ある日突然お邪魔します
天使が戦い続けるには、人々から得られる《信心》が必要だ。この場合は、宗教で言われる信仰心ではなく、ただ信じてくれる気持ちのことを指している。
この信心があらゆる理由から減少したり、消滅したりすればもちろん、天使は力を失って、ただの子供……とまではいかないまでも、少なからず、竜を倒せる存在ではなくなってしまう。もしかすると、存在すら消えてしまうかもしれない。
だから天使は、遠い昔、民に嘘をついた。
――害獣は、わたしでなければ倒せません。
「何故、そのような嘘を?」
テーブルを挟んで座っているメブキが、そう尋ねてくる。
「……害獣が人の手で倒せるってわかったら、人は自分たちで片付けちゃうじゃんか」
「ええ。やり方がわかるならば、天使殿のお手を煩わせることも無くなります」
「それが困るんだ」
「これまたどうして」
「人間でも出来るってことは、それだけ天使の必要性が薄まっちゃうだろ?」
「……だから、嘘をついたんですか」
「そ」
シオンは簡素に答えた。
少しでも信仰を得るために。いや、信心を稼ぐために。
多くの民が頼ってくれるよう、嘘を流したのだ。
「天使にしか対処が出来ないとなれば、否応なくわたしを頼ることになる。実際に問題を対処してみると、わたしのことを考えてくれる人が、だんだん増えてった」
「……天使殿は自身の行いを悪く思っているようですが、しかしそれは、天使としてやむを得ない選択だと、私は思いますが……」
「そんなおまえに問題です」
「はい?」
「今話したように、わたしは嘘をひとつ作りました。ですが、嘘というものはいつしか必ずバレるものです。それがどうして、気付かれずに現代まで伝わってると思いますか?」
突然の出題に、メブキがびっくりして目瞬きする。
「そ、その嘘が伝わっているのは、この土地に限った話ですよね」
「鋭い」
「え」
「今のをヒントとして出すつもりだったけど、わかっちゃったから特別にもう一回ヒント」
にしし、とシオンは楽し気だ。
「この辺りの地形を考えれば、なんとなくわかるんじゃない?」
「地形……?」
メブキの眉間に皺が寄り、思案するにあたって、目はテーブルを見つめだす。
深い森に囲まれた街。外界と遮断され、出るも入るも不可能とされていた不可侵の領域。
「まさか……」
ニ、とシオンの口元は何故だか笑っていた。
天使の居る国は深い森、それも瘴気が漂い害獣が棲む、危険な森林に囲まれている。故に外界と遮断され、情報からも文明からも取り残されている。つまり。
「害獣の居る森で国を囲むことで、天使殿は情報が……嘘が漏れないよう、街を閉じ込めていたと……?」
「そう」
あの森は自然に完成した地形ではなく、天使自らが手を加えて造形したものだったのだ。
「厳密に言えば、作ったのは森じゃない。害獣の、森だ」
正解したメブキに、シオンは包み隠さず説明した。
ただの森に捉えた小さな害獣を撒き、瘴気を広めたと。
誰かが害獣を倒したなら、そのぶん他を見逃して、汚染をわざと進めたと。
まるで人の手には負えない。そもそも殺せていないのではと思わせる程度には、害獣の森を育ててきた。
「どれもこれも、信心を稼ぐための手段だよ。いくつか新しい事件を作らなきゃ、惰性の信心は無くならなかったんだ」
「惰性の、信心……?」
「『天使がなんとかしてくれる』『だから大丈夫』、っていう気持ちのことだよ」
「それは安心感がある、つまり天使殿を信じている、ということではないのでしょうか」
「違うんだなこれが」
その反応をわかってたみたいに、ちっちと指を振るシオン。
「約束された安心が生むのは、感謝じゃなくてただの油断だ。その心はわたしを頼ってるんじゃない。『そしたら、あとよろしく』って、仕事を投げてるだけなんだよ」
人々の祈りが実際に伝わってきているだけに、シオンは信心の密度の落差に頭を抱えることもあった。
「……この地に留まっているのも、考えのうちですか?」
シオンは頷く。
地元から直接得られる力強い信心は、現場から遠く離れた国々から届くものとは比べものにならないほど純真で、穏やかで、真摯であった。
身近で得られる一〇の力は、遠方の一〇〇〇に勝る。
「これが感謝と油断の違いさ」
全ては、人々から信心を巻き上げるための小細工。天使たる自分が行っていた悪行。
こんな事実がばれてしまえば当然、誰からも信用されなくなる。天使としての力が衰え、終焉を回避できなくなる。
だから黙っていた。否、騙していた。
嘘を真実と信じてやまない、無垢な信心を。純粋に信じてくれている皆を。
情報が漏れないように森を設け、念入りに害獣を撒いた。
「だから外の人間のおまえがここに居るのは、予想外も予想外。とんだハプニングだよ」
お手上げといった調子で肩を竦めるシオンに対し、メブキは責めるようなことはせず、確認するみたく問う。
「真実を伝える気は、ありませんよね」
「……ないよ。うん、無い」
何も知らないからこそ、街の人は自分を信頼してくれている。純度の高い《信心》を注いでくれるのだ。
「こんな言い方したくない。けど、天使が在るためには……つまり、そういうことなんだよ」
皆が頼ってくれなきゃ戦えない。常に全力で居る為にも、嘘を突き通さなきゃいけない。
「天使殿は、それを正しいと思っていますか?」
「良いとは言えない。けど、結果も含めていえば……正しいと思ってる」
「そう、ですか」
返事を受け取ったメブキは、シオンの言葉を反芻するかのように黙り込んだ後、ふむ、と鼻で唸ったのち、こう言った。
「でしたらそれは、正しいのでしょう」
「……え、マジで?」
ええ、まじで。とメブキは返してきた。
「私が思うに、天使殿は何一つ間違ってはいません。少々荒っぽい手段を採っているだけです」
「でもさ、毒を撒いたり国を孤立させたりとか」
「そこだけ切り取れば人聞きが悪くなります。そしてなんらかの被害、損失が出ているならば、即刻やめるべきでしょう」
メブキはシオンの判断を否定しない。そうしようという気が、今や感じられなかった。
彼は言う。
何故ならば、シオンの働きでこの世が保たれているのは、変わらない事実だからだと。
「いいですか天使殿。大陸中の諸国の王だって、統治のために、民衆にいくつ嘘をついているか、わかったものじゃないんですよ」
「お、おう」
「嘘をつくこと。それ自体の肯定は出来ません。ですが、そのお蔭で今、この世が動いているのであれば……」
メブキが姿勢を正し、まっすぐにシオンを見つめて宣言する。
「私は天使殿に、この場で改めて、感謝を捧げます」
椅子に座ったままだが、彼はそのまま上体を曲げ、深々と頭を垂れた。
「や、やめろこら」
慌ててシオンは立ち上がり、青年になおれと指示する。
「おまえの気持ちはわかったよ。しょーじき、安心した。うん」
そっぽを向きたかったが、応えるためにもそうしなかった。代わりに顔が赤くなるのを感じていたが、目の前の彼は、そこをいじってくるような男ではない。
「では、説教ついでに、天使殿の勘違いを指摘いたしましょう」
「へ? みんなを信じてなかったってこと、以外に?」
ええ、とメブキは微笑みがちに喋り出す。
「この国の住民は、天使殿のことを間違いなく慕っているでしょう。ですがそれは、何も『守ってくれるから』、という利己的な理由ではないと思うんです」
「来て間もないくせによく言うよ」
「ええ。肉屋の奥さんと話してて、よくわかりました」
妙に自信ありげな態度に多少のムカつきを覚えたシオンだが、ここは呑み込んだ。
「もはや天使殿は一人の住人として、皆さんから大切にされているのですよ」
「……そうなの?」
「神のもとへ飛べなかった。その原初の失敗を償う気持ちは、既に行動として立派に果たしておられます。しかしこれは、決して、貴女の存在意義ではない。誰も天使殿に、贖罪という使命など、求めてはいないのです」
皆が望んでいるのは、そんなことじゃないとメブキは言う。
「ただ毎日を元気に過ごしてほしい。……これは天命を帯びた天使ではなく貴女、シオンという女の子に向けられた、皆さんからのお願いであると、私はそう考えています」
「……」
シオンは何も言わず、言えず。メブキの言葉を、自分の中でじっくりと理解していった。
薬の配達をしてくれたり、野菜をくれたり、お肉をくれたり。
身体の具合を尋ねてくれたり、自堕落な生活について一言くれたり。
心当たりは、山ほどある。けれどそれらは全部、仕事に対するお礼だと思っていた。
「……」
やがて彼の気遣いごとしっかり五臓六腑でメッセージを受け取ったシオンは、「へえええ」、と奇妙な溜め息をついた。
「ほんと、よく言えるもんだよ」
テーブルに片肘をついて手に頬を乗せ、シオンは呆れ調子で青年に話しかける。その表情は安堵からか、少し笑い気味だ。
対するメブキも、はははと自嘲気味に頭を掻く。
「私もよくわかりませんが、何故だか、確証が持てるんです。この国は、きっとこうだろうと」
天使のすがっていた存在意義。罪の意識からくる存在意義。人々はそんなもの、気にしてなどいなかった。
ただ、そこに居ていい。
言われてみれば、住民たちの笑顔にぴったりの解釈だった。
「……そっか」
その声はやけに軽くて、だから知らず、ぽつりとこぼれたものだった。
あ――――――――っ。
後ろに伸びをし、鬱屈した感情をこの際、声に出すことで全部出し切って、シオンはついでのように、自問のつもりで言う。
「やっぱり、街のひとにも話した方がいいのかなー」
「しかし話してしまっては、せっかくの嘘の意味が無くなるのでは?」
「でもそれじゃあ、結局みんなを信じてないってことになっちゃうじゃんか」
「いえ。私は、『皆を信じて全てを話せ』と言っているわけではありません。『嘘をついていようがいまいが、誰も貴女を嫌ったりはしない』と、そう言っているのです」
「……騙したまんまでいいの?」
「嘘も方便と言いますし」
「言うんだ」
「言うんです」
「マジで?」
「まじです」
「……」
「……」
真顔で黙ったまま、しばし見合うふたり。
やがてどちらからともなく頬が緩み、間もなく真面目な空気は緩みに緩んだ。
「うむ、復調」
再び伸びをしつつシオンが言い、メブキは台所へ向かい出す。
「では、遅いですがお昼にしましょうか」
「ナットウは食べないぞ」
「まだ熟成が足りないので、次の機会に」
「やめろっつってんだわたしは」
「まあまあ、そう言わず」
「生意気になりやがって」
それでも怒る気にはなれず、シオンは椅子に座って出来上がりを待った。
街に行くかどうかは、食べてから考えればいい。空腹の状態で物事に臨んでも、思考は暗い方へと傾きがちになる。
メブキの言った通り、真実を話す必要はないだろう。つまり、やること自体は普段と変わらない。ただ見方が変わって、やる気が出た。今までは皆から信じてもらえるようにと動いてきたが……これからは、信じてくれる人たちのために応えたい。
気持ちを新たに決意した少女の耳に、とても涼やかな音色が響いた。
まるで薄い金属同士をぶつけたような、キン――と冷たい音。
「?!」
シオンは思わず席を立った。気のせいだと思いたかったが、それは音叉の余韻みたく、頭の中で反響し続けた。
「天使殿、今の音は……?」
そういえばメブキは初めてだ。彼にも聞こえていたということは、つまり街の人にも届いているし、十中八九、耳鳴りがもたらした勘違いではないようだ。
「おかしいだろ」
指摘がぽつりと口を突く。しょうがない。前回の竜退治から、まだ七日も経っていないのだから。
しかし気配は既にある。
シオンはテーブルを離れると、未だ半信半疑で外へ向かう。
そうであるなよと願いながら見やった崖の方には、やはり漆黒の斜塔が明後日に向かって、しっかりと姿を現していた。
マジか。
この期に及んで常識が変わるなど、迷惑にもほどがある。
ふざけんな。
家からメブキが出てきて、名前を呼んでいる。
せめて、これだけにしろ。
髪を梳いてグルカナイフを握った少女は、メブキにすっこんでろと指示したのち、竜の登場を待った。
これ以上何も起こるなという願いから。あるいは嫌な予感に対する警戒から、待った。
果たして竜は現れた。赤褐色の鱗の鎧に、大きな両翼をはばたかせ。
そして見覚えのない――真っ黒な煙か、あるいは霧を身に纏って、奴は雲の上から現れた。
普段と様子が違うのは、言うまでもない。
新手だ。
「ふざけんな」
今度は言葉に出た。柄を握る手に力が籠もる。
シオンは崖へと走り、退治しようと動き出す。
だがここでまたひとつ、違和感を覚えた。
竜は翼を動かし、宙で身をうねらせて地上へと降りてくる。とてつもない速度で。落下しているみたいに。
まるで地面を目指しているかのような速度で滑空する竜の軌道。どう考えてもその目標地点はシオンの居る崖であり、少女はそれを真正面から捉えていた。
は? こいつは何をしてる?
迫る巨体。
シオンは「ちょ、待っ」と言いながら、ようやく踵を返した。
直後、着弾。
まさに砲撃。あの巨躯の中に火薬でも詰まっているのかと思えるほどの圧倒的な破壊力が、断崖を直撃し、粉砕した。
「うおあッ?!」
爆風に煽られたシオンの身体が、ごろごろと土煙の中から転がり出る。すぐに体勢を立て直したとき、竜は既に飛び去ったあとだ。
だが向かう先は斜塔ではない。竜の頭は反対方向へ――街の方へと向けられた。
竜の通った後には黒い霧が尾を曳き、それは真っ黒な粉雪のように、地上へ降り注ぐ。
だがそんなことは二の次だ。シオンは敵の狙いに気付くや否や、街に向けて全速力で駆け出した。
……そうだと言える証拠はない。でも確信した。
「おいこら! ばかトカゲ!」
走りながら、上空を行く竜へと罵声を浴びせるシオン。
「てめえの持ち場は斜塔だろーがよ、空飛ぶナメクジ! モクモクと薄汚ねえケムリ吐きやがって、休憩中かコノヤロー!」
……煽ったところで反応は無し。
「くそ!」
お喋りを捨てて加速するシオンの前に、小さな影が降ってきた。
どさっ。どさっ。
影はひとつふたつと落ちてくる。
「あン?!」
謎の物体を避けつつ、目つきを悪くしてモノの正体を見てみる。
野鳥だった。
「うげ……」
ぎょっとしていると、またばさりと落ちてくる。
どさっ、どさっ、どさっ。
次々落ちてくる。まるで木の実だ。
明らかな異変。それも鳥だけではない。
シオンの走っている林道の木々が、不穏な風にざわめき、がさがさと揺れている。そちらに目を向けると、青々しいはずの若葉が、見る見るうちに茶色く変色していくではないか。
――焦げ臭い。
硝煙ではない。しかし気が付けば、辺りには黒いもやがかかっていた。竜の煙が、降り注いでいるのだ。
シオンは走るものの、竜には追いつけない。
毒の霧を纏った巨体は既に街へ辿り着き、上空を周回している。
攻撃の気配はない。だが、黒い霧が街を覆う始めた。
……どうして、街を狙うんだ。
ひとしきり粉を撒いたあと、竜は街に降りることなく、再び斜塔の方へ戻っていった。
しかし、シオンは街に向けた足を止めない。一刻も早く街へ入り、住民の様子を診なければ。
毎朝、シオンが街に運んでいる薬は、天使が作りだした万能薬だ。主たる素材にはシオンの血が使用されており、森の瘴気による病にも通用する。つまりシオンの血を数滴与えれば、この毒霧に冒された場合でも、治療は可能なはず。
斜塔と住民の頑丈さを比べた場合、脆いのは確実に後者だ。
経験したくもない寒気が、頭の後ろをひやりと撫でてくる。
間に合う。まだ間に合う。
肝が冷え切ってなお凍てつくこの窮地にありながら、だからこそ強く感じてしまうものがあった。
焼けるような、胸の奥の熱い衝動――祈りだ。
まるで腹に溶鉱炉を設けたような灼熱が今、シオンを焦らせ、突き動かしていた。
「耐えろよ……頼む!」
誰かに向けた言葉。彼女の目には林道を抜けた先にある街……正確には、住民たちの姿が映っているはずだった。
林道を抜けた。城門はすぐそこだ。
「だからよおッ……!」
ぎし、と歯軋りし、シオンはこちらへ向かってくる巨大な気配に備え、グルカナイフを両手に持った。
「邪魔すんじゃねぇ――――ッ!」
長大な両翼を羽ばたかせ、終焉を運ぶ竜が再び、シオンへ向けて滑空してきていた。
崖に体当たりしてきたときと同等の激震が大地を粉砕、陥没させ、大気を揺るがす。
この間にも、ぶくぶくと膨れ上がる体内の熱気。活力だ。皆の信心が与えてくれる、心強い祈りだ。
なのに――冷や汗が背筋をなぞる。
脳裏を刺す悪寒を他所に追いやり、シオンは身体が熱い内に敵を討つことに決めた。
「この野郎!」
竜の体当たりをぎりぎりで躱した少女は、ひらりと巨体の背に飛び乗り、翼の根元を叩くべく、グルカナイフを振りかぶった。
この空飛ぶイモムシを対処するにあたり、普段と少し状況が変わっているが、倒し方自体はいつも通りでいいはずだ。翼を切り落とせば、こいつは無力化できる。
目標へ向けてナイフを振るうシオン。だがいきなり竜が吼え、身を捩り出した。
「うわっ」
足元が揺らぐ。バランスを崩した少女は振り落とされかける。
咄嗟にグルカナイフを離してダガーナイフを抜き、竜の背に突き立てて、そこに掴まった。
これが痛かったのかどうかはわからない。ともかく竜は翼で大気を打ち、シオンを乗せて飛翔した。
翼を切れば終わる。
なんて自分に言い聞かせて、大丈夫いつも通りだと思い込むようにしていたシオンだが……やはり、その程度でどうにかなるほど、慣れない環境というものは易しくなかった。
「……くそッ、降りればよかったッ……!」
竜に振り回されて、天地が真横に転び、左右へ真っ逆さまに落ちていくといったわけのわからない状態を経験するシオン。
突き刺したナイフに掴まってはいるが、ダガーナイフに返しなどついていない。間もなく血に濡れたナイフが肉からすっぽ抜けて、そのまま振り落とされるだろう。
シオンは多少慌てたものの、ならば剣が抜ける前に、と考えた。
柄を握る仕事を片手に任せ、もう一方の手で新たにダガーナイフを抜いて逆手に握り、それも竜の背に突き立てた。
これを新たな取っ手にして、再び短剣を抜く。それもまた、思い切り突き刺す。
巨体の背中に出来上がったのは、いくつもの持ち手。これだけあれば、暫くはくっついていられるだろう。
揺れにも慣れてきた。
「……よし」
シオンは刺した剣の柄のひとつを逆手に握ると、「ふヌっ!」と少女らしからぬ気合の声と共に引き下げ、竜の背中を掻っ捌いた。
投擲用の短剣は、横方向……つまり『切り裂く』ことには適していないし、肉の解体にも向いていない。それでもやはり、刃は刃。そして何より、今現在、シオンの身に滾る謎の熱気が、無理を可能にしていた。
鋸みたく刃を前後させて肉を裂く。
竜が暴れているからだろうか。心臓を刺しても出なかった筈の血が、霧のように噴き出した。
思わず目を細めるが、手は休めない。竜の悲鳴が聞こえている。
よし、効いてる。
シオンは更に力を籠めて、竜の頑丈な皮膚を、肉を、筋繊維を。ぶちぶちと強引に引き千切っていく。
血が潤滑油となって、ナイフの切れ味が悪くなる。すると使用中のものは潔く捨てて、新たなナイフで傷を開く。
竜が悲痛な声音で啼く。巨体が暴れる。が、こちらを振り落とそうという意思よりも、今は単に、痛みに身を捩っているように思えた。
「このっ、早く落ちろ!」
視界も不安定で、安心できる足場も無い。背中に貼りつくことにも集中しているために翼を狙えない今、シオンに出来ることは、目の前の傷を痛めつけることだけ。
シオンは焦っていた。焦りしかなかった。何故なら、追いやったものがすぐそこまで来ていたから。
気にしないようにするなんて無理だ。嫌だ。来るな。せめてこいつが落ちてから、
ぷつん――と。
まるで意識が事切れたように、全身の力がからっぽになった。
「――」
あ、と呟く力も無い。
次の瞬間、シオンは宙に投げ出されていた。うねった竜の動きに従って、空中へ、ぽん、と。
放り出されたシオンは何も出来ず、浮いている。
今や頭の中までからっぽだった。身を翻して突っ込んでくる竜に対しても、少女は何も考えることができなかった。
力が消失した。その原因はわかっている。
街が。人が。
死、
――だけど力を失った以上、やりようがない。
瞬後。
寸胴な竜の、塔をも揺るがす体当たりが空中に居るシオンを襲った。
これだけで終わらない。
巨大な砲弾はシオンを弾頭に、地面へ向けて真っ逆さま。間もなく地面へ激突した。
「――」
声など出るわけがない。
少女とは比べものにならないほどの体重を持つ竜と、大陸という大地の間に挟まれた、力なき小さな体。その矮躯が圧迫されて赤く弾けずに居られたのは、例の熱気の残滓、その恩恵だ。
砂埃にまみれた竜が起き上がると、ボロ雑巾という表現がまさに相応しい、少女の骸が地面にへばりついていた。
ぴくりとも動かない天使の姿を見た竜は、朱にまみれた泥を振り落とすこともなく、再び翼を広げ、飛翔する。風が砂と泥が巻き上がり、少女の残骸へと降り注いだ。
竜はそのまま、塔の方角へと飛び去って行く。その巨体の背に刻まれたはずの傷、天使による必死の抵抗はもはや癒えており、今は乾いた傷痕でしかなくなっていた。
「…………ごほっ……」
竜が消えて間もなく、シオンが息を吹き返した。肺と心臓が動き出して命が蘇生すると、身体のあちこちで焚火が弾けるような音が鳴り、肉体の再生が始まる。
痛みは感じない。コク、コクッと骨が戻っていく感覚はシオンの意識を徐々にはっきりとしたものに変えていく。
やがて、自分が仰向けで空を眺めていることに気が付いた少女は、普段の寝起きみたいにむくりと身を起こして、立ち上がった。
彼女は斜塔の方角に少しだけ顔を向けると、無言のまま、治りたての身体を引きずるようにして歩き出す。崖の方へ。
街は行かずとも、声で状況はわかる。
……街は、ひどく静かだ。
あの燃えるほど冷たかった怖気は消え失せ、今は何も感じない。
空に地鳴りが轟く。竜が塔にぶつかる音だ。
「……街を襲って、そのあとにわたしで、最後に斜塔かよ……」
治りたての身体を引きずるようにして、シオンは来た道を引き返す。
「えらく計画的じゃねーか……一体全体、誰の提案だ……?」
顔は俯きがちで、地面に向けて独り言のようにぼやく。
髪を梳いて、剣を現す。泥と埃でぼさぼさの髪は、それでも少女の指をするりと受け入れた。
指と指の間に挟まれているのは、ダガーナイフが一本。
もはや少女の身体には、グルカナイフを抜けるほどの力も残されていなかった。
住民は死んだ。シオンの身体に灼熱が訪れたときが、彼らの最期だったのだ。
人は苦しみの渦中にあるとき、最も天使にすがる傾向がある。だからこそシオンは害獣の森を広げて、力を蓄えていた。
「そのわたしの力を奪ってまで、世界を消したいのか」
今までのやり方を変え、まず人を殺して力を奪い、弱った天使に止めを刺す。邪魔者が居なくなったところで、存分に斜塔への攻撃を開始する。
「何がしたいんだよ、ほんと」
シオンの脚が止まり、肩が震え出す。
何度も救った世界に、どうして終焉が訪れるのか。
どうして世界は壊されなくちゃいけないのか。
何度救っても、何度助けても、いくら頑張っても。
「ほんと、マジでさあッ……!」
シオンは天を仰ぎ――怒鳴った。
「何がしたいんだよ、アンタは!」
咽喉が張り裂けるほどの大声で、ただひたすらに空へと最大級の怒号を放つ。
「居るんなら出てこい! どうしてこんなコトすんだよ! わたしもみんなも、こんなに頑張ってるのにさ! なんで壊したがるんだ! 答えろよ、クソボケタコ野郎ッ!」
自分が天使ならばという考えから、そこに居そうな目上の誰かに向けて、シオンは叫び続けた。
だが、何百年と黙り続けてきたやつに対して、返答など期待していない。
代わりにまた、鐘のような激突音が響いた。
「畜生……! くそったれ……! 畜生ッ……!」
恨みを籠めてシオンは歩き出す。
ハナクソほども晴れない鬱憤は、むしろ悔しさを増して五臓六腑を苛立たせる。そのぶん、シオンの脳味噌は冷えていた。
まだ自分は動けている。だから、諦めるには早いはず。きっと竜を倒せば元に戻る。みんな助かる。きっと助かる。
歯軋りして一歩一歩と崖へ向かう。うっすらと黒いもやが視界を遮る。なんともなかったそいつが口から肺に入り込むと、どうしてか咳き込んだ。粉っぽかった。粉っぽいからむせたに違いない。
決して、毒に侵されたわけではない。絶対に。天使だから。問題ないはずだ。
くそ野郎。
「天使なめんな……!」
確実に一歩ずつ進む。
かくん、と膝が折れた。
重心を支えられず、つまずいたみたいに前へ転ぶ。
半ば諦めて身を任せていたが……地面はやってこなかった。
代わりに、ぼふ、とクッションにぶつかった。
力が入らないシオンの身体はすぐに抱えあげられるが、考える必要を感じなかったため、少女はそのまま身を任せた。
道の脇に運ばれて、樹の根元に寝かされる。
「……あのさ」
目を瞑ったまま、シオンは相手を確認する前に言った。
「……莫迦か、おまえ」
運んでくれた人間に対し、天使が送ったのは簡素な罵倒。それが一体、何に向けられた発言なのかは定かではなかったが、男の方は苦笑したのち、彼女にこう提案した。
「少し休みましょう、天使殿」