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その日、王立戦略アカデミー情報局の局員であるマーレは、同僚のリタの様子がどこかいつもと違うのが気になっていた。
いや、『どこか』ではない。誰が見てもわかるほどに圧倒的に不機嫌、というか無愛想なのだ。いや、彼女は普段から無愛想で、仕事中はほとんど喋らないし笑いもしない。ちょっとした問題が起きても大抵無視する。偶にそれでこっちが実害を被ることもあるのだが。
しかし、いつもとの違いはそこではない。いつもの彼女は仕事中、徹底的に無表情である。しかし、今日の彼女はデスクに向かいながら盛大なしかめっ面をしているのだ。
「……おい、どうかしたのか?」
とうとうマーレは、少しばかり勇気を出して直接聞いてみることにした。
しかめっ面がこっちを向いた。
そして、無言で一枚の紙を手渡してきた。
その紙を見た瞬間に、マーレは彼女の不機嫌の理由をどうやら諒解した。
「700ギドル」リタが言った。
「今年度の予算よ」
いかにも、その紙面には印字機の整った活字で『ς 700』〔注:ς=ギドル。この国の通貨単位〕と記されていた。
「信じられる?これが、これから一年間のわたしたちの予算だって?」
「なかなかにシビアだね」
「受け取らないほうがマシよ、こんな額」
「しかし僕の年収である80ギドルを大いに上回っている」
「そういう問題じゃないでしょう」
マーレ自身は冗談のつもりで言ったのだが、リタはいっそう眉を顰めた。
「仮にも王立軍直属の組織であるわたしたちの予算が、一個人の年収と比べられるぐらいになったらお終いよ。去年のわたしたちの予算総額は1500ギドルだった。そして一昨年は2000……分かる?段々と少なくなって来てるのよ。こないだ緊急招集された時に言われたこと、憶えてる?『《天罰》については、君たちに非常に期待している。できる限りの支援を約束しよう』。なのに、たったこれっぽっちの予算しかくれないなんて」
「まあまあ、仕方ないよ。少ない予算でなんとかしなきゃならないのは、われわれだけじゃないんだ。それを忘れちゃいけないよ」
マーレは彼女をなだめるように言った。
「ただまあ僕としても、今年の予算が去年の半分以下なのは確かに納得できないな。今度僕から上層部に、われわれの予算をもう少し増やしてくれるように頼んでみるよ」
「無駄だと思うわ。あの人たち、何を言っても聞く耳を持たないのよ」
「そんなことはないよ。事情を説明すれば上層部も分かってくれるさ。なにせ、これは王国の運命が懸かってることなんだからな」
「そうかしら」
「はっきり言うけど、上の人たちがわたしたちの意見を聞いてくれたことなんて一回もない。たったの一回も。やらされる仕事といえば、スローガン、国威発揚、徴兵のポスター、そんなものを作る仕事だけ!……戦争がなによ。敵国がなによ。わたしたちには、そんなものより他に闘うべきものが………」
「おい、やめろ!警察に密告されるぞ!」
室長のフォルカーがデスクの向こうから顔を出して怒鳴った。
オフィスに無言が戻った。
リタが溜息をつく。マーレにしても彼女の気持ちは痛いほど分かる。戦略アカデミーにはこの六ヶ月間、《天罰》について何ひとつ有益な情報は提供されなかった。それどころか、政府は隣国ラッペルヴァリア皇国との戦争により多くの資源と人材を割こうとしていた。
それから、5時間ほどが経過した。
既に日は落ち、オフィスに残っているのはリタとマーレだけになっていた。白熱灯に照らされた薄暗い空間の中で、二人はなおそれぞれの仕事を続けていた。
「はぁ〜、もうウンザリ」
リタが愚痴をこぼす。もう、これで何十回目かになるだろうか。
「おい、もうそれくらいで良いじゃないか」
何年も前の古い人事通告書の裏を計算用紙にして、昨日の第二戦線での戦死者数と負傷者数の合計を計算しながらマーレは言った。ウンザリした気分なのはリタだけではない。
「室長に感謝すべきだろう。何しろ、君が国家反逆未遂罪を犯すことになる前に止めてくれたんだからな」
「じゃあ、あなたも政府の言ってることのほうが正しいと思ってるの?」
「そんなことはない。僕だって心の内では君に大賛成だ。口に出せないだけで、君の意見はここにいるみんなの意見だろう」
「……………………………………………」
その言葉に、今日初めてリタは何も言い返さずに沈黙した。
「君の言ってることは決して間違いじゃない。だけど、だからこそ今は声を上げないで静かにしているべきだ。警察の恐ろしさは、君だって知っているだろう?」
「でも……対《天罰》のスローガンは、“人類が手にした新しい力である科学の力で、神に打ち勝つ”でしょ?」
「それはスローガンじゃなくて決意表明だろう。われらが偉大なる国王陛下の」
ようやく計算を終え、結果を解析機関に入力しながら、マーレは答えた。
「そもそも本来、国家間の戦争にだってスローガンなんか要らないんだよ。勝つか負けるか、それだけ。勝てばわれわれは、相手の国をわれわれのものにできるし、負ければわれわれの国が相手のものになる」
リタはもう彼と張り合おうとはしなかった。マーレは入力を終えると、自分のデスクの上に散らばった書類を片付け始めた。
「もう帰るの?」リタは尋ねた。
「そりゃ帰るさ、定時はもう過ぎてるんだから。君ももう帰ったほうがいい。送っていこうか?」
「結構よ。今日中に報告書を提出するよう言われてるの。今やっと終わったところよ。出してきたら帰るわ」
「そうか。じゃあ、早いとこ出して帰りなさい。家で熱いココアでも飲めばイライラしてるのも落ち着くさ」
そう言って、マーレはコートを羽織ると足早にオフィスを出ていった。
彼は帰っていった。
リタは手元のインキ壺に蓋をすると、仕上がった報告書を紙綴器で丁寧に綴じた。
オフィスから出て行こうとしてフォルカーのデスクの前を通りかかった時、彼女はあることに気がついた。
ほかのと違い、フォルカーのデスクの抽斗には鍵がかかるようになっている。彼が普段その抽斗の鍵をどこに保管しているのかは彼女の知るところではない。だが、全くもって稀なことに、今日その鍵は抽斗の鍵穴に差し込まれたままになっていたのだ。
その時ふと、ある考えが彼女の頭に浮かんだ。
当代の最新技術である解析機関は、アカデミーの上位組織である技術研究部から発行される起動証がなければ起動できないようになっている。このオフィスで起動証を持っているのはマーレと、室長のフォルカーだけだ。マーレの起動証は彼自身が持ち帰っただろうが、フォルカーの起動証ならこの抽斗に入っているはずだ。
リタはフォルカーのデスクの前で暫し逡巡した。べつに解析機関で何をしようという明確な目的があるわけではなかった。ただ彼女は、戦争で失われた命の数を単なる無味乾燥な数字の羅列としてしか扱わないこの機械を戦争そのものよりも嫌っていた。
解析機関に入力される情報は、戦死者数や負傷者数だけには留まらない。会敵した時の敵の配置やその戦闘で使用された兵器の数、種類、傍受した敵の通信内容など、多岐にわたる。それらの情報はそのまま技術研究部に送信され、戦況把握に用いられると聞いた。
ならば。
彼女は意を決して、抽斗から起動証を取り出した。初めて手に取ったそれは思いの外温かくて軟らかだったが、そんな感触を味わう間もなく彼女は挿入口に起動証を差し込んだ。
錆びた金属同士を擦り合わせるような音がしたかと思うと、不意に画面が眩しく発光した。
つづく