33
素敵な世界から目覚めると、そこには空虚で怠惰な日常しかなかった。
唯一の居場所であった我が家には冷たい空気が停滞し、ぼくを凍えさせようとしている。山で遭難して低体温症で死んでいく人はこんな気持ちなのかもしれない。希望もなく、絶望がかまいたち見たく知らぬ間に痛めつける。
どうすることもできないように感じた。風の前の塵と同じく、運命に翻弄されるしかない。
この寂れた現状をどうこうしようとも思わない。
ただ自分の好きなものだけに囲まれて、ゆるゆると終わりが来るのを待っていればそれでよかった――。
ぼくは初めて学校をずる休みした。
朱里はぼくに何も言わなかった。少し悲しそうな顔をしただけで、いつものように学校へ向かった。
朱里が家からいなくなると、我が家から明かりが消えた。外にはまぶしいほどの朝日が降り注ぎ、新たな一日を祝福しているというのに。
我が家は重く陰鬱だった。
瘴気が満ち満ち、ぼくを蝕んでいた。
これじゃ学校を休んだ意味がない。敵意がチクチクと突き刺さるあの空間から逃げ出したかったのに。
敵意に耐えて半日過ごす方がよかったかもしれない。
妹から見捨てられ、孤独に耐える方がよっぽど辛い。まるで、豚の丸焼きになった気分だ。できることなら今すぐにでもこの場から逃げ去りたい。
だけど、学校をズル休みした代償として、朝一から我が家を抜け出し、外を彷徨うわけにもいかない。補導されるのは目に見えているんだから。
ぼくは一人、孤独な居城に身を横たえ、絶望に耐えた……。いや、耐えたなんて言葉では言いつくせない。全身から血液を垂れ流し、いつ死が訪れるのかを待つのみだった――目に映るすべてが真っ黒で、絶望を纏わせた中。
どうすることもできなかった。
どうすればいいのかわからなかった。
いまこのままベッドに横たわり、命が奇跡的に吹き消えればと思わずにいられなかった。そうすれば、苦しみも絶望も、ただの夢かのように忘れ去り、忌々しい人生から離脱できるんだから。
そんなことは上手くいくわけはないんだけれど。
ぼくは何時間も自らの受けた呪いを胸に抱き、痛みに耐えるしかない。軽はずみな望みのせいで苦しむしかない。
我が家は絶望が充満している。
夢の中で体験した孤独と悲しみに満ちた絶望よりも、もっと暗く悲しく、全てが無に帰すような絶望……。
ぼくが目を覚まし学校を休むと言った時に、朱里に何か言って欲しかったと思わずにはいられない。朱里がどんな些細な言葉であっても掛けてくれていたら、泥に塗れた惨澹たるぼくにはなっていなかったはずなんだから。
ぼくにとって最愛にして唯一無二の存在からの、水滴みたいに些細な言葉が欲しかったんだ。
でも、ぼくはそれを求められなかった。
求めることさえしなかった。
妹がぼくの感情を犬みたいに嗅ぎ取り、大なり小なり、自分の意見を言ってくれると思っていたのに。
だけど、彼女は黙ったままぼくを置き去りにした。まるであざ笑うかのように捨て置いた。
こんな状況でぼくに何ができるんだろう。
唯一心から信じた人に裏切られ、捨て置かれて、ぼくはどうすればいいんだろう――。
答えの出ぬまま、ぼくを排除せんとする世界は騒がしくなった。
近所の学び舎から小学生が解放されたんだろう。
本当に羨ましくなる光景だ。ぼくには享受できない幻の世界だ。ぼくはいつだって孤独に身を染めているんだからね。輝かしく懐かしい頃のように、無邪気に欲望のまま生活するなんてできない。
二度と手に入らない過去に入り浸ると、昨日みたいに見知らぬ場所を彷徨い歩いていた。
昨日とまるっきり一緒だった。
ぼくを知らない誰かを探し求め、その誰かとなぜか視線が交わり、お互いに微笑み、二言、三言、言葉を交わしたいと思った。
そうすれば、ぼくの心を蝕む悪い虫を駆除できると思ったんだ。
そんな簡単な話ではないんだけれど。
だって、まだ夕方にもなっていないっていうのに、清々しい秋空の下には人っ子一人いやしない。
遠くから微かに聞こえる車の音だけが、この世界にいるのはぼくだけじゃないと教えてくれている始末。
最悪だ……。
また昨日みたいに無駄な時間を過ごすだけなのは目に見えている。自分の力ではどうすることもできず、大波の中に舞い落ちた落ち葉になってしまう。
いま直ぐ帰りたい……。
だけど、まだ時間はある。太陽は依然として燦燦と輝いているし、直感が引き返すべきじゃないと叫んでいたんだ。だからぼくは進むしかない。自分自身の考えを信じ続けるしかない。
信頼できるのはもはや自分しかいないんだ。
ぼくを疎む人たちの言葉なんて聞いても意味がない。
どこかにぼくに対する敵対心が潜み、ぼくを陥れる結果が待ち受けているのは目に見えているんだ。
自分が理解できない相手を排除し、多数派を守ろうとするのが人間なんだから、少数派であるぼくは当然、そういった仕打ちを受ける。
過剰なまでの防衛反応を抱えた多数派から逃げるしかないんだ――。
足が棒になるまで歩き続けて、狭かった空が急に開けた。
どこか見覚えがある景色だった。
なんの変哲もないどこにでもある河川敷。背の低い草が川沿いに絨毯を敷き、誰もいない公園や野球場、ランニングコースを囲っていた。
夢の中で見た光景に似ていた。
ぼくはあの夢にこのまま潜り込めるかのように感じ、敷き詰められた緑の絨毯に自然と足を踏み出した。
夢の中と同じだった。
どこか湿っぽい草を踏みしめる音と、優しく流れる水の音だけが聞こえる。
夢の中のように、あたかも自分だけがこの世界に存在しているかのようだ。
目の前に広がる景色にぼくの心は自然と癒された。夢の中ように感じたからなのか、静かに流れる水面に心が洗われたのかはわからない。だけど、ぼくにとって、ここはオアシスのようだった。
優しくそよぐ甘い風がぼくを河川敷に座らせた。
優雅に流れる川は風に吹かれて水面をせわしなく変化させながらも、沈みつつある太陽を律儀に映していた。
これから何が起こるのか、ぼくにはお見通しだった。
ついにぼくのことを知らない人と出会い、二、三言葉を交わして優しく微笑み合うんだ。
そうじゃないなら、ぼくがここまで来て、夢の中のような風景に出会えるわけがない。
あの夢を見るようになってからの日々を思い返せばよくわかる。夢はぼくに影響を与え、考えもしなかった未来をぼくに与えた。
夢はぼくにとっての啓示であり、来るべき未来だったんだ。
だから、ここ最近の夢の内容、ぼくの心情の変化を鑑みて、今日、この時、この場所で、ぼくの望んでいたことがついに実現すると確信したんだ。
夢が実現することに興奮しているのは言うまでもない。でも、それよりも、夢が実現してしまった先に、生きる意味が残されているのかが不安だ。燃え尽きて灰になってしまうんじゃないか心配だ――これと言って目標を持っていないぼくだからこそ。
優しく草を踏みしめる音がする。
ぼくの望みがついに叶う時が来た。
不安なんて消え去った。
これから訪れるであろう幸せにしか気が向かない。
どこかで嗅いだことのある匂いがした。
いつか誰かと会った時の雰囲気が辺りに漂った――甘く芳しく、心を包み込む匂いだ。
ぼくは幸せを感じた。幸せの絶頂だと言っていいかもしれない。はるか遠くまで飛び出し、自らを永遠の快楽に解き放ったかのような感覚だ。
これからどうなるかわからない未来など切り捨てて、目の前の快楽だけを貪りつくしたい……。
だけど、そうもいかない。未来は確実に近づいている。足音は徐々に近づき、吐息まで聞こえるほどだ。
ぼくの未来がここで決まろうとしていた。
幸福を全身に享受するか、絶望を胸に抱き息絶えるか……。
「こんなところで珍しいね。どうしたの、すぐるくん?」
どうやらぼくに訪れたのは幸福だったようだ――それも心から望む最高の幸福。
ここ数日の間にぼくの心を虜にしてしまった彼女が目の前にいた。
誰か知らない人と出会えればと思っていたけど、これでよかったんだ。
心のどこかで彼女に出会えればと思っていたんだ。
毎日のように朝、彼女と挨拶を交わすことがぼくにとって最高の幸せだった。
今ならわかる。お姉さんとこうやって出会えた今、幸せしか感じられない。
河川敷に来るに至った複雑な感情はもうない。
ぼくの心はただ晴れ渡り、幸福と言う名の海に満たされていた。
「ちょっと、一人になりたくて」
「それだったら、お邪魔だったかな?」
お姉さんは大人らしく、ぼくの言葉をすぐに察して、ぼくの前から去ろうとした。
「待ってください。そんなつもりで言ったわけじゃないんです」
彼女は足を止めた。
分厚い唇を煽情的に釣り上げ、優しく微笑んだ。
「最近色々あって……」
「私でいいなら話を聞くよ」
今まで見たことのない真面目な顔で、ぼくの言葉に彼女は答えてくれた。
お姉さんがぼくの隣にそっと腰かけた。純白のワンピースが汚れてしまうかもしれないのに。お姉さんにとってはぼくの話なんてちっぽけなことなのかもしれないのに。
ぼくは話さずにはいられなかった――。
みどりとの関係のこじれ。
さくらの愛ゆえの暴走。
最愛の妹との不和。
そして、ぼく自身の弱さについて……。
彼女はぼくの話が終わるまで、一切遮ることなく黙って聞いていてくれた。
正直、彼女に話しているだけで、自分の抱えている悩みなどどうでもよくなってきた。
ただ彼女とこの空間に二人でいれることができればそれでいいと思えた。
おそらく、これが運命というんだろう――理屈じゃなく、直感でただただ、その人と一緒にいたいと思えることが。
ぼくは今そう感じている。
ただの近所のお姉さんであった名も知らぬ彼女と、ぼくはいつまでも一緒にいたいと思う。
「大変だったね」
彼女はそう呟いた。
たったそれだけの短い言葉だ。誰だって言えるし、ありふれた言葉だ。ぼくの人間関係が崩れ始めた時と何ら変わりないはずだ。
だけど、ぼくはその言葉を聞いただけで涙がこぼれた。
彼女の優しさが心に染み渡り、憧れの女性であるお姉さんこそが唯一の味方に思えた――。
いや、疑いようもなく唯一の味方なんだ。
幼馴染や妹、友達でさえぼくを非難してきた――表情や態度に思いを込めて。
お姉さんにはそんな態度は微塵も感じられない。ぼくに対していつでも誠実で、ぼくのことを思ってくれている。
ぼくにはそれがわかる。
毎朝彼女と顔を合わせ、些細な言葉を交わしてきたから……。
ぼくの涙を見た彼女は、何も言わずに優しく抱きしめてくれた。家族や友人が醸し出す優しさとは違った雰囲気を滲み出しながら。それが所謂、無上の愛ってやつかもしれないし、心がつながった時の感触かもしれない。
ぼくにはそんなことを判別することはできないけど、お姉さんは今までの誰とも違う存在だと言いたいんだ。
「しょうがないよ。だれだって、他人のことなんてわからない。自分の想像で相手を形作って、自分の想像を押し付けてしまうの。みんな身勝手で視野が狭いの。
誰もが成長していくうちにそれを知っていくけど、すぐるくんはあまりにも急激に知り過ぎちゃったの。不安を抱えるのは無理もないし、何も悪くない。
悪いのはそれを教えない大人たちと、自分の考えだけを押し付ける友人たち。君は何も悪くないんだよ」
彼女はぼくを強く抱きしめた――彼女の暖かさと、優しい香りがより一層ぼくを包み込んだ。
「君が信じられることだけを信じて。君が受け入れられないものは捨てて。信じられるものは君にとって必要なものだから。受け入れられないものは君を傷つけるだけだから」
ぼくは本能に突き動かされる蜜蜂だった。甘く芳しい彼女の言葉に心を奪われ、貪るように彼女を求めた。
彼女はそんなぼくでも優しく受け止めてくれた。
赤子のように泣きじゃくりながら縋りつくぼくを受け止め、優しく包み込んでくれた。
ちっぽけな自尊心などお構いなしにぼくは泣き続けた――。
世界を支配していた茜色はいつの間にかに冷たい暗闇に取って代わられていた。
誰もいなかった河川敷も、家路を急ぐ人々や、明日を夢見るランナーに埋め尽くされていた。
ぼくから流れていた涙もいつの間にかに涸れはてていた。
現実に帰ったぼくは改めて自分の状況を認識し、赤面した。
傍から見れば、どう見たって恋人同士がじゃれついているようにしか見えない。――もちろん、ぼくらには邪な思いなんてなく、互いの温もりを確かめ合うためだけに抱きしめ合っていたんだ。
今ここにある幸福が、二人が別れた時になくなってしまうんじゃないかと不安だったんだ。
ぼくらにとってこの状況は奇跡だから。
名前も知らない近所の顔見知りと心を通わせ、抱きしめ合うなんて考えられないだろ? こんなことは奇跡以外の何物でもない。
「もうそろそろ帰ろうか」
ぼくの目をひたと見据えてお姉さんは言った。彼女にぼくのような青臭い羞恥はない。高校生と言う立場であるぼくのことを考えた、世間体とぼくのことを考えた一言だった。
やっぱり、彼女はぼくのことだけを考えてくれている。
ぼくは彼女の提案に言葉もなく頷き、彼女の温もりから離れた。
孤独がわずかな隙間を縫って、ぼくの心を埋め尽くすかと思えた。
彼女の温もりで埋まっていた暖かい部分は、再び彼女に会うという希望とも願いともつかない情熱に変わり満たされた。
ぼくの考えは杞憂に過ぎなかった。