オクリーはヨアンヌの鳩尾を蹴りつけて、大地で燻る聖火の元へと追い込んだ。
ヨアンヌは己の死が近づいてくる状況にすんと冷めてしまって、普通の人間ごときが魔法使いを追い詰められると思うなよ、という一種の傲慢さを纏い始めた。
即座に傷が治癒され、オクリーの身体に絡みつくようにして連続攻撃が繰り出される。無造作に繰り出す正拳突き、長い脚を振りかぶった踵落とし、内臓を破壊するための膝蹴り――それら全てをオクリーは左腕の盾で受け流し、少なくないダメージを受けながらも反撃の機会を窺う。
オクリーのしぶとさに焦れたヨアンヌが貫手を繰り出す。
決まれば頭部を宙に浮かせようかという、頚部への一撃。速度は人間の反射神経を超えたものであったが、やや大ぶりである。
喉仏から項の間を狙い済ました貫手は、オクリーのダッキングによって空を切った。
オクリーの戦闘スタイルは基本的にカウンター狙いだ。身体を低く潜り込ませた後、伸び切ったヨアンヌの手を取って引き入れ、肩越しに少女の身体を担いで放り投げた。
美しい背負い投げだった。
背中を地面に強打し、ぼきんと軽妙な破砕音が響き渡る。
ヨアンヌの全身に鋭い痛みが走る。痛みと共に、不穏な思考と苛立ちが瞼の裏を塗り潰す。
どうしてこの男は倒れないのか。自分を散々な目に遭わせておきながら、のうのうと生き延びようとしているのか。さっさと踏み躙られてしまえ。そんな粘性のどす黒い思いが湧き上がった。
打ちのめされたのは一瞬。即座に背骨の骨折を回復したヨアンヌは、身体を跳ね起こしながらオクリーの上半身へ浴びせ蹴りを叩き込んだ。
次に吹き飛んだのはオクリーである。彼の場合は些細な接触でも大ダメージだ。全身に擦り傷や打撲を負い、脳震盪が祟って視界が掠れるようになってしまった。
「何であの時、アタシにローブをかけてくれたんだよ……!!」
ぽつり、ヨアンヌが呟く。言いながら、自らの手で切断した腕を放り投げ、オクリーの背後に転送する。
究極の錯乱戦法を前に、オクリーは為す術もない。右脚を踏み抜かれて、太腿の骨が露出する。
オクリーは体勢を崩しながらも盾を振り翳し、ヨアンヌの頭蓋骨を砕く。超硬質な盾はそのまま攻撃力に転換された。
「知るかよ! 放っておけなかった!! あの時は、それ以上でもそれ以下でもなかった!!」
双方、膝を折って地面に手をつく。ヨアンヌは脳漿を撒き散らしながら、肉体の限界を超えた動きで急旋回。体躯をしならせながらオクリーに肉薄し、立ち上がらせる隙を与えず脚を振り下ろす。
すんでのところで回避。またまた、回避。地面だけが穿たれて、オクリーは四肢ならぬ三肢を操って器用に躱し続ける。
「あれさえなければ――あれさえなければっ!! オマエと恋仲になることもなかったっ!!」
ヨアンヌの次なる一撃は先刻失敗したばかりの貫手。地面に高ばいになっているオクリー目掛けて、獲物を捉える蛇のような軌道で攻撃を行う。
二、三度、盾と手が衝突した後、オクリーの臍部に尖らせた手先が掠った。爪の先に、敵に深手を負わせた感覚が走る。ボロ切れのようになったオクリーの服に一直線の切れ目が入ったかと思えば、重力に従ってだらしなく落ちた服の下――割れた腹筋に一文字の切り込みが入った。
オクリーが反射的に腹部を押さえるも、一文字の切り込みに沿って幾つもの赤い珠が膨らみ始めて、突如、赤い横線から大量の血液が溢れ出した。
腹圧に耐え切れなくなって、体液と共に中身が零れ落ちる。ぼとぼと、という、液体よりも遥かに重々しい何かが滴り落ちる音が響き渡る。
「どうしてアタシなんかのこと、好きになったんだ!! オマエを好きになったせいで、もっとこの世界が辛くなったよ……!!」
オクリーの視界が真っ赤に染まり、意識が根こそぎ削られていく。ヨアンヌの問いに答えられるほどの余裕はない。それに、答えは彼女自身が知っているはずだ。気づいたら好きになっていた、と。
オクリーは血液を頬に溜め、口内に圧をかけて噴射する。視界を奪えたなら儲けもの。当然、余裕の回避を許すが、彼の狙いはそこではない。
足元に転がっていた、かろうじて形を残す木材である。血を撒き散らして気を引き、木材を引ったくって火元へ向かう。
角材に聖火を点したオクリーは、背に腹は変えられぬと、腹部を一閃する傷口に燃え盛る炎を当てがった。
「――――んんんんんっ!!!」
中身を渾身の力で押し込んで戻しながら、傷口付近の蛋白質を熱凝固させて止血を試みる。ちりちりと鼻を突く刺激臭が腹部から立ち上り、ヨアンヌは彼の覚悟に少し怒気を削がれる。
毒を以て毒を制したつもりか? 致命傷を致命傷で上書きしてどうする。相変わらずだなぁ、という呆れすら含んでいた。
石礫を弾き飛ばして眉間を狙うが、盾で弾かれた。音速を超える指弾だったはずだが、視線で狙いがバレたようだ。
邪教徒が一瞥するだけで寒気を感じる毒の炎で大火傷を負って、何故正気を保てているのだろう。肉体が崩壊したスティーラの最期を忘れたわけではあるまい? そんな思考が脳裏をよぎる。
オクリーは追い詰められ、傷つくほどに強くなる。ホイップ=ファニータスクは強かったが、彼の異常性に押し切られて死亡した。人間ではなくケモノだと思って対峙しなければならない。
警戒心を新たに、傷を塞ぎ切ったオクリーに接近しようとして――彼の姿が二重にブレた。
大腿骨を開放骨折しているはずなのに、一切歯牙にもかけずステップを踏んでいる。
オクリーは長さ一・五メートルほどの木の棒を振るい、猛毒の炎が点った先端部をヨアンヌの左腕に叩きつけて、焼き切った。左腕の断面がどろりと溶け落ちて、治癒魔法が効かない。
そのうち無傷の部位まで毒が回り始めて、身体全体の動きが鈍くなり、治癒魔法の効きが明らかに悪くなった。
負けじと繰り出したヨアンヌの足先蹴りがオクリーの脇腹に穴を開ける。胴に空いた穴から鮮血が噴き出し、一定のリズムで勢い良く排出され始めた。
流石のオクリーも次なる火傷の上書きは体力的に不可能だと感じたのだろう、少し迷った素振りを見せた後、大出血を厭わず木材を素振りして具合を確かめた。
「スティーラにちょっかいをかけたのは、どうしてだ……!?」
「向こうが寄ってきたんだ……知ってるだろう……!」
「満更でもなかったくせに……!!」
二人共呂律が回っていない。
オクリーは地に潜り込みながらヨアンヌの手刀を回避し、槍術の突きの要領でヨアンヌの肩口に先端部を突き刺した。
じう、という音と同時に、黒い煙が発生する。聖火の毒がヨアンヌを蝕み始め、顔色を忽ち悪くさせた。
ヨアンヌは地面に倒れ込む。ほとんど同時、出血多量によってオクリーも地に伏した。
自らの血の海で呻くオクリーの隣、顔面蒼白のヨアンヌが地を舐めている。少女は苦しみの吐息を漏らしており、青年は木材を握る力すら無い。
聖火の猛毒に侵されるのは初めてだったヨアンヌは、精神錯乱と体力消耗によってまともに動けなくなってしまう。これほどまでに強力な猛毒とは知らなかったのだ。
そんな敵の様子を見たオクリーは、殺害のチャンスは今しかないと馬乗りになり、その細い首に手をかける。彼もまた死にかけだが、気力と脳内麻薬だけでどうにか持っている。
青年が生み出した血のプール、斑色に赤く燃える空、朦朧とする意識、ヨアンヌを見下ろすオクリー――あの時心を溶かし合った光景と酷く似通っていた。
「……オマエがスティーラに尻尾を振り始めたせいで、余計に頭が混乱した……! アタシがスティーラを本気で排除しなかったのは、関係性の優位があったからだ……アイツに比べてより愛されてるって自覚があったからだ……!」
口端から涎を垂らしながら、オクリーの手にそっと己の手を添えるヨアンヌ。抵抗したいのか、幇助したいのか、分からない。聖火の猛毒に侵されて、正常な思考もままならない。
「なのに――アタシの心より先にアイツを救いやがった。それが許せなくて、今、こうなった……!」
オクリーはヨアンヌの全てを知っていて、ヨアンヌはオクリーの全てを知らない。
その非対称性が歪みを生み、不和を生み、『小さな世界に至る計画』を生むに至った。
二人の問題の根本は単純明快だ。
――ヨアンヌ・サガミクスを信頼できるか。
人は人を本当の意味で信頼できるか。
どれほど近しい者であっても、心の底の底までをひけらかし、共有することができるか。
ヨアンヌの一方的な批難や感情の不安定さは理不尽だ。正直なところ、そんなもん知ったこっちゃないというのが本音だ。しかし、そうはならないのがオクリーの人生だ。
ヨアンヌは己の弱みを吐露した。オクリーの目をじっと見つめている。口下手な彼女は自らの心情を先んじて開示することで、オクリーに思いの丈を語らせようとしているのかもしれない。
ぎりり、少女の首を締め付ける右手に力が篭もる。
螺旋状の瞳が二重に歪み、小さな口から咳が漏れ苦しみを露わにする。
――こんな状況に置かれても、前世の記憶があるなんて絶対に言えない。言えるわけがない。
本能的な忌避感があった。殺して口を塞いでしまった方が楽なんじゃないか、と思うほどに。
だって、ヨアンヌにこの記憶を打ち明けたら、どうなる?
激しく嫉妬するのではないか? そっちに行きたい、もっと知りたいと我儘を言うのではないか? ……それだけなら可愛いものだ。どうしてそんな大切なことを言ってくれなかったんだと失望され、幻滅され、棄てられるかもしれない。
それが耐え難く苦しい。彼女を愛してしまった以上、失うこともまた恐ろしいのだ。
それに、彼女がもし他の人間に秘密を零してしまったら、どうなる?
異世界で生きた人間の魂がこの身体に入っていると知られたら、間違いなく実験体にされる。
自分が廃人になるだけならまだマシだ。この事実は他者を巻き込んだ騒動になる可能性が非常に高い。
日本に存在する作品の一つを模した世界がここだなんて知られたら、ケネス正教の『神』のように、別格の概念が生まれてしまうために大混乱は必須。ヨアンヌがどれだけ気をつけようと、人の口に戸は立てられない。いつかは漏れてしまう。
それに、過去の記憶を具体に口にしてしまったら、心の抑えが効かなくなる気がした。考えるだけで頭がおかしくなりそうなのだ。
過去に振り回されて、一度、気が狂った。もう二度とあの思いをしたくない。
「……隠し事……言って、くれないのか……?」
戦い始めてから、初めてヨアンヌの言葉尻が弱まった。
大粒の涙を湛えた少女の双眸が、青年の心の底を見透かす。
――言ってもいいよ。
彼女の言葉にはそんな真意が隠されている、ような気がした。
そもそも、人間には一つや二つ隠し事があるものじゃないのか? それすらも許せないから、ヨアンヌは暴走してしまったというのか?
幾度となく拒絶の想いを反芻する。
やっぱり、知られちゃいけない。伝えちゃいけない。
この刹那の怒りに任せて、殺してしまった方が。
「オクリー……」
掠れた少女の声が届いて、思い留まる。
本当にそれでいいのか?
――いや、待て。
今、自分は、過去の記憶をヨアンヌに伝えてないのに、不安や懸念だけで彼女を殺そうとしている。
これでは、同じだ。不安に任せて世界を壊そうとしたヨアンヌと、同じ結末を辿ることになる。
莫大な不安すら包容して話し合いをしなければいけないと、己が説教したのではなかったのか。
彼女の『小さな世界』に苛立ち、時間や感情を割かれていたのは、結局のところ――
(同族、嫌悪…………?)
『過去の記憶』を伝える勇気が湧かなかった、自分のせい……?
それとも、『過去の記憶』をシャープペンシルだと思っていた? ヨアンヌにとっては、掛けてやったローブくらい大事なものだったのに。
すれ違いと、思い違いと、無意識の自己保身。それがこの混迷の正体なのだ。己の醜さを突きつけられたオクリーは、ヨアンヌの首に当てた右手から力を抜いた。怒りはすっかり醒めていた。
――こうなっても、まだ、彼女に伝えられない自分に、絶望していた。
そんなオクリーの内心を察したヨアンヌは、小さく首を振る。
「違う……違うんだよぉ……。アタシはオクリーの全部を知りたいけど……どうしても教えられないなら、それで良かったんだ……」
「え……?」
「『こういう理由があるからお前には言えない。けど、いつかその時がきたら話させてくれ』って……その一言が欲しかっただけなんだよぉ……」
「――――――」
少女の内心を思い知った瞬間、全身に寒気が走った。身体を支える下半身から力が抜けて、動揺のあまりつんのめってしまう。目と鼻の先で見つめ合う二人の時が止まる。
ヨアンヌが打ち出した答えは、酷く中途半端だった。
固く口を閉ざすか、洗いざらい全てを吐き出すか、その二者択一でしかないと思っていたオクリーは、脳天を鐘でぶん殴られたような衝撃をまともに受けてしまった。
隠し事があるけど教えられない……そんな伝え方があったなんて、知らなかった。心を溶かし合い、極端な精神融合を起こしてしまった故の弊害だ。思いつくわけがない。
ともすれば逆効果になり得る発言が、今は一番優しい言葉になったわけだ。でも、思い返してみれば、簡単なことだったのかもしれない。人を信じていれば、そういう真摯で正直な向き合い方も、きっとできたわけだから。
(ヨアンヌを信じるとか言いながら……結局、人を信じ切れていなかったのは、俺の方だったのか……)
臓器を交換した後、その一言を添えるだけでも、ヨアンヌは納得してくれていたのだ。
それすらなかったから、彼女は狂ってしまった。
明らかになってしまえば単純明快。簡単なコミュニケーションで解決するような引っ掛かりだった。
ここまで来るのに半年以上も掛かってしまった。盤面のあちこちに手を出したくせに、一番近い所が見えていなかったから、途方もない遠回りをしてしまったらしい。
「……ヨアンヌ」
「何だよ……また言い訳かよ……」
子供のようにぐずりながら、ヨアンヌはきいっと犬歯を剥き出しにする。
オクリーは奥歯を噛み締めて、発狂しそうになるほどの感情を堪えながら語り始めた。
「ヨアンヌは……俺のことをどう思ってた……?」
「ど、どうって……さっき言った通りだよ」
「俺の行動原理が良く分からないって言ってたよな」
「…………」
ヨアンヌは無言で頷く。さっき言ったことの繰り返しではあったが、オクリーの様子が豹変し激しく狼狽しているのに気づいて、固唾を飲んだ。
そして、青年は打ち明ける。
「俺は……この世界の人間じゃないんだ」
「ぁ、え……?」
「元々は、別の世界で暮らしてた。ある時、日常が途切れた。……死んだのか、気絶したのか、寝てしまったのか……とにかく、突然、意識がここに飛ばされてたんだ。最初は夢かと思った。でも違う。戻れない。痛みも苦しみも全部本当で、俺はこの世界の住人にさせられた……」
「お、オマエは……何を言っている……?」
致命的で決定的で、後戻りできない記憶と情報を吐露した。
真っ直ぐに両目を見つめている。お互いに目を離すことができない。
「意味が分からなかった。元の暮らしは? 家族は? 友達は? 全部消えた! 気が狂いそうだった。何度自殺しようとしたか分からない。でも結局、死ぬのが恐ろしくて、死なないだけの状態が続いた……」
ヨアンヌはオクリーよりも動揺していた。恐怖すら感じていた。意味の分からない情報が次から次へと滂沱として降り注いでくる。青年の混乱と焦燥まで心の中に注ぎ込まれて、身体が動かなくなった。
嘘ではない、本当のことを言っている。今まさに、隠していたことを打ち明けてくれている。ヨアンヌは目の縁に涙を溜めながら、食い入るように彼の話に聞き入った。
「……こっちに来る前、俺は、元の世界から、この世界の未来を見ていた。ありとあらゆる結末を、アルフィーという少年の意識を通じて見ていたんだ。だから彼に拘ったし、色んな情報を知っていた……」
「ぁ、ああぁ……。そうか、だからオクリーは……!」
情報の優越性があったからこそ、オクリーは異常行動を起こし続け、妙な思想や感情を抱いていたのだ。ヨアンヌの心を穢していた霧がやっと晴れて、心の中に在る彼の姿がはっきりと見えてきた。
「でも、この世界の情報を知ってるっていう安心感とか、そういうのがあっても、メタシムで限界を迎えて……頭がぶっ壊れた……。そして、アルフィーが死んだことを知って、世界が予想外の方向に傾き始めて、しかもそれが俺のせいだったから……情けなくて……どうしようもなくて……」
顔をくしゃくしゃにして、情けなく己の過去を語る彼の姿は、異分子と呼ばれた特別な青年でも何でもなく、等身大の青年のように見えた。
彼は取り繕っているだけで、きちんと弱いところもある、普通の男の子なのだ。心の中にじんわりと拡がるようにその事実が染み渡ってきて、ヨアンヌはざわつく心を徐々に落ち着かせていく。
「ダスケルの戦いが終わった後、俺はヨアンヌに目をつけた。俺のことを都合よく好いてくれて、利用できそうだと思ったから。……そうして、肉体に刻み付けられていない魂の記憶を布石として、ヨアンヌとの精神干渉に勝利した」
「…………」
「……笑えるだろ? ヨアンヌに向けてた悪感情は、全部自分に返ってくるべきものだったんだ。――俺は。俺は……! この世界の住人が、どういう性格で、何が好みで、どんな過去があったか、ほとんど全て理解してた! だから頭ごなしに決めつけて、上辺だけでやり取りしてた! 俺の方こそ会話をしてなかったんだ!!」
満身創痍の身体のどこにそんな力が残っていたのだろう。びりびりと響き渡る声で、オクリーは悲痛な叫びを上げた。
「ヨアンヌ、ごめんっ……! ヨアンヌは勇気を振り絞って、俺に心をひらいてくれたってのに……俺はあの時……その勇気に報いることができなかった……!! 俺だけが心を閉ざして、本当の自分を曝け出すことを恐れて、情報の優位性を捨て去るのが怖くて……!! 自分でも情けなくて……でも、信じ切れなくて……!!」
怒りと後悔と悲痛に呑まれながら、オクリーはヨアンヌの上で嗚咽する。初めて吐露した感情に呑まれてしまいそうなオクリーを前に、ヨアンヌは堪らず腕を伸ばした。
「オクリーっ!」
少女の身体が跳ねて、青年の身体を抱く。
互いの身体から流れる夥しい量の血液は、二人の肌を密着させることで出血が緩慢になる。少女は途中で途切れた左腕を青年の背中に回し、右手を後頭部にやって髪を撫でた。
息を荒らげていたオクリーの呼吸が次第に落ち着いていき、ヨアンヌの体温を確かめるようにその体躯を掻き抱く。
衝撃的な秘密を打ち明けられたヨアンヌは、オクリーの頭を撫でてやりながらも、赤黒い空を惚けたように見つめて呆然としていた。
「……なんって、言ったら良いんだろうな……」
ありのままの、混乱した感情が言葉として漏れる。
殺意も憤怒も、地平線の彼方へ置いてきた。圧倒的な衝撃で上塗りされていたからだ。
本当に、何と形容すれば良いか分からなかった。
彼が抱えていた秘密は想像以上に大きなものだった。それこそ、次元が違っていた。別世界から、『アルフィー』を通じて、この世界の未来を見通していた――なんて、到底信じられない妄言だ。
でも、メタシム奪還の直後、フアンキロの尋問を耐え切ったのはそういうことなのだろう。フアンキロから伝え聞いた質疑応答と『鎖』の反応を今の情報と照らし合わせると、彼の頭の中で思い描いていた真実が形を帯びた。
それに、彼の異様な知識量や大局観が別世界の記憶に基づいているというのなら納得である。彼が度々心の中で口ずさんでいた意味不明な単語も、別世界の言語から来るものなのだろう。
数々の違和感が晴れていく。オクリーが纏っていた異様な雰囲気は、肩書きや気迫から来るものではなかった。魂そのものから違和感が漏れ出していたのだ。
「俺、失敗続きで、悪癖を治そうと思っても、治ってるのかすら分からないくらい無様で……。こんな俺だから、もう、本当に、死んだ方がいいんじゃないかって……」
「――それは違うっ! オマエは迷って苦しんで失敗しながらも、何度だって立ち上がってきた! それが悪癖なわけない!! それと、オクリーは失敗続きって言ったけど……スティーラを救って逝かせてやったみたいに、今のオマエにしかできなかったことも絶対にあった!」
「っ……」
「自分の醜さを真に自覚した瞬間から、人は真っ直ぐに生きていける! 自分の行動で未来は変わっていくはずだ! ――――……って、ドルドンなら言ってたと思う……!!」
「…………。ど、ドルドンなら確かにそう言いそうだけども……急にトーンダウンしたな……」
ヨアンヌがドルドン神父の名前を出して半ば茶化したのは、自分の言葉が自分自身に返ってきて気まずくなったのと、今後の身の振り方を案じてのことだ。
オクリーは、ヨアンヌの用意した『中途半端な言葉でヨアンヌを納得させる』という逃げ道を頼らなかった。己が伝えたい言葉を、伝えなければならない真実を、ありのままに話した。それでヨアンヌの心を救い、自身の過誤を清算し、二人の未来を切り開けるのなら――と。
そうだ。オクリーの告白は、ヨアンヌの『小さな世界』を消し去るためでもあった。
ならば、心の内は決まった。
この人と、共に行こう。
全てを話してくれた愛しい人と、彼が望む未来へと進みたい。
あの神父が示した可能性の道を生きてみたい。
「アタシも、隠してたこと、言っていいか?」
「……?」
「アタシ……オクリーと一緒にいたい。オマエが我武者羅に叶えようとした世界を、隣で見てみたい」
ヨアンヌ自身が絞り出した言葉――『自分の行動次第で未来は変わる』が本当ならば、オクリーと共に証明してやろう。
ドルドンが唆した、恐ろしく地道で辛い努力の先にある理想の世界。その未来を叶えるために変わらなければならないのは、ヨアンヌもまた同じなのだ。
「……だから、『小さな世界』は、終わらせようと思う……」
オクリーはその発言を聞いて目を見開く。その言葉に嘘偽りが含まれていないと本能で理解して、また涙が出そうになった。
「ヨアンヌ……」
「……うん」
「今までごめん……」
「……ううん。アタシの方こそ、分かってあげられなくて、ごめん……」
「謝るのはこっちの方だ……。ごめん……でも、ありがとう……」
オクリーはヨアンヌの額に己の髪際を当てて、ぐずった。皮膚を擽る彼女の前髪が、堪らなく愛おしい。
あぁ……。極限の苦悶を乗り越えて、言葉を尽くせたのなら、人は分かり合えるのだ。
あれだけ苦痛に満ちていた世界が、今はこんなにも輝いている。殺すことでしか分かり合えないと思っていた最愛の人を、何の憂いもなく心の底から抱き締めることができる。もう、ヨアンヌとは殺し合いをしなくても済む。分かり合えたのだから……。
ヨアンヌがオクリーの重傷を治癒し、頬を指でなぞる。血と汗と涙が染み込んだ傷だらけの頬を撫でながら、柔和な微笑みを携える。
「……好きだ、オクリー。本当に大好き……。世界で一番、オマエのことを愛してる……」
ヨアンヌは目を瞑りながら、顎をクイと上げて唇を捧げた。
温かくて、柔らかな感覚。愛おしい心の交わり。最愛の人と同じ方向を見ているという至上の幸せが、口先から胸の中に染み渡っていった。
口づけで互いの思いを再確認して、二人はゆっくりと瞼を開く。
「ヨアンヌ……」
「オクリー……」
「…………。俺の本当の名前、教えるよ」
「え……? それって、向こうの世界の……?」
「そうだ」
「……いいのか?」
「うん。言いたくなったから、言うだけだ」
オクリーは少しだけ照れ臭そうに頬を掻く。ヨアンヌのきらきら輝く期待の眼差しが青年を貫いた。
「俺の名前は――――」
…………。
「……へぇ、そういう名前なんだぁ……。
何か変な感じだね、――――君?」
オクリーはヨアンヌの甘い囁きに苦笑するだけで、何も言わなかった。ヨアンヌはそんな彼の態度にしめしめと喜びを噛み締めた。
少女は彼の名前を二度と口にすることはないだろう。教えてくれたこと自体に意味がある。ヨアンヌの中で、オクリーはオクリーなのだ。それ以外の誰でもない。
オクリーとヨアンヌの絆は、一度は破滅寸前に陥ったものの、窮地を乗り越えて再び強い結束を生み出した。
この国の情勢を傾けていた混沌の第三勢力は今この瞬間消え果て、ケネス正教とアーロス寺院教団との決着が残るのみである。




