一一四話 幻夜聖祭の終わりの始まり
「……オクリー、久しぶり」
「……ぁ……」
「……スティーラ、勝った。……お腹へった」
陽炎の向こうからスティーラが歩いてくる。
右半身は焼け爛れ、頭蓋骨から骨盤までが露出している。ふやけた眼球がどろりと零れ落ちて、フライパンのように熱された地面でじゅうという音を立てる。それに気づいたスティーラは「目玉焼き」と一言、己の眼球を拾い上げてぷちぷちと咀嚼し始めた。
オクリーの顔面が引き攣る。
サレンは何処にいった。ポーメットは。セレスティアは。クレス、ノウン、エヌブランは。
空を見上げても、ジアターの召喚獣の姿はない。撃ち落とされたか。いずれにしても、彼女はしばらく再起不能だ。
全員、死んだのか?
わなわなと震えるオクリー。スティーラから逃れる術はなく、彼女の心から“嬉しい”“褒めてほしい”“食べたい”という爆発寸前の激情が流れ込んでくる。
次の瞬間、オクリーの右手が勝手に動いた。
「っ!?」
まるで透明人間に触られているかのように、勝手に右手を開かされて――――透明? そうか、身を隠したセレスティアかクレスの仕業だ。
何かを握り込まされた。細い指の感触からして、セレスティアだろう。生きていたのか。勘づかれないように右手の中を見ると、そこには豆粒ほどの肉片が入っていた。
彼女の気配はもう何処にもない。クレスに変わって肉片を食べさせて内側から転送してやろうとしているのだろう。
「す、スティーラ……様。お久しぶりですね」
「……オクリー、食べたい」
「っ……」
「……食べたい」
映像を逆再生していくかのように、スティーラの傷が治っていく。凄まじいばかりの眼光と食欲をぶつけられる。
魔法の駆使によって肉体と精神を消耗し、強烈な空腹感に襲われているのかもしれない。それとも、半年間に渡るおあずけをさせられていた獲物を目の前にして、滾っているのか。
失った左腕の先端に切込みを入れ、セレスティアの肉片を混入させる。括り付けた盾が視線を遮る障害物となって、仕込みは完了した。
問題は、嗅覚に優れた彼女に狙いがバレるかもしれないことだ。
(……魔法で押し切ろうとしたサレンの判断が結果的に仇になったか。だが、スティーラの力がここまでのモノだと誰が予想できた? 有り得ないだろ、普通……!)
オクリーがスティーラと戦って勝てるわけがない。
何かをぶつくさと呟くスティーラ。あっという間に距離を詰められて、目と鼻先の距離まで近づかれた。
「……教団を裏切った罰として死を与える」
「っ……罰というのは名ばかりで、本当は『収穫』が目的のくせに――」
「……否定はしない。……あなたは本当に美味しそうだから……正直なところ、楽しみにしていたの」
言いながら、スティーラはオクリーの肩を軽く押す。
呆気なく倒れてしまう。そんな彼の腰の上に跨ったスティーラは、赤い舌で唇をちろりと舐め上げた。
「……いただきます」
数時間に及ぶ激戦を乗り越えて、空っぽになった胃の中を燃料で満たすため。一度収穫してしまえば二度と実らない、とびきりの果実を食すため――
スティーラの長い爪が、オクリーの頬に傷をつけた。
オクリーは反射的に手を振り上げてしまい、防御結界に触れてしまう。スティーラへの攻撃は自動的に反射される。オクリーの右手首がぐにゃりと曲がり、予期しない痛みに彼は叫んだ。
「……あぁ、とても美味しそう……」
悲鳴を上げたオクリーなど気にかけず、小さな口から舌を伸ばしてオクリーの血を啜るスティーラ。舌の粘膜に液体が触れた瞬間、少女の目が血走った。
――美味しい。前菜にしては濃厚すぎる。
半年前、北東支部で味見した時よりも、遥かに上質な味になっている。何故だ。ヨアンヌという雑味を消し去ってしまうほどの濃い味が鼻腔を突き抜ける。ああ、これではもっとしゃぶり尽くしたくなってしまうではないか。
本当に、意味が分からないほどに美味なのだ。正気がぶっ飛んで、テーブルマナーを知らぬケダモノに成り下がりそうになる。いや、きっと、顔を突っ込んで貪って、喰い散らかしてしまった方が満足感は得られるのだろう。
でも、それは駄目。全ての部位を粗末にしないように、骨の髄まで味わってあげないと……それまで果実が生きてきた何十年という歳月に対して失礼ではないか。
きつく結ばれていた唇が弓なりに割れ、両目がとろんと夢見心地になる。血の一滴を啜るだけでスティーラはトランス状態だ。
痛みと興奮に揺れるオクリーの脳内に電流が走る。
スティーラは人を食べる際、必ず恍惚に浸り隙を晒す。それは食人を楽しんでいるからではなく、日常生活で押し殺している感情を食人の際に解き放たなければ、少女の精神が崩壊してしまうからなのだ。
吹雪に呑み込まれた故郷の中、人を食べることでしか生き残れない状況に追い込まれた普通の少女は、自分を守るための防衛反応として、人を喰らう際に悦びを感じるように変わってしまった。
悲劇の過去と結びついた食人行為を繰り返し行うことで、親類を喰い尽くした原罪を思い出して己に鞭を振るい――無意識下の自傷行為に走らなければ、少女の精神は容易く崩壊してしまう。
人を喰らえば喰らうほど、過去の痛みが膿のようにぶり返すというのに。
『反転焦土』。
吹雪に呑まれて崩壊した彼女の故郷とは真逆の名を冠する魔法の名前が、オクリーの脳裏に激痛と共に木霊した。
「……好き。……スティーラは、あなたのことが好き。……絶対に折れない、諦めない、異形の精神を持ったあなたが……」
スティーラがオクリーに惹かれた――食材としての価値を見出し食欲と恋愛感情を抱いたのは、彼の悍ましいばかりの精神力に無意識的に惹き付けられたから、なのかもしれない。
恋愛感情は、『自分にないモノを持っている人間』に対して抱かれやすいと言われている。
スティーラは心が弱い。幼い頃の出来事ゆえもあるが、まだ己の過去と決別できていない。
オクリーは狂人じみた――もはや非人間じみた精神性を持っている。それが良いか悪いかはともかく、スティーラとは違い、未来に進もうという強い信念がある。
心が弱く、現実逃避と言う名の妄執に囚われたスティーラとは違う。
だから、己の弱さを埋められる人を求めて、暴走し、混乱し、憔悴し、興奮し、身を焦がされ、狂っていたのだ。
「……美味しい……」
スティーラはオクリーの皮膚を食い千切り、にちゃにちゃという音を響かせる。しかし、あれほど待ち望んで熟するのを待っていた果実の味は、味わえば味わうほど満足とは程遠く――
想い人を喰らうスティーラの頬に、一筋の涙が伝った。
嗚呼、自分は、好いた人間ほど美味な肉を持っているはずと思い込むことで、心が壊れないようにしていたのだ。
気づいてしまった。
それでも、やめられない。
「……おい、しい……」
あと一口食べたら、美味しく感じるかもしれない。
人間が不味いわけがない。大好きな人間が不味いはずが、あってたまるものか。
だって、親愛する人が不味かったとしたら、あの時食べて美味しいと思ったスティーラの家族の肉の味は、全て思い込みということになってしまう。
人間は美味なのだ。その人にかける感情が重ければ重いほど、美味しく感じるものなのだ。
だから、オクリーは美味しい。
美味しいはずだ。
あと一口食べたら、身悶え、蕩けそうになるほどの本当の恍惚に襲われるだろう。
姉の肉を貪り喰らい、体液をスープのように啜った時のような……あの時の絶頂をもう一度味わいたい。
それなのに、何故、胃液がせり上がってきそうになる?
どうして、本能的な忌避感が呼び覚まされる?
悪い部位に当たっているに違いない。
……皮膚はダメだ。
そうだ……あの時は火を通して、筋肉を食べたではないか。
こうした思い込みと現実逃避が、更なる妄執を呼ぶ。
自分を守るための防衛反応を、世界の純然たる事実・記憶違いとしてすり替えることで、過去との矛盾を作らないために。
ただ、その思い込みのメッキも剥がれつつある。激戦の余韻がスティーラの精神を消耗させ、真実に辿り着かせようとしていた。
スティーラはオクリーの左腕を極小の熱線で炙る。
あまりの痛みにオクリーは舌を噛み切りそうになったが、地面に指を立てて爪を剥がすことで意識を保つ。
『何としてでも生きて』と願ったスティーラの姉は、一人だけ生き残ったスティーラのことを責めていないはずだ。
そんなこと、本人だって心の底では理解しているのに、スティーラは食人をやめられない。過去を引き摺って、過去のために生き、孤独な贖罪を果たすためにアーロスに付き従っている。
(……そうか、分かったぞ。スティーラがアーロスに従った理由は……)
視界に火花のような明滅を幻視しながら、オクリーはスティーラの激情を受け取って、彼女のことを真に理解した。
彼女はアーロスの掲げる『理想の国』に用があったわけじゃない。
どうしようもない現実を破壊し、理想の国という突飛で滑稽な夢を大真面目に追い求めるアーロスの姿を見て、薄ぼんやりとした期待を抱いたのだ。
――この人なら、スティーラの心を救ってくれるかもしれない、と。
アーロスがゲルイド神聖国を破壊し尽くし新たな国をつくるということは、スティーラの生きていた故郷の痕跡を消去することと同義である。
きっと、仄暗い過去の一切を『なかったこと』にしてしまえる、闇の救世主を求めていた。
だが、スティーラは自分の中に眠る故郷や家族の記憶を消し去るようアーロスに頼まなかった。
究極の自己矛盾。
食人欲求と、終末思想と、芯を貫く郷愁と、家族愛。
忘れたいのに、自分自身が忘れさせてくれなかった。
辛くて堪らないのに、過去を手放せなかった。
アーロスと出会おうとも、野望が成就されようとも、スティーラが救われる道などハナから存在しなかったのである。
オクリーは知っている。
究極の自己矛盾にぶち当たった時の恐怖、混乱、希死念慮、破滅願望、押しては引いてを繰り返す破壊衝動の波――その全てを。
メタシムで経験した自己矛盾の果ての挫折。発狂に至るほどの絶望。そのどれもが、オクリーの人生を終わらせるほどの質量を持っていた。
だが、あの時のオクリーは立ち直った。
目の前の少女は立ち直れないでいる。
――同じなのだ。
スティーラは、いや、アーロス寺院教団の幹部達は……過去と決別できていないのだ。
邪教徒達が世界を変容させる聖遺物『天の心鏡』に縋る意味が分かって、オクリーは緩く息を吐いた。
「……――っ!?」
スティーラがオクリーを貪る手を止める。
じわり。少女の額に汗が浮かぶ。
茹だるような熱気で鼻孔を破壊されたか、それとも舞い上がる煤と土埃に嗅覚を麻痺させられたか、或いは致死量のオクリーの香りを吸気したせいか――
いずれにせよ、スティーラの胃袋の中にセレスティアの肉片が収まった。
次の瞬間――音もなくスティーラの身体が押し退けられた。
内側から捲り上げるようにして、血を被ったセレスティアが生まれる。
スティーラの胃に届いた肉片を起点にした『転送』である。
意識外からの攻撃が、スティーラの呆気ない最期かに思われた。
血みどろのセレスティアが必死の形相で叫んだ。
「オクリー、逃げてくださいっ!! やり切れなかった!!」
もはや首しか動かせないオクリーは、機械人形のような覚束ない動きでセレスティアの視線を追う。
そこには、足先の組織から復活を始めるスティーラの姿があった。
セレスティアが何らかの魔法を放つが、復活途中のスティーラがオクリーを護るようにして結界を展開していたようで、セレスティアは反撃の熱線で吹き飛ばされていった。
「セレスっ!!」
スティーラが復活する。
魔法使い七人は生死不明となり、当初のスティーラ討滅作戦は失敗に終わった。
スティーラが飢餓によって正気を失うまで待ち、体格の良いクレスの『転送』でスティーラを消し去る……そんな都合の良い作戦は成功せず。
かといって、短期決戦で畳み掛けようとしたサレンの判断が間違っているとも思えなかった。
寧ろ、あの場ではサレンの判断こそ正しかった。
七人の同時攻撃を耐えられると想定するのは石橋を叩きすぎである。普通は耐えられるはずがない。
運が悪かった、その一言に尽きた。
絶え間ない絶望の中、オクリーは前に踏み出す。
スティーラに近付いて、交渉を始めた。
「スティーラ……殺される前に話したいことがある」
「……また良からぬことを企んでいるのは見え見え」
「違う……! 俺は君の目的を知っている。同時に、アーロスの野望が叶う時、自分だけ願いが叶わないんじゃないかと怖がっていることも……」
「……!」
聖都北部は溶岩の海と化し、七人の魔法使いも生死不明。想い人を殺すには多少時間の余裕があると考えたスティーラは、最期の情けとばかりに会話を続けてくれるようだ。
大言を吐いたオクリーの言葉の続きが聞きたいのかもしれない。
それも無理のないこと。アーロス寺院教団幹部ともなれば、『天の心鏡』による理想の世界の完成は何よりも望むところなのだ。
オクリーは『天の心鏡』による世界改変及びその工程が、スティーラにとって無意味であることを証明しようとしている。彼女と一対一で話せる機会があったのは幸運だった。
前提が覆れば、行動原理は破壊される。それで強情を張って暴走するようなら、抵抗するしかない。少女が抱く複雑な恋情すら利用して、戦いをやめさせてやる。
無力な男が辿り着いた道は対話であった。
「君の目的は『理想の国』をつくることじゃない。吹雪に呑み込まれてしまった故郷を完全に忘れ、その痕跡すら完璧に消し去ることだった」
「…………」
「だが、アーロスは『認識阻害』や『記憶操作』の能力を有している。つまり、スティーラの頭を弄って過去の記憶を封印し、現実世界に残った過去の痕跡を強制的に見えないようにすることだって、簡単にできた。……でも、しなかった。セレスティアの洗脳を目の当たりにして、アーロスの魔法の性質を理解していたにも関わらず、だ」
「……それが、何?」
「君は初めから、己を罰することにしか興味がなかった」
スティーラはあの冬を終わらせるつもりがない。
頭の中も、心の中も、ずっと悲劇の過去に満たされている。
きっと、死ぬまで後悔を繰り返しながら、贖罪と自傷のために人を食べ続ける。
それが本当の望み、生きる目的にすらなってしまった。
本人だって、薄らと気づいているのだ。アーロスが叶えたい野望と、スティーラが欲する願い事は別物だと。
ただ、それを解き明かしたところで、スティーラは止まらない。
スティーラは自分を最も恨んでいるが、ケネス正教にも恨みを抱いているからだ。
ケネス正教は飢餓に苦しむ故郷の人々を救わなかった。アーロスの台頭は、自分勝手な鬱憤晴らしにはうってつけだったわけだ。
スティーラの願いの本質とは違うが、アーロスのスカウトに答えた理由としては納得がいく。
「人を喰い、過去を思い出し、己に永遠に罪を問い続ける……それが、君の選んだ残りの人生の過ごし方だったんだ。アーロスの野望とは似ても似つかない、悲しい願いだ……」
「…………」
「そして君は、『天の心鏡』について知る中で、もう一つの願いを抱いてしまった」
スティーラは当初、ケネス正教への個人的な恨みを晴らしつつ、己を罰するため邪教に従った。過去の痕跡を消し去りたいという一抹の希望を抱きつつ、『天の心鏡』による新たな可能性を見出した。
それは――
「君は、あの冬が訪れる前の故郷を取り戻したくなってしまった」
「……!」
「その願いを自覚した瞬間、君は自己矛盾に囚われて……どちらの救いを求めることもできなくなってしまった」
新たな矛盾。ケネス正教が有する願望の増幅器『天の心鏡』の力を知ってしまった故に、過去の痕跡を消し去りたい気持ちと、過去の全てを取り戻したい欲望の板挟みになって、スティーラの心は更に壊れてしまった。
もはやどちらの願いを欲することもできず、食人に溺れ、哀れな己の身を呪い罰することしかできなかった。
それが、スティーラの抱える心の闇だ。
だが、オクリーが成し遂げたいのは、スティーラを説き伏せることではなく、少女の心を救うこと。
正論と詭弁で責め立ててしまえば、スティーラはその反動で暴走するだろう。恋情なんてちっぽけな感情は、きっと簡単に憎しみへと変わり果てる。
彼女が本当に欲しかったモノを、オクリーの手で授けてやるしかない。
オクリーはスティーラの懐に飛び込み、思いっ切り手を伸ばす。
目を細める少女。言葉で敵を惑わせて何らかの武器で攻撃しようとしているに違いない。そう考えて身構えたが、スティーラにもオクリーにも攻撃は当たらない。
「……――え?」
青年は少女の小さな手を取り、しかと握り締めていた。
「……な、何を……!」
防御結界は物理攻撃を反射し、魔法攻撃を吸収する。オクリーの接触は攻撃ではない。その行為が弾かれたり吸収されることはなかった。予想外の行動に反応が遅れたスティーラは、オクリーの次なる予想外を許す。
オクリーはスティーラを繋ぎ止めながら言う。
「スティーラ……君は悪くない。人を食べてしまったことを悔やむ必要なんてないんだよ……」
その言葉は、スティーラの心を最も掻き乱す言葉だった。
「……どう、して……今そんなことを言うの……」
「君はもう充分苦しんだ。苦しみすぎたくらいだ。きっと、故郷の人達は君を恨んじゃいないし、責めてもいない。スティーラは極寒を生き残るために最善の選択をしただけだ」
「……!」
「だから、自分を傷つけるために人を食べるのはもうやめよう。俺でも何とかなったんだ、今からでも間に合うかもしれない」
『誰も君を責めちゃいない』。
――最も欲しかった『過去を赦す言葉』を、最も言われたくないタイミングで言われてしまって、スティーラは腸が煮えくり返る思いになった。
「……嫌」
かつて、アーロスは言葉巧みに様々な人間を勢力に引き込んだ。物品を与えたり、奇蹟を見せたり、野望の実現可能性を示すことで人々の心を惹き付けた。
アーロスほどの男にもなれば、数少ない会話や情報からスティーラの求めていることを察することができた。
だが、仮面の男は少女の壊れた心を殺戮に利用するため、救いの言葉をかけなかった。
『あなたの心を救うお手伝いをさせてください』――という言葉でスティーラを生殺しにし、餌で釣って野望の手伝いをさせたのだ。
己を罰することに夢中なスティーラは、『国盗り』という桁外れな野望の準備を進めるアーロスを見て、「この人についていけば全部上手くいく」「魔法が使える人だもの、きっとスティーラの願い事も叶えてくれる」などと、都合よく解釈を改変させていく。
その結果が、罪と業で塗り潰された今だ。
アーロスはスティーラを良いように使い、人殺しと食人の手助けをして、新たな業を背負わせた。静かな場所で精神療養の期間を設けるだとか、そういう少しの努力と思いやりでスティーラの人生は変わったかもしれないのに――アーロスは自分の都合のために少女の人生を完全に破壊した。
『天の心鏡』による計画を深く知る頃には、数千の人間を殺すまでになった。スティーラはもはや進み続けることでしか自分を肯定することができず、積み上げてきた屍の数を思う度、更に心が壊れていった。
食人による自傷行為が生活環の中心に成り果てていた。
「……もう遅いよ、オクリー……」
「……え?」
スティーラはオクリーの手を弾き、甘い言葉を本能的に拒絶した。
その言葉を何年も早く掛けてもらっていたら。邪教に加担し人殺しに手を染める前に、オクリーと出会っていたら。
――何もかも、全部、遅すぎたのだ。
アーロスに加担した。アーロスに従って救われる道を自分が選んだ。だからもう、真っ当な方法で過去の赦しを得る道は完璧に閉ざされていた。
無意識下の絶望と達観を呼び起こされて、スティーラは叫んだ。
「……スティーラは、こんな方法で救われちゃいけないんだぁっ!!」
渾身の力でオクリーを振りほどき、地面に吹き飛ばす。
オクリーの甘い考えは破壊された。言葉ひとつでスティーラの心を救うなど不可能だったのだ。
しかし、まともな方法でスティーラに勝てるとも思えなかったオクリーは、再び説得の構えを見せる。
(スティーラは人に赦されたかった! だけど、吹雪の中の故郷からスティーラを見つけ出したのがアーロスだったから、その機会は永遠に失われてしまった……!! こんなことがあって良いのか!? 罪を犯す必要のなかったスティーラが苦しんで、破滅の道を行くしかないと思い込んでいる!! そんなの絶対にダメだ!!)
青年はすぐさま立ち上がり、熱線放射の準備を始めたスティーラに向かって再び歩みを進める。
「スティーラ……俺は、君に救われて欲しいんだ……!!」
口から本心が飛び出す。
スティーラは沢山の人を殺した。
まだ子供だから、心が壊れていたから、アーロスによる洗脳同然の関係を構築されていたから、そんな詭弁では擁護できないほどの悪事を働いている。
それでも、彼女が救われてほしいと願ってしまうのは間違いなのだろうか。スティーラと心の繋がりを持ち、並々ならぬ感情を分かち合い、淡い親愛の情を抱いているから、こんな甘いことを言えてしまうのだろうか。
この考えが間違いだとしたら、スティーラはどうしたら良かったんだ?
アーロスにスカウトされた時、スティーラは一〇歳かそこらだ。善悪の区別すらつかぬ少女、しかも親類を喰らい尽くして心が壊れた状態で、彼女に何ができたというのか。
スティーラはアーロスの手を取るしかなかったのだ。
(アーロス……!! お前は、本当に……ッ!!)
聖都中心部でアーロスと相対したとき、奴を殺していれば、アーロスの野望に囚われたスティーラを撃ち砕くことができたかもしれない。
アーロス・ホークアイ。あの男こそ諸悪の根源だ。憎悪とカルマの種を振り撒き、取り返しのつかないところまで成長させて、己の野望のために消費する。
奴さえもっと早く殺していれば。
前世の記憶を使って、もっと上手く立ち回れていれば……誰もがこんなに苦しまなくて済んだのに。
(クソ、クソぉ……! 今まで、俺は何を……!!)
オクリーの双眸から涙が溢れそうになる。
己のことを慮ってくれて、涙さえ流そうとしてくれる想い人の激情が流れ込んできて、スティーラは発射しようとした熱線を握り潰した。
「…………っ」
スティーラも、どこで道を踏み外したのか分からなくて、とめどなく溢れる涙を抑えることができなかった。
対話は不可能。
スティーラは進み続けるしかなく、オクリーは彼女を止めることが生き残りに繋がる。
本当は止まりたいスティーラと、止める力を持たない無力なオクリー。
幻夜聖祭の終わりが始まる。




