水の中①
「お嬢様、お目覚めください、お嬢様」
誰だ。ぼくのことをお嬢様なんていうのは。水面の上から聞こえてくるこの声は。
沈んでいく。沈んでいく。沈んでいく。
常識という名の重しをつけて、ぼくの良心が沈んでいく。
日本という名の鎖に括られて、ぼくの本心が沈んでいく。
今日もぼくは貝になる。
「不道徳」と定義されたものに目を固定し、自分が気にかけているものごとが、袖を引っ張るのを無視する。
同性愛者を擁護するあまりに、フォビアを敵視する人々の前で、にこにこと笑う。
多様性を尊ぶ保守どもに、多様性という無関心の中に在る弱者のことは黙り、そうだそうだと頷く。
この国は複雑で恐ろしい。ぼく以外の鬼畜に与えられている信仰の自由は、ぼくには有って無い。
ぼくだけには、有って無い。
欲しいと願っても、誰も信じない。
欲しいと言っても、誰も認めない。多様性の亡者達は、いつでもマイノリティを愛するが、マジョリティの中のマイノリティは愛さない。
太陽の登る気配がする。今日もぼくは、日本語の世界に目覚める。
ぼくを認めない価値観の中で、ぼくは認められるための努力をする。そうしなければ生きられないから。
ぼくを否定する価値観の中で、ぼくは肝臓を押しつぶす努力をする。そうしなければ存在してはならない。
ぼくを拒否する価値観の中で、ぼくは良心を塗り替える努力をする。そうしなければ次代を育てられない。
今日もぼくは貝になる。貝が開くのは死ぬ時だ。
どんなに砂を吐いても、その砂から逃げることは適わない。
「お嬢様、お嬢様。お風邪を召されますよ」
また声がする。水中から引き上げようとする声の糸。
ぼくの大切な人の声。ぼくを褒めてくれた人の声。
そうだ、ぼくはぼくではない。お嬢様だ。
声を荒らげて甲高く権利を主張するのではなく、文字を綴って洗脳していくお嬢様。
ぼくの耳に届いていた言葉が洗脳であるように、ぼくが覚えてきた言葉も洗脳だ。
だからぼくは、洗脳しか書けないのだ。
さあ、目覚めよう。目覚めましょう。
――わたくしの目覚めを、メイドが待っているのですわ〜!