一〇四話 聖祭直前
聖都の中心部に佇む大聖堂にて、サレン・デピュティの声が響く。
「これより聖祭直前の作戦会議を行う」
張り出された邪教幹部七人の似顔絵つき用紙を手の甲で叩いて、サレンは俺達の顔を見渡した。
――『幻夜聖祭』前日、夜。
これから始まる敵の大規模襲撃『聖都サスフェクト襲撃作戦』への対抗策を纏める会議が幕を開けた。
第二位エヌブランを除く正教幹部六名が集結し、その他にも、ホセやダロンバティ、マリエッタ、正規軍大隊長アギラオ、正規軍副長オーフェルス、対邪教徒部隊隊長ルツインなど軍部の重鎮が勢揃いしていた。
「我々は邪教徒の先遣隊や伏蟲隊を退けた。それでも敵は襲撃作戦を強行するだろう。
敵の襲撃が確実視される理由は二つ。
ひとつ。観光客と巡礼者の出入りが激しく、聖都の防衛を掻い潜る絶好のチャンスであること――
ふたつ。受け入れた外国人観光客を殺戮することにより、外患誘致を引き起こしゲルイド神聖国の弱体化を狙えること――
敵がこの機会に固執する理由はこんなところだろう。敵が『聖遺物』の筆頭『天の心鏡』を狙っているのは周知していることと思うが……外国人を殺されるのも避けなくてはならん。今の我々に外国を相手取る余力はないのだよ」
巨大大陸の北側に位置する国家・ゲルイド神聖国は、深い森と山脈、極冠に囲まれた閉鎖的な国だ。
国の北側には、人が居住することのできない氷雪地帯が広がっており、その遥か向こうに氷の海が存在するという地形である。国境線を形成するのは山稜線。国境の東に「オレイラ王国」、南に「ジエス公国」、「フォストーン連合国」、西に「イグオール帝国」が存在する。
……で、サレンが憂慮しているのは、外国から来た観光客が殺戮され、第三国との戦争に陥る未来である。
内乱状態にあるゲルイド神聖国には来ないでくださいねと公告したにも関わらず、それを無視して脳天気な人間がやってきている。紛争が二〇年近く続いており危機感が希薄化されているからだろう。正常性バイアスというやつだ。
俺は外国の話が出てきて少し面食らっていた。だって、原作で外国の話はあまり出てこないからだ。名前を何となく聞いたことがある程度か。
アレックスが襲撃してきた時、大筒のような銃を持っていた。アレは外国製の武器を改造したモノらしいが……。
(イグオール帝国は培養槽で製造された奴隷を購入しているお得意様。つまり、アレックスの使っていた銃は、元々帝国からの密輸品なんだろう。これから第三国が関わってくるとなると、俺の知識が本当に通用しなくなるな……)
イグオール帝国がケネス正教と敵対するアーロス寺院教団に金を落としているのは、ゲルイド神聖国の弱体化を狙っているということに他ならない。
そして、明日の『幻夜聖祭』で自国民を殺されたという口実を得た帝国は、保護の名のもとに軍勢を派遣し、あれよあれよと言う間に領土の一部に食い込むだろう。
軍事占領により国土の拡大を既成事実とし、ゲルイド神聖国が文句を言ってくるようなら武力をチラつかせるか、そのまま戦争を仕掛ける……なんて、ちょっと考えるだけで簡単なストーリーが描けるくらいだ。ゲルイド神聖国の特異な魔法技術を狙う諸外国は少なくない、ということだろう。
「今回は昨年と随分事情が違うしのう。敵は『不死鳥の神殿』の結界を超える存在と、移動要塞化計画による奇襲手段を得てしまった……」
「それがなければ、オレ達がガチガチに固めた聖都の防衛に突っ込むなんて愚策も愚策だからな。人の流入が増える聖祭当日、奴らは必ず攻撃を仕掛けてくるだろう」
「メタシムやダスケルの時は奇跡的に外国人の被害が少なく、エヌブラン殿が諸外国を駆けずり回ってくれたお陰で何とかなった。しかし、今回失敗したらもう無理だ。絶対に抑えられん」
ケネス正教ひいてはゲルイド神聖国の未来を慮るのなら、無血勝利という無謀な前提を貫き通さなければならない。
幹部の力があれば或いは……という気持ちになりかけるも、敵の狡猾さを良く知る身からすると不可能だろうと思えてしまう。
しかし、俺がいる限り正教が情報戦に負けることはない。実際、情報戦で優位を取ったことで、市民の血を流すことなく先遣隊を壊滅させられた。
ならば、市民を守りながら幹部を退けることもまた不可能ではない――はずだ。その可能性を少しでも高めるための会議が、これなのだ。
前提を共有したサレンは、黒板に描いたフロー図や地図をなぞりながら襲撃作戦の全容を再確認し始めた。
「予想される敵の行動を書き出した。オクリーが語ってくれた情報を元にしているから、信憑性は高い。
まず、アーロスとセレスティア。彼らは不死鳥の神殿を擁する聖都中心部に『転送』してくるだろう。アーロスの性格上、最重要任務『天の心鏡』奪取には確実に首を突っ込んでくるだろうから、この二人は固まって行動すると予想できる。
他の幹部共は、外国人観光客や市民の殺害、情報撹乱のために聖都各地で暴れるだろうな。ただ、ポークは死屍の軍勢を連れて聖都を取り囲むため、街の外に出現すると思われる」
当初の計画は、投擲の射程距離が長く身軽に動けるヨアンヌが外で待機する手筈だったと思われる。しかし、ヨアンヌはスティーラを嵌めるため、聖都内部に召喚されるよう計画を変更したはずだ。
ここでネックになるのは、ヨアンヌ・サガミクスの行動である。
正教邪教いずれの味方でもなく、俺だけの味方という事実がある以上、彼女の言葉をどこまで信頼して良いのか分からない。行動が読みやすいアーロス達とはまるで違う対策が必要なのだ。
黒板に描かれた簡易地図の上に、邪教幹部達の似顔絵が貼られていく。
聖都サスフェクト中心部に、アーロス・ホークアイとセレスティア・ホットハウンド。その二人の注意を逸らすように、各地に残りの幹部――ヨアンヌ・サガミクス、スティーラ・ベルモンド、シャディク・レーン、第二位アプラホーネ=ランドリィの顔が貼られ、街の外にポーク・テッドロータスがひとり配置された。
サレンはデフォルメされたヨアンヌの似顔絵を忌々しい目つきで睨みつけた後、聖都中心部に貼られたアーロスとセレスティアの似顔絵を指さした。
「まず、セレスティアの相手をするのはクレスだ」
「オレの『洗脳返し』でセレスちゃんの洗脳を解く……だよな」
「うむ。あの子さえ取り戻せば奴らの計画は頓挫する。重要任務だ、頼んだぞ」
「任せときなって」
赤髪の大男クレスと目が合う。彼は既に『洗脳返し』をモノにしている。彼の実力は折り紙付きだ、セレスティアにもきっと負けないだろう。
……問題は、アーロスを相手取るポーメットだ。
「さて、ポーメットは親玉と戦ってもらう必要がある」
「…………」
瞳を閉じ、腕を組み、存在感を消していた女騎士が、サレンの抜擢にゆっくりと頷く。青い瞳の中に爛々とした闘志が宿っていた。
「アーロスに有効打を与えられるのは私かポーメットしかいない。故に君を選考した。だが、敵は私の知る限り最凶の男。君といえども死ぬかもしれない――いや、死ぬよりももっと恐ろしい末路を辿ることになるかもしれない」
重荷を背負わせてしまうことに唇を噛むサレンだが、ポーメットの声に一蹴される。
「覚悟はとうの昔にできております」
クレスもまた、サムズアップして応えた。
そんな二人を見て、サレンは命を賭してくれる仲間に心底感謝した。
「……そうか。ありがとう」
「ワタシの役目は、セレスティアとアーロスを引き離すこと。アーロスを殺害ないし撃退すること。市民に一切の被害を出さないこと。……そうですね?」
「……そうだ。アーロスの魔法は自由自在に変化する。最も過酷な戦いになると思うが……ポーメット、クレス、どうかよろしく頼む」
役目を引き受けたポーメットとクレスは深く肯首した。
サレンはゴスロリ少女の似顔絵を手に取る。
「……そして、スティーラ・ベルモンドの相手は私だ。奴の魔法を全て抑え込む。民間人の被害も出させない。最高指導者の名にかけて、必ずや」
スティーラ・ベルモンド。まさしく破壊兵器と形容される最強の少女だ。攻防一体の魔法を使いこなす彼女に勝利するのはただでさえ至難だというのに、サレンは市民に被害を出さずに事を成そうとしている。ポーメットと同等以上の過酷さなのは間違いなかった。
スティーラがどのエリアに『転送』されるかは分からない。一刻も早く少女の位置を特定する必要がある。
明確なターゲットとされていないのは、ヨアンヌ、シャディク、アプラホーネの三名。彼らの相手はノウンとエヌブランが行い、マリエッタやホセらは特殊な魔法を持たないヨアンヌ・シャディク両名の動きを封じ込める役割を請け負った。
そして、ポークを相手取るのはジアターだ。正規兵は市民を守り、避難を手助けすることになっている。
「正規軍大隊長アギラオ、正規軍副長オーフェルス。君達は部下と共に市民を守れ。外国人だろうと異教徒だろうと死なせるな。この国と、我ら正教徒の未来にかけて」
「はっ。仰せのままに……」
「対邪教徒部隊隊長ルツイン及び対邪教徒部隊はジアターに付き従い、死の軍勢を打ち破る手助けをせよ」
「了解」
基本的に、俺達は後手の対応を余儀なくされる。
中でもかなりの負担を強いられるのは、ヨアンヌへの対応か。
サレンは相当悩んだのだろうが、ヨアンヌの「スティーラ殺害に協力してやる」という発言をどこまで信じて良いのか判断しかねているようだった。
ヨアンヌ以外の魔法使いは、治癒魔法を中途半端に止めることができない。特定箇所の回復を止めたり治癒魔法を一点集中させたりできるのは、ヨアンヌしかいないのだ。
故に、聖都内部に『転送』した直後のスティーラは、全身無傷の状態である。聖都侵入後は肉片を切り離し、脱出役の邪教徒に託さなければならない。
ヨアンヌはそこを突く。スティーラを逃さないよう『脱出役』を肉片ごとを消し飛ばす役目を買って出た。
作戦の根幹を成す重要部分を任せる形になって、サレンからすれば当然不安は尽きないだろう。
でも、もし理想の展開になれば、スティーラを聖都サスフェクト内に留めることができる。もしくは、『転送先』が消えたことを知らないスティーラが己の肉体を消し飛ばし、戦わずして勝利できるかもしれない。
正教側としては、リスクがあるのは承知しつつも、乗らないわけにはいかない戦いだった。
「オクリー、君はどう動きたい?」
「俺の裏切りはまだ邪教側にバレていないはずだ。だから、不死鳥の神殿付近に隠れつつ、クレスとポーメットの援護をしようと思う」
それから様々な確認事項を述べた後、聖祭直前の作戦会議は終了した。
解散の声が飛ぶと、席に座っていた者達が立ち上がって退室し始めた。俺は残れと言われていたので、その場に座ったままである。そんな俺の傍に、マリエッタが寄ってきた。
「ちなみになんですけど、この似顔絵は誰が書いたんです?」
「サレンらしいぞ」
「あっ、ふ〜ん。味のある絵ですね!」
「おいおい……」
それだけ言って、マリエッタは退室していった。
サレンは少女の背中を凄い目で見つめていた。あの子の怖いもの知らずは留まることを知らないな。
俺とポーメット以外の全員が退出したのを確認して、サレンは「ついてこい」と手招きする。
大聖堂から抜け出て、中央広場から南下していく。サレンとポーメットに挟まれて進んでいくと、凄まじい熱気を放つ異様な神殿が現れた。
「これが不死鳥の神殿……」
炎の中に佇む大神殿。激しい炎と陽炎の中にあるせいか、その姿は朧気にしか視認できなかった。
アーロス寺院教団の洗礼を受けさせられた俺に対して猛毒の炎が火柱を立てている。聞く話によると、神殿が建造された古の時代から燃え続けているらしい。
更に目を凝らしてみれば、炎に加えて何かしらの魔法結界が張られているのが分かった。クレスによる雷の魔法か何かだろうか。神殿の周囲は厳重な警戒態勢が敷かれており、鍛え抜かれた精鋭が目を光らせていた。とにかく、一般の者が入れるような雰囲気ではないな。
「大丈夫だ。一時的に結界は停止させている」
「そんなこともできるのか」
「あぁ。炎も止めようと思えば止められる――滅多にやらないがな」
サレンは半透明の結界を抜け、入口付近の炎を一部だけくり抜いて、神殿内へと消えていった。
ポーメットに背中を突っつかれたので、俺もそれに続く。炎の壁の隙間に、えいやっと意を決して飛び込む。……何も起こらない。本当に効力が消えているらしい。
神殿内部はぽっかりと空間が空いていた。石柱以外には何もないように見える。
二人が真っ直ぐ地下階段に向かったので、慌てて追いかけた。
地下の宝物庫には、『聖遺物』と呼ばれる魔道具や神具が並べられていた。
鉱石、布、首飾り、指輪、鉄板の一部と思しき何か――軽く一瞥しただけでは、ガラクタや一般に流通している物にしか見えない聖遺物もあった。
「ここに連れてきた理由は、見て欲しい物があったからだ」
サレンは手前の聖遺物から詳細を説明してくれた。
「この布は『がらじんあ』。懐に忍ばせておくだけで、衣類のダメージを無に帰すことができる。ただし、その下の肉体は傷ついてしまう」
「あんまり意味ないな」
「これは『傀儡の雫』。危険すぎるので、『天の心鏡』と同様に厳重管理されている。こちらは『大頭蓋骨』。相手の頭に被せると、寿命と死因が透けて見える」
役に立ちそうな聖遺物もあれば、役に立ちそうもない聖遺物もある。
そんな中で紹介されたのが、『聖鎧』と呼ばれる聖遺物だった。
ただし、聖鎧と言われた台座には、湾曲した板や白い欠片が沈黙しているだけだった。
どこに『鎧』があるのかを尋ねると、どうやら先の大戦で破壊されてしまったらしい。ここにあるのは破壊された後の『聖鎧』だった。
「聖鎧。決して傷つかず、劣化しないと信じられていたが、今はこの通りだ。しかし、残骸を盾として使うことができる」
「ここに来た目的はそれか。俺に貸してくれるのか?」
「ああ。この戦いで君を失うわけにはいかん。持っていけ」
サレンは最も大きな破片を差し出してくる。表面には聖なる紋章が刻まれており、元々は胸部に当たる装甲だと分かった。とても軽く、服の下に仕込んでも身体の動きを阻害しないだろう。サレンの言う通り、盾として使うこともできそうだ。
良い道具を貸してもらった。俺は二人に頭を下げて、『聖鎧』の一部を懐にしまった。
「ところで、ポーメットの『聖剣』も聖遺物だよな?」
「そうだ。元々は『聖鎧』と『聖剣』で一組だったのだがな」
ポーメットは帯剣した『聖剣』をかちりと鳴らす。その剣は、決して折れず、切れ味も落ちない業物だという。
……そういえば、ポーメットは『聖遺物』を装備して戦闘力を強化しているけれど、他の幹部達も何かしらを持っているのだろうか。それを聞いたところ、サレンから肯定の言葉が返ってきた。
「『聖遺物』を敵に奪われる可能性もあるから、余程のことがない限りここに保管してあるのだが……明日はケネス正教の真の力を見せられるだろう。期待しておけ」
鼻を鳴らした後、サレンは宝物庫の最奥を指差した。
物々しい雰囲気を放つ、古めかしい大きな鏡が見えた。
「最後に、あれが『天の心鏡』だ。文字通り、他の聖遺物とは格の違う神具――絶対に奪われてはならん。任せたぞ、二人共」
「大舟に乗ったつもりで背中をお預け下さい、サレン様」
「そうだよ。サレンもポーメットもめちゃくちゃ強い。負けるはずないって」
サレン・デピュティには、正教の最高指導者として相応の責任がある。その重圧を分かち合うことができたら――そんな想いが行動になって、俺達はサレンの背中にそっと手を添えていた。
「ポーメット……オクリー……」
サレンの表情が和らぐ。
(……きっと大丈夫だ、サレン。俺達で邪教徒とヨアンヌを止めよう。必ずだ)
こうして、邪教徒の動きがないまま、聖都サスフェクトは『幻夜聖祭』を迎えることになる。
☆
誰もが寝静まった深夜、聖地メタシムにて。
ヨアンヌの目を盗んでオクリーの部屋を探り当てたドルドンは、簡素な内装を見渡して小さく唇を舐め上げた。
「ここが彼の個室か。素晴らしい……」
後ろ手にドアを閉め、内鍵を捻る。ドアノブに付着していた手垢を舐め取り、嗅覚受容体を欹てるようにして、鼻孔から大好きな彼の香りをあらん限り取り込む。
体臭らしき香りはしなかった。部屋が使われなくなって久しいのもあるだろう。というか、そもそも彼自身が非人間じみているので、この結果も予想できていた。期待通りの部屋の様子に、ドルドンは蕩けるような幸福感を覚えた。
(全く生活感のない……まるで、睡眠に使っているだけのような部屋じゃ。ただ、薬草などを練り合わせたような痕跡があるな。何かしらの実験をしておったのか?)
オクリーの許可はもちろん、ヨアンヌの許可も取らないで、勝手にベッドに寝転がる。枕を両腕で抱き締めて、鼻っ面を押し付ける。やはり無臭だが、彼の細胞が付着している。それを考えるだけで吸気が止まらなくなった。
次に、ドルドン神父は、布団を捲ってその中に潜り込んだ。巨体を丸め、膝を抱えるようにして、すっぽりと布団の中に収まる。そのまま瞼を落とし、薄闇の中で想い人と向かい合っている妄想をしながら、荒れた唇を窄めつつ虚空に向けて突き出した。
自分の舌を唇と前歯で挟み込み、向こうもノリノリであるという体で妄想に耽る。
「……ちゅ、んちゅ。まずい、勃起してきた。とんでもないところを触ってくるのだな、君は……」
――ヨアンヌ・サガミクスに与することになったドルドン神父だが、彼女の思想全てに賛同したわけではない。
オクリーのために正教邪教を滅ぼすとか、世界を捧げるとか。そんなものは間違っている。あの女はオクリーについて何も理解していない。彼がそんな結末を望むわけがないのだ。ドルドンは短い付き合いながら、オクリーの内心を完壁に把握していた。
オクリーは正教の勝利を望んでいる。暴走するヨアンヌとの共存も望んでいる。両立したいのにできそうもないから、正教のために動きつつも、ヨアンヌ殺害をどこかで躊躇っているのだ。
想い人と対立するつらさは想像もできない。だが、彼は次第に気持ちの整理をつけ、ヨアンヌと決別する準備を始めているだろう。
加えて、ドルドンはヨアンヌと反りが合わないなりに内心を理解していた。
アーロスから情報を盗んだ自分に見切りをつけ始めていること。スティーラを殺害したところで、残った幹部達を全滅させるのはかなり難しいこと。正教側で(恐らく)楽しくやっているであろうオクリーと、心の距離が開き始めて悩んでいること――
長年人と接してきた神父にとって、少女の内心を読み取るなど造作もない。
『小さな世界に至る計画』へ進み始めたヨアンヌに立ちはだかる現実はあまりにも強大だ。何より、彼女は計画の根本に大きな矛盾を抱えている。それに気づかないフリをしているようでは、先が思いやられた。
(仮に『小さな世界』が実現したとしても、オクリー君はヨアンヌを受け入れないだろう。正教が敗北した世界に到達した後悔と絶望で、自死を選ぶかヨアンヌを拒絶する。所詮、理想の世界は理想の世界。現実と程遠い、というわけじゃ)
薄闇の中、ドルドンは心地よい眠気に誘われていく。
(……しかし、アーロスも、ヨアンヌも、ワシも、どこから間違えたのだろうか)
(……話し合いをすれば、全て解決したかのう?)
(……………………)
(――ん?)
突然、ドルドン神父の脳裏に、閃光が弾ける。引き潮のように眠気が引いていき、思考が形を帯びていく。気がついた時には、布団を蹴飛ばして跳ね起きていた。
老爺は部屋から飛び出し、勢いのままヨアンヌの個室へ押し入る。彼の目に、窓の縁に腰掛けて、星空を嗜む少女の姿が見えた。
(――これもあなたの仕業なのですか、我らが主よ。こんな状況に至っても尚、世界を混沌に導かんとする少女を救ってみせろと仰るのですか……!)
老爺の頭上におりてきたのは、天啓としか思えぬような考えだった。
目をかっと開いて佇むドルドンを見て、ヨアンヌは静かな夜を邪魔されたと溜め息を吐く。少女は気だるげに溜め息を吐いて、視線だけをドルドンに向けた。
「……『聖遺物』を持ち帰ってくるまでは待機していろと命令したはずだが、何か?」
アーロスの金玉から情報を引き出した時点で、ドルドンは役目を終えた人間だ。生かすも殺すもヨアンヌ次第である。あまり気分を害するなよ、とヨアンヌは蛾眉を吊り上げた。
しかし、翡翠の双眸に射抜かれてもドルドンは怯まなかった。叩き開けたドアがゆっくりと閉じられたのを確認して、老爺は言い放つ。
「ヨアンヌ……貴様、『計画』を思いついてからオクリーとは話したのか?」
「あん?」
「話したのかと聞いている」
「……あんまりお喋りできてない」
「なら、まずいな。やはり見切り発車すぎた。今のまま計画を進めてみろ、後悔することになる」
舌打ちをひとつ、ヨアンヌは忌々しげな態度になる。
「後悔だと? オクリーが生きていてくれて、邪魔者が一切消えた世界に何の翳りがあるってんだ」
「その世界を実現した後、オクリーと貴様は確実に殺し合いになる。それか、彼が自殺することになる……」
ヨアンヌは虚を突かれた気分になる。
オクリーの行動原理は正教陣営の勝利。正教どころか文明そのものが消滅し、何もかもが無くなった世界で、その原因となった少女を赦すだろうか?
答えは否。オクリーは絶対に赦さない。自分自身も赦さないだろう。
加えて、オクリーがヨアンヌに屈服する未来も見えない。何故なら、青年は少女との真っ向勝負に一度勝利しているからだ。
どんな暴力や絶望に打ちのめされようと、ゾンビの如く再起する姿が容易に想像できる。小さな世界が実現した後であっても、ヨアンヌを拒絶する彼の姿がありありと浮かんだ。
理想の世界が実現しないのなら、その時ヨアンヌは死んでいる。もしくはオクリーが寿命により死んでいる。
どんな結末を迎えようと、ヨアンヌの敗北は確定しているのだ。ドルドンの言う通り、実のところ、『小さな世界に至る計画』は穴だらけの空想じみた産物だった。
「本当は分かっているんだろう。やめておけ」
願望の増幅器『天の心鏡』によって全てを解決しようとしていたヨアンヌは、今更ちゃぶ台をひっくり返されて激昂した。
「――じゃあ、どうしろってんだよ!?
『天の心鏡』は人の願いを叶える聖遺物だ! 人間共を最小限に減らして願望を操作して、オクリーをつくりかえるのが計画の根本なんだよ!!
これ以外にオクリーを救える方法があるか!? アタシの理想を叶える世界がつくれるのか!? 絶対に無理だね!!
それとも何か!? 邪教を滅ぼして、正教のヤツらを守り抜いて!! その上で人々に『オクリーの寿命を無限に伸ばしてください』って渇望されるのを待てばいいってか!?
そんなの幻想だ!! もう、どうしたって、アタシとオクリーが手を取り合える世界は、願望の中にしか存在しないんだよ!!」
少女は顔を真っ赤にしながら、神父の胸ぐらを鷲掴みにした。四十五センチもの身長差があるため、男は両膝をつかされる形になる。
思いの丈をドルドンにぶつけたヨアンヌは、息を荒らげつつも両手の力を抜いた。
「……ずっと前から分かってた。もう、全部壊すしかないんだって……」
今まで一切弱音を吐いてこなかったヨアンヌの表情が歪む。願望を目指すことで無視していた感情がとめどなく溢れてくる。理想の世界はあまりにも遠い。抑圧された不安と絶望が、少女の小さな体躯を押し潰した。
少女が蹲ったのを見て、老爺は乱れた襟を正す。恋敵を見下ろしながら、厳然たる神父の声で以て言の葉を与えた。
「壊すことしか知らぬ少女よ。君に第三の選択肢を与えよう」
「…………」
「『死期の近い英雄オクリーを長生きさせてほしい』と人々に熱望させるようなマッチポンプを作れ。そして、貴様はケネス正教に寝返るのだ。それが許されるのならば、オクリーの夢もヨアンヌの理想も叶う。万事解決だ」
唖然。考えてもみなかった第三の道が提示され、ヨアンヌは開いた口を閉じられなくなる。
「…………は?」
「『幹部を全員殺害する』『世界を滅亡させる』なんて無茶より余程可能性のある未来じゃ。高すぎる理想から手の届く現実にシフトチェンジするのも手だと思うが、どうかね?」
ドルドンの示した世界はこうだ。
内部工作を行って邪教の破壊を目論んでいたオクリーの背中を追うが如く、ヨアンヌが内部工作を行い邪教を攻撃する。正教側に寝返り、手柄をオクリーに譲り渡して英雄像を作り上げる。
人々がオクリーに期待を寄せる中、邪教徒は遂に滅ぶ。そして、人々の心が揺れ動く天文現象の日、オクリーの寿命が元に戻るわけだ。
全てが上手く行けば、二人の望んだ世界がやってくる。
正教が滅びない上に、オクリーもヨアンヌも生き残れる世界……。
「なん、で――なんで、こんな時に迷わせるようなこと言うんだよ!! 明日なんだぞ、『幻夜聖祭』はっ!! アタシ達の運命が決まる、二度と取り返しのつかない大切な日の直前にっ!! どうして――どうしてオマエは――」
中途半端に迷っていると、精神の乱れが瞬発力を鈍らせる。刹那の決断を遅らせる。『幻夜聖祭』をそんな状態で乗り越えられるわけがない。
ヨアンヌは拳を叩きつけ、今にも噛みつかんばかりの形相でドルドンに食ってかかった。
「フン。どうせ、ぶつかっていた壁だ」
「だからって!」
「結局、選ぶのは君だ。ワシでもオクリー君でもない。世界を滅ぼすも良し、苦難の道を行くも良し……勝手にするがいい」
ドルドンは最後にこう言い残すと、再びオクリーの個室へと戻っていった。
「オクリー君もきっと、無限に近い未来の中から今を掴み取ってきた。考えられるか? 敬虔な邪教徒だったはずが、今や正教徒の一員だ。奇跡よ。彼の生き様をなぞりたいのなら、挑戦してみるべきだと思うがね。――奇しくも今のヨアンヌは、かつてのオクリーとそっくりな立ち位置なのだからな」
移動要塞計画を発案したにも関わらず、ケネス正教陣営に飛び込んだオクリー。果てしない利敵行為を働いたのに、数々の綱渡りを経て彼は今の立場に定着している。
その事実を再確認するようなドルドンの言葉は、ヨアンヌの脳を震えさせた。
世界が広がる。
遠く離れていたはずのオクリーの心が、急激に接近したように思える。
――しかし、それでも。
他人に期待するよりも、自分で掴み取る理想の世界の方がいいんじゃないのか……?
☆
ポーク・テッドロータス及び死屍の軍勢は、聖都に向けて行軍を始めた。
セレスティア・ホットハウンドは、アーロスの期待に応えるべく、かつての仲間の殺害を決意した。
フアンキロ・レガシィは、こんな時も留守番かと溜め息を吐いた。
スティーラ・ベルモンドは、想い人との再会を夢見て夜空を見上げた。
シャディク・レーンは、思う存分人斬りに興じられることを、心の底から楽しみに思った。
アーロス・ホークアイは、誰にも悟られぬよう、仮面の下で怨嗟の炎を燃やした。
ホセ・レイズは、聖祭前夜を、愛する者と共に過ごした。
ノウン・ティルティは、まだやれることがあるはずだと研究に明け暮れた。
ジアター・コーモッドは、夜明け前から外壁上に立ち、堂々たる居振る舞いで死屍の軍勢を待った。
ポーメット・ヨースターは、愛する人々を守るため聖剣を手に取った。
クレス・ウォーカーは、大切な仲間であるセレスティアを奪還するため、想いを高め続けた。
サレン・デュピティは、全ての準備を滞りなく終えたのち、神に祈る時間をつくった。
ドルドン神父は、偉そうなことを言った手前、犯した罪は償わなければならないなと自嘲した。
マリエッタ・ヴァリエールは、特に緊張することもなく、すぐ眠りについた。
ヨアンヌ・サガミクスは、ただひとり、迷いの中にあった。
オクリー・マーキュリーは、英雄になるはずだった少年を偲び、己の身体を抱いた。




