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「お兄ちゃん、起きてー。朝だよー」
妹の朱里がいつもの如く、ぼくを起こすために声をかけてくれた。
それなのに、少し寝不足なぼくはまだベッドから出る気になれなかった。このままうとうとと二度寝を楽しみたいところだった。二度寝ほど魅力的な行為はないのだから。
ぼくは二度寝をするために、本来起きる時間よりも三十分ほど前から五分おきに目覚ましをかけることがある――今日は目覚まし自体かけていなかったけど。五分おきに鳴る目覚ましをよそに「まだ時間があるから大丈夫」と悠長に惰眠を貪り、贅沢に時間を浪費する。これはそのまま夢の世界へと誘われることが多々あるから、休みの日にしかしないと決めている特別なことだけど、今日はその魅力に抗えそうもなかった。重力に従うように瞼を閉じ、川の流れに身を任せるよう夢の世界に旅立とうとしていた――。
「お兄ちゃん、起きないの? ご飯冷めちゃうでしょ」
そうは問屋が卸さず、朱里の元気な声で、ぼくの意識は起床へと瞬時に切り替わった。
朱里を怒らせたらまずいからね。もし怒らせるようなことがあれば、ただじゃすまない。ご飯が缶詰だけだったりとか、朝起こしてくれなかったりだとか、ぼくにとって恐ろしいことが起きる。一見、ぐずぐずしている兄に呆れながらも、優しく声をかけ、気にしていないように感じるけどね。
朱里は露骨に表情に表さないんだ。明るく最高の笑顔を見せつけながら、行動で怒っていると表現していてくる。
まあ、そんな可愛い妹のいつもと違う姿を見ているのは兄冥利に尽きるというか、それはそれでいいんじゃないかとも思えるんだけどね。だからって妹を怒らせていいわけじゃないし、兄としての評価が落ちるだけだから、仕方なく「いま行くから」と返事をして、ぼくを優しく包み込んでくれる安息の地を抜け出した。
気怠い身体を引きずってリビングに入ると、朱里はもう朝食をすませていた。
「お兄ちゃんが遅いから先に食べちゃったから」
そういう朱里は今日も可愛らしく愛すべき妹だった。少し頬を膨らませ、眉間に可愛らしい皺を寄せているだけで絵になる。もちろん満面の笑みを浮かべた時は満開のひまわりのように周りを明るくするし、微笑んだだけでも桜のように清純で儚い印象を抱かせる。考え事をしている時や、寝ている時だってそうだ。
どんな時でも朱里は――贔屓目に見ても――完璧に可愛らしい女の子だ。もし兄妹じゃなかったら、ぼくも朱里の虜になっていたかもしれない。まあ、ぼくにとっては妹以外の何者でもないから、そんな面倒なことになんてもちろんならない――断言しておこう。
「ごめん、ごめん」もう制服に着替えている朱里に言った。
「今日は早いんだな。なんかあるの?」
「朱里、今日は日直だから早く行かないといけないの。だから、洗い物お願いね」
朱里は手早く自分の使った食器を片付けて、バッグを掴んで玄関に向かった。
「かしこまりました。お嬢様」
少しおどけながら、最愛の我が妹が玄関から出るのを見守った。朱里は鈴を鳴らしたような心地よい声で笑い「戸締りお願いね、行ってきます」と言って出て行った。
朱里が家を出て一人になると、消えたと思っていた夢の記憶が甦ってきた。断片的で雲のように曖昧な形ではなく、はっきりと目の前に鮮明に。
これはぼくにとって初めての経験だった。今までぼくが体験した夢は、強烈な出来事だったのに起きたら忘れているか、起きた時には覚えているのに時間が経つにつれて薄れていくものだった。それなのに、今日の夢ははっきり覚えているどころか、甦ってきた。ぜひともこの問題について一人静かに考えたいところだけど、悠長に過ごす時間はなかった。
学校に行かないといけないからだ。ぼくはさっさと朝食と洗い物をすませ、制服に着替えた。
玄関の扉を開けると、清々しい青空が広がっていて、ぼくは輝かしい一日の始まりを期待して楽しい学校への一歩を踏み出した…………。
なんてことはなく、鈍色した不機嫌そうな空と、鬱陶しい木枯らしが待ち受けているだけだった。「おはよう」といつものように微笑む近所のお姉さんを除けばね。あのお姉さんはいつからか心地良い挨拶をしてくれるようになって、まるでぼくの登校を祝ってくれているようだ。名前も何も知らないけど、優しい笑顔を向けられると少しは元気が出る。
学校に行きたくないといういつもの強固な考えは消えないけど。夢のことに現を抜かすよりも深刻な問題なんだ。
だってそうだろ? 学校で学んだことが一体何の役に立つんだ。数学や古文なんて最たる例だ。社会に出て役に立つわけがない。オイラーの公式を知っているとコミュニケーションを円滑に進められるだとか、ラ行変格活用を知っていたおかげで誰かの命を救いましたなんてことは聞いたことないだろ? ということは社会では役に立つものじゃないってことだ。知らなくても生きていけるし、学びたい人だけ学べばいい。
ぼくはもちろん学びたくない。
だから学校に行きたくない。
学校自体もナンセンスだ。だって、学校に行って知りえることなんて、社会の理不尽さぐらいなもんだからね。青春時代の貴重な時間を犠牲にしてまで知る必要は一切ない。小学校、中学校とそれについて充分体験してきたわけだしね。わざわざプラスして三年も通う必要はない。
それに加えて、たいして仲の良くない人間と狭い空間に閉じ込められているのも嫌だし、命令しかしない大人にぐちゃぐちゃ言われたくもない――ぼくは自由に生きたいんだ、誰にも邪魔されずに。
結局のところ、ぼくが言いたいのはあんなところに行って不愉快な思いをするのは時間の無駄だってこと。家で本でも読んでる方がよっぽど有意義だ。
小説でも専門書でも、新書でもぼくの好きな世界が広がっているし、ぼくの嫌いなものが出てくればそこで読むのを止めればいいんだから。
そして、嫌いな記憶には蓋して捨て去って、違う世界に肩までどっぷり浸ればいい。完璧で美しい世界がそこには待っているのだから――。
そんなことを言っても、ぼくの考えが間違っているのは明白なんだけど……。
勉強すればするほど将来の選択肢が広がるわけだし、いろんな人と付き合わなければいけない学校というのは社会に出るための練習なんだから。
一人で本ばかり読んでいるのも良くないってこともよくわかる。生きていくには誰かとコミュニケーションを取らないといけないから。
そんなことはわかっているんだ。でも、考えずにはいられない。考えて、考えて、どうにかして学校に行かない理由を考えだしたい――嫌いなことに挑むってことはそういうことだと思う。
まあ、やろうと思えば学校に行かないなんて造作もないんだけどね――両親はほとんど家にいないから。
それなのに、なんでこうやって嫌々ながらも学校に行っているのかと言うと、朱里がいるからだ。ぼくが学校に行かなかったら、朱里は持ち前の母性と家族愛を発揮して学校に行かない理由を問いただし続けるんだ。ぼくがクラスに馴染めていないんじゃないかとかいろいろ心配してね。
そんなふうに妹に心配かけるわけにはいかないし、情けない姿を見せるのは兄としても本望じゃないから学校に行かざるを得ないんだ。情けなく見えるかもしれないけど、しょうがない。妹に心配をかけるわけにはいかないからね。
だから、ぼくは学校に行く。自分が望むと望まざるとに関わらずに。妹の心配する顔なんて見たくないからね。
そんなことを考えていると、気づけばもう学校についていた。騒がしい生徒がぼくの周りを囲んでいる。おめでたいことに学校に希望を抱いて通っているんだろう。ぼくには学校なんて肥溜めにしか思えないのに。
未来に希望を抱けるなんて、羨ましい限りだ。どうせ、ぼくらを待っているのなんて、ありきたりで空虚な未来なのに。
あんなにはしゃいで騒ぎ立てるなんてみっともない。もっと整然として、来るべき未来に備えるべきなんだ。自分がいかに凡庸か認識するべきなんだ。
だってそうだろ? 人類の九割九分九厘が何の面白みのない、退屈な人生を送るんだ。もちろん、ぼくだって例外じゃない。卑しくも惰眠を貪り、怠惰に生きている。それが人間の人生というやつで、誰もが受け入れなければいけない理だ。遅かれ早かれ、自分が有象無象の一部だと認めざるを得ないんだ……。
そうやって、人生にやさぐれていると、ぼくの心に一筋の光が射し込んだ。
「大門君、おはよう」
それは甘美にぼくの脳内に染み込む極上の音色だった――ぼくの心を癒す耽美な囁き。ぼくはこの囁きをいつまでも聞いていたかった。実際、無意識に自分の幸運に浸り、幸せ溢れる大海原を漂いかけていた。このまま大海原を漂い、滾る幸運を胸いっぱいに抱きしめそうだった。
そんなことは許されるわけもないけど。ぼくに向けられた挨拶に返答しなければいけないんだ。それが社会で当たり障りなく生きていくための常識だ。声の主がぼくにとって特別な人でもあるんだから。黙って恍惚の表情を浮かべるわけにもいかない。
「お、おはよう、藍野さん」
すぐに意識を切り替えて挨拶したけど、遅かったみたいだった。
耽美な囁きの主である藍野さんはぼくが上の空だったのに気づいたみたいだった。「考え事の邪魔しちゃったかな」と言ってはにかみながら小首を傾げたから間違いない。白く透き通るような小さな顔には、黒く長い髪が艶めかしく桜が枝垂るようにかかっていた……。
ぼくは藍野さんのその仕草が好きだった。彼女のお淑やかで控えめな、これぞ大和撫子という雰囲気を存分に発揮する仕草だから。朱里とは違う、春の木漏れ日のような暖かさだ。大人の余裕といっていいのかもしれない――同い年なんだけどね。
その暖かさに引かれるように、ぼくは藍野さんの方にたらたらとついて行こうとした。
「大門君、靴は履き替えないとダメだよ」
彼女にそういわれて、ローファーのまま校内に踏み出したことに気づいた。
慌てて靴を履き替えるぼくを見て藍野さんは控えめに、そして上品に笑って教室へ向かって行った。