29
緑が芽吹き、春が訪れたかのように世界が色づきだした。
小鳥が歌い、風が優雅に頬を撫でた。
学校へ向かうぼくの足取りは自然と軽くなる。自分がどこに向かっているのか忘れそうだ。
思えば、ぼくの気分なんてものは、自分が思っている以上にジェットコースターみたいに激しく移ろう。学校に行くことが嫌で仕方ないかと思えば、大した理由も見つかってないのに、学校に行くことをなんの違和感もなく受け入れている。しかも、たかだか数分単位の短い期間であってもだ。
人それぞれ異なった気分があるんだろうけど、ぼくのは人一倍個性的かもしれない。ぼくと同じような人に会ったことはないし、話を聞いたこともないからね。
やっぱりぼくは特別なんだろう。
最高の朝をより一層彩る声が聞こえた――特別な人間じゃなきゃありえないタイミングだ。
「おはよう、大門君」
耳慣れた甘く芳しい声だった。特別なぼくにはふさわしい音色だった。
だけど、その音色は確実に色褪せつつあった。
藍野さんの喉がかれているとか言う理由なんかじゃもちろんない。彼女の声は相変わらず優美だ。初めて心奪われた時よりも魅力的になっているかもしれない。
それなのに、ぼくはもう彼女の声に心揺さぶられない。これからも起こりえないと断言できる。
「また新しい夢みた? 最近、大門君の夢のことが気になっちゃって」
藍野さんにしては子供っぽい微笑みだった。
いや、年相応というのが正しいかもしれない。無邪気で純粋な暖かい笑顔だ。おそらく、彼女はぼくを心から信用し、ぼくにすべてを見せようとしているんだ。だから、クラスメイトには見せない無防備な姿を晒している。
ぼくはそんな姿を見たくなかった。ぼくにとって特別な存在でいて欲しかった。
「見たよ。いつもとは全然違った。暗闇だった世界に光が満ちて、朝が来たんだ。そして、自分が河川敷にいることがわかって、孤独から抜け出せた」
話はしたけど、正直、夢の中でのお姉さんとの邂逅はぼくの中だけに留めておきたかった。話してしまえば、心の中から消え去ってしまうような気がしたから。だけど、散々相談してきた手前、今更教えないなんてことはできない。こうやって仁義を通すのがぼくのいいところだけど、失敗することもあるから、今回は何も起こらないことを祈るのみだ。
「それって、誰かに会えたってこと?」
続きを話す前に藍野さんから核心に踏み込んできた。彼女らしく小首を傾げて――やっぱり一番美しく見える彼女の仕草だ。ぼくはその仕草に見惚れないわけにはいかず「うん」とだけなんとか答えた。
「それって、女の人だったり……?」
彼女の魅力は途切れることなくぼくを魅了し続けたけど、彼女の歯切れの悪い言葉が引っかかった。
魔法が解けたみたいだった。
なんで性別を聞くんだ?
藍野さんはぼくの夢について何か知っている?
「そうだけど、なんでわかったの?」
少し語気が強くなっていた。表情も険しくなっていたと思う。
また過ちを犯したんじゃないかと思った。そう思う時は何時も時すでに遅しなんだ――。
恐る恐る藍野さんに視線を向けると、幸運なことに彼女はそもそもぼくを見ていなかった――つまり、ぼくの変化に気づいていない。彼女は住宅街に侵食された不格好な青空を見つめていた。
「そうだったらいいなって」
心の声が漏れたような、そんな感じだった。
ぼくは何も言えなかった。
何て言えばいいかわからなかった。
ただ彼女を見つめるだけだった。
見つめていれば答えが出てくるとでも思ったのかもしれないけど、ぼくが求めたものは出てこなかった。
黙って自分を見つめるぼくに彼女は気づき、顔を真っ赤にして捲し立てた。
「夢に女の人が出てくるといいことあるって聞いたことあったような気がしたから。最近、落ち込んでることも多いし、少しでもいい方向に行けばなって」
何かをごまかすように早口だった。
無様で人間味に溢れていた。
こんな彼女は初めてだった。
彼女を見る目が変わっていく。
うまく表現できないけど、同じところに立てた気がする。
「なんかごめんね」
照れくさそうに彼女は笑った。
なぜ彼女が謝ったのか、なんて返答すればいいのか、ぼくにはわからなかった。
だから「ありがとう」とだけ言った。
彼女は「うん」と頷いて、下を向いた。
ぼくは「ありがとう」が間違っていなかったと確信した。
それから学校に着くまでぼくらは何も話さなかったけど、二人の間に流れた沈黙は優しいものだった。