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茜空の下であなたに会えたら  作者: 谷中英男
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 いつもは図書室でしか言葉を交わさない藍野さんと、朝から会話を交えたことでぼくは上機嫌だった。周りに誰もいなかったら躍り出していたかもしれないくらいに。

 教室に入っていつもの喧騒に包まれても、苛立ちなんて当然湧かない。心地良いBGMが響いているようにしか感じない。

 ぼくは雲の上でも歩いているかのように自分の席まで行って座った。自然と藍野さんに視線が向く――藍野さんは窓辺の自分の席で静かに読書していた。その姿は温室に咲く胡蝶蘭のように孤高で気高く、触れば壊れてしまいそうな繊細さを抱かせた。その姿を見ると、彼女こそがまさに美の権化なんだと改めて思った。

 彼女を見るたびに、感嘆のため息が自然と零れ出て、自分の幸せを噛みしめずにはいられない。静かにたたずむさま、小首を傾けるさま、物思いに耽るさま、その他すべてが美しく、いつも違った色調を見せ、ぼくの思考を支配する。ぼくに新しい美を教えてくれる。ぼくの心を豊かにしてくれる。いつでも藍野さんを見ていたくなる。

 もし、ぼくが芸術家だったら、彼女がいるだけで後世まで語り継がれる作品を造作もなく創り出せていたと思う――残念なことにそんな才能はないけど。

 そんな美そのものの藍野さんと同じクラスで、話をできるぼくは本当に幸運だ。彼女のような存在に出会うことができず、美しさとは何なのか、優しさとは何なのか、儚さとは何なのかを知らずに生きていくなど今のぼくには考えられない。ぼくは少なくとも彼女と接することでそれを感じて、自分の幸福を噛みしめることができるんだ。

 そして、いかに自分が愚かで醜いかを知る……。

 今日の失態なんて最たる例だ。不意を突かれてどもった言葉を発し、ローファーのまま教室に向かいかけるなんていう間抜けな姿を見られた。彼女には見せたくない、彼女の周りには存在してはいけない、醜く愚鈍で滑稽で無様な振舞いだった。

 なんでぼくはいつもこうなんだろう……。

 彼女の美しさに泥を塗るようなことをしてしまうなんて。ただ彼女を見つめ、彼女の美しさを遠くから享受していればいいのに。彼女の周りには不完全さなどあってはいけないんだ。完璧な彼女には、完璧な空間と完璧な振舞いが求められる。ぼくのように不完全で醜い人間は存在してはいけない。それなのに、触れて壊すなんて……。

 ぼくはそうやって自分の席で、さっきまでの上機嫌とは打って変わって自分を卑下していた――一種の懺悔と思ってもらってもいいかもしれない。

 見ようによってはくだらないことだと思うかもしれないけど、ぼくみたいに愚鈍な人間には必要なことなんだ。反省して自分を責め抜くことで、他人に迷惑をかけずに平穏に生きていける――朝から失敗したけど。


「今日は早いじゃん」


 ぼくの生き方をあざ笑うかのように、能天気で騒々しい声が響いた。

 家が隣で、幼いころから家族ぐるみの付き合いをしている(もり)みどりの登場だ。いつものごとく小さな胸を隠すように腕を組んで、小さな身体でぼくの前に立ち、肩口をくすぐる栗色の髪を弄っている。ぼくから言わせればそのポーズ自体が自分のコンプレックスを強調しているように思えるけど、それは幼馴染として言わないことにしている。


「いつもこんなもんだよ」


 幼馴染だということと、大事な時間を邪魔されたのもあって、ぼくは無愛想に言った。

 みどりはぼくの態度に気にもかけず、自分勝手に話を続けた。竜巻みたいに唐突で傍若無人なんだ。


「またそうやってブスっとしちゃって。そんなんだから彼女もできないんだよ、すぐるん」


 さっきとは違って、語尾に音符でもつけたような軽やかな声だった。表情も多分に漏れず華やかで生命力に溢れ、誰をも惹きつける輝かしい笑顔。ぼくとみどりの関係性を知らなければ、クラスメイト同士の他愛のないおしゃべりに見えたかもしれない。

 そんな微笑ましい光景じゃもちろんないんだけどね。みどりは猫を見たら追いかけずにはいられない犬みたいなもんなんだ。つまり、ぼくを見つければちょっかいをかけたくなるってこと。


「お前には関係ないし、すぐるんて呼ぶな!」


「別にいいじゃん。幼馴染なんだし」


「恥ずかしいだろ?! 高校生にもなって子供のころのあだ名で呼ばれるのは!」


 いちいち反応するぼくも悪いけど、こんな感じですぐに口論に発展してしまう。条件反射みたいなもんなんだ。やめたくてもやめられない、この気持ちがわかるかな?

 そんなぼくらのお決まりの光景を見たクラスメイトが「また痴話喧嘩が始まったよ」と騒ぎ立てた。

 この状況にみどりは楽しそうに笑っている。快活というか、ぼくとは違い過ぎる人間というか正確に表現はできないけど、いつもみどりはこうだ。ぼくは残念ながら、笑いものになる気も、話題の中心になる気もなかったから、適当にみんなをあしらって、なんとか場を収めた。

 そうなると、みどりは一人で騒ぐわけにもいかない。彼女だって馬鹿じゃないからね、ピエロになろうとはしない。いつもの如く、友達のもとへ戻っていった――不満そうな顔をして。

 こんな感じのやり取りが、ぼくのいつもの朝だ。

 見る人によっては羨ましい光景だろうね。ぼくなんかが、クラスの中心で、男子生徒の憧れのみどりとなんの隔たりもなく話しているんだから。

 ぼくとみどりの関係を知らなければ、なんで自分にはそんな幸運が訪れないんだと思うだろうし、みどりがぼくの幼馴染だって知った日には、なんて自分は不幸なんだと嘆き悲しむかもしれない。

 でも、悲しいかな、人は自分の見たいものしか見えない。みどりとぼくの関係についてもそうだ。みどりがどれだけ魅力的で、才気あふれる人間でも、それはほんの一部でしかない。彼女はぼくみたいに心を許せる人間には傲慢だし鼻持ちならない態度をとることがあるんだ。人によっては心を許している証だなんて無責任なことを言う奴がいるけど、こっちからしたら溜まったもんじゃないね――現実を知らないだけだ。幼少のころから、いつもこれじゃ嫌になる。明るく元気だということも、十年以上一緒にいたらただの騒音でしかない。彼女の声がしわがれた老犬のようだとかいうわけじゃないけどね。ただ、どれだけ完璧に調和のとれた美しい旋律だって、静かに時を感じたい時には邪魔に感じるってこと。

 そんな感情を抱く人間に対して、いくら魅力的だからって、愛想笑いを浮かべて自分を殺すことなんてぼくはできない――たぶん、誰もができないはずだ。それが気心の知れた幼馴染ならなおさらだ。それが幼馴染ってやつなんだ。

 それだから、今さら関係が壊れることも考えないし、相手のこともよくわかっているから、みどりに無愛想な口を利くことが多いし、彼女もそうだ。時たま、みどりの無遠慮な行いが過ぎるように感じることもあるけど。

 だから、ぼくを馬鹿と思うのはやめて欲しい。ぼくがぶっきらぼうにするのは今まで述べた理由があって、何よりぼくは目立ちたくないんだ。ぼくは内気で恥ずかしがり屋で、臆病で卑怯なんだ。

 その点、みどりは正反対だ。彼女は勝ち気で積極的で、勇敢で公正だ。たとえるならば、彼女は輝く太陽で、ぼくはほとんど見えない新月。嫌でも存在を実感させられる存在と、知らなければ気づくことさえできない存在。ぼくはそこにあるのに、気づかれない。あってもなくても変わらなくて、ないのが普通の存在なんだ。

 どう見たって悲しい存在だろ? でも、ぼくはそれで満足している。騒がしいのは好きじゃないからね。だから、みどりとの一時はどうでもいいと投げすてればいいんだ。投げすてて、彼女の偉大さを知るんだ。

 だって、みどりと口論しただけでも、ぼくは何をどうしても元気になってしまうんだ。――周りにからかわれても、後悔を嘆いていても、落ち込んでいても。いつの間にかどうでも良くなって、みどりの太陽のような明るさの前に暗い気持ちは霧消してしまう。

 みどりはぼくにとって――さっきから言ってるように――太陽のようになくてはならない存在なんだ。認めるのは癪だけど、彼女の存在があるから、なんとか嫌いな学校にも来ることができているのは確かだ――朱里のためという理由も大きいけどね。

 そんな大切な存在ならば、みどりに対して恋愛感情の一つも湧き上がらないのかと疑問に思うかもしれない。先に述べたぼくとみどりの関係性を知ったとしてもだ。

 思春期という人生において一番に輝かしくみずみずしい時期ならば、心に秘めていると勘繰るだろう。

 まぁ、別に真っ向から否定するつもりはない。いくら小言を並べ立てたって、みどりは魅力的で大切な存在なことには変わりないんだから。

 でも、だからこそ、ぼくはみどりに相応しくないと確信できる。ぼくは彼女を近くで見てきたからだ。ぼくは彼女をあまりにも知りすぎ、彼女を知らない。彼女にしてもそうだ。彼女はぼくを知りすぎていて、ぼくを知らない。

 今まで積み重ねられてきた経験をもとにお互いを見ているだけ。それは町の展望台から景色を見下ろして、町の全てを知った気になるのと同じ――個々の生活や歴史を知りもせずに。

 ぼくらはお互いを幼い頃から知っているから、全てを知った気になっているんだ――過去の記憶と自分の想像を元手に足りない所を補完しながら。自分の都合のいい様に解釈して、理想を押し付けてしまう。特に彼女はその傾向が強い。いつまでも変わらぬ関係で、いつままでも一緒にいると思っているようだ。ぼくらの歩む道はもう別々になっているのに。

 彼女の道は舗装されすべての障害が取り払われ選択肢が無数にある。ぼくの道は凸凹で数々の障害が待ち受け、限られた険しい道しか選べない。ぼくはそれを理解して、彼女は理解しない。同じ道を進んでいると思い、自分のペースにぼくを合わせようと強要する。

 ぼくだって彼女と一緒に歩みたいと思った――はるか昔に。どこまででも行けると思った。でも、違う。ぼくには彼女へと通じる道がないから。もちろん、彼女にもない――容易く進める完璧な道があるだけ。

 彼女にぼくへと進む道を探させる努力すらさせてはいけないし、ぼくがそれをしてもいけない。彼女の完璧な未来を邪魔してはいけない……。


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