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茜空の下であなたに会えたら  作者: 谷中英男
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 藍野さんとの出会いを思い出していたからか、いまいち読書に集中できないでいた。まあ、ぼくは本を開けばいつでもどこでも本の世界に没入できる人間じゃないから、しょうがないんだけど。

 いつもなら、そんな時は校庭から微かに聞こえる青春の叫びに耳を澄ませるところだけど、藍野さんが興味深そうにぼくの顔を覗きこんできたから話は別だった。


「大門君、それ面白くなかった?」


 ぼくの態度のせいで、自分が貸した本が気に入らなかったのでは、と不安そうな声色だった。気に入らないなんてことは起こるわけがないのに。今まで彼女がおすすめしてくれた本はぼくの趣味に合致していて、今読んでいる本も多分に漏れない。


「そんなことないよ。ただ、なんか集中できないだけ」


 ぼくは朱里と話す時のように誠実に真摯に正直に答えた。彼女にはそうしないといけない気がしたんだ――そうとしか言いようがない。


「そっか、ならいいんだ」


 彼女は微笑んで、ぼくの前の席に優雅に腰を下ろした。

 それから、ぼくらは読書することもなく、ぼくらしかいない図書室で他愛のない事を話して過ごした。

 話の内容が気になるかもしれないけど、こればっかりは教えられない。ぼくと藍野さんだけのお話だからね。いろいろと勘ぐって、逞しい想像力を旺盛に働かせるのは止めないけど。


 太陽が頭を垂れ、表舞台から姿を消そうとしているのに気づいて、ぼくらは図書室を後にすることにした。どちらが決めたわけではないけど、こうやって完全下校時刻が来る前に帰ることにしていた。ぼくとしてはとても嬉しいことだ――この時間に帰れば、運動部の騒がしい輩の波にのまれることがないから。

 別に彼らが嫌いなわけじゃないけどね。ただ、藍野さんとの貴重な時間を汗の匂いと熱気冷めやらぬ興奮に邪魔されたくないだけだ。彼女はそんな下衆な考えを抱いている訳はないだろうけど。彼女は人跡未踏の新雪のように清廉潔白なんだから。

 彼女には俗世の慣習に触れることなく、穢れの知らぬ(うるわ)しの乙女でいて欲しい。これがぼくの無粋な押し付けだということはわかるけど。ぼくが彼女と真の意味で触れ合うことがないからこそ、手の届かぬ象徴であってほしい。

 だってそうだろ? 自分の理想で象徴的な人には、それを押し付けてしまうのが世の常だ。アイドルはトイレに行かないなんて戯れ言と似たようなもの。

 藍野さんはぼくとは違う崇高な存在であってほしいんだ――手を触れられるかもしれないなんて幻想を抱かせられないほど遠い存在に。

 ぼくと彼女はあまりにも違い過ぎるんだ、みどりとぼくの違いなんて笑ってしまうほどに。みどりには悪いけど、クラスの人気者は深窓の佳人に太刀打ちできない。誰だってわかるはずだ。みどりには手が届きそうな庶民感がある――当然ぼくみたいな人間には無理だけど。

 藍野さんには一般の高校生には触れられない高貴な雰囲気がある。住む世界が違うってことだ。俗世の醜い生活を知るために、ぼくらと同じ学び舎に送り込まれたに過ぎないんだ――あくまでぼくの妄想だけど。


「私、今日はこっちだから」


 藍野さんはぼくとは正反対の方向を指さし、小さく手を振り去って行った。

夕陽に染まる景色の中、華奢な彼女が歩く姿はなんだか尊く思えた。できれば、この尊さが何に起因する事象なのか彼女の後ろ姿を見つめながら考えたいところだったけど、絵面がどうもいただけないから、ぼくも家に帰ることにした。


 家について、しばらくすると夕食の時間になった。

 この時間はぼくにとって、明日への活力をたくわえる貴重な時間だ。ただ単純に静かな時間を過ごせるからじゃないよ? 妹である朱里と一緒にいられるからなんだ――誰にとっても、食事という栄養補給は重要だけどね。

 朱里との食事は生命維持活動の一つとしてだけでなく、精神的な活力をたくわえる為に必要なんだ。

 いくら藍野さんとの楽しいひと時があるっていったって、学校はどうしても疲れるし、嫌にもなるからね。

 そうやって疲弊したぼくを癒すのがこの夕食の時間だ。朱里の小気味良いおしゃべりがついて来るからなおさら。いや、朱里のおしゃべりがあるから、ぼくは夕食の時間を楽しめるんだ。

 楽しい夕食の時間は朱里が主役だった。友達のことや、勉強のことを無邪気に話していた。最高の時間だったのは言うまでもない。朱里の言葉を体中で吸収し、明日の活力とした。

 夕食を終え、二人で後片付けをしてから、朱里は浴室に向かった。

 リビングは一気に静かになった。

 夕食の後にはいつも訪れる光景で、今さら何を感じることもない日常の一コマ。今さらこの状況を形容する必要もないくらいありふれている。

 それなのに、ぼくは住み慣れた我が家のリビングに一人でいるだけで、昨夜の恐怖に怯えていた。飲み込まれそうなほどの暗闇、孤独であることの恐怖、言い知れぬ不安は住み慣れた我が家では湧き起こるわけがないのに。

 いつも忘れるはずの夢がいまだに鮮明に甦ってくる――。

 朝の忙しい時間で考えることを止めたけど、やっぱりおかしい。

 何時間も経った夢のことを――起きてすぐならまだしも――今でも何の苦も無く思い出せる。いや、思い出せるなんて生半可な言葉じゃ片付けられない。写真でも撮ったみたいに細部まで鮮明だ。

ぼくを照らし、光を与える朱里がいるとわかっているのに、あの時の感覚は拭えない。このまま、ここにいればまた闇がやってきて、ぼくを孤独な世界に引きずり込むんじゃないかと思えてくる。

思えてくるだけならいいんだ。ただの思い過ごしだと言い聞かせて、無理矢理楽しいことを考えれば、気づいたころには忘れているんだから。

 でも、闇は余すことなくぼくを包んでいた。

 ぼくの心の中にあるはずの楽しい記憶はただの言葉の羅列にすぎず、意味を見いだすことができない――闇に汚され価値を失ってしまったみたいだ。

 ぼくは逃げ出したかった。でも、逃げ出せば捕食者の如く恐怖が喰らいつき、ぼくを離さないと本能が告げていた。

 ぼくにはどうしようもできないんだ……。

 逃げることも戦うこともできない……。

 昨夜の夢の中に逆戻りするのを震えて待つしかない……。


「お兄ちゃん、お風呂あがったよー」


 昨夜の夢のように恐怖はあっさりと終わった。輝かしい光が一筋の希望となって暗鬱たる闇に射し込んだ。


「どうしたの、お兄ちゃん? 変な顔して?」


 光を求めるように朱里を見つめたぼくはおかしな顔をしていたみたいだ。朱里は心配そうにぼくの横に座り、上目遣いでぼくを見つめた。慈愛に満ちた眼差し、仄かに香る石鹸の匂い、微かに感じる体温がぼくに安らぎを与え、今までの恐怖が虚構であることを教えてくれた。


「いや、なんでもないよ。ちょっとボーっとしてたんだ」


 ぼくの言葉に――もしくは安心しきった表情に――朱里は納得したみたいだった。ニッコリとぼくに笑顔を向けて、テレビに視線を移した。

 テレビはぼくが恐怖に侵食される前から映っていたようで、ニュース番組を放送していた。ぼくらが住む町から遠く離れたところで、不審者の目撃情報が多発しているというありふれた内容だった。少し物騒にも思えるけど、ぼくには関係ないただの日常の一コマ。自分に関係がなければ表層だけ繕って被害者に同情するだけの日常。


「最近、ここら辺にも不審者っていうか、知らない人がよくいるらしいんだよね」


 朱里は自分には関係ないと言いたげに呟いた。


「このニュース見てたから、あんな顔してたの? 大丈夫だよ。朱里、いろいろ気をつけてるから」


 何も言わないぼくを安心させるように、明るい声で朱里は言った。ぼくはこれ以上、朱里を心配させまいと、そして、自分を納得させるように「そうだね」と呟いた。たぶん、昨夜の夢の影響から完全に抜け出せていないだけなんだ。

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