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終焉見るなら、この場所で。  作者: 鳩村ピジョン
1/6

おはよう終焉

 天使の朝は早い。

 早朝の光がくすんだ窓を介して部屋に差し込む頃、少女は目を覚ます。

 毎日毎日、森の小鳥も鳴いていない時間に起きる彼女ではあるが、あまり寝覚めが良いわけではない。

 半開きの瞼はそれ以上ぴくりとも上がらず、半ば覗いている瞳は、まるで死人のように、意図なく天井を眺めている。

 ぼ~っとした時間が流れた後で、ようやく、彼女は身を起こした。その動作もまた、ひどく緩慢だ。

「…………あさ」

 上体だけ起こした少女は、ぼさぼさの長い髪に手を突っ込み、後頭部をがりがり掻いた。のち、右へ、左へと上半身をぐいぐい捻り、パキパキと腰を鳴らす。

 それで身がほぐれたか、少女は一息ついてから、ベッドから降りた。

 台所へ向かうその寝巻姿は、非常にだらしない。

 上はえりそでもヨレてびろびろになったシャツ一枚。下は生地が擦れておしりが透けてきちゃってるパンツのみ……薄汚い布二枚という恰好のまま、少女は食卓につき、出しっぱなしだった丸パンをモソモソ齧りだす。口の水分をパンに吸い取られるので、合間に牛乳瓶を呷っては、またモソモソ齧る。

 薄暗い、山小屋みたいに質素な空間で、静寂の時間と食事が進む。

 埃が躍る窓際で、小鳥が囀りだした。少女はそちらを向き、パンの最後のひとカケを、口へ放り込んだ。

 ぼーっとしたまま、もすもすと咀嚼。

 ぎゅっ、と嚥下すると、食道を通過して胃に到達するだけの間が空いてから、残りの牛乳を全部呷った。

「――ぶはあ」

 こん、とテーブルに瓶を置く。ぬるい牛乳が、じわ~っと胃の中に広がっていく。

 この頃になって、シオンの意識は、ようやく覚醒するのだった。

 先程までは半分寝ていた目蓋も今やぱっちり開いており、そこには眠気の濁りなどどこにも無い。夏の新芽を思わせるような、鬱蒼とした深緑の瞳が、そこにはまっていた。

 薄汚れたシャツから覗く肌は、薄く小麦粉をまぶしたように白く、滑らかだ。光源の無い小屋の中で、その皮フはほのかに発光しているようにも見えた。

 食事を済ませた少女は、顔を洗い、仕事に備えて着替え始める。

 と言っても、外出用のシャツに着替えて、下は丈の短いズボンを穿くだけだ。食事といい着替えといい、彼女のずぼらな性格が表れている。

 着替え終えたシオンの姿は、少年のようにも見えた。腰まである流麗な銀髪さえ短ければ、きっと誰もが性別に迷うだろう。

 壁にかけてある革の鞄を手に取り、中身が入っていることを確認してから、表へ出る。

 向かう先は、最寄りの街。小屋を出て真っ直ぐに伸びている、静かな林道を潜り抜けた場所にある、正式に言えば、《国》だ。

 小国ながられっきとした城郭都市として存在するそこは、《天使の住む国》として神聖視されている。

 伝説やおとぎ話ではない。本当に、住んでいるのだ。

 今の世界は、実在する天使によって存続している。

 訪れる災いを退け、新たな一日を世界にもたらす奇跡の存在――それが、天使だった。

 しかし、天使が住んでいるとはいっても、その住居は国の外にある。

 人気ひとけのない東門を出てすぐの林道を、歩きに歩いて辿り着く、崖の付け根の掘立ほったて小屋。そこに天使は住んでおり、これは街の人間なら誰もが知っていることだ。

「おはよう、シオンちゃん」

 林道を抜けて城門に辿り着くなり、声をかけられる。彼女を迎えたのは、朝の東門を警備している、壮年の兵士だった。

「おはよー」

 挨拶を返したシオンは、門の横に立つ兵士の恰好に対し、さっそく眉根を寄せる。

「……あのさあ」

「なんでい」

「鎧とまではいかないけどさ、普段着はやめようよ」

 シオンの口調は、元から倦怠感のある間延びしたものなのだが、これは明らかに呆れが手伝っていた。

「これが俺の仕事着さ。動きやすいし、堅苦しさもねエぞ」

「油断しすぎだよ。ただの槍もったオッサンじゃんか」

「へっ。なァに、ここらの獣風情、裸でだって退治できらァ」

「獣ならいいけど、《害獣ガイジュウ》が出たらどーすんのさ」

「そんときゃ、それこそ門番の仕事を果たしてやるさ」

「どうやって?」

「叫ぶんだ。『害獣が出たぞー!』ってな」

 かっかっか! と、実に気の良いオッサンらしい笑い声をあげる、壮年の兵士。

「戦う気はないんだ」

「そりゃな! 人間おれらじゃ勝てねエって、お前さんが一番よく知ってるだろ?」

「まあね」

「人の世に現れた、人の世離れした兇悪なケダモノ。それを倒せるのは、救世主たる天使様だけ、ってな」

 兵士はシオンに背を向け、城壁の上に居る部下に合図を送りつつ、話を続けた。

「奴らは《終焉しゅうえん》の片鱗。それらから我々人間を救うのが、天使サマのお仕事、と……」

 子供の頃から何度も聞かされた昔話を思い出すように、壮年の兵士は締めくくった。

「大丈夫さ、俺たちは無茶なんかしねエ。せっかくシオンちゃんに救われてるこの命、そう容易く害獣なんかにゃやらねエし、ここぞってときしか賭けねエさ」

 振り返ってニカッと笑った兵士の笑顔は、若い頃と何も変わっていない。

「さっ。市場の連中が待ってるぜ」

 兵士の言葉に遅れて、城門が開き始める。

 シオンは軽い挨拶で兵士と別れると、仕事の始まりに、特に気合を入れることもなく。

 いつも通りにすたすたと、街へ入っていった。

 城壁があるぶん、街の空気は外よりも冷えていて、湿り気もある。が、空と雲の様子を見る限り、今日は晴れるはずだ。

 油断すると躓きかねないほど、手入れの出来ていない石畳を歩くシオン。彼女が向かったのは、街一番の広大さを持つ、中央広場だ。

 市場(市場)を設ける為に開けられたそこは、今朝も店の準備に勤しむ住人の姿が見受けられる。

 それでもやはり早朝。人っひとっけは非常に少ない。木箱や資材が路面を打つ音や、住人同士の短い挨拶が交わされるとき以外は、基本的に静寂である。

 しかし、さきほどシオンが出会った城門の兵士がそうだったように、誰かが彼女の訪れに気付くと、待ってましたといわんばかりに手を止めて、遠くからでも手を振るなどして挨拶をし始めるのだった。

 今日も今日とてそんな調子。シオンはみなへの返答として「おーう」と手を振りながら、広場の隅へ移動する。そこには、若い兵士が立っていた。

「よう、シオンちゃん。今日は冷えるねえ」

「おはよ。今朝も早いね」

「どこぞのオッサンに叩き起こされるからな。『シオンちゃんを待たせんじゃねエぞ』ってサ」

 若い兵士のその言葉と視線は、東門の壮年兵士へと向けられていた。

「『娘が欲しかったなア、娘が欲しかったなア』ってうるさいンだよ、あの親父」

「言い出したのは最近じゃんか。ちょっと前まで、一人息子にベッタベタだったよ」

 シオンは担いでいた革袋を渡しながら、昔のことを思い出す。

「シオンちゃんの言う最近って、俺がガキの頃だろ? 三歳とか四歳とかサ」

 納得いかない様子で返してくる二十歳の若年兵士。彼は革袋の中身を確認し、もう一度口を縛ると、丁寧に抱え直してシオンに向き直った。

「それじゃ、今日の分の薬、確かに受け取ったぜ」

「うん、あとよろしく」

「おうヨ」

 シオンが渡した革袋の中身は、天使お手製の粉薬だ。

 軽い熱風邪から始まり、流行り病、持病、死に至る猛毒まで。およそ病であればなんにでも効果のある、まさに万能薬である。

 さすがに一度の服用で回復するほどの即効性はないが、一日二回、朝と晩に飲んでおけば、老衰による足腰の痛み軋みまで改善できるので、街のご老体に大人気なのだ。

 それを兵士に渡したのは、薬の配布が、彼ら兵士の職務に含まれているからだ。

 昔はシオンが一件ずつ家をまわり配っていたのだが、あるとき、一人の兵士が手伝ってくれて以降、兵舎の者らが配ってくれることになった。

「あっ、そうだそうだシオンちゃん」

「んぁ?」

「森の害獣退治のことだけどサ」

「隊長から聞いてるよ。だいじょーぶ、これからやるから」

「いや、そうじゃなくてサ。まだ瘴気も濃くないし、急がなくてもいいっていうハナシがね」

「それも聞いた。けど、去年よりも繁殖期が早まってるっぽいんだよね」

「え、ホントに?」

「うん。仕事終わってから政府に直接報告するつもりだったけど、丁度いいや。政府うえの人に、そう伝えといてよ」

「あいヨ」

 若年の兵士に薬と言伝を頼むことで、いっぺんにふたつも用事が片付いた。さて、それでは例の害獣退治に森へ出かけよう。そう考えたとき。

キン――、と。耳鳴りがした。

「ん……」

 シオンは、咄嗟というには緩慢すぎる、『なんか音がしたからそっち向いた』程度の反応で、自宅のある崖の方を見やった。

 シオンだけではない。

 若い兵士も、市場に集まりだした周りの住人も、みな一様にシオンと同じ方を見ている。

 青空しかなかったはずの空間。そこには今……巨大な、漆黒の柱が現れていた。

 それはまっすぐ天を向かず、まるで隣国へ向けられた大砲のような傾斜で鎮座している。

 斜塔。それは人々から、《かなめの斜塔》と呼ばれている、水晶のような巨岩だった。

 カットされた宝石の輝きに、黒曜石じみた艶やかな岩肌。匠に手がけられたとしか思えない四角柱の巨体はしかし、自然に生まれたものだ。

 柱の先端は三角錐状に尖っており、その全貌を一言で表すならば、超巨大な一本の杭だ。

「あれ、もう七日目だっけ」

「早いなあ」

「ほんとになあ」

 斜塔を見上げる市場の住人は、露店設営の手を止め、汗をぬぐいながら会話する。

 緊張感の無い場と、人々の態度。そこにはシオンも含まれていた。

「七日ぶりの大仕事だな、シオンちゃん」

 少女の手には、今しがた八百屋のおっちゃんから貰ったトマトがひとつ、握られていた。

「そだね」

 塔を眺める八百屋の店主。その脇で、シオンは頂き物にかぶりつく。

 じゃぷっ、じゃぷっ、じゃぷっ。

 手のひら大もあるそれを、シオンはへたごと三口で平らげ、一気に飲み込む。もらったばかりの新鮮な栄養は、余すところなく少女の胃袋にぶちこまれた。

「ごちそうさま」

 口の周りを手の甲で拭い、小走りで駆けだす。

「行ってくる」

「気ぃつけてなあ」

 買い物に行く子供を見送るような気楽さで送り出され、シオンは大仕事をこなすべく、崖を目指して駆け出した。

かなめの斜塔》。

《要》と言われているからには当然、塔はなんらかのくさびとして存在していることになる。

 そしてその楔はこれから……破壊される。

 シオンの仕業ではない。

 少女に与えられた七日に一度の大仕事とは、要の斜塔を、破壊から守り抜くことだ。

 人々の住む国。

 国が建っている大地。

 その大地を見下ろす、大空。

 天、地、人が置かれた《世界》そのもの。それが、要の斜塔が支えているものである。

 つまりこの世の大黒柱である斜塔が崩壊したとき、楔を失った世界は、途端に終焉を迎える。人々は、為す術もなく死滅する。大地は揺れ、山岳は崩壊し、森は沈み、海は腐臭に満ちる。

 それは決して遠い話じゃない。

 斜塔が今にでも崩れたならば、終焉は訪れる。

 そして終焉のときが近付いたとき、塔は姿を現すのだった。

 唐突だが、世界はこれから終焉を迎える。

 多くの災厄が一度に降り注ぎ、地上を蹂躙する。

 シオンは天使だ。皆を守るべく地上に存在する、たったひとりの天使だ。そんな彼女の目的、生きる理由は、とてもわかりやすい。

 世界の《終焉》を、阻止する。

「……まだこないか」

 シオンは空の様子を見つつ、天使ならではの脚力で、崖までの道を一気に駆け抜ける。

 その道中。

「む」

 低く、曇天が轟いた。

 朝日に照らされていたはずの空は、ちょっと見ないうちに増えた暗雲で、どんどこずんずん覆われていく。雲の中を紫電が走っている。先程の空の呻きは雷の前兆であったかもしれないが、それは普段の天気の場合だ。この日だけは、そうじゃない。

 さきの地鳴りは轟雷の唸りではなく、実際に雲の中に居る何者かの、本当の唸りなのだ。

 丁度シオンが崖に辿り着いたとき、煙のように粘つく暗雲の中から、その巨体が姿を現した。

 そいつは身体同様大きな翼を羽搏はばたかせ、いきなり、急降下じみた速度で滑空を始める。

 胴体は塔と同じか、あるいはそれ以上に太い。その重みを使って、そいつは斜塔へ、体当たりをかますのだった。

 河狼ワニのような頭と牙を持ち、瓜のような寸胴体型と、その胴と地続きで、蛇のように伸びゆく太い尻尾がある。

 手足は見当たらない。代わりに両脇に生えた巨大な両翼が雄々しく大気を打ち、巨体を宙に浮かせている。

ドラゴン

 七日に一度だけ現れては、塔を破壊し、終焉を引き起こさんと斜塔へ攻撃を繰り返す、ただただ迷惑なだけの存在だ。

 シオンも昔はその姿を脅威と見たものだが、何十年と相手をしていれば、いい加減見慣れてしまっている。現在のシオンの目には、もはや空飛ぶ芋虫にしか見えていない。

「もっと静かにやってくんないかな」

 建築工に対する不満じみたこと文句を垂れながら、シオンは吹き荒れる風に弄ばれていた銀髪へ片手を差し込み――手櫛で、さらりと梳いた。

 流麗な銀糸の隙間を、華奢な指は滞ることなくすり抜けていく。

 そしてばさりと髪を払ったとき……少女の手中には、物騒な代物が握られていた。

 大振りな鉈にも見えるが、それにしては形状が異質である。

 刃物ではあった。種類で言えばナイフに分類されるのだが、その特異な形状と大きさは、気軽に片手で握るには、どうにも物騒の過ぎるものだ。

 まるでカモメの片翼を模ったように、内反りに湾曲した刃。少女の手でも握り込めるほど細身のつかに、鉈のように幅の広い、重みのある刀身。

 その武具の正式名称にはナイフとついてはいるが、重々しい見た目と、リーチのある刃に注目すれば、もはや短剣の域を脱していることがわかる。

 グルカナイフ。

 かつて勇猛な戦士が振るった、獰猛な得物。全貌も扱い方も、小柄な少女が持つには、いささか物騒、兇暴の過ぎる代物だ。

 滑らかな曲線を描く輪郭は美しく、磨き抜かれた刃はそれ自体が銀の輝きを放ち、刃の突端は微かに削れて見えるほど鋭利だ。

 芸術的なデザインだが、フォルムは至って戦闘的。使用方法も、切り裂くというよりたたっ切る、ぶった斬るという、粗暴な言葉の方が似合っている。

「よしっ」

 シオンはナイフの柄を気楽に握ると、崖の先端から跳躍、崖下の森へと跳び下りた。

 真下には鬱蒼と茂る深い森が広がっており、針山のように所狭しと、針葉樹がびっしり聳えている。

 一見して足場など無い森の海だが、実は幹の太い樹木、中でも背高せいたかのっぽな樹に注目すると、その頂点部分が綺麗に切り落とされているのがわかる。

 これは、最短距離で斜塔へ向かう為にとシオンが用意している足場だ。

 間隔はまばらだが、シオンは慣れた足取りとリズムで小さな足場を蹴って渡り、跳躍を繰り返して斜塔へ向かう。

 まもなく塔に辿り着くと、最後のひとっ跳びにそれまで以上の力を籠め、塔へ飛び移る。

 しゅた、と壁面に設置するや、きゅっきゅっきゅとしっかり床を踏みしめて、斜面を駆け登り始める。

 目指すは竜がうろつく、頭頂部周辺だ。そこまで一気に、少女は疾駆する。

 ……恒例行事となった今では、竜退治よりも、これが一番の労働かもしれない。

 しかし、少女がこれだけ大きく動いているのだ。竜の視界にシオンの姿は入っているし、敵対関係にあることも、互いに覚えているはずだ。

 だが、竜はシオンに対し、なんの反応も示していない。まるでナイフを持った少女など居ないかのように、一切気にも留めず、塔への突進を続けている。

 何故なら、竜にとって『塔の破壊』とは、何よりの優先事項であるからだ……と、シオンは予想している。

 ゆえに竜は少女を無視し、体当たりを繰り返す。何度も何度も、塔に身体をぶつける。

 密度のある巨大な肉塊が衝突するたび、塔が震えた。その振動は根元まで通じ、大地に伝わり、周囲の大地をも微かに揺るがしている。

 竜が離れ、再び塔に接近する。塔に立つ少女は、それを待ち受けていた。

 正面から突っ込んでくる巨体に対し、シオンはグルカナイフを腰だめに構える。ぐっと腰を落とし、足の裏に力を籠めて。

 機を窺い、迎え討つように――跳び出す。

 天使の脚力は、小柄な身に砲弾以上の速度を与える。そして熟練された天使の一閃は、擦れ違いざまに大砲の砲身すら両断する鋭さを有して、獲物を両断せんとする。

 がぎんっ、と。岩を斬りつけて弾かれたような反動が一瞬だけ少女の手を痺れさせたが、柄を握りこみ耐えると、それはすぐに、布を切り裂くような感触に変わった。

 斬ったのは、竜の片翼だ。戦果は充分。翼一枚で、鳥は飛べない。

 バランスを失った竜は、まるで窓にぶつかるハトのように、無様に斜塔へと激突した。

 最期に体当たり出来て良かったな。

 シオンはそんなことを考えながら、醜態を晒し、滞空する力も喪って、森へと落ちていく竜を眺めていた。

 まあ、そんな彼女も今、真っ逆さまに落ちている。当然だ。竜が居る以外は何も無い空中に向かって跳んだのだから。

 彼女は天使だが、翼は無い。

 ただ、翼は無くとも、足場は用意してある。

 くるんと体勢を直して、うまく針葉樹の足場に着地したシオンは、竜の落下で舞い上がった土埃が収まるのを待ち、それから地面へと降り立った。

 森の奥深く。かなりの高さから墜落した竜は仰向けに倒れており、身を起こそうともがいていた。翼も無くうごめく姿は、やはり巨大な芋虫に見えた。

「よっ」

 シオンはひょいとその腹に跳び乗ると、グルカナイフを持ち、なんの躊躇いもなく、竜の首から腹までを一閃のもと、一気に掻っ捌いた。

 さすがの竜も、腹部を開かれたとあっては、悲鳴じみた咆哮を上げ始める。

 そんなものは気にせず、シオンは天使の腕力で傷口に両手を突っ込み、ぶちぶちと肉やあばら骨をこじ開けていく。

 そして血と筋肉の向こうに、図体の割りに人の頭ほどしかない心臓を見つけると、再度グルカナイフを持ち、えいやとそれを力まかせにぶっ刺した。

 血は噴き出さない。ただ竜が、今まで騒いでいたのが嘘のように大人しくなった。まさに、息の根を止められたのだ。

 死んだ。

 証拠に、竜の血肉がしゅうしゅうと音を立てて蒸発し始めている。

「ふー……」

 七日に一度の大仕事が終わった。

 竜の腹から跳び下り、シオンは頬の血を手で拭う。

 ぽんっ、――一息ついたシオンの手元で、役目を終えたナイフが音を立てて消えた。

 代わりに一片ひとひらの白い羽根が残り、ふわりふわりと宙を舞う。

 これが、ナイフの正体だ。

 ナイフはシオンの持つ、天使の力の一部が結晶化したものであり、力が使い果たされると、今のように、ただの白い羽根に戻ってしまう。

 羽根は地面につくと、雪のように溶けて消えた。その後ろで、竜の肉体も見る見る蒸発していき、今はもう、殆どが骨だけになっていた。一日あれば骨も風化して、森の風に乗って消滅するだろう。

 これで、終焉は訪れずに済んだ。

 今日からまた七日間、人々には、新しい朝陽が約束されたのだ。


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