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茜空の下であなたに会えたら  作者: 谷中英男
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「お兄ちゃん、起きてー。朝だよー」

 朱里がいつもの如く、ぼくを起こすために声をかけてくれた。

 ぼくの身体にはいつものように不快な疲労感が残っていた。その理由は、ここ最近見るようになった夢のせいだ。見渡す限り真っ暗で、ぼく一人しか存在しない夢……。

 そう、ただの夢なんだ。それなのに、ぼくは実際に体験したみたいにはっきり恐怖と疲労を覚えている。ただの夢なのに、ぼくの心をかき乱し、夢の世界から解放されたぼくを苛む。

 今さらだけど、これはどう考えてもおかしいことだ。夢なんてものは、おとといの晩飯みたいに忘れてしまうものなんだ。それなのに、ぼくは細部まで思い出せる。今日見た夢だけでなく、暗闇に飲まれた世界の夢すべてをだ。

 二度寝をして、惰眠を貪る余裕なんてない。ぼくにとってこの夢は重要な意味を持ち始めているんだ。ぼくに何かを伝えようとしているんだ。ただの夢だと片付けていいものじゃない。

 もちろん根拠なんてこれっぽっちもない。虚しいまでにただの直感だ――大切な人を容易く傷つけてしまうような代物だ。だけど、ぼくはこの直感だけは自信を持って信じられた。これもまた根拠はないけど。あの夢はぼくに何かを伝えようとしている……。

「お兄ちゃん、起きないの? ご飯冷めちゃうでしょ」

 陽が昇り、朝が訪れるように、当然のことながらぼくの思考は中断された。普段の行いが悪いせいだろう。朱里の問いかけに返事をしないせいで、いつものように惰眠を貪っていると思われた。ということは、これ以上自分の部屋に引きこもっていれば、朱里が怒ってしまう。すなわち、朱里の怒りが収まるまでは、ぼくの食生活が飢饉に襲われた農民のように貧しいものになってしまう。

 ここまでくれば察しの悪い人でもわかるように、ぼくは飼い犬のように妹に従うしかない。

「いま行くから」

 ぼくはそう言って、自分の部屋を出た。

 そして、食卓に着いたわけだけど、ぼくがもたもたしていたから、当然、朱里の機嫌はよろしくない。いつもだったら、朱里が他愛のない話で食卓に彩りを添えているけど、今日は説教が始まる前みたいに重苦しい雰囲を発散している。だから、ぼくが「最近、変な夢を見てさ……」なんて話しかけても「夢? そんなに夢が好きなら夢博士にでもなればいいんじゃない?」と取り合ってくれない。まるで、寝坊の理由を夢のせいにしているようなものだからね。実際のところ、夢のせいで朱里の呼びかけに答えるのが遅かったわけだけど、そんなことを馬鹿正直に言っても通じない――あの夢をぼく以外は見ていないんだから余計にね。

 というわけで、ぼくを悩ませる夢の話を、誰にも打ち明けられないでいた。家には朱里以外の家族はあいにくと不在だし、登校するときにいつも挨拶してくれるお姉さんには当然そんな話はできないし、夢の話なんて言う個人的で滑稽な話をできる友達もいない。こういう時、いつもなら恥を忍んで幼馴染に打ち明けるところだけど、昨日のトラブルのせいで、どうも話しかけづらい。みどりも話し掛けてこないしね。だからって、これ以上、一人で抱え込むことはぼくには難しそうだった。

 それじゃあ、誰に話すべきかと考えた末に、藍野さんが思い浮かんだ。彼女ならぼくの話を真剣に聞いてくれる気がした。ぼくとは違った視点で一緒に考えてくれる気がした。昨日、あんなことがあったにも関わらずにね。まったく、情けないというか、ご都合主義というか、言い方は人それぞれ任せるけど、ぼくは藍野さんに性懲りもなく夢を抱き続けていたんだ――彼女の事情なんて考えもせずに。

 そして、ぼくは藍野さんと話のできる放課後まで待つことにした……。

 それは字面以上に難しい事だった。だって、これは遊園地でアトラクションの行列に並んでいるようなもんなんだ。しかも、話す人もいない状況で、たった一人でだ。半ば拷問のように感じたね――経験したことはないけど。

 どうにか放課後まで耐え抜いた時には、数年間、閉じ込められていた無人島から脱出できたような気分だった。雄叫びを上げて踊りだしたいくらいだった。もちろん、そんなことはおくびにも出さずにその時を受け入れたわけだけど。

 かくして、知識の森に踏み込むことになるわけだけども、静謐を誇る神秘の空間は跡形もなく消え去り、床屋の待合室に様変わりしていた。学校の図書室としては本来あるべき姿に戻ったと言ってもいいかもしれないし、ぼくもその程度の使い方しかしていなかったけど、いざ、自分が大切な話をする場所だと決めてかかった時にはこれはどうもひどい仕打ちに思える。まるで、藍野さんとぼくの憩いの時間を嫉妬して、ぶち壊そうとしているようだ。由々しき事態と言っていいかもしれない。もしくは一種の謀略。美の化身と交友を持とうとしたぼくへの浅ましいほどの嫌がらせ……。

 少し大げさに表現しすぎたけど、ようは、今日の図書室は普段から考えられないほど大盛況だってこと。こんなにも図書室の存在を知っている人間がいるとは思わなかった。図書室にある席の半分以上が埋まっている。しかも、各々、何かしらの本を開いて、おしゃべりもなしだ。こんな状況じゃ、個人的な話なんてできない。みんなに筒抜けだ。こんなところで昨日見た夢をしようものならキザなロマンティストだと思われてしまう。そう思われるのは不本意極まりないし、図書室をまっとうに使用している名も知らぬ生徒たちの邪魔にはなりたくない。だからといって、藍野さんに話を聞いてもらわないなんて選択肢はない。

 図書室の前で種々雑多な思考をこねくり回していると、藍野さんがこっちにやってくるのが見えた。彼女はぼくに気づき、微笑みながら小さく手を振ってくれた。その控えめで上品な振舞いは、彼女を特別な存在だとより一層思わせた。昨日、彼女に対して勝手に抱いた失望も都合よく消え去った。

「どうしたの? どうして図書室に入らないの?」

 藍野さんはそう言って小首を傾げた。その仕草は蜜蜂を誘う花のように芳醇な魅力を醸し出していた。何度も言うようだけど、ぼくは彼女のその仕草が好きだった。そして、今日この時、より一層その仕草に魅力を感じた。昨日の出来事があっても、何事もなかったようにぼくを受け入れてくれたから。

「今日は大盛況みたいなんだ」

 ぼくは図書室を指さした。藍野さんは図書室を覗き込み、おどけたように顔を顰めてから、ぼくに微笑みかけた。

 ぼくも微笑み返した。

 いつもの放課後だった。場所なんて関係なかった。藍野さんがいて、微笑んでくれればそれでよかったんだ――。

 ぼくたちは校舎裏の寂れたベンチの所へ移動した。示し合わせたわけでも、これまで、二人で訪れたわけでもないのに。なぜか自然とここまで来ていた。またしても、藍野さんは特別な存在だと感じずにはいられなかったけれど、ここで深く言及するのは控えておこうと思う。どうせ、後で語ることになるからね。

「たまには外もいいね」

 微かに冬の足音が聞こえる小春日和の中、藍野さんはベンチに腰掛けて楽しそうにそう言った。ぼくは自然と彼女の隣に腰掛け「そうだね」と言って、辺りを見回した。いつもと違う環境で少し緊張したのは内緒だ。

 藍野さんは特に何を話すでもなく、景色を楽しんでいた。ぼくはというと、傍から見れば彼女と同じように景色を楽しんでいるように見えるかもしれないけど、どうやって夢の話を切り出そうか考えていた。そして、考えた挙句に前置きなんてなしに直球勝負することにした。うまい手なんていくら考えても思い浮かびそうになかったんだ。

「最近、同じ夢ばかり見るんだ」

 言葉は自然とぼくの口から零れ落ちた。それだからなのか、決心のわりに独り言みたいなつぶやきだった。彼女が気づいているのかも疑わしかった。仮に、ぼくが彼女の立場だったら気づかないふりをする。でも、彼女は違った。ぼくの言葉をしっかり拾い上げてくれた。

「私はそういうことないな。見てもすぐ忘れちゃう」

 彼女はぼくをひたと見つめ、いたずらっぽく笑った。息を呑むほど魅力的な表情だった。藍野さんの新しい一面をどんどん知れている。

「ぼくもいつもなら、そうなんだ。でも、最近の夢は全部覚えてるんだ。現実以上にはっきりとしてるんだ」

「どんな夢なの?」

「とにかく真っ暗な世界の夢なんだ。それも生半可な暗闇じゃなく、恐怖を覚えるような完全な闇の中にいる夢なんだ。その夢ばかり見るんだ」

 実際に夢の話を口にしてみると、どうも言葉だけであの暗闇と恐怖を伝えるのは難しい。臨場感に欠けるというか、どうも言葉が安っぽい――語彙力のなさを痛感するね。それでも、藍野さんは笑ったりせず、真剣に話を聞いてくれていた。

「その暗闇にいるだけなの?」

「うん。ぼくはただその暗闇に怯えているんだ。でも、昨日の夢で、誰かの足音が聞こえて、恐怖がなくなったんだ」

 さすがの彼女も返す言葉が見つからないのか、黙りこくっていた。ぼくは彼女の反応を見て、今更だけどつまらない話をしていたことに気づいた。

「ごめん、急にこんな話しちゃって。困るよね」

 ぼくの謝罪に彼女は首を振った。

「ううん、そんなことないよ。私も同じ状況なら、相談すると思うもん」

 彼女の言葉は正真正銘、真実で、真剣で、まごうことなき心からの言葉だった。根拠は一切ないけど、ぼくにはわかるんだ。

「夢を見始めたきっかけみたいなのってあったりする? どこかに閉じ込められたとか、夜に何かあったとか」

「それが何もないんだ。普段通りの日常で、今も特に変わらないかな。夢が続いているだけ」

 ぼくがそう言うと、彼女は眉間に可愛らしい皺を寄せ、しばし考えに耽った。なんだか、ここまで真摯にぼくのことで悩んでくれると、嬉しさはもちろんあるけど、申し訳なさが顔を出さずにいられない。実際に起こったわけでもなく、答えのない問いを解いてもらおうとしているわけだからね。ぼくだったら、黙り込んだ末に曖昧な笑顔を向けることしかできないと思う。

 藍野さんはぼくみたいに優柔不断な態度は見せなかった。

「私の意見としては、何かが起こる前兆じゃないかと思う。小説とかでもよくあるでしょ? 

 いつもと違うことがきっかけで、物語が始まるって」

 ぼくにそんなことが起こるとは到底思えなかったけど、せっかく話を聞いてくれたのに、頭から否定することなんてできない。それに、少しだけど、ぼくにもそんな素敵なことが起こってほしいと思ったんだ。

 ぼくは笑顔で藍野さんを見つめた。ぼくの問題に真剣に向き合ってくれたことが嬉しかったんだ。

「これくらいしかできなくてごめんね」

 彼女はそう言って可愛らしくウィンクした。小悪魔みたいな表情に、ぼくが改めて虜になったのは言うまでもない。

 それから、しばらく二人で秋の木漏れ日を楽しんで、ぼくらは家路につくことにした。

 藍野さんと話せたことで、ぼくの悩みが解決されたとは言えない。でも、彼女がぼくの悩みを真剣に受け止めてくれたということはよくわかった。

 やはり藍野さんは特別なんだ。しかも、ただ特別なわけじゃない。ぼくを正しい道へと導き、優しく見守る天使のような存在。彼女はぼくの望む言葉を紡いでくれるわけじゃないけど、これからのぼくの人生に必要不可欠な存在。今、こうやって彼女と話をできて確信できた。


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