一一一話 Vaporwave
聖都サスフェクト南部。三つ編みおさげのノウン・ティルティは、閑散とした通りに佇む枯木のような老人を見つけ、聖遺物『魔杖レイアス』を持ち直して根茎による拘束攻撃をけしかけた。
招かれざる客は悠々と攻撃を回避すると、街灯のランプ上に軽々と着地した。異国の剣をだらりと提げた老爺と魔法使いの少女が睨み合う。
「ほっほっほ……小便臭い小童が儂の相手かい」
「おぬしこそ、そろそろ糞尿の踏ん張りが効かなくなってくる頃じゃろう」
シャディクの右耳朶は引きちぎられている。例によって、奴の肉片を持った邪教徒が聖都の外を目指しているらしい。セレスティア奪還直前の邂逅であったため、時間稼ぎに徹することのできる――と認識しているシャディクが心理的に有利だった。
互いの能力を何となく知っていた二人は、殺気を放ったまま一定の距離を空けて摺り足で動く。
「正教幹部共は、どうせ肉片を切り離して保険を作っているんじゃろう?」
「どうかの」
「まぁ、どうでもよいか。儂の興味はお主ではなく下にあるわけだしのう」
シャディクは刀の柄に手首を掛け、リラックスしたように振る舞う。
下――地下に避難させた一般人を虐殺する素振りを見せて、動揺させようという魂胆か。
だが、地下シェルターには人員整理の兵士や私服兵を配置している。全員に聖水も持たせた。地下には根が張り巡らされているため、怪しい者はいつでも消し飛ばせる。その煽りは魔杖レイアスとノウンの魔法を舐めすぎだ。
やはり、シャディクは適当なことを言って時間稼ぎに徹するつもりだ。
そして、この老爺の本命は、やはり――
「おぬしは地下に行く気がない。見え透いたカマかけよ」
「何故そう思うのかね?」
「もう、バレておるわ。おぬしはポーメットに異様に執着しておる。わらわを殺してあの子を手篭めにする……それ以外何も考えておらんのじゃろう?」
「…………」
能面の上に白粉を振り撒いたような非人間じみたシャディクの貌が、ぴくりと反応する。図星を突かれて怯んだわけではなく、「何だ、バレてるのか」程度の反応だった。
「儂の邪魔をするつもりか」
「そりゃそうじゃろう」
「儂の……いや、僕のモノだぞ。僕のポーメットだ……。お前みたいなのはいらない」
「やれやれ……」
ノウンは目つきの悪い三白眼を細めながら、げんなりしたように溜め息を吐く。目の下の隈が更に深くなって、倦厭の念を嫌というほど表していた。
ポーメットやサレンから聞き及んでいた通り、シャディクはポーメットに異様な執着心を抱いているようだ。二重人格のようにも見える。
(何故、邪教幹部共は精神がこうも捻くれておるのじゃ。食人好きなゴスロリだの、死姦好きな男装の麗人だの、肉体置換好きな女だの、幼児退行爺だの……まともな話し合いができん)
曰く、かつてのシャディク・レーンは剣術指南役として正教軍に抜擢された剣聖であった。二〇年以上前の出来事である。ポーメットの両親と知り合いらしく、詳しいことは聞かされていないが、ひと悶着あっての現在らしい。
ポーメットはアーロスやセレスティアを止めるため、聖都中央部で重役を担っている。そんな戦友の元にシャディクを行かせてたまるものか。
ブツブツと独り言を繰り返す耄碌爺。結局、アーロス寺院教団の者共は人格破綻者ばかりだ。そんな体たらくの癖に、能力が厄介極まりないのが腹立たしい。ノウンは出し惜しみを一切考えず、魔法ストレージから『アルファ・プラント』を抽出した。
そして、魔杖レイアスによって種が拡散される。半径五〇〇メートルもの領域にアルファ・プラントの種子が降り注ぎ、即座に発芽。広範囲に催眠ガスの瘴気が漂い始める。
(こやつが未来視できるのは、一〇秒後の主観的に見える光景のみ。催眠や精神系の攻撃、広範囲攻撃は予知されようとも回避不能なはずじゃ)
アルファ・プラントは広範囲に花の香りをばら撒き、それを吸気した対象を深い昏睡状態に陥らせて幻覚を見せる。対邪教徒用に開発された罠型の植物兵器は、対・魔法使いでも有効だ。
ヨアンヌのように肺を抜いてきて呼吸を止めるのなら話は別だが、今のシャディクは肺ではなく耳朶を切除している。吸気は止まらないはずだ。
皺だらけの爺は、ノウンが仰々しく魔杖を振り回したのを見て何かしらの違和感に気づく。剣聖としての勘が囁いた。
(未来の一片が暗闇に落ちた。あの巨大植物は、人の意識を刈り取る香りを発しているのか)
周囲の建物は雑多な植物に覆われ、鬱蒼とした森の様相を呈し始めている。ノウンは大地から突き出てきた大葉に乗って空へと逃げ、上空からシャディクの昏倒を見守ろうという魂胆だ。
(僕はあと何回ポーメットに会える? きっと数える程しかない。あの娘に会うためなら、どんな困難も乗り越えてみせる)
ノウンを攻撃したとしても、保険があるため殺し切れない。距離がありすぎて、瘴気の外に跳躍して逃げることも叶わない。少年のような口調で思考を回すシャディクは、己の行動で千変万化する未来の中から正解を引き当てようと周囲を見渡す。
――なるほど、視えた。変わりゆく現在と未来を交互に視て正解の選択肢を探り当てたシャディクは、石畳を踏み抜いて一直線上に地割れを起こした。
「下を狙うつもりか? させぬよ」
シャディクが地下の避難所に目をつけたと考えたノウンは、地下茎を走らせて地盤の強度を上げる。
刀を持った爺が一目散に駆け出す。催眠ガスで狭まり続ける安全地帯の中、彼が導き出した答えは――
「――――っ!?」
ノウンの手が止まる。
彼女は高所に位置していた大葉から飛び降り、あるモノに身を呈する。
建物の影に隠れていた少年がそこにいた。地割れから逃れるべく飛び出してきたのだ。
子供を見殺しにしてシャディクを潰すという選択肢もあったが、そんな選択を即座に下せるほどノウンは非情になれなかった。
「逃げ遅れたかっ!」
ノウンは少年を抱き寄せながら、己の身体ごと植物の結界に身を包み込む。スライムのようにうねった植物の波が苔の球を作り出し、ノウン達をすっぽりと覆い隠した。
そこにシャディクの剣戟が襲い掛かる。火花が散り、幾重にも折り重なったノウンの植物結界に傷がつく。間髪入れず、同じ場所に剣が突き立てられる。植物の加速的成長よりも、シャディクの攻撃速度が勝っていた。
「ぐうっ……!」
少年を腕の中に抱きながら、防御に全力の魔力を注ぐ。少年は何かを言おうとしていたが、ノウンの控えめな胸に顔面を押し潰されて何も言えないでいた。ノウンはノウンで、彼の訴えに気が回る状況ではないため、もがく少年の旋毛を押さえつけて胸の中にしまい込んだ。
「目をつぶっておれ! すぐに安全な場所に避難させてやる!」
と、言ってみたはいいものの、形勢逆転して絶望的な状況に追い込まれている。防御壁の中からでは視界が確保できず、反撃もままならない。
こうなると、少年にアルファ・プラントの香りを吸入させてしまうリスクが思い浮かぶ。
これは子供に吸わせて良いモノでは無い。昏睡状態に陥って、そのまま二度と目覚めなくなるリスクもある。
「……くそっ」
ノウンは円形に設置したアルファ・プラントの一部を枯れさせた。時間経過により瘴気の隙間を作り出そうとしたわけである。
それを見たシャディクが計画通りと言わんばかりに頬を歪めた。しかし、ノウンの正義感溢れる行動が気に入らなかったらしい老爺は、安全な逃走経路が確保されたのを尻目に、植物の球の中に隠れた少女へ語りかける。
「ノウン……お前はそのガキを守るのか」
「当たり前じゃ! この時代にただ生まれてきただけの子供を、みすみす殺させてたまるものか!」
「…………」
老爺の目の色が変わる。
炎が虹彩に渦巻いた。
「僕のもとには、お前みたいな人間は現れなかった……」
言わんとする所の意味が分からず困惑する中、攻撃の苛烈さが増していく。
シャディクの能力はあくまで未来視に限られているはずなのに、ノウンの魔法がまるで歯が立たない。防御に反撃を交えて抵抗してみるものの、たった一振の剣に斬り捨てられてしまう。
シャディクの身体は颶風と化して、遂にノウンの防御をこじ開けた。
繭のような植物結界が瘡蓋の如く剥がれ落ちる。穴を隔てて少年を抱き締めるノウンがいた。怯えた表情だ。尤も、己の死を憂うというより、少年に降りかかる災難を思い浮かべて恐怖しているようだが。
(僕のママはこんな風に抱き締めてくれなかった。親ではなくオンナだった。夜はいつも服を纏っていなかった。何故、こんなガキが守られて、僕だけが……?)
一瞬、戦場に嫌な沈黙が走った。攻撃の手が止まっている。シャディクは無垢な瞳で――街灯を反射して酷く潤んで見える双眸で――ノウンと少年を見下ろしている。
少年がノウンの背に腕を回す。ノウンのローブに皺が寄った。焼きたてのパンのような丸みを帯びた手が、しかと少女の身体を掴んでいた。
「母さん……ノウンさま……助けて……!」
涙声の少年が掠れた声を漏らす。ノウンは彼をあやすように背中を撫で、魔杖レイアスを構えて三白眼に力を込めている。いつでも反撃の魔法を使えるように精神を集中しているのだろう。
シャディクの心は別の場所にあった。彼はノウンに守られる少年に激しく嫉妬していた。
喉から手が出るほど欲しかった庇護を、普通のガキが享受している。
渇く。煮え滾る。苛立つ。満たされない。僕にも母がいたのに、その温もりを知らない。
たとえ他人の子であろうと、幼子を守る。それはきっと普通のことなんだろう。でも、一番近い人に、愛情はおろか、何の人間的感情も与えられなかった。ママは僕を一度も抱き締めてくれなかったんだ。
ママが殴ってくるから、泣くのをやめたんだよ。
一回だけでも抱き締めてほしかったから、ママの袖を引くために、僕は歩くことを覚えたんだよ。人並みの愛情が欲しかったから、人の言葉を覚えたんだよ。
頑張ったつもりだけど、上手くいかないなぁ。
僕の人生、ずっとこうだ。
ママに抱き締めてもらっていたら、きっと全部上手くいったのに。
子を育むために使うべき、大人になってからの時間を、己の子供時代の精算に充てている。子供の頃に貰えなかったから、ずっとそれを欲している。
子供の頃に狂った歯車は、もう二度と戻らないんだ。
――アーロス様だけは、この醜い老体を馬鹿にしなかった。その願いを手助けしてやろうと手を差し伸べてくれた。
僕の灰色の子供時代を、いや、この人生を、暖かい暗闇で包み込んでくれると示してくださった。
計画が叶うまで残り僅かだ。
アーロス寺院教団による理想の国が成された時、人生の全てが好転する――……。
「――ははっ!」
亡霊のように棒立ちしていた男が突然活動を再開する。
満たされなかった子供時代の鬱憤を、罪なき少年とノウンにぶつける。その怒りの一撃はノウンが練り上げた植物の盾を貫通し、少女の胴を深々と斬り裂いた。
「――ぐ、おおおおおぉぉぉぉぉぉおおおっ!!」
少年を抱き締めていた左腕が切り離される。魔杖を必死に握っていた筋組織が途切れ、剥き出しの骨が露出する。ノウンは半ば蹴飛ばす格好で少年を後ろに逃れさせ、己の背で凶刃を受け止めた。
咄嗟に己の身に食い込ませた植物の根が金属を押し留める。肉体そのものが繊維質の盾と化し、丁度、脛骨の手前で、維管束が刃を絡め取った。
ノウンの判断は早かった。植物の組織を使って、パチンコの要領で刃を弾き返す。シャディクが引いたのを見るや即座に治癒魔法を発動し、全身の傷を回復。その際、強制的に『保険』で切り離していた部位ごと回復を進ませ、残基を失った。
シャディクは嗤う。その未来が欲しかった。たった一人の子供のために、今後の数百万の命を切り捨てるその甘さ。あまりにも浅慮な行動ではないか。
「お前はたった一人のガキのために国を滅ぼす選択をした! 後悔することだな!」
「全員守る!! それがわらわの傲慢じゃ!!」
「……!」
しかし、そんな守護の心が堪らなく嬉しいシャディクでもある。
この娘もまた……見込みがあるのかもしれない。
「ノウン、お前は“合格”だ」
腹の底が震えた。少年時代……いや、生まれた時からずっと求めてきた愛がここにある。
良いだろう、ならばこの剣を躱してみせよ。嵐からその子を守ってみせよ。真なる守護の心が、この僕を悦ばせる。手に入れた時の悦びが何倍にも跳ね上がる。
シャディクの右腕が増えた、ように見えた。
鈍色の瞬きが星々のように煌めき、虚空に爪痕のような斬撃痕を刻みつける。真後ろにテイクバックした右半身から、拾の斬撃が全くの同時に繰り出された。
半身から放たれる拾撃。それは隠れた箇所から意表を突いて飛び出してくるため、相手からすれば反応がコンマ二、三ほど遅れてしまうのも当然のこと。
その姿を知らないはずのノウンの脳裏に、千手観音の如き強烈な残影がよぎった。
未来視と剣の極致が織り成す絶技。激情と年輪を積み上げることで、その剣戟は魔法の域に達していた。
「ッッ!!」
ノウンの魔杖レイアスが魔法を補助・強化する。大地や建物のあちこちに埋め込んでいた種子や胞子が発芽し、シャディクの身体へ吸い込まれるように成長していく。
未来を読み切った老剣士には通用しない。幾千もの茎頂が粉微塵となり、金属の如き重厚さを帯びた防壁すら一太刀の前に切り伏せられる。後方で衝突を傍観する少年は、何が起こっているのか目で追うことができない。ただ、己の存在がノウンの足手まといになっていることは嫌というほど分かった。
(魔杖レイアスの力を借りた全力全開でも足りぬか……!! ならば、わらわのストックの全てをここで放出してやる!!)
一方的に押され続けるノウンは、ローブの内側に隠した魔法ストレージの口を解き放つ。ストレージ内に溜め込んだ長年の研究の成果が夜の世界に放たれ、幾千幾万もの種子や胞子が一斉に芽吹いた。
「!!」
防御不可能、予測不可能。シャディクの未来が全て暗転する。ちょうど、エアバッグが驚異的な速度で膨らむように、広範囲の発芽に巻き込まれたシャディクは、身体を折り曲げて遥か遠方に跳ね飛ばされた。
くの字に折れ曲がった身体が建物の壁を砕き、穴を開け、それでもまだ勢いは死なず。聖都の構造物を一直線に破壊して、しばらくすると壁にめり込んだ状態で静止した。
(視えた未来の取捨選択を失敗した……!)
ノウンの反撃は終わらない。少女の人差し指が左に向くと、シャディクの身体が弾かれるように真横へ吹き飛んだ。老剣士の足に絡みついた植物の根がシャディクを空へ引っ張り上げたのである。
数十メートルはあろうかという植物の根が鞭の如くしなる。石を紐に括り付けて振り回す要領で、強烈な遠心力がその肉体に掛かった。凡そ人体に掛かってはいけないレベルの負荷が作用し、シャディクの肉体が崩壊していく。
血の帯を引かせ、男の身体を地面に叩きつける。肉が裂け、骨が砕け、内蔵が破裂する。シャディクは拘束を絶つことすら叶わなくなり、されるがままだ。
もはや『拾読』の能力は関係ない。一方的な蹂躙である。
ノウンが指を動かす度にシャディクの身体が吹っ飛んで、地面や建物にぶつかる。紐先に括った石を、硬い地面に思い切り叩きつける。それと同じことを人体で行っているのだ、ひとたまりもない。
「くたばるのじゃ、爺!!」
しかしこの男、負傷を最低限に抑えている。未来が見える故、衝撃に備えるのも容易いといったところか。
シャディクを引っ張り上げ、親指を地に差し向ける。脚がもげて、弾かれるようにして地面に激突した。ぴくりと痙攣した後、彼はすぐに立ち上がる。
(まだ退かぬか!)
片脚が吹っ飛んでいる。切断面を地につけながら、じりじりと寄ってくる。その気迫にノウンはたじろいだ。後ろに無力な少年がいるだけに、脂汗がじっとりと滲んできて、服と肌が不快感を纏って癒着した。
早く少年を安全な場所へ避難させなければ。この気持ち悪い耄碌爺をぶっ飛ばしてやる!
剣を拾ったシャディクが地面を踏み抜く。跳躍の反動で石畳が崩壊したのだ。動体を検知して攻撃するはずの植物達が追いつけないほどの速度で、一直線に向かってくる。
ノウンが魔杖レイアスから魔力を噴出させ、巨大な樹を盾として展開。少年を抱いたノウンは樹木の上に乗っかって空中へと逃れた。現状、障害物を利用して逃亡に徹するのが少年を守るのに最も良い手だ。
ノウンは攻撃のためでなく、視界を覆い隠すために樹海を作り出す。
魔力操作とは切り離された木々がシャディクとノウン達を切り離し、夜の闇と合わさって全員の姿を覆い隠した。
「静かにしておれ」
ノウンがボロボロのロープで包み込むようにして少年を匿う。そのまま木の洞に身を隠させて、己は前に出て周囲を警戒した。
本来の力が発揮できる状況なら、ノウンはシャディクと良い勝負ができただろう。だが、無力な少年を庇っている今は彼を守り通すのが先決。そう決めたのだから、必ずやり通さなければならない。
――夜闇の中、シャディクの気配が消えた。
魔力を宿していた植物の茎がシャディクを追っている。ノウンは首を振って敵の姿を探すが、唐突に重い何かがお腹に絡みついてきて、ぎょっと身を固めてしまう。
「ママぁ! 僕を子宮に返してくれぇ!!」
腰の辺りを見下ろすと、露出した臍の下に頬擦りをする皴くちゃの男がいた。
「ひっ」
――ぞわり。全身から血の気が引き、体温が遠く彼方へ抜けていくのが分かった。
戦士である前に、ノウンは女の身だ。シャディクの言わんとする意味が理解できてしまって、戦意をごっそりと削ぎ落とされる。魔杖レイアスを握り締めた手が強ばり、常軌を逸した化け物を前に動けなくなってしまった。
「ママ、ママ。僕を子供時代に連れ戻してくれよう」
五〇歳以上は年齢の離れた老人が、まだ幼さの残る少女を相手に歪んだ母性を求めて縋っている。その恐怖たるや、死や喪失を前にした時とは全く変わったモノ――予期せぬ角度からの衝撃であるから、想像を絶するほどの竦然をノウンに齎した。
シャディクは縦に割れた臍に鼻っ面を埋めながら、ハァハァと息を荒らげて細い腰に両腕を回す。あまりの恐怖にノウンはびたりとも動けない。喉からは掠れた声が僅かに漏れるだけで、悲鳴は上げられなかった。
ずぶり。
「ごほッ」
ノウンの胸に冷たい金属が突きつけられ、貫通する。
シャディクの瞳に殺意が戻っていた。
「危ない。使命を忘れて溺れるところだった」
未だに目はとろんと惚けていたが、攻撃を再開するシャディク。華奢な身体から抜き放たれた刀が幾重にも残像を残し、完全に分裂する。
直後、同時に放たれる一〇の刃がノウンの身体を粉微塵に切り刻んだ。
ノウンは最後の一欠片を残して消滅する。
重力に引かれて落下する子宮。それがノウン最後の命綱だった。
「理想の世界が実現した後、お前は復活させてやる。僕の本当のママになれる女だからね」
鞘に収めた刀の柄に、脱力した手が置かれる。
節くれだった枝のような小指と薬指が柄に触れる。
そうして腰が沈み、居合の一太刀が放たれる寸前――
シャディクの手が止まり、はっとしたようにある一点を見上げた。
夜空を背景に佇む女騎士ポーメットが、シャディクに襲いかからんと聖剣を抜き放っていた。
アーロスとの激闘を経てやってきたポーメットだったが、精神エネルギーはある程度回復している。夜空に光粒子の剣身を伸ばして女騎士は雄々しい声を上げる。
「――おおおおおぉぉぉぉおおおっ!!」
振り下ろされた両腕が夜闇に溶ける。青い光を放つ剣の残光が叩き落とされ、シャディクのいた場所を一瞬で融解させた。
乱入の未来を読んでいたシャディクは軽くステップを踏みながら後方へ逃れる。木々が発火し、灰と化す。溶けた木片が風圧で飛び散り、シャディクの白髪を焼いた。
すんでのところで一命を取り留めたノウンは、子宮の欠片から素っ裸の状態で復活しながら、地に落ちた魔杖レイアスをひったくった。
「ノウン、保険はどうした。異常事態か」
「逃げ遅れた子供がおった。その子を守るために戦っておったわい」
「ノウンはその子を安全な場所へ。奴はワタシが抑える」
「助かる!」
ボロ切れを纏った女騎士がノウンの前に出る。少年を抱いた裸の魔法使いは、地下空間の入口に向かうべくシャディクから離れていった。
ポーメットとシャディクが睨み合う。老爺は薄ら笑いを浮かべながら髭を弄る。
「ママが二人。僕、選べないよぉ」
「…………」
ポーメットの腹部に熱視線を浴びせるシャディク。それに対して冷え切った視線で答えるのがポーメットだ。アーロスに向けられる視線よりも寧ろ、この男に対するそれの方が、怨念に囚われているように見えた。
シャディクは思い出したように手を叩く。
「ポーメットよ、母君……システィ・ヨースターは元気かね?」
「母上の名を口にするな。その口、二度と開けぬようにしてやる」
「君がシスティの子宮にいた時から知っている。大きく、美しくなったなぁ――」
「――黙れぇっっ!!!」
ポーメットにとって、シャディクは父親の仇だった。父親が剣の師と仰いだ男――それがシャディク・レーンであった。そんな男が過去を語る中、冷静さを保っていられるほど彼女の心は強かではなかった。
肥大化した剣身が横に薙ぎ払われる。ふわりと跳躍しながら横斬りを回避したシャディクは、空を見上げて「そろそろ頃合か」と呟いた。
「充分時間は稼いだ。……ただ、ポーメットが僕のところに加勢に来たのを見るに、作戦にイレギュラーが起こった可能性が高い。一旦退却させてもらおう」
シャディクは刀を逆手持ちし、己の肉体を粉微塵に切り刻んだ。『転送』である。
彼女達は知る由もないが、アプラホーネの作り出した脱出経路が大きく拡張され、撹乱部隊及び肉片保有者が安全に脱出できるほどの通路と化していた。それが塞がれるのは数日後のことである。
ポーメットは炭化していくシャディクの肉片を見送って、やり場のない怒りを壁に叩きつけた。
「クソったれ!!」
建物の壁が粉々に砕け、さあっという音を立てて崩れ去る。
シャディクとはダスケルでも対面した。これで二度目。再び狸に化かされたのである。
普段より冷静沈着なポーメットにしては珍しく、憤りを隠そうともせずに唇を噛み締めて、勢い余って噛みちぎった。ぶし、と血が出て、すぐに止まる。
「…………」
少しの痛みで冷静さを取り戻した女騎士は、少年を地下に避難させて戦場に舞い戻ってきたノウンにセレスティア奪還成功の報告をした。
「お、おお……! セレスが洗脳から解放されて、共に戦っているというのか……! そんなに嬉しいことはない!」
「クレスがやってくれたよ。そして、セレスの解放は『天の心鏡』防衛成功を意味する」
「わらわがここにいる間に、相当上手く立ち回ってくれたようじゃな」
「皆のお陰さ。これまで上手くいかなかった分のハネッ返りかもしれない」
「違いないのう」
聖都東部・アプラホーネとの戦いにも決着がつき、残る大きな懸念は北部に出現したスティーラ・ベルモンドである。
「……して、ポーメット。大丈夫か……?」
「何がだ?」
「シャディクのことじゃ。できることなら、奴とおぬしは会わせとうなかった」
「気にするな。奴は所詮、過去の妄執に囚われた哀れな爺……未来のない男さ」
ポーメットは苦い顔をして踵を返す。
(……『天の心鏡』で、満たされなかった過去をやり直す。或いは、自分達と同じような目に遭う者を増やさないため、苦痛や苦悩から解放された理想の世界を創る。それが奴らの心底の望みなのだろうな……)
何回か対面したから分かるが、シャディクは真なる母性を求めて狂っていた。
アーロスは国の腐敗に打ちのめされ、道を踏み外した。
ポークは容姿からしてテラス族――大量殺戮の被害者、少数民族の生き残りだ。
その他の幹部の詳しい話は分からないが――満たされなかった過去を持つから、国家転覆という明確な『過去のリセット』や、『聖遺物』を用いた願いの成就を求めているのだろう。
アーロスは現在のケネス正教で救えなかった者達を導こうとしている。
アーロスが巨大な野望を打ち立てたから、満たされなかった者共は救済を求めて教祖に付き従うのだ。
「他の皆の所に行こう」
無論、過去の捻れを何倍にも増幅させて他人にぶつけ、その上でこの世から消し去って無かったことにしようというのは間違っている。アーロス寺院教団は叩き潰す必要がある。
ポーメットとノウンは他の正教幹部と合流するため、大地を蹴った。
☆
――今宵の幻夜聖祭も、いよいよクライマックス。
アーロスが敗れ、聖都に残された迷える者は二人。
スティーラ・ベルモンド。
ヨアンヌ・サガミクス。
話を戻そうか。
アーロスは満たされなかった過去を持つ者共を従えている。
野望の成就は闇の民の心底の願いである。
それが叶わなければ、生きている価値がない。
故に、死に物狂いで暗躍する。
――さぁ、ここで逆転の発想をしてやろう。
その『過去』を、アーロスの野望の成就という形ではなく――何か別の方法で満たしてやれたなら、どうだろう。
アーロスへの狂信を破壊するだけの、強烈な救済を与えてやれたなら……?
その時、狂信者達の覚悟は揺らぐだろう。
アーロスの夢を叶うべく死に物狂いで動いていた者共は、目的を失う。
いや、行動原理を失う。
救いを与えられてしまったら、覚悟を手放してしまうだろう。
その時、魔法使いは死ぬ。
救いを与えよ。
彼女達に救いを与えるのだ。
心を吹雪に閉ざしたままのスティーラ・ベルモンドと――
こころを通わせたはずのオクリーの嘘を察し、道を踏み外したヨアンヌ・サガミクス。
救え。
世界を歪めた責任を取れ。
ただただ、殺すのではない。
救うのだ。
悪意にまけてはならない。




