9.風の谷へ
夜空に浮かぶ月が漆黒の海原に一本の光の道を指し示している。ジョーイはその光の道を辿るように飛んでいた。ジョーイの翼が風を切る音と波の音以外は何も聞こえない。時々背後からロクセットの咳払いが聞こえるくらいだ。
「――あの……聞いでも良いげ?」伊織は首を後ろに回すと、少しだけ遠慮深げに尋ねた。ロクセットは目を合わせることなく小さく頷く。
「う、うん。あのさ……ナマルゴンってのが復活して、竜だぢがヤバイって言ってだよね?」
「ああ、その通りだ。竜族とは神の使い。神聖なる存在だ。まさしく神の力を持った特別な種ではあるが、その分、負の力には弱い。つまり黒魔法に対する抵抗力が弱いのだ。仮に竜族が倒れれば、地球上の秩序、つまり大自然の摂理が崩壊してしまう。オレたちはそれを食い止めねばならん」ロクセットは潮風になびくマントを今一度伊織に巻きつけながら言った。伊織の体温の低下を抑える為だ。
「あ、ありがとう」何気ないロクセットの優しさに、伊織は何だか照れ臭さそうな表情だ。
「と、とりあえずはさ?ナマルゴンって奴のせいで竜族がヤバイのは分かったげど、でも、なんでこのジョーイは元気なわげ?ジョーイだって竜族なんでしょ?」伊織はマントから右手を出すと、ジョーイの首元から背中にかけてを優しく撫でてやった。ジョーイの鱗は硬く、そしてしなやかだが、どこか人肌に近い感触すらある。
「ジョーイは竜族の中でも最も強い竜だ。今のナマルゴンの魔気程度では、そう簡単に倒れることはない。ましてや今、おまえの魔気が結界となってジョーイを守っているから尚更だ」
「えっ? 僕が?」伊織は右手に続いて左手も出すと、じっと両手を見つめた。特に不思議なものを感じることはないが、この両手でロクセットの魔力を吸い尽してしまったことは紛れもない事実。だが、当の伊織にはその自覚がまるでない。
「今のおまえでは自分の魔気すら感じられんだろうが、早くその腕をしまうと良い。体の冷えは魔力を鈍らせるからな」
「う、うん」伊織は再び両手をマントの中に忍ばせた。マントの中はまるで春の陽射しの如く暖かかい。
「あどさ?なんてゆうが……事ある毎に魔力どが魔気どがって言ってっけど、それって一体何なの?訳分がんないんだよね」伊織は再び後ろを向いてロクセットの顔を見上げた。月光の影響なのかは分からないが、色白のロクセットの肌が少しだけ青みがかったようにも見える。
「魔力というのは、魔法の力の強さを表すものだ。魔気というのは……そうだな。魔力の臭いだと思えば良い。分かるか?」
「……分がるような、分がんないような、だね」伊織はいぶかしげに首を横に振ったが、感覚的には分かる気がした。
「ついでに魔操力という言葉も覚えておくと良いだろう。これは簡単に言うと、魔力を操る技術だと思えば良い」
「ああ、それは簡単だね!分がりやすいや」
「とにかく、おまえの聖なる魔気がナマルゴンの負の魔気を浄化し、ジョーイを守っているのは間違いない」ロクセットはそう言いながらも、手綱を握るその手に少しずつ力が戻ってきたことを感じ始めた。
「ふうん……そうなんだ?ってゆうが、あれ?そういえばダニーの姿が見えないね?どっか行ったのげ?」と、ここで伊織は、ロクセットのマントで鼻をかんだ。気付けば、いつの間にかマントが鼻水まみれになっている。これにロクセットも閉口した。長く辛い苦行を耐え抜いた末にマイルスから授かった紅のマントが、この僅かな時間の間に汚されていようとは思いもしなかったろう。知らずとはいえ、この神聖なマントも伊織からすれば、ただの薄汚れた防寒着であり、ちょうど良い鼻紙にすぎなかったようだ。ロクセットは泣き叫びたい思いに駆られた。
「ねえねえ、ロクセット?ダニーはどご行ったの?全然姿が見えないよ?」伊織は、またマントで鼻をかみながら聞いた。
(こっ、このガキ……っ!)ロクセットは、初めて伊織に小さな殺意を抱いたが、泣く泣くその問いに答えてやった。寛大に、そして丁重に伊織を受け入れるよう、マイルスから命ぜられていたからだ。
「――ダニーのことなら心配いらん。オレのすぐ後ろでずっと寝ている。オレを風よけにしながらな」と、怒りの矛先を少しだけダニーに向けながらもロクセットは答えた。実はダニーは、ロクセットと背中合わせになるよう、その翼を納め、静かに寝息を立てていたのだ。
「ふうん。まあ、ダニーもずっと静かにしてれば、かわいいどごもあんのにねー。なんであんなに嫌味な感じなんだべね?」そう言うと伊織は、今度はマントの中で屁を放った。その音と臭いはたちまちロクセットの鼻と理性を狂わせる。
「おまえが礼節を持って接すれば、問題など無いんじゃないのか?」思わず口調に怒気が篭るロクセットだが、伊織はそれに気づくことなく、構わずもう一発の屁を放ってみせた。ロクセットとしては気が遠くなる思いだろう。
「だ、だって変だっぺよお?チビのくせに威張ってるし、第一、変な鳥なんだよ?色んな声や音を出しているん――」
「誰が威張ってる、と言うんだ、チビ?」突然ダニーが伊織の話を遮った。どうやら伊織の屁の臭いに堪らず目を覚ましたようだ。こんなにも不愉快な目覚めは、千五百年以上の人生の中でも初めてと言わんばかりの語気の荒さだ。屈辱的な目覚めと言っても良いだろう。
「えっ?あっ!そっ、その……」伊織は慌てふためき、話を誤魔化そうとした。が、すぐにうまい言葉が出るわけでもない。
「勘違いするなよ、チビ?私は、おまえと親しくなるつもりなど毛頭ないからな?ましてや、いくらおまえがこの地球を救うと言っても、私はおまえに感謝するつもりもない。よく覚えておけよ、チビ」
「う、うっさいなあ、この――」
「ところでロクセットよ」ダニーは、まるで伊織との対話を拒むかのように、続け様、ロクセットに声をかけた。
「あ、ああ。どうした?」ロクセットが慌てて返事をする。ここにきて二人の揉め事に巻き込まれるのはさすがに困るからだ。口論の末に伊織が腹を立て、途中で引き返すとなれば元も子もない。
「――さすがに夜の上空は寒い。(そのうえクサイ)」
「あ、ああ。(この臭いに)よく我慢していられるものだ(オレもだがな)」
「好きで我慢していると思うか?」
こんな二人の会話の中にも、伊織は気にすることなく屁を放ち続けた。当然、ロクセットとダニーの感情には激しい起伏が生じたが、伊織からすれば、我がの屁の臭いには愛着すら感じている。不思議なものだ(他者にとっては苦痛以外の何者でも無いのだが)。
「(中はクサイが)良かったら温まるか?」ロクセットはマントの中に入るよう促したが、さすがにダニーは首を横に振った。これ以上の巻き添えはごめんだろう。静かなる拒絶だ。
「いや、やめておく(クサくて敵わん)。そのかわり私はブルーマウンテンズに戻ろうと思う」
「そうか……。分かった(おまえ一人だけここから逃げるのか?ズルくないか?)」
「(ニオイが)落ち着いたら、また戻って来るさ」
「……分かった。気をつけてな(この裏切りは高くつくぞ?)」
「ああ(すまん)。マイルス様によろしく伝えておいてくれ。(クサイからと言って海に落ちるなよ?)」ダニーは最後にそう言うと、ロクセットの背後から飛び上がり、今度は風上となるジョーイの頭の上へと移動した。
「おい、チビ」ぶっきらぼうな口調でダニーが呼んだ。
「な、なんだよお」伊織もマントの中から顔を出すと、不貞腐れたように返事をする。
「例の写真は持って来たか?」
「写真?」
「ブルーマウンテンズの写真だ」
「あ、ああ、うん。持って来てるよ。ずっとポケットに入れっぱなしだったがらね」伊織はズボンの後ろポケットから写真を取り出すとダニーに見せてやった。まだ少しだけ屁の残り香が残っていた為、風下に位置するロクセットは堪らず顔を背ける。
「では、そのまま持っていろ」
「えっ、なんで?」当然、伊織は何のことか分からない。
「いいから言う通りにしていろ」そう言うとダニーは、再び宙に舞い上がった。するとみるみる青白い光に包まれ、体を縮ませ始めたのだ。やがて鳥の形をした光の塊となると、まるで高台からプールに飛び込むように写真の中へと一気に飛び込んだ。
「うわっ!」あまりの一瞬の出来事に伊織は面食らった。写真は、ダニーが飛び込んだ勢いで、その表面が水面のように波打っている。
「す、すっげー」伊織は思わず感嘆の声をあげたが、次の瞬間、突然ダニーが写真の中から顔を出した。
「では、ロクセットよ。こいつの教育を頼んだぞ?魔法だけじゃなく、躾の方もしっかりな。じゃあな、クソチビ」
「こ、このおっ!」伊織はすぐさまダニーの首根っこを捕まえようと手を伸ばしたが、それよりも一瞬だけ速く、ダニーは写真の中へと潜り込んでしまった。
「ちっきしょーーっ、逃げやがったあーっ!」伊織は空をつかんだ右手を握り締めながら悔しがった。
――と、次の瞬間、ダニーは再び写真の中から顔を出してきた。
「あっ!」と、伊織は驚いたが、一瞬だけ固まった僅かな隙をダニーは見逃さず、「調子に乗るなよ、どチビ」と言い放つと、素早く写真の中に潜り込んでしまった。
二度も捨て台詞を吐かれた伊織は一層悔しがったが、その後、ダニーが現れることはなかった。実に年齢差、千五百歳以上の熾烈なやり取りだった。
「――ロクセット!ダニーはどご行ったの!?とっ捕まえてやる!」
「分からん。ダニーはダニーで色々とあるんだろう。とにかくダニーのことは良いから、おまえは自分のことだけを心配していろ」ロクセットは、どうにも腹正しさが収まらぬ伊織をなだめようとしたが、それでも気を鎮める伊織ではない。
「そんなごど言ったって、あいつ、超性格悪いんだもん!」
「他人を変えられると思わないことだな。人を変えたいと考えるのでなく、自分が変われば周囲も変わるものだ。おまえが変われば、ダニーの態度も変わるんだぞ?」
「じゃあ、同じ事をダニーにも言ってよね!ってゆうが、そもそも僕たぢは今、どごに向がってるわげなの?そういえば行き先も何も聞いでねえじゃん!」伊織の怒りの矛先が、ふとロクセットへと向けられ始めた。
「オレたちは《風の谷》へと向かっている」ロクセットはそう答えると、懐の中から《銀のリンゴ》を三つ取り出した。リンゴは、夜の暗さにもかかわらず神聖なる白き輝きを放ち、伊織の顔を照らした。
「うわあ、何これ!?」見たこともない銀色のリンゴに、伊織は表情を一変させた。
ロクセットはリンゴをひとつ伊織に手渡すと、もう二つはジョーイの進行方向の先へと投げてやった。ジョーイはそれを上手く口にし、美味しそうにひと噛みふた噛みする。なんとも、えも言われぬ澄んだ音色が伊織の鼓膜にまで響き渡った。まるで恍惚の極みを得たジョーイは心地よい快感の中、《銀のリンゴ》をぐいっと飲み込んだ。その様子を見ていた伊織はいてもたってもいられず、手にしたリンゴをかじると、口いっぱいに澄んだ音色が響き渡り、たちまち伊織の全身に共鳴していった。
「う、うんめーーっ!なんだ、このリンゴ!?」食感は舌だけでなく、まさしく全身に美味さが脈打ち、響き渡ると言って良い。その初めての感覚に伊織は興奮した。
「この《銀のリンゴ》は、実はおまえたち人間が竜族に献上する貴重なものなんだ」ロクセットが言った。
「えっ、人間が!?うそっ!?」
「嘘ではない。どこで栽培されているかはオレたちにも不明だが、一説によると、年に一度、一部の人間たちが、《五大精霊》と呼ばれるものが降り立つ聖地を巡礼するらしい。その際に献上すると言われているのが、この《銀のリンゴ》だという。それが回り回って竜族に捧げられるのだ。人間は、竜族の実在こそ知らぬが、結果的に大自然を治める竜族を敬い、感謝の意を捧げているということだろうな」
「ふうん……精霊ねえ。そういえば日本には八百万を超える神様やら精霊がいるって、松村先生がら聞いだごどがあるなあ」伊織はリンゴをかじりながら松村先生の話を思い出した。いつかの道徳の授業で聞いた一節だ。
「ほう。それは興味深い話だな」
「うん。先生が言うには、八百万も超える神様どが精霊どが、そういった存在を感じるほど、日本人は繊細で大自然に感謝する気持ぢが強い民族だったんだって」
「うむ。それにしても八百万というのは、凄い数だな」
「うん。僕も最初はそう思ったんだ。でも先生は、ただ単純に数の大きさに囚われんなって言ってだよ。数が大きかろうが小さがろうが、日本人は感謝と慈しみの気持ぢを重要視する民族なんだって。だがら日常の全てに感謝の気持ぢを持でよ、って言ってだっけ」
「――なるほどな。人間にも良き指導者がいるものだな」
「まあね」伊織は、なんだか自分が褒められたような嬉しさを覚えた。
「とごろで、《風の谷》……だっけ?それは一体どごにあるの?」
「《風の谷》は、この地球の中心と言われている地に存在する。おまえはそこでマイルス様と会うことになっている」ロクセットは、今一度、伊織をマントで丁寧に包み直しながら言った。
「まいう~様?誰それ?」
「マイルス様だ。我々魔法族の長であり、現代魔法族の最高峰に立たれ――」
「うめーーっ!やっぱ、このリンゴ、うめーわっ!まいうーだよ、まいうーっ♪――あっ、ごめん。んで、なんだっけ?あ、そうそう、マイルス様ね?」伊織は、リンゴの芯近くの特別の美味さに感動し、思わずロクセットの話を遮ってしまった。甘美という言葉を知らずも、伊織は身をもってそれを体感しているといえよう。
「――マイルス様は、とにかく魔法族で一番偉い方だ。わざわざ、直々におまえに魔法を授けて下さる。だから失礼のないようにな?」
「ふうん……」伊織は噛み砕いたリンゴを全て飲み込むと、もうひとつちょうだい、と無言でロクセットに手を差し出したが、ロクセットは首を振った。どうやら貴重な竜族の捧物をやすやすと与えるわけにはいかないようだ。
(ちぇ、つまんねーの)伊織は渋々といった表情で、出した手をマントの中に引っ込めた。
「良いか?とにかくマイルス様には失礼のないようにな?それだけだ。分かったか?」
「分がったも何も……ってゆうが、そんなに偉い人なの、マイルスさんって?」
「マイルス様の弟子として長年魔法を修行しているオレでさえ、まだ一度もマイルス様から直々に教えを頂いたことなどないのだぞ?それなのにおまえに対しては、一から魔法を授けられようとしているのだ。分かるか、この意味が?」
「……よぐ分がんねーよ。それに何だがプレッシャーを与えるようなごど、言わねーでくんない?僕は誉められで成長するタイプなんだがらさあ」
「そうか……」ロクセットは、会話を続けることで徐々に伊織の性格を把握してきたようだ。伊織に対する理解が深まるのは良いことだが、理解が深まれば深まるほど、また不安も大きくなる。果たしてこの少年は辛く険しい修行に耐えられるのだろうか。潜在能力には大きな希望を抱かせるが、ロクセットはどちらかというと、(子供である以上は仕方ないにしても)伊織の精神の未熟さに不安を大きく感じている。
「――まあ、なんにしてもおまえは、オレと共にマイルス様に会いに行くことになっている。だが、安心しろ。マイルス様は素晴らしいお方だ。おまえも会われて損はない。マイルス様から魔法を授かり、ナマルゴンを倒したら、再び家族と一緒に暮らせるんだ。何もかも元通りの暮らしを送れるようになる。ほら、特別にもうひとつだけやろう」そう言うとロクセットは、今度はピンポン玉ほどの小粒の《銀のリンゴ》を伊織に手渡した。
「えっ、良いの!?ジョーイのエサなのに?」伊織は嬉しさを満面に浮かべてロクセットの顔を見上げた。
「おまえのではない。おまえの妹の分だ。ナマルゴンを倒したら妹に食べさせてやると良い」
ロクセットの言葉に納得したのか、伊織はすんなりと《銀のリンゴ》をズボンのポケットの中へ入れた。
二人を乗せるジョーイの翼は絶えず南を目指している。翼をはためかせる度に新しい風が生まれ、四方八方に流れてゆく。この地球に飛び交う風は、全てが地球自身による自転と公転によって創られたものではなく、このジョーイの力と合わさって創り出されたもの。ジョーイによって風に命の《気》が宿され、それはやがて海流を生み出し、雲を動かし、そして気候をも操る。気候が季節を創り出し、生命を育む土台となり、この地球上に種の連鎖を築かせるのだ―ーと、ロクセットは、風の竜・ジョーイの力を伊織に説明した。当然、話はそれで終わることなく、火の力を司る暁の竜・キミー、水の力を司る青の竜・ジェシー、大陸や島などを形成する大地の竜・レベッカ、そして森を創る深緑の竜・パメラなど、竜族の存在の意味とその聖なる力の均衡が保たれてこそ、地球上に生命の恩恵と秩序をもたらせている事を話してやった。
そして意外だったのは、伊織はこういう類の話を好んで聞くということだった。飽きやすく、集中力に欠けやすい性格ではあるが、どうやら大自然や宇宙の法則には関心が深いようだ。そして話題はいつしか、満天の星空へと変わっていった。
「――星は元々、おまえたち人間のものと言っても良いかもしれぬ。その昔、神が我々に月を与え、人間には星を与えられたという言い伝えがあってな。神はこの地球を訪れる際、必ず月から現れるという。だからオレたちは竜族と共に月を崇め、そして人間は星に夢を託すようになったという」
「へえ、そうなんだあ。僕たぢの間じゃ、星は死んだ人たぢの生まれ変わりだって聞いでるげどね。人は死んちゃうど、星になって高い空がら僕たぢを見守ってくれでるんだって」
「そうか。人間の間ではそういう言い伝えがあるのか」
「うん。でも、なんだがなーだよ。だって、いったいどの星が誰のなのが分がんないんだもん」
「その通りだな」ロクセットはそう答えると、人間とは、奇跡的なことやドラマチックな事に心が反応しやすい傾向にあることを察した。
「――でも、お月様が神様の地球への出入り口だって言うんならさ、人間は月に行っちゃっても良いのがなあ?なんか罰当だりな感じもすっけど……」
「心配は要らん。人間は月に降り立つことなど出来ん」ロクセットはさらりと返答した。
「えっ?だ、だって、昔、アメリガの宇宙船かなんかが月に行ったって聞いでるよ?」
伊織が生まれる遥か前の、一九六九年はアポロ十一号のことだ。
「フッ。心配は要らん。要は宇宙に受け入れられるかどうかだ。人間は決して宇宙と同化することは出来ん。唯一、受け入れられるとすれば、研ぎ澄まされた汚れなき魂のみだ」
「魂?」伊織は首をひねってロクセットの心意を想像した。
「つまり、宇宙では息が出来ないってごど自体が、人間が宇宙に受け入れられでいないってごどげ?」
「その通りだ。宇宙に溶け込むには、人間の肉体では荷が重過ぎる。おまえたち人間に限っては、その肉体も所詮は魂の乗り物でしかない。肉体を通じて、この世で魂を鍛え、磨き上げることが、おまえたち人間に与えられた使命と言えよう。その使命を全うした時、初めて人間は宇宙から受け入れられるのだ。無論、オレたち魔法族も同様にな」
「ふうん……。やっぱり難しいげど、でも……やっぱり宇宙って良いよね!」
――と、伊織が呑気に話していたその時だった。
何やら頭上に気配を感じた伊織は、上空を見上げると、なんと巨大な流星が物凄い勢いで飛んでいったのだ。表面を覆う青白き光がプロミネンスのように暴れ狂い、まるで悪魔のような咆哮を携え飛びゆく様に、伊織は鳥肌が立つほどの興奮を覚えた。流星は伊織たちを尻目に、緩やかな弧を描きながら南の遥か向こうへと消えていった。
「ロ、ロ、ロクセット!な、何あれっ!?」
「驚く必要はない。ただの流星だ」伊織の興奮とは対照的に、ロクセットは淡々と答えた。
「りゅ、りゅ、りゅーせーっ!?な、流れ星ってごど!?」
「そうだ」
「マ、マジで!?す、すっげーっ!初めで見だよおっ! 」
「そうなのか?空を飛んでいれば、いつでも見ることが出来るだろう?無論、地上からもはっきりと」
「そ、そうなのっ!?すっげーっ!!」
「なんだ?人間は流星を見ることはないのか?」
「そんなん、あんまし見らんねーよ!そもそも流れ星ってのは、空気が綺麗な所じゃないど見らんねんだがら!」
「そうか。流星すら見られぬほど、やはりおまえたち人間の世界は汚れ切っているのか……」ロクセットは流星ひとつで人間界の、地球に与える大気汚染の害を把握した。魔法族にとっては実に嘆かわしい現実だ。
「そうだね。先生が環境、環境ってうるせーもん。口が酸っぱぐなるほど言ってるよ!人間は、自分たぢの事ばっか考えで、地球を汚して、いじめでるって……ああっ!!しまったっ!忘れだーーっ!」
「今度は一体なんだ?」ロクセットは、次から次へと忙しい(・・・)伊織に少しだけ肩をすくめた。
「願い事を言うの、忘れだよーっ!」
「……願い事だと?なぜに願い事を言わなきゃならんのだ?」
「だって、流れ星を見つげだら、消えるまでの間に三回願い事を言うと叶うんだよ!知らねーのげ!?」
「知らん」ロクセットの冷めた反応とは対照的に、伊織は大袈裟なほど興奮した様子だ。
そもそも流星というものは、小さく一瞬で消えてしまうものだが、今、伊織が見たものは地上から見るそれとは比較にならぬほど大きく、願い事を三回唱える時間も充分にあった、ということを伊織は繰り返し力説したが、ロクセットはあまりそれに関心を寄せることなく、一言一言に相槌を打つのみだった。
――一方、
伊織たちの遥か上空を通過した流星は、その勢いを衰えさせることなく一気に南下。やがて広大な大陸の影が見え始めると、その北端にあるカカドゥ国立公園の上空(大気圏)でついに燃え尽きた。
カカドゥ国立公園は、二万平方キロメートルにも及ぶ広大な土地を誇り、厳しくも豊かな自然の原風景が広がっている。いくつもの支流が創り出した壮大な渓谷や湿地は古代の鼓動を感じさせ、果てしなく広がる大地には熱帯のユーカリ林が生い茂っている。また、塔のようにそびえるアリ塚も無数に点在しており、多くの生命種がこの過酷な環境の中、生命を育くんでいるのだ。しかし、その殆どの生物は、今は夜の闇にひっそりと息を潜ませていた。
暗闇の湿原には一本の月光が細く伸びている。そのずっと先には重々しく構える岩山・ノーランジーロックの影が映っており、そこに向かって何やらひとつの影が翼を広げていた。影は、ノーランジーロックの麓まで来ると、身を隠すように樹海の中へと潜り込み、
手頃な枝へと降り立った。目の前にはノーランジーロックの巨大な岩壁が行く手を塞ぐように立ちはだかったいる。
「……報告だ」影は一言、闇に覆われた巨大な岩壁に向かって口を開いた。
一時の間が流れる。その声の主にも緊張が走り出す。
すると突然、その壁面から、紫色した不気味な光が滲み出てくるではないか。
光は、粘性を帯びた液体のように岩壁を伝い、ゆっくりと滲み出てきた。そして次の瞬間、それは一気に砕け散るや、まるで霧がひと固まりになったような浮遊体となって目の前に現れた。
気がつくと、一帯を覆っていた虫の鳴き声はいつの間にか止んでいた。壁面から放たれる異様な気を察知したのだろう。
浮遊体は怪しく宙を漂うと、自分を呼び覚ました声の主の方へと振り向き、気だるそうにもその口を開け始めた。
「遅かったな……。ダニーよ」