8.由美、倒れる
風の竜がゆっくりと伊織のもとへと降り立った。
青味がかったグレーの鱗に覆われた巨体の背には、コウモリのように大きな翼が付いており、逞しく力強い四本足の先には鋭い鉤爪が生えている。それは鋼をも引き裂くが如くの力強さを湛え、首から尻尾にかけては特にブ厚い鱗がいくつも立ち並び、長い尻尾の先端は矢じりのように鋭く尖っている。恐竜のような顔と頭にはそれぞれ二本ずつ角が生え、その姿は、全ての種の頂点に君臨する気高き力強さと神々しさに溢れていると言って良い。
この巨大な岩の如く大きな生物を前にして、伊織は驚きのあまり声すら出せないでいた。が、不思議と逃げようとは思わなかった。確かに驚いてはいたが何故か恐怖感はないのだ。
ロクセットは伊織を一瞥すると辺りを見回し、倒れている三人の少年以外の他の存在の気配がないことを確認した。そして再び伊織に目を向けると、ロクセットはそっと右手を差し出し、静かに手招くような仕草をしてみせた。
「……あれ?」
伊織の体が意志とは関係なく、ゆっくりと不思議な力で引っ張られ始めたのだ。伊織は翼を休ませる竜の元まで引き寄せられると、ロクセットはそっと手を伸ばし、何も言わずに伊織の髪を数本引き抜いた。
「痛っ」
伊織は頭をさすりながら見上げると、ロクセットは引き抜いた髪を縒りながら何やらブツブツと呟き始めていた。風の竜は石のように押し黙り、その呼吸の音だけが聞こえている。まるで強風が遠くで音を立てているような息遣いだ。やがてロクセットは、その大きな手の中で髪を三本の細い矢のように縒り終えると、それに向かってそっと優しく息を吹きかけた。すると髪は、水面に浮かぶように宙を漂い始め、そこに「ウゴウュシンインゼ・ヨダジチハ!」と魔法呪文を唱えるや、髪は一瞬にして硬直し、結城たちに向かって一直線に飛んで行った。
「あっ!」伊織は、何が起こったのかと結城たちのもとに向かって駆け出した。髪の矢は、なんと三人の額に鋭く、そして深く突き刺さっていた。
「心配するな。この時間帯の記憶を三人から消し去っただけだ。覚えていたら大変なことになるからな」ロクセットが初めて伊織に声をかけた。
「まあ、そういうことだ。この三人に私たちの存在を知られては何かと困るのでな」ダニーが付け加えに補足する。が、当の伊織には何の事だかさっぱり分からない。ただ、目の前にいる者たちは、互いに互いのことを知ってはいるようだが。
「あ、あの……」伊織が声をかける。
「なんだ?」ダニーは首だけを横にねじって伊織の方を向いた。
「えっ!あっ……いや、その……」
「怖がることはない」先程もダニーが言ったように、ロクセットも同じことを言った。
「う、うん。あ、あの……ふ、二人は……その……一体、誰なの?」
伊織も聞きたいことは山ほどあった。しかし、何をどう聞いて良いのか分からないというのが正直なところだろう。言葉では言い表せないほどの光景が続いているのだから。
「――誰なの、か……。そうだな。いきなり出てきて、オレたちだけおまえのことを知っているというのもおかしな話だしな。良し、では紹介しよう。まず、おまえを窮地から救ってくれた、その鳥の名はダニーという。鳥の姿をしているが実は人間だ」
「に、人間……なの?」伊織は、ロクセットが想像した通りの驚きと困惑の表情を見せた。
「ああ、そうだ。大昔、色々あってな。自分を鳥の姿に変えてしまったんだ。まあ、それについての詳しい事は後で追い追い知ってゆけば良い」
「で、でも……自分で自分に魔法をかげだって言ったげど……なんで鳥なの?」伊織は質問の途中で不意に感じた矛盾に笑みを含めた。
「何がおかしい?」ダニーは、ロクセットの左肩に飛び乗ると、伊織を見下ろしながら言った。
「だ、だって……自分で自分に魔法をかげるだなんて。しかも、なんでよりによって鳥なわげ?鳥になりだがったの?変だよ、そんなの」本来なら、もっと他の事に意識を向ける事があるにもかかわらず、この状況で伊織が関心を寄せたのは、思いの他ダニーの容姿だったようだ。どうやら伊織のツボに入ったらしい。
「……事情を知らぬとはいえ、無礼なガキだな」ダニーは溜息をつくと、呆れた口調で言った。
「なっ、そんな言い方はないんでねえの?き、君の方がチビなのに……」伊織も返す刀で反応する。
「……どうやら自分の事をまだ分かっていないようだな」
「ううん。僕は……確かに子供だげど、まだ君の方がチビだっぺよ」
「やれやれだ。ガキのくせに口だけは達者なようだな」ダニーは、たった二言、三言の会話で現代の子供の実態を知ったように言った(同時に、次女のお喋りなステフを思い出し、少しだけ懐かしさに似た寂しさも抱いた)。
「お、おい?言っておくけどな、伊織よ。ダニーはおまえよりもずっと年上なんだからな?口の聞き方に気をつけろよ?日本人とは、目上の人間を尊敬する民族なのだろう?」思いも寄らぬ雰囲気にロクセットが慌てて割って入る。
「と、年上って言ったって……一体、何歳だっていうの?」伊織は、自分とあまり変わらぬ年齢であると、高をくくった口調でダニーに目線を移す。
「フン……。千五百歳より後に数えたことはないがな」ダニーは若干、憤慨しながらも伊織の問いに答えてやった。
「えっ!?せ、千五百歳!?じゃ、じゃあ、千五百年以上も生きてるってごどげ!?う、嘘でしょ!?マ、マジで?」
「分かったら、これからは口の聞き方に気をつけるんだな」
「う……ん、分がったよ。でも……鳥でチビなんでしょ?……プッ」
しつこいくらいに上げ足を取る伊織に、ダニーは早くも呆れたようだ。
「つ、ついでに言うとだな。ダニーは人間だが、魔法とまではいかなくても術は使える。伊織よ。今はおまえの方が体は大きいが、知恵も経験も力も、何もかもダニーには敵わんぞ?」ロクセットは、とりあえずこの場を丸く治めないことには何も始まらないと、収拾を図ることにした。こんなところで油を売っているわけにはいかないのだ。
「まあ、そんなごどは別に構わないげどさあ」伊織はのん気そうに答えると、少し前に見た幻覚や爆発のことを思い出し、ハッとした。結城たちを恐怖に突き落とした、あの光景だ。
「分かったら、ダニーを尊敬しろよ?」
「う、うん。そんけーする」伊織は素直に頷いたが、ダニーはそっぽを向いている。
「うむ。あとは少しずつ互いを理解していけば良い。そして伊織よ。オレはロクセットという。魔法族の者だ」
「えっ?まっ、魔法族?じゃ、じゃあ……魔法の国からやって来たってごど?」
本来なら腰が砕けるほど驚くべきところだろうが、先程までの異常な光景を見続けてきた伊織にとっては、ロクセットが魔法族であることを知っても、さほど驚くに値しないようだ。しかし、その方がかえってロクセットにとっても都合が良かったといえよう。
「――そうだ。国というほど大袈裟なものではないがな。そして、これはジョーイ。風の力を司る竜だ。竜族の中でも最も力がある神竜に近い存在だ。見た目とは違い、動きは素早いぞ」そう言うとロクセットは、ジョーイの首筋を優しく撫でてやった。ジョーイはとても気持ち良さそうな顔をしながら尻尾を横に振っている。
「で、でも……ダニーにしても、ロクセットにしても、何しにこごへ来たの?っていうが、ダニーはどうやって写真の中がら出できたわげ?」
ダニーは、ロクセットの肩からジョーイの頭の角へと移動すると、ロクセットを一瞥し、さっと背中を向けてしまった。自分の代わりにロクセットに返答を促したのだ。
「では、オレが代わりにオレが答えよう」ロクセットは気まずさを隠すようにひとつ咳払いをした。「――しかし、ここで話すのもなんだ。まずは場所を変えよう。さあ、乗るんだ」ロクセットはそう言うと、そっと伊織に右手を差し出した。
「えっ?の、乗る?」
伊織が聞き返すと、ロクセットはジョーイの背中をポンポンと優しく叩いてみせた。ジョーイの背に乗れ、と言っているのだ。
これには伊織も感激した。瞬く間に笑みを浮かべるや、夢中でジョーイの元に駆け寄り、取り乱したように大きく歓喜したのだ。
「の、乗って良いの!?ねえ、ほんとに!?ほんとに乗って良いのげ!?」
「ああ、構わん」
「うわあっ!ドラゴンに乗れるだなんてっ!まるで『竜の騎士』とが『エラゴン』みだいだっ!」伊織は以前、従兄弟の聡に貸してもらった物語を読んで、いつの日か、自分もドラゴンに乗って大空を飛んでみたいという夢を秘かに抱いていたのだ。それがこんな形で実現するとは思いも寄らなかっただろう。
伊織は早速、ジョーイの背に飛び上がろうと試みた。が、さすがに足が短いせいで、山のように大きなジョーイの背に中々飛び乗ることが出来ない。颯爽と飛び乗るイメージはあるものの、どうも物語と同じようには上手くいかないようだ。
「フン。何だ、その屁っぴり腰は?さっさと飛び上がれないのか、チビ」まるで先程のお返しとばかりにダニーが憎まれ口を叩く。
「んだよ、うっさいなあ。ほっといてよ、この焼き鳥!」
「な、なんだと!?」すかさず言い返す伊織の言葉に、ダニーは目の色を変えた。
「だって、そっちがら言ってきたんだべよ!?」伊織も口を尖らせ、一歩も退く気はないようだ。
「――お、おい、二人とも。良いのか?こんなところで遊んでいる暇は無いんじゃないのか?」さすがに見かねたロクセットは、そっと伊織に手を差し伸べた。伊織は憮然と無言でその手を借り、ようやくジョーイの背に跨ることが出来たが、ダニーとは目も合わせようとはしなかった。
「やれやれ。じゃあ、しっかりとつかまってろよ?」そう言ってロクセットが手綱を操ると、ジョーイの体から静かに風が沸き起こり、周囲を包み込むようにうねりを上げ始めた。
そして次の瞬間、伊織は「あっ!」と驚くことになる。
なんと、ジョーイの足が風に溶けて消え始めたのだ。風は次第にジョーイの足もとから上体に向かって巻き上がり、風がなぞった箇所からどんどん消えていった。やがてロクセットの足も消え始め、そして今度は伊織の足までもが消え始めた。
「心配するな。本当に消えるわけではない。ジョーイの創り出す風で光を屈折させ、姿を見えなくしているだけだ。風を止めれば、また元に戻る」
「う、うん……」返事はするものの、伊織はロクセットの言葉を聞いてはいない。ただ、消えゆく自分の体を見つめながら、興奮と少しだけの怖さを胸に息を飲んでいるのだ。そして全身が風の中に完全に溶け込むと、ジョーイは勢いよく地面を蹴り上げ、ついに大空へと舞い上がった。この時、伊織の興奮は最高潮に達しようとしていたが、ふと、伊織の視界に結城たちの姿が小さく映った。
「――三人のことは心配しなくて良い。やがて目を覚まして家へ帰るだろう。オレたちのことを忘れてな」ロクセットは付け加えて伊織に言った。
ジョーイが翼で風を切ると、その度眼科に広がる町が小さくなってゆく。きっと鳥の目に映る世界とはこのようなものなのだろう。実は、伊織は一度だけ群馬県でスカイダイビングをしたことがあった。その時はヘリコプターで高度四千メートルまで上がったのだが、今回は竜の背に乗り、更に高い位置へと昇っているのだ。興奮しないわけがない。やがて雲の遥か上まで高く上がると、ジョーイは翼を休めてその高度を維持し始めた。
「良し。こここまで来れば大丈夫だろう」ロクセットが伊織の肩にそっと手を乗せて言った。
「良いか、伊織。よく聞け。まず私たちは、おまえが手にしていた写真の中からやって来た。ある程度の魔力を持つ者なら誰にでも出来ることだ。そして、なぜおまえのもとに現れたのか――。今からその理由を話そう」
雲の切れ目から微かに海が見える。沿岸の地形とマリンタワーらしき建物が見えることから小名浜上空にいることを伊織は察した。小学一年生の時、家族と一緒に初めてこのタワーを昇った時は、あまりの高さに驚いたものだ。
ロクセットは話を続けようとしたが、興奮冷めやらぬ伊織を見ると、これでは話が進まんと見た。すると再びジョーイを走らせ、今度は沿岸部を超えた遥か沖合いへと移動した。インディゴブルーに染まる海原の水平線が金色に輝き照らされ、その他には何もない場所だ。太陽も間もなく赤く身を染めようとする頃だ。ロクセットは、ここならば落ち着いて話も出来ると見たが、それもかえって逆効果だった。壮大な風景を前に伊織の興奮は更にも増してしまったのだ。
閉口したロクセットは、仕方なく魔法で伊織の記憶に寄り添うと、そっと思い出の地を探り始めた。そして三度ジョーイを走らせると、辿り着いた所は、なんてことのない、とある建物の屋上だった。
「あっ!こご、植中!」伊織はかつて見慣れた風景にすぐに反応した。
降り立ったのは、伊織の家のすぐ近所にある植田中学校の屋上であった。伊織は日曜日になると、近所の友達とよくこの植中に忍び込み、屋上に上がっては遊んでいたのだ。ある日曜日のこと。いつものように友達と屋上から爆竹を落として遊んでいると、近所のおばさんに見つかってしまい、こっぴどく怒られた苦い思い出がある。挙句の果てに警察へも通報され、ついには学校側も屋上へ上がり込む通路を塞いでしまい、以降、二度と上がることが出来なくなっていた場所だ。
伊織は少しだけ懐かしい気持ちで校庭を見下ろしていた。校庭には、陸上やソフトボール、野球など体育会系の部活に打ち込む中学生たちの活気が漲っている。そして、その遥か向こう側に見える山々にはオレンジに染まる黄昏が静かに押し寄せていた。まるで悲しみの色に塗りつぶされたような、儚いオレンジと黒い影の重なりが町を優しく包み込むような、そんな風景だった。
「僕……実は、こごがら見る夕焼げが一番好きだったんだ……。もう見らんねーど思ってだげど、まだ見られるなんて……。それにしても、よぐこごを見っげだね?」伊織はジョーイの背中から恐る恐る飛び降りると、慎重に屋上の端まで歩みを進めた。
「ロクセット……だよね?」伊織は振り返り、言った。
「ああ」ロクセットも小さく頷き、伊織と目を合わせる。
「なんだが、目まぐるしぐ、しっちゃかめっちゃかな展開だげど、話してもらえっけ?」数分前の伊織とは全くの別人と思えるほど、心の波が落ち着いていた。感情表現に富む反面、起伏が激しい性格なのだろう。ロクセットとダニーはそう察した。
「伊織よ――。今から話すことはとても大切なことだ。そして長い話でもある。驚くかもしれんが、最後まで聞いてくれるか?」
ロクセットの問い掛けに、伊織は黙って頷いた。
緊張と不安を抱きながらも、ロクセットはようやくこの幼き少年を前に口を開き始めた。そして伊織は、ロクセットから明かされる魔法界と地球を結ぶ事実と歴史に、声をあげられぬほどの驚愕を終始受けることになる。
人間が、まだ地球に誕生する前の魔法族と竜族の時代について。そして平和な時代を暗黒の世に変えたナマルゴンの暴挙と《ジュードの裁き》。そして、人間の繁栄と文明による地球破壊行為。それによって目覚めつつあるナマルゴンの存在。ロクセットは、途中途中で出てくる伊織の質問にその都度丁寧に答えながらも話を続けた。
「――僕たぢ人間は、本当に地球にとって駄目な存在なんだね。地球のことを、環境のことを考えるなら、真っ先に人間が滅ばなきゃなんない感じだよね……?」若干冷静さを失いつつも、伊織は恐る恐るロクセットに確認した。
「人間とは愚かさと素晴らしさを兼ね備えた種ではあるが、特にこの百年、地球にとっては愚かさの象徴だったと言えよう。しかし今すぐに滅ばなければならないというわけではない」
「で、でも、話は変わっけど、なんでダニーが関わってるわげ?ダニーが魔法使いなら話は分がっけどさ。いぐら祈祷師で魔法族や竜族を守護する役目があるど言っても、そこまで関係ないんじゃないの?所詮、人間なんだし、ナマルゴンなんかに敵いっこないべよ?」
「いいや。そうはいかん。おまえが手にする写真。つまりナマルゴンはスリーシスターズを消し去った張本人だ。そしてそのスリーシスターズこそ、実はこのダニーの娘たちなのだ」
「なっ!なんだって!?」伊織は咄嗟にダニーを見上げた。それまでは無関心を装い、ロクセットと伊織の会話に入ってこなかったダニーだが、事態を把握し始めてきた伊織に対し、ようやく口を開き始めた。
「……そうだ。スリーシスターズは私の娘なのだ。三人の美しい娘たちだった。私たちは代々祈祷師で、ブルーマウンテンズという聖なる森を守りながら家族四人で穏やかに暮らしていた。だが、ある日。娘たちがバンイップという魔物の眠りを妨げてしまってな。そいつから逃れる為に娘の姿を岩に変え、私も鳥に姿を変えて逃げたのだ。私たちの力ではバンイップを倒せることが出来なかったからな。しかし、奴に追われているその時、気づかぬうちに《魔法の骨》を闇の樹海に落としてしまったのだ。私たちが元の姿に戻るには《魔法の骨》が必要だ。以来、私はずっとそれを探し続けて来た。千年以上もな」ダニーの語気は、言葉を重ねるごとに強くなっていった。抑えきれない我が子への愛情が一言一言に込められているのが痛いほど分かった。そしてダニーは話を続けた。
「――伊織よ、おまえには見えただろう?いや、おまえにだけ見えたはずだ。写真の景色の中を羽ばたく私の姿を。何もおまえを驚かす為に飛んでいたのではない。おまえが偶然にもスリーシスターズの写真を手にし、そして私の姿を目にしたのだ。だがな、それだけで済んでいればまだ良かった。――あの日の夜、ナマルゴンはついに復活し、その力試しにスリーシスターズを……私の娘たちをこの世から消し去りやがったのだっ!クソっ!」ダニーは堪えきれぬ怒りを吐き出すように言い放った。そしてロクセットも後を追うように言葉を連ねる。
「――私たち魔法族は、その異変をすぐに感じ取った。ナマルゴンの魔気を感じたからだ。私はブルーマウンテンズへ行くよう命ぜられ、すぐに駆け付けたが、既にスリーシスターズは消されていた。偶然にダニーもその場に駆け付けていてな。私たちはその場に残っていた魔気から、すぐにナマルゴンの仕業だと悟ったのだ」
「――うむ」ダニーは続けて口を開く。「そして私たちはすぐにナマルゴンの狙いを察した。ナマルゴンは人間を恐れている。そして恨んでもいる。それで祈祷師の血を受け継ぐ我が娘たちを真っ先に消したのだろう。また封印されてはたまらんと恐れてな。とにかく奴の狙いはジュードの血を引く者だ。その昔、奴はジュードの手によって魔力を奪われ、封印されてしまったのだからな。奴は必ずジュードの末裔を探し出し、この世から消し去る気でいる。まったく皮肉な話だ。人間を恐れながらも、その人間の欲望や憎しみの邪気によって封印から解き放たれたのだからな」
「で、でも変な話だよね?ど、どうしてナマルゴンってのは、スリーシスターズだげを消しちゃったの?ダニーだって人間なのに、なんでダニーは助かったの?」伊織は、ふと心に浮かんだ疑問をそのまま投げかけた。
「――ナ、ナマルゴンはだな、その……た、多分に思うのだが、《魔法の骨》を失い、かつ年老いた私を恐れてはいなかったのだろう。奴は、私よりも若く、そして子を産むことが出来る娘たちに恐れを抱いていたはずだ。娘たちが子を産めば、やがてその子供たちは魔力を操ることを覚えるかもしれん、とな。も、もう一度言うが、ナマルゴンは人間を恐れている。更に言えば魔力を操ることが出来る可能性を持つ人間を恐れているのだ」ダニーは若干、焦った口調で答えた。まるで自分を納得させるかのような言い方だ。そしてロクセットと伊織は、既にこの時、ダニーがナマルゴンに操られていることを知る由もなかった。更に言えば、ナマルゴンの命により、自分たちに接近していることすら気付いてはいないのだ。
「そっか……。ナマルゴンは魔法が使える人間が邪魔なんだね?つまり、その魔力が一番強いジュードの子孫ってのを一番、恐れでるってごどだよね?」
「その通りだ」ロクセットが頷いた。
「――んでも、そのジュードの子孫なんて本当にいんのげ?いだどしても、そう簡単に見つかんないんじゃないの?」
「いや、そうでもない。奴は魔力を持つ人間の気を感じ取ることが出来る。我々は《魔気》と呼んでいるがな。その証拠に祈祷師であるスリーシスターズの居場所を正確に見極めていた。祈祷師の魔力は、私たち魔法族に比べれば微々たるものだが、それでも奴はスリーシスターズの魔気を感じ取ったのだ。ましてや奴は、ジュードの血の臭いをも覚えている。この地球に生きる人間がいくら何十億いたとしても、奴は容易におまえを探し出すことが出来るだろう」
「その通りだ。ナマルゴンはおまえを狙っている。おまえがどこに隠れようと、奴はおまえの臭いを嗅ぎつけてくるのは間違いない」ダニーはロクセットの後に続くと、ジョーイの頭の上へと移動し、伊織を見ろ下した。
「えっ……?ぼ、僕を探してる?なんで?」どうやら伊織は、まだ話の本筋に気付いてはいないようだ。どこかしら他人事の思いで聞いていたようだ。
「――なんで僕を探すわげ?ナマルゴンはジュードの子孫を探してるんでしょ?」
「そうだ。奴の狙いはジュードの血を受け継ぐ者だけだ。だからおまえの命を狙っているのだ。分かったか?」
部活動に打ち込む中学生たちの掛け声がやけに遠く聞こえる中、伊織の鼓動はかつてないほど速く胸を打ちつけ始めた。とうとう事の核心に気付き始めたのだ。
「えっ?えっ!?な、何言ってんの!?だがら何で僕を探してるの!?えっ!?つ、つまり……まさが、ジュ、ジュードの子孫って……!?」
ロクセットとダニーは、じっと伊織から目を反らさずに見つめている。ここまできた以上、もはや様子を伺いながら言葉を選ぶ必要もないだろう。そして、ついに伊織の心に戦慄が走ることとなる。
「その通りだ、伊織よ。おまえなのだ。ジュードの血を受け継ぐ者というのは!」
伊織は、ロクセットの言葉に愕然とした。
「ぼ、僕が……ジュ、ジュードの子孫?」全身の力が一気に抜け落ちたように、伊織はその場にへたり込んだ。
「――う、嘘でしょ?だ、だって……魔法なんか使えないもん。な、なんで僕が?」
「信じられんだろうが事実だ。もう一度言うが、おまえは写真の中にダニーを見たろう?いや、ダニーの姿が見えたのだ。覚えているはずだ。他の人間の目には見えないのに、おまえだけが見えていたことを」
確かにロクセットの言う通りだ。写真の中でダニーが飛んでいる光景は、聡や結城たちには見えず、自分にしか見えていなかった。しかし、それがまさか自分だけが持つ特別な力だったとは思う由もなかった。
「伊織よ。それは特別な力なのだ。選ばれし力と言えよう。今はまだその力を制御することも出来もないが、確かにおまえはジュードの血を受け継いでいる。それと共にナマルゴンが唯一怯え、恐れる力を秘めているのだ」ロクセットが言った。
「そ、そんな……。じゃ、じゃあ、ぼ、僕はナマルゴンに殺されるの?」思いも寄らぬ事実と事態に伊織の唇が次第に震え始める。
「ああ、そうだ。だが、そうはさせない。だからオレたちが来たのだ」
辺りはすっかり夕闇の中に溶け込んでいた。間もなく校庭は照明で照らされ、遠い想い出を映すようにおぼろげな白みを含んだグランドと学生たちを浮かび上がらせる。
「――つ、つまり……二人は僕を守ってくれる為に来てくれだってごど?」
「いや、違う。逆だ。おまえがオレたちを、いや、地球を守るのだ」
「ぼ、僕が!?ち、地球を?ど、どうやって!?」一瞬だけ期待した返事とは対極にある内容に、伊織は半ば呆れたような笑みさえ浮かべた。馬鹿も休み休み言え、と言わんばかりの表情だ。
「答えはひとつ。ナマルゴンを倒すしかない」伊織に同情を寄せることなく、ダニーは淡々と答えた。
「そ、そんなっ!む、無理だよ!どうやって!?だ、大体がらして、なんで僕がっ!?」
「ジュードの末裔だからだ」
「そんなっ!む、無理だってば!だ、第一、聞いでないよっ!」
「今、言った」ロクセットもまた、非情なほど冷静に答えた。もはやどんな言い方であろうと、運命の歯車を止めることは出来ない。そんな思いで言ったのだろうか。
「なんだよ、それ!?無茶だってば!ジュードの末裔だなんて、いぎなり言われで……そんな怖い奴を倒せだなんて!」
「遅かれ早かれ、おまえは知る運命にあった」ダニーが言った。
「だ、だがらって、出来るわげねーべっ!二人がやれば良いべよ!魔法、使えんだがら!魔法族がやっつければ良いべよ!」
「無理だ。だから、おまえのもとに来たのだ」ロクセットは魔法族の無力さを噛み締めながらも、伊織と対峙している。これはある意味、屈辱的なものとも言えたが、地球を守る為にはそんなエゴは必要ない。
「そ、そんな……」伊織としても到底納得出来るものではないだろう。それはロクセットも痛いほど分かっている。しかし、どうしようもないことなのだ。
「やだよっ!絶対にやだよ、そんなの!どうせならアメリカどがロシアにやらせれば良いべっ!戦車やミサイルをたぐさん持ってんだがらっ!」
「残念ながら人間が造り出した兵器には欲望と殺意が詰まっている。ナマルゴンはそういった負のエネルギーで更に力を増大させてしまうのだ。唯一、倒せるのはジュードの血を受け継ぐ、おまえの聖なる力しかない」
「だ、だがらって僕にやらせるわげ!?」伊織は怒りに任せるように思いを吐き捨てた。子供ながらにその表情は、大人をも圧倒するものがある。
「残念ながら他に道はない。分かってほしい」
「嫌だよ!絶対に嫌だ!そんなの、死んでも嫌だよ!」伊織はそう言うと、ヒステリー気味にそっぽを向いてしまった。
なりふり構わぬ伊織の拒絶に、ロクセットももはや打つ術なしといった表情だ。こんな所で問答を繰り返している間にも、ナマルゴンは着々と力を取り戻している。そう思うと、強引にでも《風の谷》に連れ去ってしまいたいところだが、マイルスからは伊織の了解のもとに案内するよう言い渡されている。どうしたものかとロクセットは策を考え始めた。
――と、その時だった。
「そうか。死んでも嫌か……。ならば仕方あるまい。ここで死ぬが良い。死ねばナマルゴンと戦わなくて済むからな」
「えっ!?」と、伊織が聞き直した瞬間だった。
ダニーは口ばしで自らの翼から羽を一枚引き抜くや、それを伊織めがけて放ったのだ。羽は空中で研ぎ澄まされ、一瞬のうちに鋭利なナイフと化し、伊織の足元に鋭く突き刺さった。僅か一秒にも満たぬ一瞬の事だった。
「うわあっ!!」伊織は恐怖のあまりに腰を抜かした。心臓が一瞬だけ止まった気がした。
「ダ、ダニーっ!やり過ぎだっ!」ロクセットは、慌てて指先からエメラルドグリーンの波動を発すると、伊織の足元に突き刺さったナイフを元の羽に戻した。
そして伊織は無意識に心臓に手を当てると、突然降りかかった現実と死の恐怖に耐え切れず、とうとう泣き出してしまった。
無理もないといえば無理もない話だ。あまりにも現実離れした出来事が起き続けているのだ。ロクセットとしては、もっと時間をかけて伊織を説得したいところだが、時間が無さ過ぎる。それほどナマルゴンの脅威が迫っているのだ。いくら魔法竜騎士団が竜族を守っているとはいえ、予断は許さない。そう考えるとロクセットもいてもたってもいられないのだ。
――ようやく伊織が泣きやんだ頃合いを見計らうと、ロクセットは穏やかな口調で再度話しかけ始めた。
「伊織よ。おまえの気持ちを分かってやるとは言わない。しかし、ナマルゴンは本当に復活したのだ。そして、まず手始めにスリーシスターズが消された。奴はジュードを恨んでいる。その子孫でもある人類をもな。その中でも奴は、ジュードの血を引くおまえを狙いに来るのは間違いないんだ。それに、オレたち魔法族が倒せるならとっくに倒している。しかし我々魔法族の力では奴に太刀打ち出来んのだ。だからこそジュードの血を引くおまえの力が必要なのだ。分かるな?」
「だ、だがら……僕は魔法を……使えないってば。さっき言ったべよ。それに、例え魔法を使えでも、そんな……怖いごどなんか出来ないよ!」懸命なロクセットに対し、伊織も何とか嗚咽を抑えながら必死に思いを訴えた。
「だからこそオレたちが来たのだ。さっきも言ったが、ジュードの血を引くおまえには、ナマルゴンが恐れる力が秘められている。それを自在にコントロール出来るようにオレたちが魔法を教えるのだ。そうすればおまえはナマルゴンを抑え込むことが出来るだろう。そこでオレたち魔法族が再び奴を封印するのだ。《ジュードの裁き》と同じようにな。地球を守るには、それしか道はない。伊織よ、地球を救えるのはおまえしかいないんだ!」
「ぼ、僕しかいない?じゃ、じゃあ、お父さんは!?お父さんやお母さんじゃ駄目なの!?僕がジュードの子孫なら、お父さんやお母さんもそうでしょ!?」
伊織の問いに対し、ロクセットは更に険しい表情で首を横に振った。
「駄目だ。人間が魔力に目覚め、操れるのは純粋な心を持つ子供のうちだけだ。大人になり、欲望に目覚めた人間が再び覚醒することはない。だからおまえの親には何の反応もないのだ。分かるか?ジュードの血を受け継ぎ、魔力を持つ者は、もうおまえしかいないんだ」
「つ、つまり、大人は魔法使いになれないってごど?じゃ、じゃあ由美は?由美はどうなの!?」
「――ユミだと?それは――おまえの家族か?」ロクセットは、ダニーとひと目、目を合わせた後、言った。
「僕の妹だよ」
「な、なんだと!?」再びロクセットはダニーへと目を向ける。
この時の慌てたロクセットの反応は、伊織にでさえ察することが出来るほどの恐怖が含まれていた。ダニーの表情もまた、言葉を発せずとも全てを物語っていた。伊織がジュードの末裔ならば、妹の由美にも何らかの影響が出ているはず。ナマルゴンの封印が解かれた以上、遅かれ早かれ由美の体にも異変が起こることは明白だった。
「なっ、なんなのっ!?由美がまずいの!?ねえ、由美が――」
「伊織っ!急いでジョーイに乗るんだ!話は後だっ!」ロクセットは、鬼気迫る表情で伊織の言葉を遮ると、手綱を操り、ジョーイに飛び立つ意志を伝えた。既に由美の異変を予感しているに違いない。
「う、うん!」
伊織もすぐにロクセットの手を借り、ジョーイに跨ると、風の中にその姿を消し去った。町はすっかり夜の帳に落ち込み、部活に精を出していた中学生たちの活気もすっかり静まり返っていた。
ジョーイが音もなく伊織の家の庭に降り立つと、伊織はすぐさま家の中へと駆け込んだ。
「由美っ!由美っ!由美っ!!」伊織は息をする事も忘れたように急いで由美の部屋へ駆け込んだ。するとそこには、苦しみに悶え、息絶え絶えとなった妹が倒れていた。
「ゆっ、由美っ!大丈夫が!?しっかりしろっ!」
「……く、くる……し……い」
伊織はすぐに由美を抱き起こすと、台所で夕飯の支度をしている母親を大声で呼んだ。由美の体は氷のように冷たく、全身には小さな黒い斑点がいくつも浮かび上がっていた。
「ちょっ!由美ちゃん!どうしたのっ!?」母親は、ぐったりとした娘を見るや、大声をあげて由美を抱き寄せた。
「ちょっ、何これっ!?すごい熱じゃない!伊織っ!すぐにおしぼりと氷水を持ってきてちょうだい!」
母親は、異常に冷たい娘の体に狼狽しながらも、冷静にベッドから毛布をはぎ取り、それで由美の体を包み込み、ぎゅっと抱きしめた。しかし母親の目には、由美の体に浮かび上がる黒い斑点が見えていないようだ。
伊織は台所へ行こうと、すぐさま立ち上がった。すると突然、どういうわけか由美の声が耳ではなく伊織の心の中に染み渡ってきたのだ。
(お、お兄ちゃん…………。た……助……けて)
伊織はビクついたようにハッと後ろを振り返った。だが、由美の顔は母の腕の中に埋もれており、その様子を見ることが出来ない。息をするのも精一杯で、声を出すことすら出来ない状態であることは伊織にも見て取れたが、確かに由美の声が心の中に届いてきたのだ。
伊織は踵を返し台所に駆け込むと、鍋に氷水を入れ、浴室前の脱衣所の引き出しからタオルを数枚取って戻って来た。その時、母親は由美を抱いたまま携帯電話で話していた。夫に娘の異常を伝えているのだ。母は電話を切るや、今度は伊織にタオルを絞って由美の額に乗せるよう指示を出した。そして続け様に電話をかけると、母は沈痛な面持ちで救急車を要請した。
「伊織っ!今から救急車で由美を病院へ運ぶがら、ちょっと家で留守番してで!お父さんも出張先の東京がらすぐ戻るって言ってだがら!」
母親は自分の車を車検に出している為、父親が救急車を呼ぶよう指示したのだろう。その間にも伊織の目には、由美の体に点在する黒い斑点が少しだけ増えたように見え、更なる不安を抱いた。伊織は本能的に由美の状態を察していた。まるで由美の心に何者かが侵入し、魂を乗っ取ろうとしているような、そんなドス黒い狂気をまとった殺意を感じるのだ。
母親はその後、隣の藤本さんの家に電話をかけ、伊織の面倒を見てもらえるようお願いした。藤本さん家のおばちゃんはすぐに駆け付けると、由美の異常に驚いた。母親は藤本さんに事情を説明するや、そのまま由美を預け、保健証や着替え等、病院へ行く用意をし始めた。
「由美ちゃん、すぐに救急車が来っがらね?もう大丈夫だがんね?」おばちゃんは由美を励ましながら、小さな背中を何度も何度も優しくさすってやった。
電話をかけてから約十五分後、救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。帰宅渋滞の時間帯の割には早い到着だが、伊織たちにはとても長く感じたことだろう。サイレンの音が次第に大きく近づいてくる。用意を済ませた母親に由美を預けると、おばちゃんは救急車を誘導する為に外へと出た。そしてサイレンの音がいよいよ大きく鳴り響くと、途端に静まり、隊員たちが玄関から入ってきた。隊員は母親から由美の状態を確認すると、慣れた手つきで由美を慎重に抱き起こした。この頃、由美は既に呼吸も弱くなっていた為、酸素吸入のマスクをかけさせられた。どうやら隊員たちも由美の体に浮かび上がる黒い斑点に気づいていないようだ。こんなにもはっきりと黒く浮かび上がっているのにだ。
(ナマルゴンのせいに違いない)伊織はそう確信していた。
「病院に着いだら、電話するがら!もし何があっても、藤本さんがいるがら心配しないで良いがらね!晩御飯はもう出来上がってっから大丈夫だべ!?じゃあ、藤本さん、伊織のごと、よろしくね!」母はそう言うと、隊員と由美の後を追って救急車の中へと駆け込んだ。近所の人たちが大勢外に出てその様子を見守っている。隊員が後部のドアを静かに閉め、助手席に乗り込むと、救急車は再びサイレンを響かせながら伊織の家を後にした。夜の闇に消えゆくサイレンの灯りが、やけに物悲しく伊織の目に映っていた。
「さっ、伊織ちゃん?家に入っぺ。もう大丈夫だがんね?由美ちゃんもお母さんもすぐに帰って来っがら安心して良いがんね?どれ、おばちゃんがご飯、よそってあげっぺ」おばちゃんは、優しく伊織の背中に手を添え押すと、伊織はうん、と頷き、家の中へと入っていった。
「あ、そうそう。ヒロでも呼んでくっぺ。今日はヒロと一緒にご飯を食べだら良いべ?今、ちょっとヒロのごど呼ばって来っから、待ってでね?」おばちゃんはそう言うと、ヒロちゃんを呼びに家を出た。ヒロちゃんは伊織の一歳年上の幼馴染で、いつもポテトチップスとコーラを口にしながら、カンフースターの真似ばかりをしている、勉強嫌いな男の子だ。
伊織は、おばちゃんが家から出てゆくのを見届けると、すぐに庭へと駆け降り、ロクセットの名を呼んだ。するとジョーイの風がすぐに巻き起こり、その中からロクセットの声が聞こえ始めた。人目につくのを警戒し、姿を現さないのだ。
「ロクセット!大変だっ!由美がっ!由美がっ!大変な――」伊織も近所の耳に聞こえぬよう、可能な限り声を抑えながら事態を伝えようとしたが、ロクセットがそれを抑えた。
「落ち着くんだ、伊織。分かっている。とにかく、もう少し声を抑えた方が良いな。ここでは人の目と耳が付き過ぎる」
「そ、そんなごどより、由美はどうなんの!?死んじゃうの!?」
「おまえにも見えただろう。妹の体に浮かび上がる黒い斑点を……。あれはまさしくナマルゴンの魔気による拒絶反応だ」
「そ、それじゃ分がんねえって!どういうごどなの!?」ナマルゴンの影響で現れた反応であることは伊織にも分かっている。しかし問題は、今、由美がどんな状態にあるかなのだ。
「良いか伊織。よく聞け。魔法を使うには、先ず、魔抗力という力がなければならん。魔抗力というのは、魔力に耐えられる精神と体の強さのことだ。ナマルゴンは復活こそしたが、まだかつての魔力を完全に取り戻すには到っておらん。スリーシスターズを消し去る程度の力が精一杯だろう。そして奴はおまえを恐れているからそう簡単に正面から現れることは出来ないはずだ。しかしながら、おまえをこのまま放っておくはずはない」
「だがらど言って、なんで僕や由美の居場所を知ってるわげ?そんな簡単に居場所が分がるはずねえべ!」
「さっきも言ったが、奴はジュードの血の臭いと魔気を今でもはっきりと覚えている。つまり、どんなに遠く離れていても、ジュードの血を受け継ぐおまえたちの存在を把握することが出来るのだ。しかも、ナマルゴンは復活して以降、ずっと《黒の魔気》をおまえたちに向けて発していたはずだ。《黒の魔気》とは、簡単に言えば、憎しみで相手の心を潰してしまう呪術の一種だ。例え正確におまえたちの居場所を把握出来ていなくとも、呪いは必ず相手の心に忍び込み、蝕んでゆく」
「そ、そんな……」伊織の心の奥に絶望の思いが生まれ始めた。
「――ここで言えるのは、奴は自分の呪いを飛ばし続けながら、いずれおまえたちジュードの末裔を滅ぼそうとしていたに違いないということだ」
「で、でも、僕やお母さんは大丈夫だよ!?お父さんも大丈夫なのに、なんで由美だけが!?」
「魔気は、魔力を持つ者にしか感じることはない。つまり、魔力を失ったおまえの親や他の人間が魔気を帯びても副作用はないのだ。奴が恐れているのは、あくまで魔力に目覚め始めたおまえたち兄妹だ。だからおまえとその妹に反応が現れたのだろう。幸いにもおまえは奴の呪い、《黒の魔気》に耐えうる魔抗力を持ってはいたが――」
「つ、つまり由美は、まだ心と体が弱いがら?」
「恐らくはそうだろう。魔抗力の乏しき者が《黒の魔気》を帯びると、激しい拒絶反応が起こる。魔法を使うには魔力が必要だ。その魔力は熱の力を必要とする。つまり魔力は体温をエネルギーのひとつとしていると思えば良い。魔抗力がある者は、いくら呪いをかけられようとも、体温を一定に保つことが出来るが、反対にそうでない者は、その体温を著しく奪われてしまう。そして血液をも冒され、全身も黒く変色し、やがて心を乗っ取られ――」
「た、助からないの……っ!?」伊織は堪らずロクセットの話を遮って真実を求めた。
「声の弱さ、そして斑点の濃さや多さから見て……」ロクセットは途中で言葉を濁すと、言明を避けた。
――と、その瞬間だった。伊織は途端に正気を失った。
なんと伊織は、ジョーイの《風の鎧》をいとも簡単に突き破ると、その中から強引にロクセットの体を引きずり出したのだ。
「言ってよっ!助けるにはどうすれば良いのっ!?言ってよっ!」
ロクセットの胸ぐらを引きちぎらんとばかりに揺する伊織の両手は、青白い光りを放ち、ほどばしり始めた。なんとロクセットの魔力が吸い取られているのだ。
「くっ……っ!なんだ、この力は!?やばいっ!やば過ぎるっ!鉄壁の筈のジョーイの《風の鎧》がいとも簡単に突き破られるなんて……っ!いや、そんなこと言ってる場合じゃない!その前にオレがくたばっちまう!魔力を……吸いつくされちまう!」ロクセットはこれまでに感じたことのない戦慄を抱いた。先程までは何も感じなかった伊織の体から、突如、強大な魔気と魔力が発され始めているのだ。
「どうすれば良いのっ!?答えでよっ!」当の伊織は、自分がまさか、ロクセットの魔力を吸収していることなど知る由もない。
ロクセットは、食い掛かる伊織を突き放そうとしたが、どんなに力を入れても離れることが出来なかった。もはや腕力の問題ではない。こんなにも小さな子供の体を突き放すことが出来ないほど、ロクセットは魔力を奪われているのだ。
「……くっ!このままじゃ……まずいっ!」ロクセットは、思いも寄らぬ身の危険から逃れんと、残された魔力を振り絞るように魔法呪文を唱え始めた。
「ヨイナテイキ……アヤ……イカイヘウュリ……ブラクウョチダ……ッ!」
ロクセットは、全てを奪われる直前に何とか呪文を唱え終えると、その瞬間、二人の足元が突然光り始め、地中から光のカーテンのようなものが現れ出した。光のカーテンはそのまま伊織を包み込むと、伊織は何事もなかったかのように正気を取り戻し、つかみかかっていたその手をすんなりと離した。途端にロクセットは、膝から脆くも崩れ落ちた。
肩で大きく息をするロクセットを見て、伊織は一体何が起きたのかさっぱり分からない様子だ。まさか自分が正気を失った弾みで、ロクセットを窮地に追い込んでいたとは思いもしないだろう。
(…………数秒、たった数秒つかまれただけで……こんなことになるとは……。そ、それにしても危なかった……。あと一秒……あと一秒魔法を唱えるのが遅かったら……)ロクセットは、伊織に潜在する魔力の凄まじさに震えるほどの恐怖を覚えた。だが同時に、この魔力を自在に操ることが出来るようになれば、必ずナマルゴンを倒せるという一筋の強い光明も垣間見た。
「ど、どうしたの、ロクセット?だ、大丈夫?」伊織が心配そうに声をかける。
「あ、ああ……。大丈夫だ。本当は……大丈夫じゃないがな……」ロクセットは、乱れた呼吸をようやく整えると慎重に立ち上がり、伊織をじっと見つめた。さっきまでの伊織とは明らかに様子が違う。まさか、こんなことで事態が変わるとは思いもしなかったろう。
「……ロクセット。由美を……由美を助けなぎゃ!」伊織は冷静且つ、力強い口調でそう口にした。
「ああ……。分かっている」
ロクセットはふと、今の伊織の目にかつての幼き自分を見た。マイルスに師事を受けんと、フレディと共に魔法大聖堂を訪れた、あの幼き頃の自分をだ。まだ年端もいかぬ子供といえど、妹を思う心が伊織に使命感を芽生えさせたのかどうかは分からない。しかし、現に今の伊織からは強い覚悟と決意が感じられているのだ。
「――良いか、伊織よ。おまえの妹を助けるにはナマルゴンを倒すしかない。奴を倒さなければ、妹への呪いは解けないだろう。どちらにしても奴を倒さなければ、地球は滅びてしまうがな。それを救うことが出来るのは――」
「僕しかいないんだね?」伊織は、真っ直ぐにロクセットを見つめて言った。
「その通りだ」ロクセットもまた迷うことなく答えた。
町はすっかり夜の闇に包まれている。隣近所の部屋明かりには、幸せそうな暮らしの影が映っているが、地球が間もなく滅び行く運命にあるとは、誰一人として気づいてはいない。
「……やるよ、僕。由美を――由美を助けるんだ!」
「本当に良いんだな?」ロクセットは改めて伊織に心意を問うた。
「うん。由美が死ぬのを黙って見でるわけにはいがない。僕の……僕の、たった一人の妹なんだ!」伊織は力強くそう答えた。その声には一切の迷いすら感じさせるものはない。
「分かった。よく決心してくれた。おまえになら出来るだろう。いや、おまえなら出来るんだ!その為にオレたちが付いていることを忘れるな!」ロクセットは肩膝をつき、伊織の両肩に手を置いた。その小さな双肩に圧し掛かる手の重さは、地球の未来を託された大きな希望の強さでもあることを伊織はまだ完全には理解していなかったが、それでもロクセットは、伊織が頷いてくれたことに敬意を表した。
「では……」ロクセットは希望を胸に力強く立ち上がろうとした。ところが足腰に力が入らない為か、再び地に崩れ落ちてしまったのだ。ほぼ全ての魔力を伊織に吸い取られたせいで、立つことすらままならないようだ。
「だ、大丈夫!?」慌てて伊織はロクセットの顔を伺った。
「あ、ああ。な、情けないことを言うようだが、大丈夫ではないな」ロクセットは笑みを浮べたが、それは苦痛を誤魔化すためのものだった。
「――っていうがさ、少し休んだ方が良いんじゃない?」
「そうはいかん。今、行くのだ」
「えっ、マジで!?大丈夫なの?」
「じ、時間がないんだ」
「で、でも、ちょっと無理じゃない?明日の朝どがじゃ駄目なの?」
「駄目だ」
「じゃ、じゃあ、せめて晩ご飯だけでも食べた方が……?」
「おまえの妹は、今、何も食べられない状態だぞ?」
この言葉に伊織はハッと息を飲んだ。ロクセットの覚悟の強さを知ったのだ。そして妹の由美も既にナマルゴンと戦いを始めている。その兄である自分が能天気なことを口にしている場合ではない。伊織は目を閉じ、自省の念を心に唱えた。
「そうだったね……。分がったよ。じゃあ、すぐに行ごう!あっ!ちょっと待ってで!」伊織はそう言うと、突然踵を返し、再び家の中に入り、居間へと駆け込んだ。もうこの家には戻って来られないかもしれない。だからこそ家の中に漂う家族の暮らしの匂いを、最後にもう一度嗅ぎたかったのだ。ふと、テーブルに視線を落とすと、由美のノートが置いてあった。伊織はそのノートを手に取り、パラパラと開いてみる。その中には『お兄ちゃんとチャコとチロ』という題名で伊織と二匹の飼い猫の絵が描かれていた。
「……それにしても下手だな」絵を見て伊織は少しだけ口元を緩めた。
(でも……でも、お兄ちゃんが助けでやっかんな!だがらそれまで頑張れ!)伊織は胸の内でそう固く誓うと、ロクセットたちが待つ庭へと戻っていった。
外に出ると、渦巻く風の前でロクセットが力無く立っていた。
隣の家では、何やらおばちゃんの怒鳴り声が響いていた。ヒロちゃんのイタズラか、テストの結果のどちらかに憤慨しているのだろう。
伊織はロクセットの腰を支えるように肩を貸すと、自分の家を振り返ることなく、そのまま風の中へと入り込んでいった。
風の中にはジョーイとダニーが待ち構えており、ロクセットはやっとの思いでジョーイの背に跨った。伊織も尻尾の方から坂を登るように伝いその背に跨ったが、ロクセットの前に座るよう促された。
ロクセットは弱々しくも手綱を操ると、ジョーイはいよいよ風を強めて、あっという間に上空へと舞い上がっていった。
続けてロクセットは、眼下に広がる町を見下ろしながら懐の中に手を入れると、何やら不思議な模様が刺繍された巾着を取り出した。
「何、それ?」
「これは《記憶の砂》だ」巾着の紐を解きながらロクセットは答えた。
「キオクノスナ?」
「ああ。おまえがこの町から姿を消しても騒ぎが起こらんよう、町の民の記憶からおまえの存在を消すのだ」ロクセットはそう言うと、巾着の中の砂(というよりは粉らしきもの)を四方に向かってばら撒いた。《記憶の砂》は、消えゆく花火の火の粉のように淡い光を煌めかせながら舞い降りていったが、そこにジョーイの風が吹き付けられると、更に町全体へと広がり儚く落ちていった。
「安心しろ。一時的におまえの存在を隠すだけだと思えば良い。ナマルゴンを倒したら元通りの生活に戻れるんだ。家族も友も、全てをおまえに返そう。何もかも元通りにすることを約束する」
「……うん」
伊織は後ろ髪引かれる思いで、遠ざかる街並みをずっとずっと見下ろしていた。