おやすみ。
……人肌に触れたような温もりを感じて、青年は目を覚ました。きっとまた見れるだろうと思っていた光と景色が、予想通り、寝起きの視界に広がっている。
青年は自分が存在していることで、少女の偉業が成されたことを悟る。
あの騒々しい終焉の気配は、既になくなっている。小鳥のさえずりが聞こえるほどだ。
そもそも、森を見ても、街を見ても、終焉が訪れたような痕跡がどこにも見当たらない。
崖下の木々は青々と茂っており、生命を脅かす黒い霧なんかもどこにもない。
あるのは森の葉のざわめきと……嫌ではない、妙な安心感のみ。
メブキは起き上がり、服についた砂埃を払った。それから少し考えて、道なりに崖下の森へと歩き出す。
深い森だが、緑が綺麗だ。
獣の気配はする。だが、脅威は感じない。
メブキは迷いの無い足取りで森を行く。
鬱蒼と茂る森の中で、やがてそこだけぽっかりとひらけた場所に、彼は辿り着いた。
ここは、要の斜塔があった場所。
しかし漆黒の巨岩などは存在せず、広場の中央には立派な大樹がひとつ、静かに佇んでいた。
思わず見上げてしまうほどの大きさだ。メブキは穏やかな気持ちで、大樹へ歩み寄った。
その幹や葉の色は、崖の道から見下ろしたとき、すぐに違いがわかるほど……森一番で、優しい色味を持っていた。
雨露を受けてもいないのに、陽を浴びた緑の葉には白銀の雫が乗っているような気がして、メブキは何度も大樹を観察した。
見るだけでは飽き足らず、幹に触れる。
樹皮は硬く、なめらかだ。樹齢を考えると大層な年月を重ねていそうなものだが、何故だかこの樹の全部が、新芽のように新しかった。
触れているだけで、不思議と落ち着いてくる。幹に手を当てたまま目を瞑ると、メブキの耳に微かな、とても微かなものだが。
……呼吸が聞こえた。
小さな、とても小さな息遣い。
疲れた子供がぐっすり眠っているかのような、無邪気な寝息だ。
樹皮の向こうから聞こえてくる。
警戒することなどない。
メブキは、ぐるりと反対側へ回った。
そこには。
……そこには、穏やかに眠る、一人の少女が居た。
大樹から感じた通りの健やかさで、すうすうと寝息を立てて眠る少女。その姿は、青年の目に焼き付いたものと変わらない、泥にまみれた姿のまま、そこに居てくれていた。
「……」
青年から微笑みと、やれやれといった溜め息が漏れる。
彼は小さな天使をよいしょと背負うと、崖の上の小屋に帰るべく、来た道を歩き出した。
終わり