第2章 ヴァルサス その1
ザリア湿地帯は、空を埋め尽くすように生い茂る網状の枝を持つ樹木ビュリテアの群生地である。
ヘドロ状の沼地が点在しており、これに足を取られると回避もままならなくなるが、マップ全体が濃霧のせいで極端に見通しが悪く、引っかかるプレイヤーも少なくない。
そんなザリア湿地帯を自らの庭のように悠然と歩く一人のキャラクターが居た。
黒真珠のように輝く眼球を青い虹彩が彩る若いエイファルの男だ。長い黒髪を一つに縛っており、歩く度、尾のように揺れている。
黒いロングコートを身に着け、腰には片手剣と短杖を二本刺しにしており、これはメインジョブを剣士、サブジョブに魔導師に設定した所謂『魔法剣士ビルド』の特徴的な装備構成だ。
ヴァルサスという名の彼は、ソウルディバイトの世界ではちょっとした有名人である。
ソウルディバイトには、無制限にプレイヤーへの攻撃が可能な対人用エリアが各所に点在しており、ヴァルサスは初心者狩りがもっとも多いとされるザリア湿地帯を狩場にしたPKKだ。
ソウルディバイトの初心者狩りは、最高装備レベル且つ対人用にビルドしたキャラで、対人に不慣れだったり、対人エリアとは知らずに迷い込んだ初心者を狩る少々悪質なものだ。
故にPKKのヴァルサスは、初心者からは羨望の対象であるが、初心者狩りからは敵意をむき出しにされており、正義の味方気取りとネットにキャラネームが晒される事も珍しくない。
しかしヴァルサスは、どちらの評判も気にしていなかった。
ただソウルディバイトの世界に浸たり、ヴァルサスというキャラクターに成り切って遊ぶだけ。
正義の味方ではないが、弱い善良な人々(プレイヤー)を圧倒的暴力で狩る悪辣な行為は、気にいらない性質なのだ。
今日もいつも通り、初心者狩りを見つけては倒していく。
この日は、よく見かける初狩りパーティが五割。新顔の初狩りパーティが三割。ヴァルサスの評判を聞きつけ腕試しに来たソロプレイヤーが二割だ。
ヴァルサスはソロプレイヤーでありながら、三人パーティの相手の苦にしない。
噂が噂を呼び、今ではヴァルサスと戦いたいという理由でザリア湿地帯を訪れるプレイヤーも珍しくない。
今日もそういう相手と四人手合せしたが、いずれもヴァルサスに触れる事すら叶わなかった。
腕試しというなら、もう少し張り合いというのが欲しい所だ。
今日は、このまま適当に何組か初狩りを潰したら残りの時間は、が拠点としている街『ヴィルズ神域』で友人たちと語っていようか。
そんな考えを断ち切るように、ヴァルサスの視界をジャーガの男が駆け抜けた。
ボルトという名前で手にしている武器や挙動のスピードを考慮すると、俊敏型のビルド『ランナー』であろう。
装備から察するに装備レベルは、六十~七十前後。
ソウルディバイトのキャラ育成速度を考えると、ゲームを初めて一週間弱の初心者だろう。
ボルトは、いずれも装備レベルが百に達していると思しき、三人パーティと交戦していた。
一人は、ガンダルの重装タンクビルド。一人は、ブレッグの純魔導師ビルド。もう一人がヒューマンの侍ビルド。ネットで有名な初狩りテンプレパーティだ。
タンクが攻撃を防ぎ、魔法師が高威力魔法を撃ち続け、焦って回避した隙を侍が狩る。
初心者狩りは、得てしてプレイヤースキルが低い。
装備レベル差に物を言わせたソウルディバイトの初心者狩りは、熟練したプレイヤーなら三対一でも苦も無く処理出来る烏合の集まりだ。
だが装備レベル差と人数差は、初心者には覆しがたい。
テンプレ初狩りなんて見ているだけも苛立たされる。
本来なら、すぐに助太刀するヴァルサスであったが、今回は違った。
ボルトは、タンクと侍の猛攻を無視し、必要に魔導師を叩きに行っている。
勿論、初心者だって厄介な遠距離職を処理するのが定石である事は理解しているだろう。
問題はタンクと侍の妨害を容易く振り切り、魔導師を短剣の間合いに収め続けている事。
魔法は全てステップで躱し、タンクや侍の攻撃範囲にはギリギリ入らず、隙を見て魔導師の懐に飛び込み、確実にHPを奪っていく。
既に魔導師の体力は、半分を切っている。
並のプレイヤーなら多少の被弾を覚悟してでもゴリ押す場面だ。
しかしボルトは、常にタンクと侍の動向を注視し、無理な攻め方をして隙を作らなかった。
ボルトと初狩りパーティでは、プレイヤースキルに格段の差がある。
――あの魔導師。長くは持たないだろうな。
ヴァルサスの予感した通り、短剣の鋭い一突きが魔導師の息の根を止めた。
残り二人。定石ならば防御力が低く、仕留めやすい侍を次に標的に据える場面。
しかしボルトが狙ったのは、タンクであった。
侍が得意とする刀の連撃を掻い潜りつつ、タンクの盾のガードの上からお構いなしに短剣を打ち込み続ける。
ボルトの短剣は、装備レベル八十のブラッドピアス。
森の殺戮者からのレアドロップ『赤き血の短剣』の強化形態だ。
直撃すれば威力は十二分であるが、短剣は削りダメージが非常に低く設定されている。
タンクの構える盾をいくら殴った所で削りダメージを与える事は出来ない。
――やはり初心者か?
ヴァルサスが疑いを抱いた瞬間、ボルトは跳躍してタンクの頭上を飛び越えると、彼の背後に着地した途端ブラッドピアスを振るった。
――上手い。
正面突破を意識させてからジャンプやステップで回り込んでのめくり攻撃。
ランナーの基本テクの一つだが、ボルトのそれは相手の油断と慢心を狙い澄ましている。
猪突猛進な初心者を敢えて演じて、タンクの虚を突いた。
熟練のプレイヤーなら、魔導師を倒した手際を見て演技に騙される事はない。
だが、ボルトが相手にしているのは、初心者狩り。
常に自分が優位な状況での狩りしか経験してこなかった連中は、戦略的な演技を無謀な行動という自身に都合のいい現象としてしか解釈出来ない。
そうした心理を利用したボルトの剣閃をタンクは背中で無防備に受け止める。
背後からの攻撃には致命ダメージが加算され、短剣の攻撃力とAGIの数値はいずれも致命ダメージにボーナスが乗る。
さらにブラッドピアスの物理攻撃力までも上乗せされた一撃は、タンクを容易く屠って見せた。
――あの火力。AGIガン振りか?
割り切った育成方針は、上級者のサブキャラか?
いや、その割には上級者が使う対人テクニックのいくつかを使用していない。
恐ろしくセンスのいい初心者というのが、ボルトの正体であるとヴァルサスは睨んだ。
無論ボルトは、残された侍程度の及ぶ相手ではなく、刀の振り回しに正面からあっさりとソニックピアシングのカウンターを合わせ、侍を一撃で仕留める。
『いいセンスだ』
ヴァルサスは、拍手のエモートをしながらボルトに歩み寄った。
この素晴らしい腕前の彼と話をしてみたくなったのだ。
ボルトは、チャットを返してこない。
そればかりか、戦闘態勢を取ってヴァルサスに突っ込んでくる。
先程の戦闘中の動きを見て、癖はある程度把握出来た。
恐らくは突進からの刺突攻撃。
――と見せかけて。
サイドステップで背後を取り、致命ダメージ狙い。
予想通りのボルトの動きにヴァルサスは、ステップを合わせて背中を見せなかった。
バックステップで距離を取りつつ、素早くキーボードでメッセージを打ち込んだ。
『戦う気はない』
ヴァルサスのチャットに気付いたのか、ボルトはすぐさま武器を収めた。
『見事な腕だと称賛したかったんだ。だが、この辺りはまだまだ初狩りが多い。ごく一部だがさっきの連中よりも悪質で腕の立つプレイヤーもいる。早くこのマップから出た方がいい』
ボルトからの返信はない。ヴァルサスと向かい合い、棒立ちのままでいる。
三十秒ほどが経過してもそのままで、ヴァルサスはボルトの機嫌を損ねたのだと判断し、立ち去ろうとすると、
『初狩りってなんですか?』
とチャットの返信が送られてきた。この遅さは間違いなく、オンラインゲーム初心者だ。
コンシューマー機プレイヤーで、コントローラーでチャットしているのだろうか?
『このゲームは、初めてか?』
ヴァルサスの問いに、ボルトの返信は中々帰ってこない。
待つのは構わないが、別の初狩りグループに奇襲されても困る。
視点を一人称から三人称に切り替えて、周囲を警戒しつつ返信を待つと四十秒ほど後、ようやくボルトからのチャットが届いた。
『ゲームで遊ぶの自体初めてで』
『最初に遊ぶにしては、随分と敷居の高いタイトルを選んだのだな』
聞いてからヴァルサスは、少し後悔した。
遊ぶようになったきっかけとなると、話も長くなるだろう。
このチャットスピードでそれはきつい。
時間がある時ならいいが、ヴァルサスにはタイムリミットが迫っている。
かと言って無視して置いていくの気が引けたため。
『付いてくるといい。非PKエリアまで一緒に行こう』
ヴァルサスが返事を待たずに歩き出すと十秒後、
『ありがと』
ボルトがヴァルサスの背中を追って走り出した。