竜が夢見る泉
その場所は、夢の果てにあった。
* * *
さらさらと、流れる。
水。
幾重にも、輪を描く。
緑したたる大地に。
「師匠。姉さんは来ていませんね」
ぼくが言うと、師匠は尻尾をぶわっと膨らませ、それからふうと息をついた。
「いつか来る」
「いつかって、いつですか」
「いつかだ」
師匠の背は低い。アライグマの姿をしているから、手をつなごうとすると、ぼくは少し、大変だ。
「竜のさだめは、つらいものだ。あれは竜だからな」
「ぼくも、竜になるのですか」
「おまえは若過ぎる」
「若いって、どれぐらいの事ですか。ぼくは多分、二百年ぐらいは生きています」
「若い、若い」
ぶほっ、と鼻から息を吐くと、師匠はてけてけと歩いた。
「たかだか二百年。ついこのあいだ産まれたばかりのハナタレだ」
「姉さんは、どれぐらい生きていますか」
「さてな。千年と二千年ぐらいかな」
「若いじゃありませんか」
「魂は老いておるよ。人の世に紛れておるからな」
緑したたる大地。
輝く光。
繁る木々は青く呼吸する。
全てが力と夢にあふれる、美しい世界。今は、随分と住む者が少なくなってしまったが。
「竜はなぜ、人の世に紛れるのですか」
「それがさだめ」
さらさらと。
水。
描かれる、輪。
「さだめとは何ですか」
幾重にも、輪を。
流れる。よどむ。
黒く。穢れが。
「夢をな」
師匠はぼてん、とひっくり返ると、腹を上にして寝ころがった。
「夢を紡ぐ。人の世で。昔、われらはその約定をしたのだ」
「約定……」
「今では、われらと人とは、あまりにも隔たってしまったゆえに」
よどむ、水。
幾重にも輪を描く穢れ。
黒い、夢のかけら。
「人の世は、魂を老いさせるのですか」
「そうではあるが、そうではない」
ぼてん。
師匠は起き上がろうとして失敗し、手足を草の上に落とした。
「一瞬を、生きる、もの、だから、な」
ぼてん。ぼてん。
「人という、もの、は」
ぼてん。
「われら、は。成長、した、とき、に。体、も、変化する。したが、人は。まず、体が、時と共に変化、し。中身を、これに、合わせる、のだ。なかなかに、興味深い、が」
ぼてっ。
「これ。師匠の危機に、なぜ動かん。手を貸さんか」
「遊んでいるのかと思っていました」
手を差し出すとつかまったので、引っ張り上げる。師匠は何とか立ち上がると、ふうと息をついた。
「うむ。危うかった。二度と起き上がれぬかと思ったわ」
「横に転がれば、どうにかなったのではありませんか」
「むう。おぬし、我に転がれと言うか。地面の上を。芋虫のように。そのような無様な真似、わが矜持が許さぬぞ」
「起き上がれずに、手足をばたばたさせている姿の方が、よほど無様だと思いますが」
「このハナタレが。口ばかり達者になりおる」
ぽんぽん、と腹をたたくと、師匠はぼすん、とぼくの足に拳をくれた。あまり痛くなかった。
「人は、体を先に変化させて、後から中身を合わせるのですか?」
「うむ。そのようだ」
「難しくはないですか?」
「あれらには普通の事らしい。一年ごとに体を成長させ、その成長に中身を合わせてゆくのだそうだ」
「難しいですよ」
「われらにはない発想じゃからな」
師匠は、水のよどみをのぞきこんだ。
「われらが変化するのは、われら自身が成長した時。ゆえに千年で成年に達する者もいれば、数千年を経ても幼子のままの者もいる。それぞれが、それぞれの、内面の成長に合わせて己を変える。それがわれらの在り方」
「みなが一様に成長を遂げてゆく人の仕組みは、不思議に思えます。効率的ではありますけれど。毎年、必ず成長するなんて」
「したが、そのゆえの歪みも生じる」
師匠は、ぶふっ、と鼻を鳴らした。
「見よ」
ぼくがよどみをのぞくと、そこには争いあう人の姿があった。盗み、奪い、殺し、全てを破壊してゆく負の存在。
幾重にも、輪を描き。広がってゆく穢れ。
「これが歪みですか」
「ふむ。無理に体を成長させても、中身の追いつかぬ者は多い」
「成長した体に、不安定な精神を持つ者が」
「人とは元来、不安定なもの。それゆえあのように、破壊に走る。仲間を、世界を。己自身ですらあれらは壊すのだ」
ぼくは見ているのをやめて、師匠の方を向いた。
「効率的ではありますが、……これはあまり良くない」
「われらにはな」
師匠は、てけてけ歩いた。ぽてん、と座る。
「あんな生き物のいる所に、姉さんはいるのですか」
「約定ゆえ」
「なぜ約したのです」
「それもまた、われらの在り方ゆえ」
さらさらと。
流れる、水。りん、と音がする。
りん、……りん、……りん……。
「姉さんは、何をしているのです」
「人になって生きておるよ」
「なぜ」
「人の世で、夢を紡ぐために」
さらさらと。よどむ穢れの中に。
腐った、水の流れの中に。
りん、と。音が響く。清らかな色を見せて。
「夢を紡いで、何かが変わりますか」
「それを信じて、竜は行くのだ。ごく小さなものでも良い。流れが起きれば、いつかは人の世にも、美しい夢が花開くとな。実に愚かだ。愚かではあるが……」
ぶふふっ、と師匠は鼻を鳴らした。
「人になった竜は、記憶すら保てぬ。ここの事を忘れ、全てを忘れ、それでも夢を紡ぐ事を続ける。人の世で。幾度も生まれては死に、また生まれ。夢をささやき続けるのだ。人々の間でな」
りん。
りん、……りん。
少し響いては、消える。ほんのわずかな清冽さ。
「流れは起きますか」
「わずかではあるが、起きている。まこと目まぐるしい。百年も生きられないこのような生き物の間で暮らすのは、慌ただしく、鬱陶しい事であろうよ」
りん。
りん、……りん、……りん。
よどみは消えない。黒い穢れは広がり続ける。
ため息をついて、師匠は足をぱたぱたした。
「姉さんは、いつ来るのでしょう」
「いつか来る」
「いつかって、いつですか」
「いつかだ。いつか。人の世に、夢が溢れた時に。この泉の水が、もう一度清らかな流れを取り戻した時にな。全く。気の遠くなるような、苦行の果てであろうなあ」
ぶふん。師匠は鼻を鳴らした。
りん、……りん、……りん。
黒く広がる穢れ。輪を描いて。
その中で、ほんのひとしずくの。清らかな流れ。
響いては、消える。
穢れに呑み込まれる。
それでも……、響き続ける。
「ここにずっといれば良いのに」
「そうもゆかぬ。約定ゆえ」
「だれが約したのです。最初の者は」
「さて。そやつも今では、人の世でもまれているゆえ。己が名すら覚えておるまいよ。したが、この美しい世界を守る為であった」
師匠はつい、つい、と足先で地面を蹴った。
「われらにとって、人の生き死になどは、どうでも良い事。あれらがどのように世界を破壊しようと、その挙げ句に自分自身をも滅ぼそうと。どうでも良い。むしろ、いなくなってくれた方がどれだけすっきりするかわからぬ」
「ぼくもそう思います」
「したが、……世界とは、一つきりで存在するものではない」
「そうですか?」
りん、……りん、……りん。
「互いに影響し合い、支えあって存在するもの。ゆえに、あちらが穢れに満ちれば、こちらにも影響が出るのだ。この泉は、人の夢につながっておる。ここが汚穢に満ちてゆくのも、それゆえ」
「……」
「今はこの泉に限定しておるが。穢れは確実に増えている。ここが穢れ切ってしまえば、穢れは他にも飛び移ろう。そうすれば、この世界は終わりに向かう」
「けれどなぜ、われらが人の為に働かねばならないのですか」
「人の為ではない」
師匠はぶふっ、と鼻を鳴らした。
「われらと、われらの世界の為。おまえのように幼いものが、ここで生きてゆけるように、われらはあちらの世界に行くのよ。あちらが少しでも穏やかに、明るくなれば、こちらも住みやすくなるのだからな」
「ですが」
「いずれ人も滅びよう」
師匠はひげをひくひくさせた。
「その時にはまた、別の種族が夢を紡ぐであろうが。われらは、われらの為に行くのだ、幼子よ」
「ぼくは、姉さんに会いたい」
「あれもおまえに会いたかろうよ」
「いつ、」
「いつかだ」
師匠はそう言うと、よいしょ、と立ち上がった。
「では、良いかな」
「……本当は嫌です」
「そう言うな。さほどの時ではなかろうよ」
「姉さんも、そう言いました。でもまだ帰らない」
師匠は手を伸ばし、ぼくにかがめと合図をした。ぼくがかがむと、小さな手でぺちぺち頬をたたいた。
「幼子よ。われらはいつも、おまえを愛している。たとえどれほど離れても。心はいつもおまえと共にある」
「師匠」
「疑うな。ではな」
きゅっ、とぼくの鼻をつまむと、師匠はてけてけ、と歩いた。
泉の方へ。
穢れに満ちた黒い、水の流れ。
一度振り向いた。手を振った。
それから、師匠は落ちていった。水底に向かって。
ぼくは、それを見ていた。
りん、と。
光が響く音。
黒い水の流れに、涼やかな光。
師匠の姿が消え、光が現れた。泉に。
夢が、響く。一瞬だけ、泉は清浄な水の流れを取り戻した。これは師匠の夢。竜となった師匠の。
これでもう少し、この世界は続くだろう。あちらの世の穢れが浄化されたのだから。
すぐにまた、よどんでしまうのだろうが……。
「いつ、……来るのですか」
姉さんも、師匠も。
「会いたいです」
でもぼくは、一人で待たなければならない……。
竜だから。竜になるものだから。
ぼくも、いずれは。この泉に身を落とすのだろうか。
* * *
妙な夢を見た。
どことも知れぬ緑の楽園。穢れた泉。
少年とアライグマ。多分、アライグマだろう。なぜアライグマなのか謎だが。
そして、……竜?
「悪夢に似たファンタジー……っぽい?」
僕が言うと、店の準備をしていたさやかさんが、けらけら笑った。アルバイトで入った大学生。笑う姿も若さが溌剌としていて、少しまぶしい。
「チーフでもそんな、変な夢見るんだ」
「夢ぐらい見ます」
ハーブのブレンドを確認する。最近、客が増えてきた。今日は、バイオリンとハープのミニコンサートを開く。知り合いの音大生に頼んで、開催にこぎつけた。
「うちの店、来ると癒されるって、あたしの友だちにも評判なんですよー。なんか、気持ちがラクになるって」
「そりゃありがたい」
「チーフにもファンがついてるんですよ? ぼんやりしている感じが素敵って」
「ほめてるんですか、それ」
確認を終えて、よいしょと椅子に腰かける。厨房に向かって声をかけた。
「スコーンとミニサンドの準備は、どうですか」
「できてるよ〜っ。すんごい良い出来っ。今日のお客は全員ノックアウト〜」
厨房から明るい声が響く。パティシエの透子さん。いつも元気一杯で、美味しいスイーツを作ってくれる。
「今日のミニサンドは、アボカドと海老のヘルシーサンドと! 鶏肉のハーブソース和えの二本立て! お昼時にはくるみとバジルソースのパスタ。キッシュも用意してます。そして本日のスイーツは、季節のフルーツてんこもりのタルトに、にわとこのジャム入り花のケーキ、豆乳レアチーズケーキに、ビターな気分のガトーショコラッ! 客よ。すべからく、食べて泣け! 感涙を振り絞れっ!」
ハイテンションだ。
「やだ〜、食べたい〜」
さやかさんが、身もだえしている。
「ねねね。今度、お茶のテイスティング教室とか開くのどう? あたしの特性クッキーつけてさっ」
「良いですね。お茶にまつわる話とかしながら……」
椅子を並べていたさやかさんがきゃー、と言った。
「いや〜っ! それだけでシアワセになりそうっ。チーフも仕事中は、きりっとして見えるし」
「仕事中だけですか……」
「バツイチ、子持ちなんて見えないぐらい素敵です」
「バツイチじゃありません、……まだ」
何か切なくなった。
「えー、でも、離婚されてるんじゃ……ああっと。ゴメンナサイ。スンバラシイ奥様なんですよねっ。可愛くて強くてっ」
「ぼくには過ぎた人でした。初めて会った時、色のない世界の中で、彼女だけが色づいて見えた。衝撃でした。あれほど美しい人は他にいない……」
僕が言うと、厨房から出てきた透子さんが、うわあとつぶやいた。さやかさんは、あわあわしている。
「二年がかりで結婚してもらえましたが、……ふふ。今は別れ別れです。ああ。君は今、どこの空の下にいるのでしょう……」
女性たちがひそひそ話している。
「開店前にチーフを盛り下げてどうすんのよ、あんた」
「ご、ごめんなさい」
「今日一日使い物にならないわよ、下手したら」
「だだだって……ええっと、どうすれば」
つかつかと、パティシエの格好をした女性が歩み寄ってきた。ぐっとかがみ込むと、耳元にささやかれる。
「娘が見てるぞ。カッコイイぱぱを見せる為にもがんばれ」
「……あの子は今、おばあちゃんの所です……」
「それもあったか。しかし! いつも心は一緒だろうっ!」
あ。
それ、夢の中でも言ってた。
「一緒、……なんですかね」
ふと、つぶやくと。透子さんはなぜか、ひるんだような顔になった。
「えと。……大丈夫なの? マジに」
「うん。大丈夫……と思いますよ。大人だし」
ふう、と息をつくと立ち上がる。
「仕事はちゃんとできますから。準備に戻って下さい」
「なんか大丈夫そうじゃないんだけど」
「大丈夫ですったら」
「うーん……」
どうしよう、という顔をされた。
「えとえとえとっ。ち、小さい子って、夢とかも独特ですよねっ」
慌てたのか、さやかさんが手をばたばたさせながら言う。
「あたしの姪がっ。あのあの。まだ小さいんですけどっ。色々話すんですよ。それが面白くって! あの、今朝がたのチーフの夢の話じゃないんですけど。自分はむかし、アライグマだったって言うんですよっ! なんでアライグマなんですかねっ」
「そうなんですか」
「ええっと、それで、見てて面白いって言うか、言ってる事が可愛いって言うか……どこかで見たんですかね、アライグマ。あははっ……て、ごめんなさいチーフ〜〜〜〜っ!」
うーん。
そこまで気の毒がられてもなあ。
「大丈夫ですから。お客さまをお迎えするのに、そんな顔をしていたら驚かれますよ、さやかさん。笑顔」
「あ、ハイ、……」
「あなたに会えて嬉しい」
びしり、となぜか二人が固まった。
「そんな心でおもてなしを……なぜ固まるんですか」
「えー、いや、……まあ」
「あはは、えへへ、えと。はい」
妙に顔を赤くしながら、二人はうろうろと視線をさまよわせた。
「チーフ、襟が少しヨレてる」
咳払いをして透子さんが言う。
「あれ、そうですか」
「お客が来る前に、直してきたら」
「そうします」
奥に引っ込んで、鏡で確認する。別に何ともないようだが?
戻ると二人はひそひそと話していた。微かに声が聞こえる。
「……だよね、あれ無意識……」
「一見、ボサッとしたおじさんなのに……」
「妙な色気って言うのか……見慣れてるあたしでも時々……」
時計を見る。そろそろ扉を開ける頃だ。
ぱんぱん、と手をたたくと二人がこちらに気づいた。
「そろそろ開店時刻ですよ。通達事項をもう一度確認しておきます。今日は、マリアさんが三時から、春日くんが五時から入ります。十時に、予約されていた大杉さまたち三名が、誕生日のティーパーティーをなさいます。十二時から一時まで、ミニコンサートの第一部。三時から四時、六時から七時にそれぞれ第二部、第三部のコンサートがありますから、お客さまにもそのようにお伝えして下さい。なお、今日は二時に、オーナーの関係のお客さまが視察に訪れます。そのつもりでいて下さい。では今日も一日、心からのおもてなしを、お客さまに届けましょう」
「はい」
「はいっ」
「さやかさん、扉を開けて。透子さんも準備をお願いします」
笑顔で二人が自分の持ち場に向かう。僕も自分の持ち場に向かう。
ふと、夢を思い出した。
あの場所で、あの子は一人で待ち続けるのだろうか。竜となった姉を。師匠を。
今も。待っているのだろうか。
「いらっしゃいませ!」
さやかさんの明るい声がした。最初のお客さまが入ってくる。
「わあ、可愛いお店」
「ねえ、今日のおすすめはどんなお茶?」
「当店のダンディーなティーブレンダーによる。シアワセなお茶です〜」
「なあに、それ!」
笑い声。
「何かお好みはありますか? ハーブは苦手とか、香りの強いものはダメとかあったら言って下さいね。あっさりしたブレンドもありますよー」
「そう? あ、ねえ。この『今日のお茶セット』って?」
「スコーンかタルトがついて、お得です。お茶はブレンド、アッサム、ウバの三種類からになります。でも百円プラスで、こっちのリストのお茶に変えられますよ?」
「中国系のお茶もあるんだ。あ、烏龍茶?」
「あたし、ウバが良いな」
「ヌワラエリヤ……ってどんなお茶?」
次々とお客さまが入ってくる。
「いらっしゃいませ!」
「ここって、落ち着くのよね」
「来るだけで何だか、嬉しくなるって言うか……」
お茶の香りと、お菓子の焼ける香り。やって来るお客さまの、うれしいという顔。
「今日は、ミニコンサートがあるんですよー。バイオリンとハープですっ」
「あら、素敵。何時から?」
りん、と。涼やかな音色を聞いた気がした。
今回は危なかったです…。
テイスティングは、種類の違うお茶の飲み比べです。小さなカップに少しずつ。プロのじゃないので、楽しみながらのお茶会な感じ。出されるお菓子が目当てな人も、たぶん(笑)。