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安息の地とは程遠くなった我が家に足を踏み入れると、それ以降のことはきれいさっぱり消え去っていた――次の日の朝、目を覚ますまで。自分の存在が消滅していたんじゃないかと思うほど深く眠っていたんだ。その分、疲れなんて微塵も残らないほどに快適な睡眠だったけど。
古いぼくだったら、狐につままれたような現象をすぐさま朱里に話しているはずだった――興味がないような反応をされても。だけど、朱里はぼくの味方じゃない。血がつながっているだけの他人になってしまったんだ。
沈黙の食卓に気まずさを覚えていると、朱里は何も言わず家を出て行こうとしていた。反抗期だとか思いたいところだけど、そんなわけもない。ぼくの煮え切らない態度に怒っているんだ。ぼく自身は何が煮え切っていないのか理解できないけど。朱里を怒らせるようなことなんてしていない。
だからって、意気地になってぼくも朱里に付き合うなんてできない。ぼくは年齢や経験――特に河川敷での出来事――から見ても明らかに大人なんだから。少しでも譲歩して、年上の余裕を見せないと。
「行ってらっしゃい」
大人ぶった声音は玄関に虚しく響き渡っただけ。
朱里の姿も返答も、どこにもない。
見慣れた玄関があるだけ。
変わり果てた兄妹関係に一人感慨にふける時間はなかった。こんな状況でも学校に行かなければ行けないんだ。気分が落ち込んでいるからって学校を休んでも、気持ちが上向くわけはないと昨日の愚行で充分承知しているからね。さっさと閉塞された醜い社会からのらりくらりと抜け出して、自由な社会に立派な大人として漕ぎ出すのが吉だ。茜さんと対等な関係になるためにも。
これからのぼくは茜さんのことだけを中心に生きていくつもりだ。彼女だけがぼくをわかってくれるから。彼女のために生きたいと思えるから。今はちっぽけな高校生だけど、いつかは彼女の隣に相応しい人間になりたい。
新しい目標を胸に家を抜け出すと、いつものように茜さんがいた。
「おはようございます」
初めて自分から挨拶した気がする。
彼女はぼくの存在を確かめるように微笑み、少女のように頬を朱に染めた。
「おはよう」
昨日、ぼくの頬に押し付けられた唇が情熱的に踊った。
頬に昨夜の感覚を思い出し、顔が熱くなるのを感じた。
お互いに見つめ合い、何も言えなかった。
疑う必要なんて微塵もなかったけど、昨日の出来事は紛れもなく二人の間に起こったことなんだと確信した。そうじゃなかったら、ご近所さん同士が挨拶を交わしただけで、お互いに林檎みたいに頬を赤く染めるわけがない。
ぼくらは見つめ合うだけでお互いの気持ちを共有し、口には出さなかったけどこれから訪れる二人一緒の幸せな世界を確認し合ったんだ。
つまり、今までぼくが踏み出してきたどんな一歩よりも確実な一歩を刻んだことになる――しかも後戻りはできない、する気もないけどね。
何をするでもなく見つめ合ったまま、二人で果てしなく長い数分間を楽しんだ。夢の中のように非現実的で自由な時間だった。
お互い瞬きするたびに、これからの人生を垣間見、二人に訪れる幸福な人生を確認した。
言うならば、ぼくらの未来は朝日のように輝かしいものなんだ。
輝かしい未来を確信できているぼくらは誰よりも幸せなんだ。
こんな幸せが誰に訪れるだろう。
雲みたいに不定形な未来に不安を抱き続ける世界で――。
最終的に幸せが待ち受けているからと言って、苦難が一切ないわけじゃない。運命の人と片時も別れたくないわけだけど、ぼくには学校があるし、茜さんにだってやるべきことがある――現状は行政的な意味において、ただの他人でしかないんだから。
いつまでも青春じみたお遊戯をしているわけにもいかない。ゴシップに飢えたご近所さんがいつ訪れるのかもわからないし。
だから、ぼくらはどちらかともなく未来を垣間見るのをやめた。
茜さんは優しく「行ってらっしゃい」とぼくを送り出した。
ぼくは彼女の目をしっかり見つめて「行ってきます」と言った。
誰もこの光景を目撃していなかったはずだけど、もし誰かが見ていたとしたら、新婚夫婦を見守るような気持ちになっていたはずだ。