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茜空の下であなたに会えたら  作者: 谷中英男
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 授業中、もう一歩踏み込んでみどりを心配できなかったことを悔い続けた。それなのに、休み時間に声をかけることすらできなかった。

 こんな状況を見れば誰もがぼくを臆病で卑怯な腐れ野郎だと言うだろうし、ぼくは一切否定できない。自分でもわかってはいたんだ――みどりの体調を気遣うまでなくとも、何かしらの言葉くらいかけるべきだと。それなのに、この体たらくだ。自分でも情けなくなってくるし、いっそこれがぼくなんだと受け入れたくもなる。

 だけど、こんなんで終わりたくなかった。幼馴染も助けられない惨めな自分でいることは耐えられなかった。みどりを苦しめる不協和音を少しでも取り除きたかった……。

 そう思えた時には、ホームルームは終盤で、今日の学校生活は終わりを告げかけていた。先生の話など耳に入るわけもなく、まだみどりに話しかけることだけを考えた。

 あまりにも先生の話が耳に入らなかったせいで、ホームルームが終わったことに気づかなかった。辺りが喧騒に包まれ、ぼくの前をクラスメイトが横切ったのを見て、今日が終わりを告げたと悟った。

 ぼくはすぐさまみどりの席へ視線を向けた。

 彼女はもういなかった。

 青春を貪る野獣の群れに加わり、教室から姿を消そうとしていた。

 みどりの向かう先は、ぼくの手の届くところじゃなかった。あまりにも華やかで分け入る余地がなかった。

 みどりは同じ人種に囲まれているのに、彼女の笑顔には陰りがあった。

 ぼくなら取り除けるはずの陰りだった。だけど、彼女を連れ出す勇気はぼくにはなかった。

 何もできなかったぼくは、いつも無条件に受け入れてくれる図書室へと逃げた。このまますごすごと帰るわけにはいかないからだ。帰り道や我が家にはみどりとの思い出が溢れていて、気持ちの整理をつけることなく思い出と向き合えば、自らの罪に押しつぶされてしまうのは目に見えていたんだ。

 だから図書室に逃げ込んだ。あそこなら自分の罪に苛まれることなく、平穏に過ごすことができるから――図書室を後にすれば結局は自分の罪を抗うことになるのだけれど。ひとまず、ここで気持ちを整理しようと思ったんだ。

 図書室の平穏で温和な空気に包まれただけでぼくは安心した。みどりとの思い出はここにはないからだ。藍野さんとの心休まる思い出があるだけ。罪悪感に蝕まれ疲弊した心を癒すことができる唯一の場所……。

 ぼくは藍野さんとの他愛ない会話を気休めに、自分が罪深い人間だということを少しでも忘れたかったんだ。

 束の間の休息のもとに、どうにかしてみどりとの関係を修復する策を練りたかった――。

 いつの間にかに図書室に来ていた藍野さんは、いつものようにぼくの前の席に腰掛けていた。教室では見せない暖かい表情を纏わせ、ぼくを見つめている。

 その表情を見て、朝からぼくを悩ませたみどりのことは少しの間だけでも忘れられるはずだった。藍野さんの予想外の言葉がなければ。

「みどりさんと何かあったの?」

 いつもの何気ない声音だった。平和な時間が始まりを告げるはずだった。だけど、彼女の発した言葉はぼくの期待を無残にも打ち砕いた。

 藍野さんはぼくの心の全てを見通し、ぼくのために、ぼくの望んだ言葉を紡いでくれると信じていたのに。なんの根拠もなく、彼女はぼくの平穏を壊さない別次元の人だと思っていた。

 他人の望んでいることなんて誰にもわかるはずないのに。自分勝手に期待してしまった。

「いつもあんなもんだよ」

 勝手に裏切られたぼくは、拒絶するように呟いた――そんなつもりはないのに。

 まるで不貞腐れた犬だった。恥ずかしいというより、惨めな姿だ。

 ほとほと自分が嫌になる、高校生にもなってこんな姿を晒すことになるなんて。しかも、心優しい藍野さんに八つ当たりするようなことをしてしまうなんて。彼女はただクラスメイトを心配しただけだろうに。

「そっか」

 藍野さんはぼくの態度にも――もちろんぼくの滑稽な内心も――気にすることなく春の木漏れ日のような微笑みを返してくれた。どこかで見覚えのある陰を潜めながら……。

 少し濁したけど、ようはみどりの時と同じってことだ――ぼくが過ちを犯したんだ。しかも、今回はみどりのことがあったにもかかわらず、またしてもぼくはなんの気遣いもしなかった。

 もう、認めるしかないようだ。正直、これほどまでに屈辱的なことはないし、普段だったら目を逸らして忘れ去ろうとしたと思う。だけど、ぼくの大切な幼馴染と、憧れの人を同じ日に、同じように傷つけてしまったからには認めざるをえない。

 ぼくはほんの数時間前の教訓も生かせない底なしの馬鹿だって。

 だけど、こんなぼくにでも一つだけできることがある。

 みどりにはできなかったけど、その経験を生かして、藍野さんにはできること。

 それは謝ること――。

 ここで謝ることができれば、みどりの時と同じ轍は踏まない。少なくとも、図書室での安寧を取り戻すことができる。

「藍野さん……、ごめん……」

 ぼくは心から謝った…………、なんの脈絡もなく。後から考えれば、突拍子のない行動で、完全な悪手だってことは一目瞭然だ。

 だってそうだろ?

 話の流れがおかしすぎる。せめて多少なりともぼくの非を明らかにしてからじゃないとダメだ。けれど、ぼくはそうしなかった。理由はわかるよね? 何度も説明するのは面倒だから、ここは省略させてもらうよ?

「なんで謝るの?」

 藍野さんは小首を傾げてぼくを見つめた。

 いつもの優しい眼差しだった。だけど、ぼくの思いは通じていない。彼女は「今日はもう帰るね」と言って、そそくさと図書室を後にしたから確実だ。

 ぼくはまたしても過ちを繰り返したことを悟った。

 図書室にはぼく以外誰もいなかった。ぼくが求めたはずの静寂が充満していた。今日はこの静寂が鬱陶しかった。喧騒に塗れ、頭の中で自分を糾弾する声を消してほしかった。

 静寂がこんなにも残酷だとは知らなかった。


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