表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/56

7.ロクセットとの出逢い

放課後。教室には松村と伊織の二人だけが残っていた。

松村が心配して家まで送ると何度も言ったが、伊織は一人でも大丈夫だと言って聞かなかった為、それならばと松村は携帯電話の番号をメモに書いて伊織に手渡してやった。下校時、伊織が結城たちから報復を受けるかもしれないと思ったからだ。

「――なあ、伊織?おまえには夢があるが?」唐突に話題を変えると、松村は窓を少しだけ開けた。風が狭い隙間からピューピューと口笛のような音を立てて入り込む。

「夢?」

「ああ、そうだ。将来、なりたいものはあんのが?」

「……うん。僕は――その……」漠然としながらも、伊織の頭の中にはイメージがよぎったものがある。

「なんだ?恥ずかしがるごどねえぞ?胸張って夢を言える奴は、先生、尊敬する」松村は笑顔で自分の言葉に頷いた。

「うん……。僕は、つまらない大人にはなりだぐない。あどは……みんなと仲良ぐ出来る人間になるごど……がな」伊織は少しだけ胸を張って、笑顔でそう答えた。

「うん。大丈夫だあ。おまえは絶対につまんねー大人なんかにゃなんねえ。先生が保証する!それど、みんなど仲良ぐ出来る人間ってのは、先生と同じ夢だな。簡単なようで実は難しい事だげど、一緒に叶えっぺな?」松村は励ますように何度も伊織の小さな肩を叩きながら言った。

「それどな、伊織よ?」

「うん。なに、先生?」伊織は、窓の向こうを見つめる松村の顔を見上げた。

「ああ。その――なんだ?まあ、もし、まだ誰かがおまえをいじめる時があって、周りに誰もいなくてよ、絶対に助けでもらえねーような状況に陥ったら……歯を食いしばって耐えろよ?グッと気持ぢを強ぐ持って、相手の攻撃をひたすら耐えるんだ」

「えっ?あ、うん」伊織は、突然の松村の助言に戸惑いながらも頷いた。

「実は、攻撃するってのは、けっこう疲れるもんなんだ。だがら、相手が疲れで動げなぐなるまで必死に自分の体を守っど良い。そんで相手が疲れ果でだ頃を見計らって、逃げろ。そうすれば、相手はおまえを倒せず、おまえを逃がしたごどになる。おまえは逃げでも負げだごどにはなんねー。引ぎ分げってやづだ。良いが?喧嘩に勝づ必要なんて、実はどごにも無えんだがんな?ただ、人間としての自尊心……つまり誇りを守る為には、男は自分の心の弱さに負げちゃなんねー時がある。それだげは忘れんなよ?」松村は、窓の外のベランダに止まった二羽の雀をじっと見つめながら穏やかに話した。雀は、先生が窓を閉めると同時に手すりを蹴ってどこかへ飛んでいった。

「うん!じゃ、先生、さようなら!」

「おう!まだ明日な!」松村は最後に伊織の頭を荒々しく撫でて言うと、伊織は「うん!」と笑顔で返事し、足取り軽く教室を出ていった。

階段を降り、昇降口で靴に履き替える。とりあえず靴には何もされてはいない。先生には「大丈夫だ」と言ったものの、校舎を出ると、やはり少しずつ伊織の心に不安がよぎり始めた。

 数歩歩いては周りを見渡し、また数歩歩いては周りを見渡しながら伊織は校門を出た。そして山田川の土手に上がると、喘息の発作が起きない程度に小走りで家路を急いだ。まだ遅い時間帯ではない為、他にも下校している生徒たちが見られる。皆、友達と楽しそうにはしゃぎながら家路を辿っているが、その誰もが伊織の気持ちを量り知ることは出来ないだろう。

 ――と、その時だった。 

「伊織くん!」と、突然伊織は背後から声をかけられたのだ。山田橋を渡ろうとした時のことだ。恐る恐る振り返るとそこには二人の男子が立っており、笑顔で伊織を見つめていた。一人は色黒の肌でちょっとお腹の出た、伊織よりも頭一つ分くらい背が高い男子で、左目の下に二、三センチ程の傷痕がある男子だ。もう一人は伊織と同じ位の背丈だが、こちらは首に小豆大程のイボがひとつある男子だった。

「伊織くん――だよね?」

「え?……う、うん」伊織は若干気まずそうに答えた。相手が自分のことを知っているのに、自分が相手を知らない時の会話もなかなか気まずいものがある。

「オレ、コウジってゆうんだ。(ほん)()(こう)()

「う、うん」なんとなく聞き覚えのあるような名前だが、やはり知らない。

「一組の奴がら聞いだんだげど、なんか今日は大変だったみだいだね?結城たぢに色々いじめられでだんだって?」戸惑う伊織の胸中を察したのか、もう一人の男子が浩二に続くように声をかけた。

「ほんと、あいづら乱暴で嫌だよね?マジ、あったまくるよ!あ、オレは()(とう)(まさ)()ってゆうんだ。みんな『マサ』って呼んでっけどね。ホホホホホホ」

「あ――うん。こぢらごそ……」伊織は、政人の甲高く独特の笑い声が気になったが、それ以上に小刻みに動く喉のイボが気になった。

「それにしても、いい気味だあ!あいづら、ヤグザにブン殴られだんだべ!?」

「うん、そうだよ!松村先生、スイッチが入っと、めっちゃ怖いがんね!大体がらして、弱い者いじめして何が面白いんだべね!?あいづらは菊田小の恥さらしだよ!ホッホッホホホホホホホ!」政人のイボがまた小刻みに震えた。

 橋を渡るとY字路になっている。左側は住宅が並ぶ県道になっており、右側は山田川沿いの土手が続いている。伊織の通学路は左側の県道だった。

 「じゃ、僕はこっちだがら……。じゃ、じゃあね」急ぎたい気持ちを悟られぬよう、伊織は手短かに会話を終わらせようとした。が、県道へと進もうとする伊織の腕を浩二と政人がつかみ、「一緒に帰ろう」と土手の方へと引っ張って行った。

 伊織は少しだけ迷った。本当は早く家に帰りたいし、今は誰とも話したくない気分だったからだ。土手を行っても家に帰ることは出来るが、この二人と一緒に帰ったら、なんだか遅くなりそうな気もしたのだ。しかし、逆にこの二人がいれば、一人で帰るよりも少しは安全かもしれないとも思い始めた。聞けば二人は、根小屋団地に住んでおり、自分の家ともあまり離れていない。それならばと伊織は結局、あまり疑いを持つことなく三人で土手の道を歩いて帰ることにした。

 浩二はランドセルからコッペパンを取り出すと、三等分にちぎって伊織と政人に分けてやった。そしてジャムを取り出し、得意そうな表情で各々が持つパンの上に均等に塗り始めた。

「これって、今日の?」伊織はパンの上に創られるジャムのオブジェを見つめながら聞いた。

「そうっ!今日の給食の余り!」浩二が、さも自信ありげに答える。

「余り――って、今日、誰が休んだ人がいだんだ?」

「うん?ま、まあ、そういうごどがな……うん。まあ、ね」浩二はそう答えたが、急にたどたどしくなり、少しだけ目を泳がせた。

「何が余りだよ、このっ!給食前に忍び込んで、かっぱらったくせによお!」

「わっ!バガっ!言うなよ!」政人の言葉に慌てた浩二は、思わずパンを落としそうになったが、間一髪、空中で泳いだパンをうまくつかみ直した。

「伊織くん!実はこいつ、極悪人だがら気をつげだ方が良いがんね!なんせ、あだ名がルパンだがらさ!」政人がニヤつきながら伊織に耳打ちをする。耳打ちの割には声が大きいが、政人は気にしていない。

「ル、ルパン?」

「そう!パンばっか盗んでっから、『ルパン』って言うんだよ!ホッホホホホホホ!」政人は上機嫌に笑う。と同時にイボも震える。伊織はどうもこのイボが気になるようだ。

「な、何言ってんだよ!?マサだってそうだべ!この前の金曜日にゃ、バナナ、十本も盗ってだべな!」

「な、何言ってんだよ、浩二っ!バガっ!」

「えっ!?じゃ、じゃあ――あの日、うぢのクラスでバナナが足りながったのは……」伊織は先週の金曜の給食時、バナナが足りない、と松村先生が学校内のほぼ全教室を周り、足りない分を分けてもらって来たことを思い出した。

「そ、そんな昔のごど気にしちゃ駄目だよ、伊織くん!菊田小の一員なら、そんな小さな事を気にしてちゃ駄目だよ!?」

「そ、そうだよ!で、でも内緒ね!もう、時効だべ!?」政人も浩二同様、動揺した面持ちで必死に弁解を試みたが、結局何の言い訳にもなっていない。

「で、でも時効って――まだ……三日しか経ってないげど?」最後に伊織がそう返すと、身振り手振りの二人は、ついに目を泳がせたまま動きが止まってしまった。

 立ち尽くす三人の間に微妙な沈黙が流れる。と、そこへ新聞紙がどこからか風に飛ばされてきて、見事、政人の頭にバサリと引っ掛かった。途端に伊織と浩二は吹き出してしまい、新聞紙を頭から取った政人も一緒になって大笑いした。友達になるきっかけというのは、考えるよりも自然とこういった形で訪れるものだ。

パンをかじっては口の中をパサつかせ、川に向かって石を投げながら三人は歩いた。

「――ねえ、浩二くん?」ふと、伊織が足を止める。

「うん?なに?」浩二は口の周りにジャムをべったりとつけながら振り返った。

「あの……その……。ど、どうして僕に声をかげだのがなって……。今まで話したごどもないのに……」と、伊織は少しだけ気まずさを抱えながら聞いた。

「えっ?別に理由ってゆう理由はないよ。ただ、伊織くんがオレたぢの前を歩いでだがら声をかげだだげだよ。なあ、マサ?」

「うん!部落は違うげど、同じ根小屋で何となぐ顔も知ってだしね。そんな感じだあ」二人は、手にしていた残りのパンを全て頬張りながら答えた。

(……そっか)伊織は内心、府に落ちないところもあったが、今は何となく楽しいこの雰囲気に、とりあえずはその疑問を胸にしまうことにした。

土手沿いの道は間もなく終わりを迎えようとしている。道の終わりを左に入ると、今度は舗装された道路が伸び、その先には住宅街が広がっている。仁井田の町だ。

「ねえ、伊織くん?この道、まっすぐ行ったごどあっけ?」と、突然、浩二が真正面の道なき草むらを指さしながら聞いた。

「え?まっすぐったって、草ボーボーだっぺよ。行げんのげ?」

「まあね!実は、この奥にオレたぢの秘密基地があるんだ!」

「えっ!?秘密基地!?」途端に伊織の表情にときめきが走る。これほど少年の心をときめかせる言葉が他にあるだろうか。いつの時代でも、秘密基地という言葉は少年の冒険心をくすぐる不思議な力を持っている。

「行ってみっけ?」政人の顔とイボがニッコリと緩む。

「えっ!良いの!?うん!行ぐ、行ぐっ!」

得意満面の顔をした政人の誘いに伊織は二つ返事で応じると、早速、三人は道を外れた草むらの奥へと踏み込んでいった。生い茂る草をかき分けながら、小さな冒険者たちは道なき道を進んだ。そして十分ほど歩くと、すっかり(ひと)()もなくなり、三人は土手から川のほとりに降りたところで足を止めた。

「あれ、どうしたの?」伊織は、秘密基地らしきものを探すように周囲を見回しながら聞いた。

「うん。秘密基地は、もう、このすぐ近ぐなんだ。でも、オレたぢの基地に入るには儀式が必要で、今がら伊織くんにその儀式を受げでもらいたいんだ」

「えっ、儀式?」伊織は、政人の話に困惑した。思えばこの時点で身の危険を感じ取っていれば良かったのだが、それも既に遅かった。

「うん!オレもこの基地に初めで入っ時は、儀式を受げだんだっけえ。まあ、大したごどねえがら大丈夫だよ。ただ、軍団の規則を聞いで終わりって感じだがら」

「う、うん……」この時の伊織は、まだ不安よりも冒険心のドキドキの方が強かったといえる。

「良しっ!んじゃ、早速、始めっぺ!」浩二は、かしこまったように咳払いをひとつすると、伊織の前に一歩足を進めた。

「じゃ、伊織くん。目をつぶって!」

「えっ、目を?う、うん……」少しだけ不安が心をよぎったが、伊織は、笑顔の浩二に言われた通り目を閉じた。すると二人は顔を見合わせるや、無防備の伊織を指さし、顔をニヤつかせた。

「良しっ!では、今日より我々軍団の一員となる斎藤伊織の入団の儀式を行う!」浩二はニヤツキを浮かべたまま、どこか怪しげな宗教家めいた口調で声をあげ始めた。

「伊織くんは今日がら、オレたぢの軍団に入るごどになっげど、約束してもらうごどがある!」

「ひとつ!おれたぢ軍団は、絶対仲間に嘘をつがないごど!」

「ひとつ!秘密基地のごどは、絶対誰にも言わないごど!」

「ひとつ!秘密基地に入っ時は、必ず『ひでぶ・あべし』と言うごど!これを合言葉とする!以上っ!」

声高に唱える政人の三カ条に、伊織は思わず吹き出しそうになったが、とりあえずそれを必死で堪えた。

「というわげで伊織くん?今、マサが言った三カ条をちゃんと守れっけ?」

浩二の問いに対し、伊織は目を閉じたまま、うん、と頷いた。

「良し!じゃあ、最後の儀式をすっかんね!そのまま目を閉じででね!?」

伊織は、早く目を開けたいという、じれったさも感じてはいたが、そのままもう一度だけ頷いてみせた。

「じゃあ、伊織くん?目を閉じだまま、合言葉の『ひでぶ・あべし』を二十回言って!これが最後の儀式だ!言い終わったら目を開げで良いがんね!」

「うん、分がった!」伊織はそう返事すると、言われた通りに合言葉をひとり呟き始めた。

「ひでぶ・あべし、ひでぶ・あべし、ひでぶ・あべし……」伊織は、この合言葉に一体なんの意味があるのかと疑問に思いながらも、きっちりと指で数えながら二十回言い切った。そしていよいよ喜びに心を震わせ目を開けると、次の瞬間、伊織は絶句した。

伊織の目の前にいたのは浩二でも政人でもなく、なんと結城たちだったのだ。腫れ上がり、あざだらけの顔から睨みつける六つの目が伊織の体を一瞬にして硬直させていた。そして、全く事態を把握出来ていない伊織に向かって、土手の上の方から声が聞こえてくる。

「伊織くーん!こごがらが本当の儀式だがんねーっ!」

「伊織くーん!オレたちゃ友達だべえ!?ホッホホホホホホホホホホっ」

 なんと土手の上には、浩二と政人が何食わぬ笑みを浮かべて立っていたのだ。

「どうもねー、浩二、マサーっ!まだ明日ねーーっ!」輝樹が大声で返事を返すと、二人は手を振りながら消えて行った。そんな光景を見ても伊織はまだ状況を把握し切れていない。いや、さすがに勘づいてはいたが、伊織の性格上、それを受け止めたくないのかもしれない。

「やあ、伊織くん!ようこそ、オレたぢの秘密基地へ!」清人が嫌味たっぷりの笑みで一歩伊織に近づいた。

「浩二とマサはなあ……オレらの仲間なんだよ!残念だったなあ、オイ。そう簡単にオメエみてーなションベンハゲに友達なんか出来っと思ったが、コラ!?」結城が言った。

「いやあ……。会いだがったなあ、おい。オメーもオレらに会いだがったべえ!?」そう言うと吉田は、伊織の胸ぐらをつかむなり、柔道の体落としのような形で思い切り地面に投げ飛ばした。

「ここじゃ、どんなに騒いでもよお!誰も助けにゃ来ねーがら、たくさん遊ぶべなあ、伊織よおっ!!」宣戦布告とも言える吉田の雄叫びが辺り中に響き渡った。

 とにかく伊織は咄嗟にでも土手を駆け上がろうと試みたが、三人はそれよりも素早く逃げ道に回りこんだ。三人は獲物を狙う蛇のようにジリジリと滲み寄ると伊織は後ずさりした。が、すぐ後ろには山田川が流れており、無言で伊織の逃げ道を塞いでいた。

青空に浮かぶ雲が、まるで自分を見捨てるかのように風に流されてゆく。逃れられない恐怖が再び伊織の精神を蝕み始める。しかしその時、ある言葉が伊織の脳裏をよぎった。


『逃げろ!叫べっ!』

松村先生の言葉だった。


「う、うわああああーーーーーーっ!!」

伊織は、ありったけの息に声を乗せて叫ぶと、立ちはだかる三人に向かって突進した。しかしそれも虚しく、正面にいた吉田に軽くいなされると、逆に足を蹴り払われて無様に転んでしまった。相撲で言う蹴手操(けたぐ)りの形だ。と、そこへ結城が勢いよく駆け込んでくると、思い切り伊織のランドセルを蹴り上げた。が、打ち所が悪かったのか、逆に結城は足を痛めてしまい、結果、更に結城を怒らせるはめになってしまった。結城は強引に伊織の背中からランドセルを引き剥がすと、振り向き様に後方へぶん投げ、痛めていない左足で伊織の膝裏に思い切り蹴りを入れた。

宙を舞ったランドセルはすぐに失速し、地面に落ちた。そのはずみでカバーが外れると、中身も無残に散乱した。伊織は痛みを堪えて足を引きずりながらもランドセルのもとに駆け付けたが、すぐに三人が押し寄せて来た為、中身をしまうことも出来ず、ランドセルをかばうように覆い被さった。三人はすぐに伊織を囲むや、昼休みの時と同様、罵声を浴びせながら頭や背中、腰と所構わず蹴りを入れ始めた。容赦なく伊織を踏みつけては、そして蹴り続ける。三人は午後の授業で先生にやられた恨みをそのまま伊織に向かってぶつけ始めたのだ。

「謝れ、この野郎っ!」

「おるあっ!コラアっ!女男のくせに調子こぎやがって!謝れ、コラア!」

「い、嫌だあっ!何で謝るんだよっ!?」伊織は振り下ろされる蹴りの雨にも屈服せず、結城たちに徹底して抵抗した。

「ああっ!?生意気だがらに決まってっだろっ、コラアッ!」

「嫌だっ!絶対やだっ!僕は謝らないぞっ!僕は絶対に悪ぐないもん!」伊織はランドセルを更に強く抱きかかえると、脇をギュッと締め、丸く固まり、ただただじっと声を殺して耐えることを選らんだ。松村先生に言われた通り、自分が参るのが先か、それとも三人が疲れて動けなくなるのが先か、そこに勝負を挑んだのだ。三人に勝つことは出来なくても、耐える事は出来る。勝てなくても負けなければ良い。伊織は、そう自分に言い聞かせて必死に耐え続けた。松村先生の言葉と共に。

そして、やはり松村の言った通りだった。勢いが良かった最初に比べ、やがて結城たちの動きが鈍くなってきたのだ。伊織に浴びせかける罵声もどこかしら弱々しさえ感じ始めた。そしてついに三人の動きが止まると、そこには荒い息づかいだけが虚しく地面に零れ落ちていた。

それでも吉田は、怒りの全てをぶつけ切れていないことに納得がいかず、最後の力を振り絞るように両手で伊織の首根っこをつかみ上げると、そのまま背中を地面に叩きつけた。その際、伊織は受身を取ろうと、うっかりランドセルから手を離してしまった為、教科書やノートがバラバラと零れ落ちてしまった。そして事もあろうか、大事なスリーシスターズの写真までもがそれらと共に落ちてしまったのだ。

「ああっ!?」吉田が足元の写真に気づいた。

伊織は、慌てて写真に向かって飛びかかったが、それよりも一瞬だけ吉田の手が速かった。

「か、返せっ!」伊織はすぐに起き上がると、体格では勝てないと知りながらも吉田の腕につかみかかる。

「ああん!?なんだ、テメー、コラッ!?」

疲れているとはいえ、吉田はいとも簡単に伊織を突き飛ばした。が、すぐに伊織は起き上がり、再び吉田に喰らいつく。伊織も伊織で何度も吉田に突き飛ばされたが、それでも諦めない。しかし、結城と武田に体を抑えつけられると、とうとう動きを封じられてしまった。

「か、返せっ!返してよおっ!」と、伊織が叫ぶ。

「なんだこの野郎っ!いちいち、うっせんだよ、ボゲがっ!これは、オレが拾ったんだがらオレのもんなんだよ、このダボがっ!」吉田はこれ見よがしに写真に唾を吐きつけると、それで伊織の顔面を掻きむしるように、ゴシゴシと力任せに擦りつけてやった。

「痛っ!やめでよっ!かっ、返してよおっ!」

「ああっ!?何でオメーに返さねっきゃなんねんだよ、ボゲ、コラッ!」

「僕の写真だぞっ!」

いつもなら既に無抵抗となっているはずの伊織であったが、今回ばかりはそうはいかない。それだけに結城たちの怒りも収まることはなかった。

「オイ、テメーっ!何、偉そうに言ってっだよ、コラッ!状況見て物言えよ、おいっ!?」武田が、横から伊織のみぞおちに拳を強く突き刺すと、伊織は痛さと苦しさで崩れ落ちそうになった。が、武田と結城が伊織をがんじがらめにし、無理やり立たせている。どうやら倒れることさえ許すつもりはないようだ。

「輝ちゃん、もういいよっ!そんなの破いちめっ!」と、結城が悪知恵を働かせた。

「なっ!?や、やめでよっ!」咳込みながらも伊織は叫んだが、聞く耳を持つ三人ではない。

「あっはははははっ!そりゃ良いや!さすがはユーキャン!閃きの天才!」武田は噛んでいたガムを吐き捨てると大声で笑い飛ばした。

「伊織よお。オメーにゃ聞こえねーが?この写真の叫びがよお?『オメエみてーな女男に見られるぐれーなら、いっそのごど破いてくれ!』ってよおっ!?分がんだろ、そんぐれーよお!?」

「やめろ……やめ……ろっ!」とにかく伊織は必死にもがいているが、結城と武田は絶対に離さない。

「よおし。これがらオレ様の南斗水鳥拳でこの写真を八づ裂ぎにしてやっから、よおぐ見どげよ、このボゲがっ!」吉田はそう吐き捨てると、憎たらしいほどこの上ない笑みを浮かべ、「ホオーーーーーー……」と奇妙な声を出しながら両腕を波打つように揺らし始めた。そして次の瞬間、吉田は雄たけびをあげると、無常にも一気に写真を破き始めたのだ。

「シャオーーーーーーーーッ」

写真が伊織の目の前で見るも無残に破かれてゆく。

「や、やめろーーーーっ!」

「やみろーーー」武田が茶化すように伊織の言葉を真似た。

吉田は文字通り細々(こまごま)と写真を破ると、それを勢いよく宙に向かってばらまいた。紙吹雪となった写真は風に逆らうことも出来ず、ただただ風に煽られながら川や土手の向こうへと飛ばされていった。

「ああっ!!」伊織の無念の声が虚しく風の中に溶けてゆく。

――が、次の瞬間。四人の表情は一瞬にして強張り、硬直していた。

なんと、切り裂かれ、投げ捨てたはずの写真が吉田の手の中に戻っていたのだ。しかも、破れた形跡がひとつも残っていない状態でだ。

「えっ?……ええっ!?」吉田の顔に動揺が走った。吉田だけではない。結城も武田も、そして伊織もこれには目を疑った。

「な、なんで……?」吉田は両手に収まっている写真を信じられないといった表情で見つめている。

「な……な、なんだよ、輝ちゃん!ちゃ、ちゃんと破げよ!」武田が慌てたようにもう一度写真を破るよう促す。この時は、まだ目の錯覚だと思い込んでいたが、事態は確実に武田たちを破滅へと導いていた。

「う、うん!」

吉田は、今度は、写真をひとちぎり、ひとちぎり確かめるように破くと、また宙に投げ捨てた。が、またもや次の瞬間には吉田の手の中に写真が戻っていたのだ。

「ええっ!?な……なんで……!?」ふと、吉田は背中に冷たいものが駆け抜けるのを感じた。逃げ出したい衝動にも駆られたが、間髪要れず結城が横から声を荒げる。

「な、何やってんだよ輝ちゃん!しっかり破げよっ!」強い口調だが、結城の声にも明らかな動揺が表れ始めている。

吉田は半ばヤケクソの思いで()(たび)写真を破り捨てたが、やはり写真は吉田の手に戻っていた。四人の心に、例えようのない恐怖と戦慄がじわりじわりと生まれ始める。伊織も二度、三度と大切な写真が破かれてゆく様を呆然と見つめていたが、いつの間にか不思議とそれを止める衝動には駆られなくなった。

「な、なんか、やばぐねえが……これ?」武田が言った。

「う、うん……。なんか、ぜってーやべーよ。て、輝ちゃん!そ、その写真、捨てだ方が良いよ!」結城も、この異常な事態に怯えを認めた。

不穏な光景にたじろぎ始めた四人だったが、ふと、風の音が周囲を包み始めた。なんでもない風だが、四人の耳にはこの上なく不気味な音に聞こえたろう。

そして吉田は、結城に言われた通り写真を放り捨てた。ところが、写真はなぜか吉田の手に貼り付いたように離れない。

「あ、あれっ!?な、なんだ、これっ!?」吉田は何度も写真を払いのけようと手を振り回したが、写真は全く吉田の手から離れることはなかった。まるで写真が自らの意志で離れることを拒んでいるかのように。

吉田の顔が恐怖で青ざめて行くのが誰の目にも分かった。

「う、う、うわーーーーーーっ!」何かに取り憑かれたように、吉田は叫びながら再び写真を破り始めた。錯乱したその表情と行動は、更に結城と武田の心に恐怖を植えつける。

「て、輝ちゃん!やめろっ!」

武田は大声で呼び止めたが、吉田は止まらなかった。破り捨てられた写真は、その度吉田の手の中に戻ってゆき、気がつくと吉田の両手が次第に赤黒く染まり始めていることに気が付いた。この異様なほどの変色と、それに気付かぬ吉田に、結城たちは類のない身の危険を察知した。

「て、輝ちゃん!ちょっ、やべーよっ!やめろっ!」

「輝ちゃん、やめろ!離すんだっ!」

結城と武田は必死に叫んだが、もはや恐怖に錯乱した吉田の耳には届かない。

「輝ちゃんっ!!」いてもたってもいられず、ついに結城と武田は伊織を突き放し、力ずくで吉田の体を抑え込んだ。吉田の激しい息づかいと正気を逸したその表情が恐怖の度合いを物語っている。

「うっ、うわーーーっ!!」吉田が途端に叫び声をあげた。

「ど、どうした輝ちゃんっ!?」

結城と武田は、再び取り乱した吉田を恐れた。よく見ると、赤黒く変色した吉田の手に、傷らしきものがじんわりと浮かび上がってきたのだ。まるで鋭い爪で肉片をえぐり取られたかのような、生々しく見るに堪えない傷口だ。

「マ、マジでやばぐねえが、これよお!?」武田は、歯をガチガチと鳴らしながら結城を見た。

「や、やべーどこじゃねえよ、清ちゃんっ!」結城も武田と同様、今にも泣き出しそうな顔だ。

 一方の伊織は、尻もちをつきながらも茫然と三人の様子を傍観している。一体何が起こっているのか、伊織にも分からないのだ。

「ユーキャン!清ちゃん!なんだよ、これっ!?なんかやべーよっ!痛ぐねーんだよ、これっ!全然痛くねーんだよっ!それに両手の感覚がねーんだよ!やべーよ!どうすりゃ良いんだ、これよおっ!?」

三人は氷の槍で背中をえぐられたかのように、とうとう身動きひとつ出来なくなってしまった。

「ま、まさが……?」ここにきて伊織は、ハッと写真の中の鳥を思い出した。

吉田の手の傷は、その鳥の仕業なのではないか、と思ったのだ。写真が傷つけば、その中にいる鳥も傷つく。だから鳥は吉田に危害を加えているのではないかと直感的に感じたようだ。しかし、ビリビリに破られても、写真が元通りになる理由まではどうしてもその鳥と結び付けることが出来ない。それでもこの三人の様子を見れば、あの鳥が関わっていることは間違いないだろう。

「か、貸せっ、輝ちゃん!」恐怖の中の沈黙を破り、結城は吉田から写真を取り上げた。いくら振り払っても離れなかった写真だったが、結城がつかむと不思議と簡単に離すことが出来たのだ。しかし、今はそんなことに気が回るほど冷静でいられる状況ではない。

「こっ、この写真、やべーんだよ!呪われてんだよ、きっと!だがら破いでも破いでも復活すんだよ!それならもう、燃やすしかねーべ!」結城は、苦し紛れの中で閃いた結論を、まるで自分に言い聞かせるかのように言った。

「う、うん!そうだっ!そうだよっ!そ、それしかねーよ!ユーキャン、早いどご燃やしちまえっ!」続け様に武田がそう言うと、ポケットからライターを取り出し、危機迫る表情で火を灯し始めた。

――と、その時だった。

「うわーーーーーっ!」再び吉田が恐怖に駆られた叫びをあげたのだ。

 「ど、どうした、テルちゃん!?」

二人は踵を返し、吉田に駆け寄ると、なんと吉田の両手に刻まれた無数の傷がミミズの如く蠢き始めたのだ。吉田は泣き叫びながら傷を払いのけようとしているが、どうにもならない。予断がつかぬ恐怖と緊迫感が結城と武田の心臓を一気に押し潰そうとしていた。

「ユーキャン、キヨちゃん!助けでよ!なんか段々痛みが出で来たんだよ、これっ!」吉田は恥じも外見もかなぐり捨てたように恐怖に泣き叫び、懇願した。

「や、や、や……ほんとにやべーよ。こ、このままじゃテルちゃん、死んぢまうよ!早ぐ写真……ウエッ……燃やさねっきゃ……ウェッ」吉田の腕に蠢く不気味な傷を見た武田は、途端に吐き気をもよおし始めた。

「わ、分がったよ、清ちゃん!写真はオレが燃やすがら、清ちゃんは輝ちゃんが暴れねーように、しっかり抑え付げどいでぐれよ!」そう言うと結城は、武田の手からライターを引き抜き、再び風に背を向け、写真に火を点けようとした。が、今度もそれを阻もうとする者がいた。伊織だ。

「な、なんで燃やすんだよおっ!?だいじょぶだよ!やめろって!」伊織は結城の腕に飛びかかり、間一髪でそれを阻止すると、強引に写真を奪いにかかった。

「ああっ!?ざげんなよ、コラ!?何がだいじょぶなんだよっ!?だいじょぶなわげねえべなっ!」思わぬ邪魔が入った為、結城はライターを落としそうになったが、寸でのところでつかみ直した。

「ち、違うよっ!駄目だってば!この写真の中に鳥がいるんだよ!燃やしたら死んぢまうべよ!」伊織は、今度は結城の右手からライターを奪おうとつかみかかる。

「な、なに訳分がんねーごど言ってんだよ、このタゴ作がっ!は、離せよ、このっ!」結城も必死に伊織を突き放そうとしたが、両手を使えないせいでどうにもならない。と、そこへ堪らず武田が駆け寄った。

「テメーッ! 輝ちゃん、やべーの、分がんねえのがよっ!?邪魔すんじゃねえよ!」武田が伊織を結城から引き離した。背後では吉田が変わらずもがき苦しんでいる。

「ユーキャン、早ぐっ!」武田が叫ぶ。

「わ、分がってるよ!でも、風で中々点かねーんだよ!クソッ!」結城も事を急ごうとするが、風が相手ではどうすることも出来ない。

「やめろっ!やめろってば!」伊織は、武田の腕を振りほどこうと、なりふり構わず必死にもがいた。止まらない伊織の抵抗は武田の吐き気を更に煽り、伊織を抑えつける武田の腕力も一気に弱まっていった。これでは伊織を抑えつけることが出来ないと見た武田は、最後の力を振り絞るかのように、伊織を突き放すと、その背中に思い切り蹴りを入れて山田川に突き落とした。幸い川は浅く溺れる心配はなかったが、伊織は底にあった石で右足を滑らせてしまい、そのはずみで足首を挫いてしまった。

「そっから一歩も動くんじゃねーぞ!?」そう言うと武田は、水中にうずくまる伊織を背に、結城の元へ駆け寄った。自分の体を壁にし、風の行く手を塞ぎ、再び結城に対して火を点けるよう促す。結城はここぞとばかりに、ようやくライターに火を灯した。

「や、やった!点いだっ!」

「ナイスだ、ユーキャン!」

弱々しくも写真の角に乗り移った火を見守るように二人は歓喜の声をあげた。写真さえ燃やせば、吉田の傷も治る。そう思い込んでいた。

火の波は見る見るうちに大きくなり、写真を容赦なく飲み込み始めた。

――と、その時だった。

事は結城たちの望む方とは逆の、更に恐怖に凍てつく絶望の始まりへと追い込み始めたのだ。なんと写真の中から、一羽のコトドリが突然、顔を突き出してきたのだ。

「うわあっ!」結城と武田の息が一瞬にして凍てついた。

まるで水面から顔を出したようにコトドリの首元は波打つように揺らめいている。鳥はキョロキョロと小さな首を小刻みに振ると結城と武田の顔を見上げ、一瞬だけ目を合わせた。つぶらだが、黒く沈む鉄のような瞳だ。そして我が身に迫りくる火の波を一瞥すると、写真の表面を泳ぐように火の届いていない反対方向へと移動した。そして今度は、小さくも強固な黒い口ばしを大きく開けて息を吸い込むや、そこから一気に輝き散りばめく青白き吹雪を吐き出したのだ。火の波は瞬く間に押し止められ、一瞬にして凍りついてしまった。

もはや結城と武田には、目の前で起こっている事が夢なのか現実なのか区別が付かなかった。写真を手離すことも出来なければ、逃げることすら考えが及ばないでいるのだ。そんな中、コトドリは再び結城と武田を見上げた。まるで、この写真に火を点けたのは誰なのか分かっているとでも言うかのような眼差しだ。そして次の瞬間、二人は更に信じられぬ出来事に正気を失った。なんとコトドリが二人に話しかけてきたのだ。

「私を燃やそうとしたのは、おまえたちだな?」

二人は唖然と耳を疑った。鳥が人間の言葉を口にしただけでも驚きだが、なんと結城の声で話しかけてきたのだ。

「おまえたちだな、と聞いているんだ」

やはり結城の声だ。コトドリは結城の声で話しかけている。

「どうした?なぜ答えない?私の言っていることが分からないのか?」

鳥が続けて問い質す中、武田は恐る恐る結城を見た。実は結城がふざけて話しているのではないか、と思ったのだ。すると、すかさず鳥は武田に向かって口を開いた。

「おい、おまえ。人が話しかけているのに、どこを見ているんだ?話しているのは私だぞ?親から『人の話は、相手の顔と目を見て聞け』と教わっていないのか?」

「えっ――」武田はもはや、声を出すことすらままならないようだ。

「ふむ。どうやら答えられないようだな。まあ良い。とにかく、おまえたちが私に危害を加えようとしていたことは分かっている。では、今度は私がおまえたちにお返しをしようじゃないか」コトドリは独り言のように呟くと、写真の中から少しずつ体を出し始めた。

「ひっ、ひぃい!」

怖がり怯える二人をよそに、コトドリは徐々に写真の外に体を出してきた。乳白色の腹部に続き、赤茶に染まる翼と灰色がかった滑らかな背面が現れる。力強くしなやかな両足には鋭く長い爪が生えており、尾羽はどこか人工的な白く美しいレース模様のもので、茶色の縞模様の羽と重なるように飾られている。まるで竪琴のように美しい模様と形だ。コトドリは何食わぬ顔で写真の上に立つと、改めて二人を見つめ直した。全長十センチほどの小さな体長だった。

「ふむ。おまえたちの目には邪心が宿っているな。おまえたちのような人間は将来、地球にとって最大の天敵となるであろうから、ここで死んでおいた方が良さそうだ」そう言うとコトドリは、両脚で写真をつかむと結城の手から離れ、そのまま宙へと舞い上がっていった。そして両翼を巧みに操り、風を巻き起こすと、たちまち目の前につむじ風が集まり、小さな竜巻きを形成し始めた。

「ユ、ユ……ユーキャン。だ(・)、だ(・)んだよ、これ!何が始ば(・)んだよお?」

「し、知らで(・)えよ。なんか知んで(・)ーげど、怒ってるび(・)でーなんだよ」

呂律が回らぬ状態ながらも、二人はなんとか声をかけ合うことで恐怖を沈めようとしている。

「な、なんでオレらが、こ、こんな目に遭わねっきゃ……ウグェっ!」

狼狽する二人の口に風の塊が入り込み、二人は声を封じ込まれた。そして竜巻きは二人の体を取り囲み、徐々に徐々に全身を締めつけ始める。後方では吉田までもが同様に竜巻きによって動きを封じられていた。

「ぐうっ……。く、苦し……」

竜巻きによる圧迫で、三人は微かに息をするのが精一杯だった。そして気が付くと、コトドリの体はいつの間にか大きくなっていた。尾の長さまで入れると一メートルほどはあろう。そしてコトドリは更に力強く翼を煽ると、三人の足元に転がっているいくつもの小石を浮かせ、そこに風を四方から吹き流した。石は一瞬で粉砕され、その石粉はそのまま竜巻きの中へと取り込まれていった。

「まだ目が見えるうちに見せておいてやろう」コトドリは、結城たちから少し離れた場所に、もうひとつの竜巻きを創りあげると、同様に石を粉砕し、竜巻きの中に紛れ込ませた。そして、その上から口ばしを強く鳴らすと火の子がひとつ生まれ、竜巻きの中に落ちてゆく。その途端、突然に爆発が起こった。結城たちは、その威力に全身の穴から血が吹き出るほどの恐怖におののいた。

「粉塵爆発だ。おまえたちの前に火の粉を落としたら、どうなるか想像はつくだろう。私は人間には寛大だが、邪心と我欲に満ちた人間は別だ。恨むなら、おまえたちをそのように育てた親をあの世で恨むが良い」

三人は竜巻きに縛られたまま声も出せず、迫りくる死を拒もうと必死にもがいた。が、指一本動かすことも、声をあげることも出来ない。

一方の伊織は、川から土手に上がろうとするが、なぜか目に見えない力で押し戻され、近づくことすら出来ないでいた。まるで透明な壁が立ちはだかり、行く手を塞いでいるかのようだ。よく見ると、結城たちの様子もどこかおかしい。更に結城たちの前方上空に一羽の鳥がいるのを確認すると、伊織はまさかと目を疑った。写真の鳥だとすぐに気付いたのだ。

コトドリは、結城たちの頭上に来ると、伊織にも聞こえるほどの音を立てて口ばしを鳴らした。が、風で中々火の粉が生まれない。しかし、それが返って結城たちの心に一層の恐怖感を植え付けている。

幾度か口ばしを鳴らした後、ついに火の粉が生まれ、それが落ち始めるのを見ると、三人はとうとう気を失ってしまった。その瞬間、コトドリは結城たちを縛り上げていた竜巻きを解き放ち、間一髪のところで爆発を回避させた。同時に、伊織を塞いでいた見えない壁も解き放たれ、伊織は痛む足を引きずりながらも、地に倒れたクラスメイトたちのもとへと駆け寄った。

「ゆ、結城君っ!武田君っ!吉田君っ!」

結城たちはピクリとも動かなかった。伊織がいくら呼びかけ、体を揺すっても全く反応が無いのだ。

「た、大変だあ。ど、どうしよう……。そ、そうだ、きゅ、救急車!救急車を呼ばないとだよ……っ!」

「――安心しろ。その三人は死んではいない」伊織が立ち上がると同時に、コトドリが口を開いた。

「えっ!?」伊織は一瞬、他に誰か人がいるのかと耳を疑った。

「驚く必要はない。安心しろ」振り向いた伊織に対し、鳥は優しく諭すように言った。が、伊織は驚きのあまり、思わず尻もちをついてしまった。

「と、と、と、鳥が……しゃ、しゃべった!?」伊織は慌てふためき、後ずさりをした。

「安心しろ――と言っても、安心出来るわけないか。鳥が話しているのだからな、フフフ」狼狽するの伊織を見下ろしながら、コトドリは独り言を言い、そして笑った。

「私の名はダニー。伊織よ。もう一度言うが安心しろ。私はおまえを傷つけん。そして、そこに倒れている三人も無事だ。完全に気を失ってはいるがな」

「……ダ、ダ、ダ、ダニーだって?」伊織は恐る恐るその名を口にすると、慎重にその姿に目を向けた。見た目は完全に鳥だが、まさか人間の言葉を口にするとは誰も思いはしないだろう。それにしても一体どうやって写真の中から現れたというのだろうか。更には、目の前で結城たちが倒れているという事態に対し、伊織の頭は整理されることなく混乱に陥り始めた。

一方、ダニーは、伊織の精神が乱れたと察するや、少しだけ距離を置いた。伊織が冷静になるまで待つことにしたのだ。

息も乱れ、すっかり動転した伊織だったが、いつからか、ふと、おかしな音が鳴り響いていることに気が付き始めた。はじめは空耳ではないかと疑ったが、どうやらそうではなさそうだ。本当に聞こえてくるのだ。周りには物も人影もないのに、突然カメラのシャッター音や、チェーンソー、車のブレーキ音などが目の前から聞こえてくるのだ。かなりの近い距離からだ。次に伊織の耳には、ドリルの音やハンマーでコンクリートを叩くような音までもが届き始め、挙句の果てにはたくさんの鳥の鳴き声や、人々のざわめく声までもが聞こえ始めていた。仮に目を閉じていれば、間違いなく町なかでの工事現場だと勘違いしてしまうだろう。伊織は、この異常な音や声のオーケストラに困惑していたが、それも束の間、すぐに謎を解くに至った。音や声の出所は、なんとダニーだったのだ。いつしか伊織は、このダニーの声帯模写に興味を注がれ、次第に不安を忘れゆくと、笑みさえ浮かべるようにまでなっていた。

「……あ、あの――」声にはまだ若干の不安がこもってはいるが、伊織は自分から声をかけた。

「ふむ。どうやら落ち着いたようだな?」ダニーは伊織の方を振り返ることなく、地中に潜む虫をつつきながら返事をした。その声は、今や吉田の声を模写していた。

「そ、それって……物まね……なの?」伊織は、倒れた吉田の姿を今一度確認すると、やはりその声は、ダニーと名乗るこの鳥からであることを認識した。

「うん?ああ、これか?私は一度、耳にした音や声を再現出来る声帯を持っているのだ。まあ、物まねと言えば、物まねだろうな」ダニーは続けて虫をついばみながら答えた。

「う、うん。で、その……さ、三人は本当に……無事なの?」

「ああ、安心しろ。かすり傷ひとつ負ってはいない」今度は武田の声で返事が返ってきた。

「で、でも、さっき……吉田君は腕に大けがを――」

「あれは幻覚だ。私の術で怪我したように見せていただけに過ぎん」ダニーは伊織の言葉を遮るように言った。

「げ、幻覚?」

「幻のことだ。私の術で幻を見せていただけだ」

「まぼろし?」

「そうだ。三人をちょっと懲らしめてやろうと思ってな。なあに、ただの御仕置きだ。それにしてもなんだな?おまえは自分に危害を加えていた奴らのことを心配するなんて、『馬鹿』が付くほどお人よしだな?」

伊織は、ダニーの言葉に複雑な思いを噛みしめながらも少しだけ安心した。結城たちのことは決して好きではないが、それでも無事であることが分かると、やはり嬉しかったのだろう。

「どうした?」ダニーは口ばしに加えた虫を飲み込み、言った。

「えっ!?べ、別に、何も……」

右足に絡んだ草を払いのけようとジタバタするダニーの後ろ姿に、伊織は思わず笑みを浮かべていたのだ。

「なんだ、言ってみろ。何か聞きたいんだろう?」

「えっ――う、うん……。で、でも、やっぱりいいや」ジタバタした際にプリプリと震えるお尻がかわいい、だなんて、さすがに今は言えない。

「良いから言ってみろ」

「えっ――だ、だって……」

「かまわん。聞かなければ、おまえは私を怖がったままだ。それじゃ会話も出来んだろう」ダニーの口調が少しだけ荒くなった。はっきりしない伊織に少しだけいらついたようだ。

「う、うん……」

「なんだ?」

「うん……。じゃ……あ、あの…………な、なんで鳥がしゃべってんの?」伊織は、とりあえず無難な疑問から口にし始めた。

そして、突然上空からもうひとつの声が降り注いできたのは、その時だった。

「ハッハッハッハ。良い質問だ。それはオレが答えよう」

伊織はハッと空を見上げると、そこにはなんと一頭の竜と、それに跨る一人の男の影が浮かんでいた。


ロクセットと風の竜だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ