21
みどりを傷つけてしまったことへの後悔と、夢を見れなかったことへの不安を胸に抱き家を出ると、あのお姉さんに会わなかった。
別に、ぼくが家を出る時にいつもお姉さんに会うわけじゃない。たまたま偶然、お姉さんと遭遇して挨拶をするだけ。なんてことない日常の一コマのはずなんだ。みどり達とのいざこざがなければ。
あの出来事のせいで、こうなってしまったんじゃないかと思える。そんなことはあるわけないのに。自分で自分を悲劇のヒロインに仕立て上げようとしているだけのはずなんだ……。
ぼくはいつの間にか、いつもの自分に戻っていた――生まれ変わる前の、卑屈で陰鬱な自分だ。何にも希望が見出せず、暗闇の中、恐怖に蝕まれるだけ。
やっぱり、ぼくには夢が必要なんだと思う。絶望に一筋の光が射し込む、希望に満ちた物語が。
お察しの通り、授業になんて身が入らなかった。くどいようだけど、昨日起こったことを悔い続けたからだ。どうにかして、みどりとの曖昧で生ぬるい関係に戻る方法を考えた。
考えて、考えて、気づけばホームルームも終わっていた。
関係を修復する手立ては思いつくわけもなく、なんの気なしに見回した教室にはみどりもさくらもいない。いたところでどうすることもできないけど。
ぼくは無意識に図書室に赴いていた。水面に浮かぶ満月を眺め、川辺に打ち寄せる波の音を聞いているような、心を落ち着かせる場所に。
あの場所だけが、ぼくを受け入れてくれる。喉の渇きを潤しに訪れた動物を受け入れるように。時には氾濫し、ぼくを拒むけれど、それも一時のこと。気がつけば静寂が霧のように忍び寄り、ぼくを受け入れてくれる。ぼくの心を平穏で満たしてくれる。
ぼくは図書室のいつもの席に腰かけ、ここにいるための免罪符のように本を開いた。
いつもなら、ぼくの心を躍らせる巧みな文章に魅せられ、自分が物語の主人公になったみたいに没入できた。時間を忘れて、物語の続きに心奪われた。それなのに、ぼくの目に飛び込んでくるのは、野蛮で攻撃的な文字の濁流だった。今のぼくにはなんの意味も汲み取れず、ただ翻弄されるだけ。
ぼくはそれでもインクの染みを読み解こうとした……。
馬鹿な考えだ。
現実から逃れようとしながら、結局は自分の巻き起こしたトラブルを解決するすべを本の中から探そうとしていたんだ。そうじゃなかったらさっさと本を閉じていたはずだ。集中できなかったらいつもそうしている。
それに、目の前にある本にはぼくが求めるものなんてあるわけはないんだ。あったところで、結局はぼく自身が行動を起こさないといけない。ここでしょぼくれて本を読んでいるなんて、突きつけられて現実から逃げているのと同じなんだ。
ページをめくる手は動くわけもない。
時間が止まったように、ぼくの周りは静まり返っていた。低くうなる空調の音も、遠くから聞こえる青春の音も聞こえない。心を締め付けるような静寂が渦巻き、ぼくの心を騒めかせる。まるで、自分の罪を責められているかのように息苦しい。
もはや、図書室にいる意味がわからななくなってくる。自分から茨の海に飛び込んだようだ。
それでも、ぼくはここから動けない。ここにいれば、いつか清廉な音色がぼくを包み、茨の海から救い出してくれると信じていたから。ほんの一瞬でいいんだ。ぼくはこの苦行から抜け出したい。
自分勝手で、往生際が悪いとはわかってるけど。ぼくはその一縷の望みに縋るしか方法が思い浮かばなかった。
「今日は、なんだかお悩み中だね」
その声は雲間を突き抜ける神々しい光だった。
ぼくは無意識にその声の主を探して顔を上げた。
藍野さんの顔が目の前にあった。触れ合いそうなほど近く、彼女のまつ毛がこんなにも長いことを初めて知った。心を落ち着かせる甘く芳しい芳香が鼻腔をくすぐった。
彼女の優しく大きな瞳に、ぼくは問いかけていた。
「藍野さんは、何かで失敗して、後悔して、やり直したいって思ったことある?」
唐突な問いかけにも、彼女は答えを用意してきたかのように、はっきりと言い切った。
「タイムトラベルものの小説を読んだりするから、過去をやり直したらどうなるんだろうなって思うことはあるかな。でも、やり直したいなんて思ったことはないよ――失敗したり、後悔することはあるけどね。だって、もし過去をやり直せたら、成功も失敗も含めた今までの経験、大切な人たちとのつながりを否定することになると思うから。聞いたことあるかな? バタフライエフェクトって。ほんの少しの影響が巡り巡って、大きな影響を与えてしまうってやつ。それに当てはめると、一つやり直したら、その後に起こるはずのことが起こらなくて、別の何かが起こってしまう。そして、経験するはずだった成功も失敗も体験できなくて、出会うはずだった人と出会えない。今の私じゃない私になってしまうと思うの。私はそんなの嫌だ。私は今の私が好きなの。成功も失敗も、喜びも後悔も全部含めて今の私なの。たくさんの人との出会いが今の私を作ったの。失敗して、後悔したら、次に生かせばいい。また成長できるって……私は思ってるかな……」
これは藍野さんの人生哲学で、誰かに披露するものではなかったんだと思う――心の奥深くに秘め、自分が迷った時にだけ掘り起こす大切なもの。彼女のどこか誇らしげで、だけど少し恥ずかしそうに頬を朱に染める姿を見ればわかる。ぼくだったら、適当にお茶を濁して――確たる考えを持っていないせいもあるけど――つまらない一般論を振りかざしていたはずだ。だけど、彼女はぼくに心の内を晒してくれた。ぼくを信頼してくれた。ぼくはそれだけで充分だった。
過去をやり直したいなんてことはもう言わない。だって、それはみどりの思いを、勇気を否定することになるんだから。
ぼくは心からの気持ちをみどりに伝えなくちゃいけない。
「ありがとう、藍野さん」
ぼくはただ広げただけだった本を鞄に放り込み、勢いよく立ち上がった。
「あと、ごめん。行かなきゃいけない所があるんだ」
藍野さんにそう言い残してぼくは図書室を去った。
図書室を後にするぼくに、藍野さんが何か小さな声で言った気がした。ぼくはそれを聞きなおすことはしなかった。そんな言葉はぼくに向けられるはずはなく、ただの空耳にすぎないのだから。