5.ダニー
「何をそんなに慌てているんだ、ダニーよ」
ダニーと呼ばれるコトドリは、警戒を顕わに、翼で空を切りながらナマルゴンを上空から見下ろしている。ナマルゴンが敵なのか、味方なのか判断にあえいでいるようにも見える。
「感謝しろ、ダニー。娘共は元の姿に戻しておいてやったぞ、おまえの代わりにな。クックックック」
「な、なんだとっ!?お、おまえは何者だ!?娘たちはどこだっ!?」コトドリは、ナマルゴンと更に距離を置くと声を荒げた。完全に動揺した様子だが、この時、ナマルゴンが敵であることを察知した。そしてナマルゴンは再び笑う。
「クックックック。ダニーよ?質問はひとつずつにするんだな」
ナマルゴンには、まずは時間を稼ぐことで、このダニーというコトドリと娘たちとの距離を離そうという考えがあるようだ。一方のダニーは、この場所で一体何が起きたのか、そしてなぜ、スリーシスターズの岩が消えた代わりに、この得体の知れぬ者が存在しているのかという混乱と恐怖に陥っている。
「オレの名を知りたいか?言わなくても、祈祷師のおまえなら察しはつくと思うがな。クックックックックック」
「なんだと?」ダニーは冷静さを取り戻そうと、息を整え始めた。そして目の前の謎の存在を注視しながら、ひたすら勘を働かせる。そして次の瞬間、ダニーはひとつの心当たりに愕然とした。
「ま、まさか……。貴様は!?いや、そんなはずはっ!しかし……いや、奴は封印されている筈だっ!で、でも、まさか……っ!?」再び訪れた恐怖にダニーの鼓動が異常に速まった。
「クックックックックック。その通りだ、ダニー。おまえの想像通りだ」
「そ、そんな!でも、なぜ……っ!?」
狼狽するダニーの姿に、ナマルゴンはすっかり気分を良くしている。
「さあ、オレの名を言ってみるが良い。オレの名を言ってみろ。クックックック」
「ナ、ナ、ナ――ナマルゴン!貴様っ!ナマルゴンかっ!?」
「クックックックック……光栄だな。現世においてもオレ様の名を知っている人間がいようとはな。ダニーよ。自分の運命に感謝するが良い。たかが人間風情のおまえが、こんな間近でこのナマルゴン様と対峙出来たのだからな」
ダニーは、一瞬にして地獄へと突き落された気分になった。あの時の悪夢が、まさかこんな形で繋がるとは予想もしなかったからだ。
あの時――
ダニーは娘たちを岩に、そして自分をコトドリの姿に変え、バンイップの難から逃れた。しかし、その途中でダニーは《魔法の骨》を暗闇の樹海に落としてしまったのだ。《魔法の骨》が無ければ、自分も娘たちも元の姿に戻すことが出来ない。以来、ダニーは、ここ、ブルーマウンテンズの樹海で昼夜を問わず《魔法の骨》を探し続けてきたが、見つけ出すことは出来ず、それならばと新たな《魔法の骨》を探す旅へと出た。ブルーマウンテンズを離れ、大陸の果てから果てまでを、そして海を越えた島々や大陸へも出向き探し続けたが、いつしか時は膨大に流れ去り、そしてこの夜、ふと不穏な予感を抱き、ブルーマウンテンズに駆けつけてみると、ナマルゴンという悪夢が待ち受けていたのだ。ダニーはまさに神をも恨む思いだろう。
「き、貴様っ、娘たちに一体何をしたんだっ!?」ダニーは今にも飛び掛らんと、すっかり正気を失っていた。
「クックックック。娘の恩人に対し、立派なご挨拶なもんだ。ええ、ダニーよ?」
「うるさい!私の問いに答えるんだっ!」ダニーには、もはやナマルゴンの戯言を聞く耳すら持ってはいない。当然だろう。我が子を悪魔に奪われたのだから。
「クックックック。おまえの可愛い娘たちを元の姿に戻してやったのだよ、不甲斐ない父親の代わりにな。クックックック」ダニーとは対照的に、ナマルゴンはこの上なく上機嫌な語り口で答える。
「な、なんだと!?ま、まさか黒魔法で!?」一瞬だけダニーの心が黒く凍りついた。それほどまでにナマルゴンの声と言葉は恐怖を含んでいるのだ。
「安心しろ。白魔法だ。しかし、つい力が入ってしまってな。勢い余って《黒の芽》まで植え込んでしまったわ。クックックック」
「な、なんだとっ!?」
《黒の芽》とは、祈祷師の間で遥か昔より受け継がれてきた悪しき伝説のひとつ。それがまさか娘たちに牙を剥くとは、ダニーは絶望の崖に突き落とされた思いだろう。
「おっと。オレに変な気を起こすなよ?《黒の芽》の恐ろしさは、おまえも知っているはずだ。クックックック。オレに危害を加えれば、《黒の芽》がたちまち娘たちの心を蝕み、姿を魔物へと変えてしまうからな。ハーッハッハッハッハッハ!」
ナマルゴンは、三姉妹を手中に入れたことで、既にダニーとの力関係は支配したも同然だった。
「き、貴様……っ!!」
「勘違いするなよ、ダニー?おまえがチンタラやってるから、娘たちはオレ様に頼ったんだぞ?クックックックック」
「うるさいっ!おまえに私の気持ちが分かってたまるかっ!」ダニーの狂った叫び声が闇夜の樹海にこだますると、驚いた鳥たちが枝葉を蹴ってその場から飛び去っていった。
「クックックック。そんなことで目くじらを立てるんじゃない、ダニーよ。これでもやるから機嫌を直すと良い」そう言うとナマルゴンは、ダニーの目の前にある物を無造作に放った。そして、それを見たダニーは目を見開いて驚きを顕わにする。
「こ、これは《魔法の骨》っ!な、なぜ、貴様がっ!?」ダニーは、眼下に転がった《魔法の骨》を手にしようと枝から一気に急降下した。が、その瞬間、なんと《魔法の骨》は突然爆発し、粉々に砕け散ってしまったのだ。
「うわっ!?」ダニーは空中で急停止すると、すぐさまナマルゴンの方を振り返った。
「おっと、スマンスマン。怪我はなかったかな、ダニーよ?クックックック」
「き、貴様っ!?」
「ふむ。また失敗してしまったか……。魔法はなかなかどうして難しいものだな、ダニーよ?永きの間使っていないばかりに、どうも上手くいかん。クックックック」
「ゆ、許さんっ!」ダニーは怒りのあまり、素早く数枚の羽を口ばしに咥えると、それを宙に解き放ち、《赤い翔波》の粉を振り撒いた。そして翼を力強くはためかせるや、空気との摩擦熱によって、なんと羽は炎と化した。炎は瞬く間にナマルゴンを取り囲み、蛇がとぐろを巻くかのように渦巻くと、一気にナマルゴンへと向かって狭まり始めた。
「ほう。魔法と呼ぶには程遠いが、人間にしちゃ随分と大した術を使うじゃないか、ダニーよ?さすが祈祷師と名乗るだけのことはある――と、褒めてやりたいところだが、忘れたか?オレ様に危害を加えれば、娘たちがどうなるかってことを?」
「…………っ!」
ナマルゴンの忠告にダニーはハッと我に返った。同時にナマルゴンに放った炎の術を間一髪のところで消し去ると、焼けただれた数枚の羽が無残にも地に落ちていった。
「クックックック。そうだ。それで良いのだ、ダニーよ」
娘たちを奪われ、そして《魔法の骨》をも粉々にされた今、ダニーには対抗する術が何ひとつ無いことを受け入れた。それはナマルゴンに屈服したことを意味する。
「貴様……一体、何が望みだっ!?」
ナマルゴンが三姉妹とダニーに接触したのは、伊織が聡から写真を受け取った前日の夜のことであった。