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知らぬ世界

作者: 閃光

大学生の頃、おとぎ話に関する講義に出席したことがある。


講義の内容なんてろくに覚えていない。ただ、教授が話したある話の内容だけは、なぜだか今でもよく覚えている。


———そして、その話を聞いていた当時の私を取り巻く状況も、またよく覚えている。


*


確か、あれはアイルランドの児童向け文学かなにかについての話だったと思う。


主人公である少年の母は、若くして命を落とした。


少年は、泣いた。来る日も来る日も泣き続けた。


いつまでも泣き止むことのない少年を見るに見かねた兄は、少年の手を引いてゆっくりと歩き始めた。


歩き始めて数分経った。兄は立ち止まり、少年のそれよりもほんの少し大きな、まだかすかに丸みを帯びた手を、弱々しい力で彼の手を握る少年の手から、するりと抜き出した。


うつむき泣き続ける少年が顔を上げるまで、兄は少年の横に立っていた。


*


教授は少年の年齢について明言こそしていなかったとは思うが、当時の私は頭の中で8歳か9歳くらいのブロンドヘアのかわいらしい少年を思い浮かべていた。


これは私の持論なのだが……、8歳前後の子どもよりも、もろくはかないものなど、この世界には存在し得ないのではないだろうか。この持論は、講義を聞いていた当時の私の中で未完成ながらもある程度は形作られていたのだろう。だからこそ、私はどことなくはかなげな空気をまとった10歳にはまだ至らない少年を、その物語の主人公に投影したのかもしれない。


兄に手を引かれ歩く少年の姿を想像した私は、なぜか少年のことを羨ましく感じていた。


*


立ち止まってからひとしきり泣いた後、少年は両手の甲で下まぶたに残った涙をぬぐった。ふんわりとしたブロンドヘアの上に、兄が優しく手を乗せる。少年は兄の顔を見上げ、そして、兄の視線の先に目を向けた。


兄の視線の先には、小さな井戸があった。兄は井戸に向かって歩き出し、井戸に目を向け立ち尽くす少年に、肩越しに目配せをする。


少年は小走りに兄の横に駆け寄る。そして、兄をまねてレンガ造りの井戸の縁に手を置き、身を乗り出して井戸の中を覗き込んだ。苔むしたレンガはひんやりと冷たく、少年の肩をしっかりと押さえる兄の手のやわらかいぬくもりが、シャツを通して肌へと伝わる。


その井戸はいわゆる浅井戸で、時間が昼過ぎだったこともあり、底まで明るく照らされている。


「……なあ、この井戸の底には、何があると思う?」

優しい声色で少年にそう問いかける兄の横顔をみて、少年はなぜか「もうこれ以上泣いていてはいけない」と思った。


「———ほら、よーく見てみろ。何か見えないか?」


少年は目を細めて、太陽の白い光をゆらゆらと反射するよどんだ水面を見つめる。水面からは、先端が剣身のように鋭く尖った緑色の草が、何本も突き出ている。


「———草が生えているだろ? こんなに深い井戸の底でも、太陽に向かって草が伸びているんだ」

兄が少年に向かってそう語っているということは疑いようのない事実ではある。しかし、兄の声はどこか違う方向へも向けられている。少年は、そう感じた。


「草だけじゃない。あの草の下には、小さな生き物がたくさん住んでいるんだ。例えば、ヤゴ。……ほら! あの草を見てみて!」

兄が指さす先には、一本だけ不自然に揺れる草がある。目を凝らしてみると、その先端からやや下った部分に小さな虫が止まっている。少年はその虫がヤゴであるということを知らなかったが、それ以外に見当たる虫がいないので、それがヤゴなのだろうと思い、しばしじっと視線を送った。


「ヤゴが成長するとトンボになるんだ。トンボは知っているよね?」

少年はコクリと頷く。


「トンボは空を飛べるけど、トンボの子どものヤゴは水の中で生活しているんだ」

そう言うと、兄は井戸を覗き込むために曲げた腰を伸ばし、井戸のレンガに背をあずけて、力なく土の上に座り込んだ。少年も、兄の横に腰を下ろす。


「トンボは水面に卵を産む。卵から孵ったヤゴは、トンボになるまで水の中で生活する。ヤゴはね、卵の頃に親であるトンボと離れ離れになるから、自分が成長したらどんな姿になるのかを知らないし、もしかしたら生まれた時には自分がいつか姿を変えるということさえも知らないかもしれないんだ」


少年は兄の顔を横目に見た。兄は、両腕で抱えた膝の間から地面を見つめている。その姿は、少年に向けて優しく語る声の主とは思えないほど弱々しく、そして小さく見えた。少年よりも5つか6つは年上の兄。背を丸めて座っているが、それを考慮してもなお小さく見えた。


「———ヤゴたちは、みんなで仲良く暮らしている。井戸の底にはヤゴよりも小さな虫もたくさん住んでいるから、食べ物のために争う必要もないんだ。だから、みんながみんな、こんな平和な日々がずっとずっと続くんだって思っているんだ。でも、ある日突然、そんな日々が終わってしまうんだ」


兄は、少年の表情から心配の色を読み取ると、少年に向かってとっさに微笑んで話を続けた。


「……ある日、一匹のヤゴがノソノソと草を登り始めた。その様子を見たほかのヤゴたちは、最初こそそこまでそのヤゴのことを気にしなかったけれど、そのヤゴが黙々と草を登り続け、草の中ほどまで登ったところで、みんな、何かがおかしいってことに気付き始めたんだ。そのヤゴは、自分がなんで草を登っているのかわからない。遥か下には、ゆらゆらと光る水面の奥に、こちらを心配そうに見つめる仲間たちが見える。それでも、そのヤゴは草を登り続ける。迷いとか、不安とか、恐怖なんかも感じない。ただ、登った先に何かがある気がして、揺れる草から振り落とされないように上り続けた」


少年には、この話を通して兄が自分に何を伝えようとしているのかが全くわからなかった。また、兄が語るその話の行く末も想像できず、何か恐ろしい展開が待ち受けているのではないかと不安になり、耳をふさぎたくなった。


燦燦と降り注ぐ太陽に向かっていくヤゴ。日光と、水面から反射する光に包まれる。彼がつい先ほどまでいた井戸の底にも、彼の目指す草の先端にも、光が満ち溢れている。そんな光景が思い浮かび、少年は、両耳をふさぎかけた両手を膝の上に戻した。


「草の先端まで登り終えたとき、そのヤゴは、自分の体に変化が起こり始めていることを感じとったんだ。お前は自分の体が何か別のものに変わってしまうなんて怖いと思うだろ? でも、そのヤゴは怖いなんて思わなかった。いや、それどころか、自分が何か新しくて素晴らしいものに生まれ変われるような気がして、嬉しさで胸がいっぱいになったんだ」


少年は、兄が先程言っていた通り、そのヤゴはトンボになるのだろうと想像していたし、兄の話は少年の想像の通りの経過を辿ることとなった。


ただ、少年は依然として兄がこの話をする意味がわからなかったし、そのトンボが井戸の底に残されたヤゴたちと二度と会えなくなってしまうという事実に胸を締め付けられた。そんな少年の想いを表情から読み取ったのか、兄は少年の髪の上にやさしく掌をあてた。


兄は、少年の髪をゆっくりと撫でながら話を続けた。

「僕も、お前と同じように、井戸の底に残されたヤゴたちは、そのトンボがいなくなってしまってひどく悲しんだとは思うよ。ずっと一緒に暮らしてきた仲間が、自分たちの知らない場所に行ってしまったんだからね」


「……でも、本当に悲しむ必要はあるのかな? そのトンボは、井戸の底から広い空に飛び立って行ったんだ。井戸の底っていう狭い世界から、風が吹いて、雨が降って、どこまでも景色が広がる新しい世界へと旅立って行ったんだ。そして、残されたヤゴたちも、いずれはそのトンボと同じように、新しい世界へと旅立っていくんだ。彼らはまだそれを知らないから、そのトンボが井戸の底を去ったことを悲しく感じて、そのトンボのことを思い出しては、もう二度と戻ることのないそのトンボとの過去の思い出に胸を締め付けられることになるんだ……」

そう語る兄の背中は一層丸くなっていた。彼の湾曲した背中は、小刻みに震えていた。


しばしの沈黙の後、兄は顔を上げるとゆっくりと立ち上がり、やや傾いた太陽の方を見上げた。少年は、兄がこの話をすることによって自分に伝えようとしたことを理解した。そして、それは兄が兄自身に言い聞かせようとしていたことだということも同時に理解していた。


太陽の逆光で暗くなった背中を見つめる少年———。


少年は何も言えなかった。立ち上がり、うつむく兄の背中を見ていると、視線の端からトンボが飛んできた。


少年は、兄のシャツの袖を引き、空高く飛んでいくトンボを指さした。


青い空に吸い込まれるように高く高く昇っていくトンボ。その先には、トンボの群れがあった。群れは、そのトンボを迎え入れると、どこか遠くへと消えていった。


トンボがいなくなった空を、並んで見上げる少年と兄。


少年は、兄の頬に涙がつたっていることに気付き、兄の手を握って家の方へと歩いて行った。


*


その夜、私はワンルームのアパートで、教授がしたその話のことをひとり思い返した。


私の母もきっと、新しく、そして私の知らない素晴らしい世界へと旅立って行ったんだろう。


時刻は22時。


少し早いが部屋を暗くしてベッドに入った。


母が亡くなって以来、常に重々しく感じていたこの体から、何かが溶け出し落ちていくような感覚を持った。


「母さん、おやすみ」


私はそうつぶやき、深い眠りへと落ちていった。

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