森の外からこんにちは
大仕事を終えたシオンは、崖の上の森で水浴びをしていた。
そこは街を囲っている害獣の森と違い、澄んだ水と空気に満ちている。
街の住人からは『天使の加護』だのなんだの言われているが、本当のところはどうだかわからないし、シオンは信じていなかった。
だって、もしそんなものがあるのなら、害獣の森の瘴気だって、とっくに消えているはずなのだから。
汗や泥、仕事で付着した竜の血。森の瘴気もしっかりと水で洗い流す。瘴気が残ったまま街に行こうものなら、次の日には薬が大繁盛という事態になってしまう。
普段通りに水浴びを済ませたシオンは、服を着て、適当に髪を拭きつつ小屋に戻る。
すると。
「あ?」
見知らぬ青年がひとり、小屋の前に立っていた。
「……」
めんどくさいことになる気がした。が、そう思ったときには青年の目がこちらを捉えていた為に、もう逃げられなかった。
青年の髪は黒く、明らかにこの辺りの人間ではないことがわかる。埃っぽい外套を羽織っているところを見ると、旅人かもしれない。
「誰」
声をかけると、どうしてか青年は、面食らったように目を見開いた。口も僅かに開きっぱなしで、まるで会えるとは思っていなかったとでも言いたげな表情である。
「……なんか用?」
歩み寄りながら、髪を拭きながら。シオンはついでのように尋ねた。
返答はまだ来ない。一般的に対話する距離までずんずか近付いて、遠目で見るよりも割と身長の高い彼の眼を見上げて、もう一度、尋ねる。
「おい。なんか用?」
青年の、揺らめく黒い瞳と視線がぶつかる。
「……貴女が」
「ん?」
見つめ合うこと数秒。シオンの質問からかなり遅れて、ようやく、青年の口から声が発せられた。
「貴女が……天使様ですか」
こちらの問いの答えではなかったが、その声は見た目相応の若々しさと、しかし不相応の落ち着きが共存しており、聞き心地は良かった。
天使様と呼ばれたのは何十年ぶりだろうか。敬いのある態度は苦手なシオンだが、ここはとりあえず、「そうだけど」と答えておいた。
すると青年は、何を思ったか。
「やはり……!」
と、例えるならまさに暗中で希望を見つけたような喜びの表情を浮かべ。かと思えばいきなりしゃがみ込み、片膝をついて頭を垂れたではないか。
「は?」
王に傅く騎士じみた態度を突如として自分に向けられ、シオンは大いに困惑した。
「わたくしは、メブキと申します」
「はあ」
えらく堅っ苦しい口調で、青年は切り出す。
「率直に申し上げます。天使様、貴女の力が必要です」
「……は?」
「今、近隣諸国では戦の種火が燻っており、国家間の戦争が勃発するのも時間の問題です」
「はあ」
さほど気にもならないし、緊張しているのもあるだろうが、彼の話す言葉は、ここではない遠方の地のものであろう訛りが感じられた。
「害獣の脅威もある中、人間同士が争ってはそれぞれの国が孤立してしまう……そういった危惧に賛同した者たちの代表として、わたくしはこの地を訪れました」
「ああ、そうなの」
「我々は、全国家間で同盟を結び、人類総出で、害獣の息の根を止めようと考えています」
「うん」
「同族の無駄な血を流さぬ為にも……どうか、各国の政府との交渉に、協力していただけないでしょうか」
「あーハイハイ。そっか、なるほどね」
終始テキトーに相槌を打っていたシオンだが、話の内容は概ね理解していた。
戦争が始まりそうだけど、本当の敵は害獣だから喧嘩はおやめなさい。むしろ手を取り合い、共通の敵と戦いましょう。だけどああ、誰も話を聞いてくれない。
そうだ、天使様直々にお言葉をいただけたら、きっと全員頷いてくれるだろう。うん、そうしよう。
なるほどなるほど。
「断る」
きっぱり。
「めんどくさい」
そう付け加えて、シオンはこれを返事とした。
じゃあね、と別れを告げようとしたが、これは未遂に終わる。青年が立ち上がり、口を開いたからだ。
「そ、その理由を、お聞かせください」
「めんどくさいって言ったじゃん」
「戦火に晒されている人々を救うことが、ですかっ?」
「……あー。そっか」
青年――メブキの言いように、シオンはひとつ思い当たった。
「あのさ、キミ」
「はい」
「天使ってものを、どういうものだと思い込んでる(・・・・・・)?」
「思い……こんでいる?」
シオンの問い方に気付いた彼の表情が、怪訝なものに変わる。
「知ってる話でいいからさ。先にそっちだけ聞かせてよ」
「……終焉を迎えた世界に現れる救世主と、私は」
「なんだ、わかってんじゃん」
「はあ……?」
いまいち腑に落ちない様子のメブキ青年へ、シオンは説明する。
「わたしは天使だよ。んで、世界を救うよ」
真剣みのない言い方だったが、青年の方は静かに聞いていた。
「この地で終焉を退けて、この世界を延命する。それがわたしの仕事なんだ」
「つまり……?」
「他所のお前の頼みは聞けない。終焉は七日に一度、絶対に崖へやってくる。なのに国外で外泊なんて、冗談じゃない。そうじゃなくても、この国は害獣の森に囲まれてるんだ。わたしが居なきゃ、この国はどこよりも早く森の瘴気に呑まれる……外国と違って、ココは城壁しかないからな」
「だから、この地を離れるわけにはいかない、と」
「そゆこと。あ、終焉の日に戻ってくればいいじゃんって意見も無駄だよ。わたしが居ない間、ずっとこの国が無事っていう保証はないんだから」
終焉はどんな手段で来るかわからない。と、次々に国を離れる理由を潰していくシオン。とってつけたものではなく、実際、そうである可能性が高いから、事細かに伝えているだけだ。
「それに、最初に言ったろ。めんどくさいってさ」
可能性がある限り、離れることはできない。ここと違って、その近隣諸国とやらは、害獣を退ける、少なくとも戦争を起こせるくらいの武装があるはずだ。だから余計に、シオンは助けに行く必要性を感じなかった。
「あー、害獣の森の話が出たついでに、ひとつ訊くぞ」
「なんでしょう」
「お前、どうやって森を抜けてきた?」
森とは、ここら一帯を覆い囲んでいる深い森、人呼んで《害獣の森》のことを指す。
終焉による異変で獰猛化した危険な獣が生息し、更には人間にとって致命的な病毒となる、瘴気の温床となっている。
だからこそ、シオンの住む国は世界地図から孤立したのだ。外交が一切不可能である為に、城壁以外の防衛手段すら持てずにいる。文明も、かなり遅れている。
何十年もだ。
その間、ずっと外部からの干渉と、内部からの脱出を阻み続けた死の森を、どうやって目の前の青年は突破してきたのだろうか。
シオンはそこが気になっていた。
「……我々(・・)は、ひとつの旅団でした。その森に、入る前までは」
青年は視線を逸らすことなく、まっすぐにそう切り出した。しかし、たったそれだけの言葉が、既に何よりの答えとなっていた。
「害獣の森に踏み込む準備は万全でした。我々の同胞には、腕の立つ騎士や、名のある薬師、それに……」
自身の腰に手を廻した青年は、ベルトからそれを外して、見せてくれた。
焦げ茶色をした、革袋らしき物体。どうやら顔の形を模しているらしく、両目の位置には透明なレンズが、口と頬には、金属製の丸い積み木のようなものがくっついていた。
「防毒マスクです。こういった備えもあったので、病に悩まされることはありませんでした」
つまり。
「害獣にやられたってことか」
「……はい」
マスクを腰に戻して、青年は一層表情を引き締めた。
「生き残ったのは、私だけです。……仲間の為にも、手ぶらで帰ることはできません。どうか、わたくしと一緒に来ていただけないでしょうか?」
力強い懇願だった。仲間や国に対する、彼の想いが窺える。
シオンは、溜め息をついた。
「確かに、わたしはみんなを守るよ。けどさあ……」
後頭部を掻きながら、彼が納得するよう言葉を選んで説明する。
「わたしは、一人しか居ないんだよ。人間ひとりひとり、国をひとつひとつ助けていくなんてできないんだ。さっきも言ったけど、わたしが居ない間に、ここで何が起きるかわからないんだよ。だからわたしは、ここから動けない。世界を救うことで、みんなをぜんぶ守ってるんだ。それ以上のことなんかできないし、どっかの国の味方につくなんてこともしないよ。……おまけに」
ここからは、本心の中でも特筆すべき本心だ。
「わたしは、戦争するやつらが大っ嫌いだ」
変わらぬ語気で、はっきりと言い切る。
「終焉を遠ざけても、結局殺し合ってる。意味ないじゃん。救う意味がさ。だから、どーでもいいんだよ。そんなバカ、滅んで当然だ」
天使らしからぬ発言をぽんぽんこなすシオンを、青年は眉一つ動かさない真剣な顔で見つめている。
「いっそ害獣に攻め込まれた方が、そいつらの為になるんじゃないの?」
さあ諦めて帰れという意味も暗にこめて、シオンは半笑い気味に言ってやった。
すると、青年から今までの強気な姿勢が少し失せて、彼は思案するように俯いた。
「……やはり、ここを離れるにはリスクが多すぎるのですね」
「まーね」
「そう、ですか」
「うん。残念だけどな」
そう言っておいてから、シオンは「まあ、そうだなあ」と付け加えた。
「わたしの気が変わるまで、ずーっとわたしに尽くしてくれるってんなら。なーんでも言うコト聞くってんなら? まあ、考えてやらないでもないかなあー」
「気が変わるまで、ですか」
「うん」
要するに、変えてやる気はないということだ。青年も、それぐらいはわかるだろう。
「どーする? 帰る? あと五秒」
「わかりました」
「お」
四を数えるまでもなく、青年の答えが返ってきた。
「はやいね」
「……選択肢など無いと、わかったもので」
そう言いながらも、自分の中で整理をつけているようだ。今しがた彼が漏らした小さな溜め息は、どう考えても妥協の塊だ。
「従います。天使様の気が変わるまで、ご奉仕させてください」
「だろ? さ、森の外まで送ってやるから……あ?」
こいつ、なんてった?
「おい。今、ここに残るって言ったか?」
「はい」
「ハイってお前……」
「駄目ですか?」
「いや、フツーあんな条件出されたら、諦めて帰るもんじゃないの?」
「なんの成果も無しに帰ることは出来ませんから」
「だからって……」
ああ、なるほど。こいつはめんどくさいぞ。
変な奴に捕まってしまった。くそ、遊び半分で同情じみた条件なんか、ださなきゃよかった。
「……くっそ」
いかがです? みたいな顔で見てくるアホ面が鬱陶しい。
ええい、こうなったら根競べだ。いいだけ使い倒して、意地でも残りたがるその考え方を変えさせてやる。
「おい。出来るだけ追い出すようなことするけど、我慢しろよ」
「……なんだか理不尽な気もしますが、わかりました」
ふうん。自分の立場はわかってるらしい。命令に弱いなこいつ。
早速、彼の扱い方をひとつ覚えたシオンであった。
「まあ、考えようによっては、これも収穫の一つかもしれません」
「は? なんでよ」
「実はわたくし、こういうものに所属していまして」
そう言って青年が懐から取り出したのは、小さな銀色の懐中時計だった。その蓋には、どう見ても天使の両翼じみた意匠がある。
「天使様を敬う教団、その一員となった証です。その実態は、ただの地域奉仕団体ですけど」
「はあ」
「ここでいっときでも天使様に仕えたことがあるという経験は、孤児院や仲間への、いい土産話にもなります。それに」
時計を握り、青年は句を継いだ。
「わたくし個人としても、天使様に会えたこと、とても嬉しく思っております」
「あア?」
わたくし、だア?
彼の発言に耳を疑うシオン。しかし彼は胸に手をやって、真正面から、何かを誓うように告げてくる。
「力及ばぬこともありましょうが、このメブキを、どうぞ好きに使ってやってください」
ゆるりと青年の表情が崩れ、笑顔が覗く。その顔つきはやはりまだ子供で、彼がまだ二十にもなっていないことがシオンにはわかった。
「……まさかお前、マジもんの信者じゃないだろーな」
「まじもん?」
「ことあるごとに祈りを捧げるような連中のことだよ。そんなことするんじゃないぞ。やったら森に捨てるぞ」
シオンが嫌悪をこめて言うと、青年は困ったふうに笑って、答えた。
「そこまで熱心ではありませんので、ご安心ください。嬉しいというのは、ただ単純に、わたくしがそう思っただけです」
「会えるとわかってて来たんじゃないのか」
「そうですが、なんと言いますか……」
「なんだよ」
「失礼を承知で申し上げます。天使様が、その。そ……想像していたよりも、魅力的な方だったもので、つい。だから、会えて良かったと、思ってしまった次第です。はい」
全部言ったくせに赤くなった頬を掻いて、「それだけです」と青年は締めくくった。
シオンはいまいち彼の反応を理解できていなかったし、どう対応したものかと内心あわてていたが、まあ、悪いことを言われたわけではないので、「あっそう」と流すことにした。
「……じゃ、さっそく頼みごとな」
「はい。なんなりと」
「その堅っ苦しい喋り方と態度をやめろ。疲れる」
「……しかし、天使様に対してそのような」
「んーなの考えなくていいって。天使様が言ってるんだから、素直に改めろよ」
「ですが」
「出来ないなら帰れ」
「えっ」
「だってそうだろ。一緒に居て疲れる奴なんか、ただ疲れるだけじゃん」
シオンは背を向け家に戻ろうとする。
「友達感覚で話せとは言わないよ。ただ、天使様ってのはやめてくれ」
「『天使様』、と呼ばなければいいのですね?」
あ。そこだけ変えるつもりだこいつ。
「あのさあ……こっちが既に何歩か譲ってんだから、お前も少しは妥協しろ。一人称も変えろ。さもなきゃほんとに無理やりにでも帰っ」
「では、天使殿と呼ばせていただきます」
「どの?」
サマ、が、ドノ、になった。
「これが、精神的に限界です。これ以上砕けた態度は、わたく……私には、とてもとれません」
天使殿、ねえ……。
「妥協してほしいかよ」
返事は、ナシ。無言の視線は、懇願の色。
「……わかったよ」
めんどくさいことに対しては、忍耐力の無いシオンであった。
「せめて、役に立つってとこ見せてくれよ」
「は、はいっ、天使殿」
いい返事だったが、シオンは既に疲労感を覚えており、溜め息をついていた。
そして仕事を与えるべく、小屋のドアを開くのだった。
シオンの自宅の内装は、簡素な山小屋のようで、決して広くはない。まあ、農家が農具や荷車をしまう納屋としては、丁度いいくらいだ。
玄関の戸を開けて左右を眺めれば、一間しかない部屋の空間全てが見渡せる。
流しと寝台がある以外は特に目立つ家具も無く、一人で住むには充分な広さを感じさせるほど、部屋はすっきりとしていた。
ただ。
床を見なければの話。
「ちょっと散らかってるけど、まあ気にすんなよ」
青年の職場となる我が家を案内せんとするシオンは、まずそう言った。
「……確かに、散らかってますね」
「ちょっと、だぞ」
「ちょっと、ですか」
少なくとも、シオンはそう思っていた。
だって床は見えてるし、食器だって流しに置いてある。
ただ、敷物のように衣服が床を覆ってしまっていたり、食器が全部、ずっと前から水に浸かっているのは、まぁそろそろ考えどころかなとは思っている。
ゴミはゴミとゴミがゴミを成し、日に日に新たなゴミを生んでいる。その様子をシオンは、散乱というよりも産卵だなと、ふふっと、密かに笑う。まあ実際は、ゴミを部屋にポイ捨てしているせいなのだが。
「何遠慮してんだ。いいから入れよ」
「いえ、あの、その……」
戸口に立ったまま、メブキは何故か部屋から目を逸らしている。
「なんだよ。散らかってるって言ったろ」
「そうですが……散らかってるものが、その」
戸惑っているメブキの目が、ちらりと床に落ちる。
それでようやく、シオンも「ああ」と納得した。
部屋のそこかしこに落ちている、白い布たち。
上着、肌着、そして下着類。
頬を赤くしているメブキに、シオンは呆れた。
「お前なー。これから炊事洗濯全部任されるっていう召し使いもどきが、この程度で赤くなるなよなー」
言ってシオンはひょいとひとつ摘まみ上げ、メブキへ向けて放り投げる。
「ぅぶっ?」
他所を見ていた彼の頬に命中。反射的に手に取った青年は、それがパンツとわかるなり放り投げようとして、しかし天使の着物をそんな扱いをするわけにもいかず手に握ろうか離そうか混乱しきった様子、つまりははた目から見て面白い挙動を見せたあと。
「ななな何をするんですかっ!」
と怒鳴ってきた。
パンツの両端を、小指を立てて摘まみ持つメブキに対し、シオンは「うるさい」の一言で片付け、「まずは洗濯だぞ」と早速仕事を命じる。
「これ全部、ですよね」
「当たり前だろ」
「しまってないだけじゃ、ないんですか?」
「最近洗ったのは、今穿いてるのが最後」
「て、天使殿……」
信じられない。天使うんぬん関係なく、ここまでとっ散らかった部屋で何日も生活しているなんて。
と。メブキの顔は、そんな内心を物語っていた。
「なんだよ。幻滅したなら帰れ。夢見がちな自分を呪って今すぐ帰れ」
「そ、そんなことはありません! やります! やらせていただきます!」
「四日前のパンツ握り締めて言うな」
ていうかさっき、洗ってないものを顔面にぶつけてしまった。まぁ、天使を崇拝してる教団の一員らしいし、大丈夫か。むしろご褒美じゃん?
などとくだらないことを考えながら、シオンは散らばっている衣服をひょいひょい拾って、容赦なく放り渡していく。
「お前も拾えって」
「は、はいッ!」
背筋を伸ばしたメブキは顔を赤くしたまま、しかし従順に床の布を拾い始めた。
「三着いくらの安物ばっかだから、乱暴に洗ってもいーよ」
「わわカリマした」
緊張に硬くなっているメブキ。その手はせっせと衣服を拾ってはいるものの。
「おい」
「な、なんでしょう?」
天使の眼は、目ざとくも彼の行動に気が付いた。
「パンツを避けるな」
図星。青年の顔がまた、更に赤くなる。
「す、すみませんが、その、下着類は、お任せしてもいいですか」
「やだよめんどくさい」
「そんなッ!」
「天使が脱ぎ散らかした下着だぞ? 掴み取りだぞ? こんな機会、滅多に無いぞ?」
「意味がわかりません……」
「あ、そーだ。ついでだから今着てるのも洗っちゃおう」
言って即刻、シオンは上着を脱ぎ始める。「ぶフっ!」とメブキが噴き出す。
「こッ、こんなところで脱がないでくださいッ!」
「ここはわたしの部屋だバカ」
悲鳴じみて命令めいた懇願も聞かず、シオンは上も下も中も脱ぎ、それらもまとめてメブキに投げつけた。
「洗い場は森に入ったとこにあるから。干す場所も行けばわかると思うし、終わったら次は掃除な。多分今日だけじゃ全部片付かないから、自分の中で区切りがつくとこまででいーよ。食材の調達とかも教えないといけないし」
言いながらも脱ぐ手は休めない。
衣服の下からは天使の名に恥じぬ純白の肢体が現れたが、ゴミ屋敷の中心でそれは、ただのだらしない女の子でしかなかった。
メブキは明後日を見ている。それは勿論、裸のシオンを視界に納めないようにする為だ。
「おーい、人が指示してんだろ。今言ったこと、わかったか?」
「はい……」
「じゃ、わたしは寝るから」
「あの、その前に何か着てください。風邪を引きますよ」
「シーツあるから大丈夫だよ」
「駄目です! もっと恥じらいを持ってください!」
「うるさいなぁお前は」
既にベッドへ片膝を乗せていたシオンは、折角の流麗な銀髪に手を突っ込んで、乱暴に頭を掻き毟りつつ、メブキのもとへ移動する。全裸である。
「ななななななんですか!」
「さっき渡したのを着るんだよ」
「あ、あー……」
メブキの抱えた洗濯物をごそごそやって、シオンはさっきまで身につけていたと思われる肌着と下着を抜き取り、上をがぼっとかぶって、下をぐいっと身につける。
「これでいーだろ。ほらさっさと働け。わたしは寝る」
これ以上何かめんどくさいことを言われる前にと、シオンは口うるさい使用人見習いを外へ蹴り出して、さっさとベッドに潜り込んだ。
色々疲れたお蔭で、すぐに瞼が重くなる。シオンはそれに逆らわず、起きたときにどれだけ掃除が進んでいるか、少しだけ楽しみにしつつ、目を閉じた。
「……む」
あることに気付き、目が開いた。
パンツのゴムが緩い。今着てるこれ、一昨日のだな。
「…………ま、いっか」
こてんと、就寝。
くったりと、睡眠。
ふんわりと、安らぎ。
――夢を、見る。
それは、記憶。
見たこと無い筈なのに、眼底と脳裏へ焼きついた、この世界の原点、生い立ち。
神に忘れられたこの世界は、どの世界よりも希望に満ちていた。
悲痛な叫び。
苦悩の悶え。
悲嘆の咽び。
暴力的な、祈りの狂乱。
絶望色の中で、確かに溢れる、《奇跡を望む声》。
人間はただ縋り、地に膝をつけ、空に祈りを捧げる。
創られた数百億のうちのひとつでしかない、その世界の擦り切れた声が、まさか神に届くわけもなく。
むしろ存在など忘れられ、既に庇護されぬ場所となったそこは、日々刻々と、あらゆる大地に崩壊の傷が刻まれていった。
しかし、ある時。
あまりにも膨大な人間の……神そっくりの生物が吐き出した無数の《希望を望む声》は、たったひとつの《奇跡》を生む。
背に翼を持つ一人の子ども――天使の誕生だ。
それは煤と煙に閉ざされた地上に落ちた、一滴の光の雫。
それは瓦礫の丘の上に咲いた、一輪の白い花。
辺りに立ち込める陰鬱な群雲を、居るだけでほのかに照らす純白の肌。光を必要とせず、自ら輝く銀色の髪。何にも劣らない、まばゆい白銀の翼。
どう足掻いても、どんなに思考が歪んでいても、どんな絶望を抱いていても。
それは希望の塊でしかなかった。誰もがひと目で直感した。
人々は喜びに歓びを重ね、嬉しさに悶え、恨み切った世界に感謝を告げた。
救世の祈り、奇跡を願う祈り、前向きな希望に満ちた輝かしい祈り。
天使はそれを一身に受け、願いを得る毎に翼は大きく、より大きく強靭なものへと成長した。
大きく――大きく。
尽きることなく、耐えることなく、けしてやむことなく。
成長、してしまった。
このとき、世界の人口はおよそ十億。
祈りの数も、およそ十億。
十億。
少女の背に、救済を望む十億もの想い。
助けてくれ。
どうか奇跡を。
お願いします。
神様。
これで助かる。
……十億もの、想い。
お願い。
助けて。
もう嫌だ。
助けて。
天使様。
……重い、重い、祈り。
それらを全て受け止め、膨らみ過ぎた白銀の両翼は、もはや彼女一人が自力で支えられるものではなくなってしまっていた。
大の男たちが協力して持ち上げなければならないほど、翼は大きく育ってしまったのだ。
とてもじゃないが、羽ばたけるような代物ではない。
飛ばない天使に、人々は首を傾げる。
え?
なんで?
どうして?
世界から感情が消失する。
飛べない。
跳べもしない。
身動きすら出来ない、天使の少女。
絶望を通り越し、色の無い、灰色の視線が集まる。
天が輝き、雷光が迸る。
人も天使も、一様に空を仰ぐ。
初めての終焉。
周囲の人間が呆然と立ち尽くし、無感情に終焉を待ち受けていたその刹那の間に。
天使は。
飛び立つための翼を――捨てた。
両翼の持つ奇跡の力を握り締め、天より迫りくる雷槌へと跳び込んだ。
瞬後、辺りは白光に覆われ、後には翼の如き白銀の輝きを宿した短剣を握る、天使の少女が立っていた。
背中に翼は無く、以降も、生え変わることは無かった。
天使は飛べなくなった。神の許へ行くことも出来なくなった。
しかし彼女が剣を振るうことで、世界はたった七日間の、その場凌ぎの平和を得た。
結果として……人々は天使に感謝した。大いに感謝した。心から感謝した。
が。
十年余りの時が経った頃、その感謝は怨みへと転換した。
お前のせいで。
お前が飛べないから。
この世界は。
この世界は。
――わたしのせいで。
「…………ん」
夕刻の冷めた空気にぶるりと身震いし、シオンは目を覚ました。
あまり、いい目覚め方ではなかった。
寒かったというのもあるが、嫌なものから目を背けたような、そんな感覚もある。
「……」
ともかく、いい目覚め方ではなかった。
きっぱりそう片付け、シオンはむくりと身を起こす。
ごしごしごしごし。
目を擦る。
とんとんとんとん。
音がした。
包丁……台所?
寝ぼけた頭とぼやけた視界で正体を探す。
するとそれは、すぐに見つかった。
さっきの音は、流しの辺りに立つ青年が、正確にはその手元が発していたようだ。
ベッドを降りて、ぺたぺたと近付く。
既に違和感。
足元を見る。服が落ちてない。埃っぽくない。床がつやつやしてる。
「……」
部屋を見渡す。
まるで、全部捨てられたみたいだった。
特にどこがどう変わったとか、少ない家具の配置だとか、その辺は何も変化が無い。
ただ、非常に綺麗さっぱりとした印象の空間が、ここにあった。
シオンは召し使いの掃除の成果に少なからず感心して、テーブルの席についた。
すぐ傍の流し台では、青年が忙しなくも落ち着いた動きで、鍋やらなんやらをいじっていた。
「……なにしてんの?」
「うおあアッ!」
彼らしからぬ男らしい声の、でも悲鳴だった。
「て、天使殿……おはようございます」
「夜だけどね」
で。
「何してんの」
「夕食の準備ですが」
「あ、そう」
「はい」
まだ一日と経っていないのに、それに初めて見る筈なのに、シオンの目に映るメブキは、すっかりこの家の台所が似合ってしまっていた。
ただ、首に提げた、胸から膝までを覆う白い布と、烏賊の頭みたいな頭の三角形の布が気になる。カラーリングに対して少しだけ外国に関する知識と重なる部分があったが、まあ違うだろうということ前提で、シオンは尋ねてみた。
「変なカッコしてんね。天使直々に弔ってやろーか」
「死に装束じゃないです。これは私の国で使っている、調理の時の正装ですよ」
「なんでそんなもん旅に持って出てるのさ」
「思いのほか荷物が少なかったもので、なんとなく」
「馬鹿だろ」
「たまに、いや、よく言われます」
ぶしゅうー。
メブキの後ろで鍋が沸騰し、蓋が跳ねた。
「うおぅッ!」と、また男らしい叫びをひとつ、メブキが慌てた様子で鍋を火から下ろす。
よく見ればその隣の火でも、木蓋の伏せられた黒っぽい器が沸々と湯気を立てている。
多分、米。
そっちに関しては、街でも売られているし、シオンも一発でわかった。
しかし、炊飯に用いている器が知ってるものと違う気がして、シオンは興味を抱いたままに近寄ってみる。
煤が付着したような、鉄の器。下側が黒くて、上がくすんだ銀色だ。乗っている木蓋がふつふつと微かに踊り、蒸気を噴出している。
寄ってみると、自分の知る米とは香りが全然違った。なんだか、甘そうだ。
「……米か?」
ひょいと、ひとつ落ちていた白い粒を拾って眺める。
しかし、シオンが知る米……見た目は細長く、両端の尖った、炊き上がりもパサついたものとは、少々様子が違うようだった。
「これは私の国のお米です。ここらのものと違って小粒ですけど、粘り気があって、甘みもあっておいしいですよ」
「ふーん」
その国のお米とやらの姿が気になり、シオンは蓋を取ってみた。
途端、濃厚な白煙が顔面にへばりついてきた。
「ォわっ!」
とてつもなく白いて熱い、それでちょっと甘い感じのする、粘膜の塊みたいなのっぺりとした蒸気がシオンを襲った。
慌てて蓋を戻し、シオンは手で顔を拭いながら、後方に避難する。
「……大丈夫ですか?」
そう尋ねてくるメブキは苦笑していた。
「天使さまになんてことしやがる」
「何もしてませんよ」
鼻腔に甘めの香りを感じながら料理人を睨むシオンだが、相手は既に調理場へ戻ってしまっていた。
「裏手の森は自然が豊かでいいですね。これも天使殿のお力ですか?」
「なんでもかんでも天使の力って言えば解決すると思うなよ」
ぎっ、と食卓の椅子に腰かけつつ、警告する。
「わたしが持ってるのは、薬の知識と……らしい力といえば、これぐらいか」
振り向いたメブキの前で、シオンは髪を梳き、銀の短剣を現した。
「まるで、魔法ですね」
「手品だよ」
やはりまず『奇跡』と思い込む青年に、シオンはうんざりした。
「剣を造ったわけじゃない。これは元々、わたしの羽根なんだ」
「はね?」
「羽根。天使には、翼があるだろ」
「ああ、そういえば……」
言われて初めて気が付いたみたいに、メブキの視線が、シオンの背の辺りに注目した。
「天使の持ってる力は全部、翼から供給される。そもそも翼ってのは、お前ら人間の、祈りの結晶なんだよ」
ぽんと音を立てて、ナイフが白い羽根に戻る。
「みんながわたしと頼って、信じてくれる力。……教団ふうに言えば、信心ってやつかな。それが、天使の力の発生源だ」
濁りのない純白の羽根は、シオンの手の上で、微弱な発光を見せている。
「天使は、世界にわたしひとりしか居ない。だから出来るだけ長く力を温存する為に、わたしは翼を身体に隠してるんだ」
羽根は少しずつ光を失うにつれ、その輪郭もおぼろげになっていく。
「……では、誰も天使殿を信用しなくなれば……?」
「終わりだね。まあ、そんなことは無いと思うけどさ」
確信をもって、シオンは言う。
「誰でも、心の底では奇跡を信じてるもんだよ。どれだけ性根の腐ったやつだって、この世の危機に救世主が現れれば、絶対に頼る。口や態度に出してなくても、わたしにはわかるんだ。……おっ」
まじめな話をしておきながら、食卓に置かれた料理を見るなり、もはやシオンはぜんぶを忘れた。なにせ、それがあまりに見慣れない、それでいて、美味そうな料理だったから。
「やっぱ召使いってのは、居ると便利だな!」
使える料理人にシオンは、にかっ、と笑いかけていた。