一一三話 スティーラ・ベルモンド
オクリーが炎の壁の中に侵入した時、そこには焦土が広がっていた。
聖都の一部を刳り貫くようにして隔離されたはずの空間は、周辺の土地と比べて二メートルほど陥没し、地面はどろどろに溶けてボコボコと粟立っている。
活火山の火口に転がり出たのかとさえ思う。目の粘膜が沸騰しそうになるほど暑苦しい。見下ろす両脚の輪郭が陽炎で歪んでいる。呼吸する度に肺が焼かれて、外耳道から火傷時特有の黄色い組織液が垂れてきた。
豪奢な街並みは全て平らになって、瓦礫すら残っていない。愕然とした気持ちで決闘場の内側に目をやると、サレンとスティーラが死闘を繰り広げていた。
魔法使いではないオクリー。この場に長くは居られない。
頭から水を被った後に来たら良かった、なんて思いながら、オクリーは走る。失った左手の先端には『聖鎧』の欠片が盾として括り付けられている。超高温の土塊や爆風を盾でいなしつつ、二人に何とか接近していく。
決闘場の温度が一段階上がったな、と感じると同時に、スティーラが切羽詰まった表情でオクリーを見た。
「……オクリー……!」
まさに愛憎入り交じった複雑な顔だった。彼女を知らぬ者からすればその顔は無表情の域から脱していないが、スティーラの一部を喰らい心を通わせたオクリーからすれば、彼女が表情筋を動かすこと自体が異常であった。
助けて。裏切り者。はやくこっちに来て。一緒に帰ろう。
サレンと戦いながらも、スティーラの瞳はオクリーに向かって様々な激情を訴える。瞬きする度に閃光のように煌めいて、スティーラに感情移入しているオクリーの心に疵を作っていく。
「オクリー、ここから離れろ!! 今の私には君を気にかける余裕が全くない!! 聖火に焼かれたら助けられないぞ!!」
サレンの怒声じみた叫び声にはっとして、熱線と業火が撒き散らされる地獄のような光景を見つめ直す。
孕み袋から邪なる者として生を授かったオクリーにとって、サレンの炎は強制的に(ケネス正教から見た)“聖”を与える猛毒である。神の代理人たるデピュティ一族の魔法は、そもそも盾で防ごうというのが無謀。しかし、それはスティーラの規格外のレーザー攻撃にも言えることで――
今のオクリーは完全に無能であった。
(……兵糧攻めなんてふざけたことをぬかしたのは誰だ。数時間でこの有様なら、机上の空論だ。スティーラを何日も押さえられるわけがない……)
サレンの様子を見ていれば分かる。長くは持たない。猛獣同然の少女をこの場に閉じ込め続ける方が余程夢物語である。
それに、建築物への被害や市民のことを考えると、一刻も早くスティーラを殺した方が良いように思えた。
少し離れて銃撃の用意をしようと懐を探ってみると、手に取った大筒は高温により銃身が歪み、どう考えても使い物にならなかった。この環境では火薬を有していることが自殺行為である。
慌てて火薬と弾入りのポーチを投げ捨てると、中から零れた火薬が自然に発火し爆発を起こした。
「……!」
火薬も銃弾もサレンの魔法を刻みつけた猛毒のそれだ。オクリーはぶるりと震えながら、己の軽率さを思い知り銃を破棄した。
そんな焦慮を後押しするように、スティーラの心から流れ込んでくる感情が目まぐるしく変化していた。
異常な環境で力を発揮し続けたせいか、お腹が空いて堪らないと叫んでいる。凪のように淑やかだったスティーラの表情は変わり果てた。濃い血の臭いを漂わせたオクリーが近くにいるからかもしれない。
サレンが肩で息をしている。眉間には青筋が立っていて、炎と一体化しているはずなのに肌色が青白く見えた。スティーラはその焦燥具合に比べると余裕があるように見えるが、何しろ逃げ道がないので詰んでいる。じりじりと体力を削られ、死に至るのは時間の問題である。
仲間の合流を待って魔法を叩き込み、スティーラの防御結界を正面突破して押し切った方が良い。そんな考えがぼんやりと浮かんだ。
そうこうしているうちに、セレスティアが身を焦がしながら炎の壁を突破してくる。銀の髪が焼き切れ、炎によって生まれる上昇気流と共に空へ昇っていった。
「オクリー!」
「セレス、そっちは何も無かったのか」
「えぇ。聖都北部がサレン様の炎で光っていましたから、すぐに駆けつけました」
オクリーはセレスティアに現状を報告する。
時折指を噛みちぎっては回復しているスティーラが転送先を失っていること、そしてヨアンヌがどうやら正教側に協力してくれそうなこと――精神の繋がりで得た不確かな情報だが、今のヨアンヌはスティーラに対する敵意と迷いの感情に支配されているらしい――を伝えた。
ヨアンヌが様々な感情に苦しむ度に、オクリーの心がずきずきと痛む。あの少女は聖都のどこかにいる。茹だるような熱気に苛まれて、何かに打ちのめされながら、喘いでいる。まるでオクリーの耳元で啜り泣いているかのようだ。
(……っ、いや、今はヨアンヌのことなんて気にかけるな! スティーラとの決着をつけろ!!)
ずきん。鋭い胸痛が走る。彼は今、二つの爆弾を心の中に抱えている状態だ。スティーラとヨアンヌである。二人が人生を賭けた決戦の地にいるせいで、ケネス正教が有利になるほどオクリーの心の中に二人分の感情が流れ込んでくるのだ。
自分の感情や意思すら呑み込まれてしまいそうになるほどの、激情の濁流。強烈な食欲。支配欲。迷い。後悔。恨み。怒り。失望。どれがスティーラで、どれがヨアンヌなのか、混乱しすぎて判別がつかない。
二人の少女の気持ちが同時に流れ込んでくるのは初めてのことだったので、連戦による疲弊や失血、猛毒による精神憔悴や錯乱も相まって、オクリーは夢の中にいるんじゃないかとさえ思い始めていた。
セレスティアが旋風を巻き上げてスティーラの元にすっ飛んでいく。
「オクリーはここに残っていてください! 今の貴方にできることはありませんからっ!」
傍から見ても限界だったオクリーを慮って、セレスティアが大気の流れを操作して熱気を掻き分け上方へと受け流す。そのお陰で喉を焦がす暑さは随分とマシになった。
セレスティアの参加によって、戦いの風向きが大きく変わった。
サレンの斜め後方で浮遊するセレスティアが防御のほとんどを担当し、その分余裕のできたサレンが攻撃と演算に注力。結果、スティーラは絶え間なく業火に曝され続けることになった。
今が好機と見たか、サレンは炎の壁を操作して決闘場を縮め始める。このまま有利展開を継続し、味方の到着を待たず磨り潰してしまおうという判断なのだろう。
そんな中、炎の壁を突き破って二人の魔法使いが現れた。
クレス・ウォーカーとエヌブラン・ガララーガである。
エヌブランとオクリーは初顔合わせだ。一瞬だけ視線を交わした後、すぐに外す。挨拶は後にして、さっさとスティーラを殺し切ろうという意思が見えた。
「サレン! アタシ達も援護するよ!」
老婆が幾つもの水球を生み出しながらサレンに呼びかける。頭脳を酷使している影響で修羅の形相をしているサレンは、言葉なく頷いて炎を撒き散らす。
「アタシの合図でブチ込みな!」
エヌブランが手から発射した巨大な水球に対し、セレスティアの風が球に圧力をかけて音速並の速度を与える。クレスの高圧電流を吹き込み、属性を内包させる。そこにサレンの炎が衝突し、スティーラの目の前で大爆発を巻き起こした。
炎と雷、そして水蒸気爆発。魔法と物理現象が複雑に混ざり合って、いくらスティーラの防御結界といえども完全な防御は叶わない。半透明の球形をした結界が悲鳴を上げて、硝子が飛散するようにして破壊される。
爆風に混じって血が飛んだ。爆風が収まりスティーラの姿が確認できるようになると、彼女の右腕部分にあたる服が千切れていた。
結界が一時的に消え去ったのだ。そして右腕に傷を負い、治癒魔法を使ったに違いない。確信したエヌブランが手を叩く。クレスとセレスティアはほんの少しだけ頬を綻ばせ、次なる一撃のため魔力を練り始めた。
魔法攻撃を集約してスティーラを殺し切るつもりだ。
もはや、スティーラの飢餓を待つ従来の作戦は放棄されるかに見えた。
しかし――追い詰められるほど凶暴になるのがスティーラの魔法。
攻防が逆転する。
スティーラが両手を振り翳し、自身を中心にして五本の光線を半円状に薙ぎ払った。
レーザー光線の一本一本は直径五メートルほどもある。今までの熱線とは速度と大きさからして違った。
「っ――!!」
少し離れていたオクリーでさえ視界を奪われるほどの眩い光が輝いて、熱波が大地を捲り上げた。
炎の壁が根を張っていた地面ごと抉り取られ、真正面から攻撃を受けようとしたサレンが超高熱の濁流に呑み込まれる。防御として焚いた魔法ごと消し飛ばされた。
エヌブランも危うく蒸発しかけ、右手首以外の全てを削り取られる。クレスは高速移動で難を逃れようとしたが、上下左右を熱線に阻まれて万事休す。間一髪のところでセレスティアに救われ、下半身を失ったものの空へと逃れることができた。
オクリーがいた場所は十文字に焼き切られ、表層土の下の酸性土壌が顔を覗かせていた。熱線が薙ぎ払われる軌道を初期動作から読み切って、ギリギリのところで回避できた。
決戦場を囲っていた炎の壁が消えていく。
少し経って、火の粉が弾ける音がした。サレン・デピュティが復活したのだ。
だがその目は虚ろで、長時間の演算によって脳が完全に破壊されていた。唾液を拭いながら、しぶとすぎる難敵を前に仲間に目をやる。
「次の一撃で決着をつける! これ以上奴の攻撃が続けば抑えられない、聖都全域が平らになるぞ……!」
サレン、エヌブラン、クレス、セレスティアが傷を回復し、立ち直る。
炎の壁によって外部へのレーザー攻撃を遮るはずが、先の一撃はあまりの威力に壁が意味を成さなかった。壁の外側に位置していた建物はレーザーの軌道上に削り取られ、その痕跡は遥か遠方まで達している。
熱いナイフでバターを切るように――とはよく言ったものだ。建物は熱線の勢いを削ぐ障害物としての意味を持たず、聖都北部から南端に至るまでの地形をまさしく一刀両断していた。
外壁上でノウンやクレスの残置魔法が敷かれていたため熱線は消失したが、サレンの炎の壁で相殺された上でこの威力だ。二度と窮地からの一撃を撃たせてはならない。
四人の魔法使いの想いに呼応するように、空からジアターの召喚獣『不死鳥』が、穿たれた大地から青白い幻影の剣を携えたポーメットと魔杖レイアスを構えたノウンがやってくる。
ポーメットは地に屈したオクリーの肩をポンと叩く。ノウンは横目でオクリーを見やると、ゆっくりとした足取りで四人の元へ向かう。
実は、ポーメットは先程放たれた五本の熱線の内の一つを真正面から受け止め、切り伏せていた。今、どういう状況にあるかは何となく分かっている。
空からスティーラを見下ろすジアターの召喚獣が口を開く。
『スティーラ・ベルモンド! アーロス寺院教団の者共は退却し、アーロスはあなたを見捨てて逃げ帰ったのです!! 無駄な抵抗はやめてください!!』
再び炎の壁が立ち上がる。
決戦場の中央に蹲ったスティーラ・ベルモンドは、肩で息をしながら口元を拭った。
少女の目の前には、ケネス正教が誇る七人の魔法使いが立ち塞がる。
最強の七人が一堂に会し、自らを殺さんと迫り来る。心酔していた教祖は逃げ帰った。助けに来る者は誰一人としていない。
流石のスティーラの心模様も絶望と憤怒に染まりつつあった。
しかし、『無駄な抵抗をやめる』ことは死を意味する。
ジアターの言葉に無性に腹が立ったスティーラは、静かな怒りをたたえて笑みを零した。
「……スティーラは負けない。……今までも、これからも」
アーロスに見捨てられたことに対しては、特に何も思わなかった。
オクリーが見てくれているから、正教幹部共を全員焼き殺してやるという意気込みすら湧いていた。
スティーラ自身、薄らと気づいていた。自分は今まで勝ち続けてきたから、辛うじて存在を認められてきたのだと。食人衝動を持った怪物など、誰が好き好んで近くに置くものか。
敗北は全ての終わりへ繋がる。加えて、愛する者の前で敗北を喫すれば、まるで心身を蹂躙されるかの如き屈辱に苛まれることになろう。
――オクリー、スティーラのことを見ていてね。
きっと、勝つから。
そんな悲壮感に満ちた決意が感じられて、オクリーは胸の辺りをぎゅっと握り締めた。
「皆の者、準備せよ!!」
サレンの怒声が飛ぶ。
セレスティア・ホットハウンドが空気の屈折率を捻じ曲げ、姿を消す。陽炎揺らめく決闘場の中で、複数の魔法使いを相手にしながら彼女を看破するのは不可能だ。
ノウン・ティルティが焦土の外から多種多様な植物を成長させ、津波の如き集合体として呼び寄せた。スティーラの結界は物理反射の属性を持つため本来であれば無力同然だが、同時攻撃によって火力を集中させて結界の限界をぶち抜こうという狙いだ。
ジアター・コーモッドの『不死鳥』が大きく体躯を逸らしながら空気を取り込み始める。炎を操る召喚獣における最強の技――熱線放射による結界の攻略を狙う。
ポーメット・ヨースターが『聖剣』を大上段に構える。何万回何億回と繰り返した大上段からの振り下ろしを狙っている。精神統一によって半透明の剣身が大きく伸びていき、彼女の周辺だけ空気感が変わった。舞い上がる火の粉に擽られる彼女の姿は、戦場に立つ武神と見紛うほどに美しかった。
クレス・ウォーカーは超光速でスティーラの周りを駆け始める。軌跡に残された電流の残滓が台風の目の如く渦巻いて、人間には到底反応できない雷撃となって襲いかかろうとしている。
エヌブラン・ガララーガは頭上に水球を拵え、徐々に肥大化させている。大地から伸びた水の帯が頭上の球に水を供給し続け、空に水の星を作ろうかというほどに巨大化させた。エヌブランは両手に水剣を携え、どんな状況になろうと対応してやろうという思考が窺えた。
サレン・デピュティは激しく痛む頭を掻き毟りながら炎の壁を立ち上げ、その範囲を凄まじい速度で狭め始めた。全方位から聖火をぶつけて敵を圧し潰すつもりだ。オクリーのいた場所を刳り貫くようにして彼を逃し、その狙いに抜かりはない。
「構えぇっっ!!」
両耳や鼻孔から噴水の如く血を噴出させ、血の涙を流したサレンが叫ぶ。
掠れた声と共に嘔吐物が撒き散らされ、意識がぶっ飛びそうになるが、舌を噛み切る激痛で現実に戻ってくる。
逃げ場のないスティーラは、七人分の魔法を受け止める準備をするしかない。
サレンが右手を突き出す。
「放てえええええっっ!!」
七人の魔法使いの全力攻撃が襲いかかる。
圧し固めた空気の爆弾、或いは不可視の鎌鼬が。
荒れ狂う植物たちのうねりが。
火炎放射を引き絞って放たれるレーザー光線が。
雲に届き、大地を容易く両断する光粒子剣が。
人為的に生み出した渦雷が。
深海数千メートルほどの水圧を内包した巨大な水球が。
異教徒を浄化する神の炎が。
その全てが、惜しみなく、余すことなく、スティーラの防御結界に襲いかかる。
巻き起こる反射と爆発。その全てを包み込むようにして炎の壁が狭まり、スティーラの結界を中心にして集約し一本の炎の柱となる。
破滅的な衝撃による大轟音が波状に伝わり、世界を震撼させる。余波が山岳を崩壊させ、地割れが起こる。大海に異様な高波が生まれ、海を隔てた島国の鳥が異常を察知して空に飛び立つ。
聖都じゅうの建物に亀裂が走り、全ての窓ガラスがばしゃんと崩れ落ちる。
衝撃があちこちに伝わる。それ即ち、スティーラの結界が耐えられなかったということだ。
幸い、炎の壁の集約によってか、或いはセレスティアの尽力によってか、地表付近に暴風は襲ってこなかった。
ギリギリのところで難を逃れたオクリーは、次の瞬間、温かな光を見た。
先刻のそれよりも遥かに大きな熱線だった。
しかも、熱線は一〇本。
先の二倍の数である。
奇跡は起こらない。
必然だった。
激情を糧にするポーメットと同じように。
恋する少女の激情が不可能を可能にした。
それだけのことである。
地から天に向かって薙ぎ払われたレーザー光線が、再び聖都を地獄に落とす。
爆発と融解。大地が陥没し、寒冷地帯の大都市が溶岩の海へと姿を変えた。
――『反転焦土』。
スティーラ・ベルモンドの真なる魔法名の通り、世界は反転し、焦土と化した。




