3.斉藤 伊織
伊織はベッドの上で漫画を読みながら、聡が買ってきたお土産のティムタムを食べていた。オーストラリアで一年間暮らしていた従兄弟の聡が、一年ぶりに伊織の家に遊びに来ているのだ。
枕元には、伊織の口に入り損ねたいくつものチョコレートのかけらが零れ落ちている。明日の朝、ベッドがアリだらけになって、母親からカンカンに怒られることも知らずに伊織は夢中でページをめくっている。隣の居間からは、テレビの情報番組の音声に混じって父と母が懐かしそうに聡と話をしていた。時々、母の甲高い笑い声が家中に響き渡っていた。
「ほら、伊織ぃ?オーストラリアの写真見せっから、こっちゃ来い!」
聡が部屋越しに伊織に声をかけたのは、午後四時を回った時のことだった。
「えっ、写真!?見せで、見せでっ!」
写真好きな伊織は、漫画を放り投げると、ドタドタと居間へと駆け込み、聡の隣に腰を下した。
伊織の口周りにはチョコレートがべったりと付いていたが、誰も何も言わない。いつものことだからだ。
「じゃあ、オレたぢは庭の手入れすっがらよ。聡ぐん、ゆっくりしてげよ?それど伊織?聡兄ちゃんがら色々外国の話を聞がせでもらえ。おもしれーど?」
父はそう言うと席を立ち、母と一緒に居間から出ていった。
聡は今、二十二歳。子供の頃から外国に住むことが夢で、地元の工業高校を出てから二年ほど働いてお金を貯め、去年、ワーキングホリデーのビザを使って一年間オーストラリアで暮らしてきた。
聡は好奇心が旺盛で趣味も多いが、こだわりもまた強い。普段は温厚だが、こだわりの部分においては、子供の伊織に対しても厳しく接することは珍しくない。男兄弟が欲しかった聡は、伊織を実の弟のように可愛がっていたが、伊織もまた聡のことが大好きだった。ギターをはじめ、小説や漫画、野球に料理など、勉強以外は聡から何でも教わった。聡の趣味は、そのまま伊織の趣味になったと言えるほど、二人は仲が良かった。
「大人になったら酒を教えでやる」
と言うのが、伊織に対するここ二、三年の聡の口癖だった。そんな聡の言葉に、伊織は毎晩のように酒を飲む父を、いつも羨ましそうな目で眺めていた。
「へえ、これがオーストリアの写真けえ?」
伊織は指に付いたチョコをおいしそうにベロベロと舐めてから写真を手にすると、聡はこれ以上ないほど顔を渋めた。
「聡兄ちゃん、これはどごの写真なの?」
伊織は口の中に残っている、噛み砕いたティムタムを飲み込んでから聞いた。
「オーストラリアだあ。オーストリアでねえど?ワーホリで行ってきたんだあ」
「ワーホリで行った? 何それ?飛行機で行ったんでねえの?」
ただただ思いつくままに伊織が聞く。
「そうじゃねえよ。飛行機で行ったに決まってっぺ!ワーホリってのはな、ワーキングホリデーの略で、簡単に言うど、一年間、外国で何をしても良いやづなんだよ。働いでも良いし、学校に通っても良いし、ずっと遊んでだって良いんだど!とにがぐ、外国で一年間何をしても良いんだよ。すげーべ?」
聡は、伊織には伝わらないと思い、ビザについての話は控えることにした。
「ふーん……」
自慢気に説明をした聡だが、伊織は質問したにもかかわらず、あまりその話には耳を貸すことなく、ただただ写真にだけ目を向けていた。オーストラリアがどこにあるのかもよく分からないが、見たこともない異国の風景写真にすっかり夢中のようだ。伊織は奥歯に詰まったティムタムの食べかすを、人差し指の爪で上手にほじくり取ると、それを満足そうに見つめてから、また口の中に運んだ。
それを見た聡は並べた写真を全部ひと重ねにすると、一枚一枚、伊織に触らせないように見せ始めた。そんな汚れた指で写真を持たれてはたまらないからだ。
「――これがサーファーズパラダイスっていうビーチだ。海の色がエメラルドグリーンで綺麗だべ?そんでこれがコアラで、これがカンガルーだ。これはオレのホストファミリーで、これが語学学校のクラスメイトと先生。そんで、これはエスペランスの海で、これがホワイトヘヴンビーチ。こんなきれいな海は日本じゃ沖縄以外で見らんねーぞ?そんでこれがエアーズロックで、これが月への階段。そんでこれが……」
伊織はテーブルの上に置いてあるティムタムの残りを食べながら、一枚一枚、紹介されるオーストラリアの写真に見入っていた。
「どうだ伊織?なんか欲しい写真があったらくれっぞ、うあ?」
「え!?良いのげ、聡兄ちゃん!んじゃ、全部頂戴よっ!」
伊織は嬉しさのあまり、思わず腰を上げて言った。
「それは駄目だ。一、二枚ぐれーで我慢しろ。わざわざ現像すんのに金が掛かってんだがらよ」
(なんだ、ケヂだなあ……。これじゃ、いづまで経っても彼女が出来ねーわげだよ)
伊織は心の中でそう呟くと、渋々と腰を下ろした。
「まあ、ゆっくり決めれば良いべ。オレ、ちょっと便所行って来っからよ」
そう言うと聡は、写真の束をテーブルの上に小さく放り投げ、鼻歌まじりにトイレへと向かった。
「ふうん。オーストリアってがあ。大体がらして聡兄ちゃん、日本語もちょうろぐに話せねーのに、よぐ外国で暮らしてだよなあ。僕より漢字書げねーくせして……」
伊織は、テーブルにあった残り三枚のうちのティムタムを二枚取ると、無理やり口の中に頬張り一気に噛み砕いた。
居間に一人取り残された伊織は、時計が針を刻む音の中で、写真の中の世界観に身を浸らせ始めた。
伊織は、まだ見ぬ異国の世界に空想を重ねるのが何よりも好きなのだ。特に冒険物やファンタジーなどの小説を読んでは、頭の中にいくつもの世界観を創り出し、白昼夢を見るのが唯一の幸せだと言っても良いほどだ(と言っても、小説に綴られている漢字の殆どは無視して読んでいるわけだが)。
太陽は人知れずに西へと傾き始め、奥羽山脈の向こうへと少しずつ沈んでゆく。窓から吹き込んでくる優しい風は季節の彩りを纏い、伊織はその中で目にする写真の様々な世界観にすっかり虜になっていた。
――と、その時だった。
ふと、伊織の視野の片隅で一枚の写真が微かに震え出したように見えたのだ。
「うんにゃ?」
伊織は何の気なしに、ぼんやりとその写真に視点を置いてみた。が、どうやら風のイタズラのようだ。僅かに開いている窓の隙間からカーテンが少しだけ揺らめいていた。
(なんだ、風が……)
と思いながら、伊織は口の中にまだ残っているティムタムをこぼさぬよう、大きく口を開けて欠伸をした。
しかし、その瞬間、それはまたもや起こった。なんと写真が再び震え出したのだ。しかも今度はそれが伊織の目に完全に映ってしまったのだ。
「ええっ!?」
思わず目を丸くした伊織の前で、写真は不自然に震えていた。写真の下に虫がいるわけでもない。どうみても風による動きでもない。伊織は恐る恐る、震えているその写真に手を伸ばそうとすると、今度はなんと小刻みに飛び跳ね始めたのだ。
「うわっ!」
伊織は亀の首のように、思わず伸ばしかけた腕を引っ込めた。
「え?――ええっ!?――ド、ドッキリ(カメラ)?」
伊織は慌てて居間全体を見回した。聡がイタズラで隠しカメラを仕掛けているのではないか、と思ったのだ。
伊織は襖を開けたり、テレビや壁掛け時計の裏側を調べたりと、目や手が届く限りの物全てを調べたが、カメラらしい物はどこにも見当たらない。
「えっ、なに?ドッキリじゃねーの?」
唖然と何度も目を瞬きさせながら、伊織は今一度その写真に目を向けた。写真は何事も無かったかのようにピクリともしなかったが。またもや突然、激しく震え始めたのだ。
「ええっ!?マ、マジがよ!?」
伊織は更に眼を大きくし、思わずチョコレートの付いた指のまま、その写真を手にした。
写真は確かに動いていた。まるで自らの意志でもがいているかのようだ。何よりもその微かな脈動とも震動ともいえるようなものが伊織の指先にしっかりと伝わっているのだ。そして次の瞬間、伊織は自分の目を疑うこととなる。なんと写真の中に黒い影が突如現れると、その景色の中を縦横無尽に飛び始めたのだ。
「うわあっ!」
怖さの余り、伊織は思わずその写真を手放すと、途端に寒気と震えが全身を襲い始めた。
普段は何とも感じない時計の針を刻む音が、次第に伊織の鼓動を追い込むように聞こえ始める。そして呼吸することすら忘れたかのように、ショックを受けた伊織は呆然とその場から動けなくなってしまった。
そして玄関の向こうから声が響いてきたのは、その時のことだった。
「お父さん、お母さん、ただいまーっ!」
妹の由美が遊びから帰って来たのだ。
由美は庭仕事をしている母親から聡のお土産が居間にあることを聞くと、大喜びで靴も揃えずに、ドタドタと家の中に駆け上がった。
「おみやげ、おみやげ、おみやっげーー♪」
まるで魔法でも唱えるかのように口ずさみながら由美は居間へと駆け込むと、そこでまず目にしたのは聡からの土産ではなく、放心状態と化した伊織の姿だった。
「うわっ!」
由美の勢いづいた足が凍りついたかのように一瞬にして止まった。
伊織の目は、まるで見てはいけないものを見てしまったかのように恐怖におののいていた。開いた口はだらしなく、その周りはチョコだらけで、おまけに鼻水とチョコレート混じりのよだれまでもが垂れていた。由美は、そんな状態の兄ともろに目を合わせてしまったのだ。
「ど……ど、どうしたの……お兄……ちゃん?……な、何があったの?」
由美は恐る恐る兄に声をかけると、ちらりと視線をテーブルに落とした。そこには聡が買ってきたであろうお土産のお菓子が置いてある。お菓子までの距離は約二メートル。しかしそれは伊織までの距離でもあった。
(なんか……怖い……ってゆうが、嫌過ぎるんだげど……)
由美の心は、兄に対し、ある種の恐怖に苛まれた。それは今日に限ったことではないが、今回は特に顔が引きつるほど引くものを感じる。しかし、目の前のお土産だけは食べたい。由美にとっては初めての外国のお土産なのだ。でも今、この兄に近づくのは変に怖かった。少女の心の中では、恐怖と食欲が激しくぶつかり合っているのだ。
由美は伊織の様子を見ながらも生唾を飲み込むと、静かに、足音を忍ばせながらテーブルへと近づき始めた。そっと、そっと物音を立てずに。
そして、ようやくあと一歩の所まで近づくと、よせば良いのに由美は自ら視線を上げ、再び伊織と目が合わせてしまった。見てはいけないと分かっていながらも、つい見てしまうという人間の習性なのだろう。由美は思わず引きつった笑みを見せた。
(私の兄って一体……っていうが――なんなの?)
由美は心の中でそう呟いた。そして、やっとの思いで二メートルの距離を制すると、その小さな手でお菓子をつかみ取るや、途端にその場から逃げ出した。
「おかっ――おかっ――お母さーん!お兄ちゃんがっ!お兄ちゃんがあっ!」
まるで空き巣の魔の手から逃げ出したように由美の叫び声が家中に響き渡った。
「ほら、伊織っ!由美にもちゃんとお土産をあげなさい!」
と、同時に母の声が庭先から響いてきた。伊織が意地悪をして、由美にお菓子を分け与えないのだろうとでも思ったのだろう。
しかし、そんな妹と母の大声のおかげで、伊織はようやく我に戻ることが出来た。
まずは肩で大きく息をし、またそれと同じ大きさで息を吐くこと数回。そこで手放した写真に再び手を伸ばすと、まるで汚物でも掴むかのように顔を背けながら拾い上げた。そして恐る恐る写真を見直してみると、やはり鳥のような黒い影が写真の景色の中を飛び回っていたのだ。
「な……な、な、なんなの、これ?なんで鳥が?」
伊織は初めこそ怖がっていたが、次第に写真が自分に危害を加えるものではないと判断すると、少しずつ親しみすら湧き始めてきたようだ。そして食い入るように写真の中の鳥らしきものを目で追うようになると、まるで幻想の世界に招待されたような気分になった。
ーーと、その時、聡が会心の笑みを浮かべてトイレから戻って来た。
「いやー、快便、快便。スッキリスッキリ。今日という一日が始まったって感じだなあ、オイ。うん?どした伊織?その写真が気に入ったんか?」
「えっ?あ……うん。ただ、ちょっと……うん」
伊織は手にしていたその写真を聡に見せようかどうか一瞬迷ったが、考え込むよりも先に「聡兄ちゃん、この写真って何?」と尋ねてしまった。
聡は何の気なしに伊織の手から写真を抜き取ると、途端に表情を強張らせ始めた。
「ああっ!伊織、これっ!」剣幕顔で聡は声を荒げた。
「ねっ!?ねっ!?すごいべ、これっ!すごいよねっ!?」
伊織は、聡も同様に写真の中に黒い影を見たのだと思い込み、声を高々にした。さっきまでの恐怖は一変して、一気に不思議な喜びへと変わっていったが、次の瞬間、伊織は頭を押さえうな垂れていた。
「……いってーなあっ!何すんの、いぎなりぃ!?」
伊織は、少しだけ目に涙を滲ませて聡を見上げた。
「いぎなりじゃねーよ!『汚っちゃ手で写真を持づでねー』って、前に教えだべえ!?」
聡は鼻息荒く、チョコでベタ付いた写真を伊織に突き付けながらいきり立った。
「えっ?あっ――う、うん。ご、ごめん。うっかりしてだ…………って、そうじゃねえよ、聡兄ちゃん!鳥が飛んでんだよ!鳥があっ!」
伊織は反れかかった話を戻そうと、猛然と聡に詰め寄った。
「ああん?鳥ぃ?」
何を言っているのかよく分からなかったが、聡はとりあえず話を合わせてみることにした。
「――ああ、そうだな。今日は天気が良いがら鳥もたくさん飛んでっぺなあ」
窓のすぐ外には伊織の父と母が庭で草刈りをしており、その隣では由美が楽しそうにシャボン玉を飛ばしている。
「そうそう。天気が良いんだよね、今日は……って違うよ!外じゃないってば!写真の中だよお!写真の中に急に鳥が現れで、グルグル飛び回ってんだよ!よく見でってば!」
伊織は聡から写真を取り返すと、今度は逆に写真を突き付けてやった。
(写真の中で……鳥が飛んでるだど?ハリー・ポッターの読み過ぎなんじゃねーのが?)
そう思いながら聡は、渋々写真を見直したが、伊織の言う鳥らしい影はどこにも見当たらない。
「うーん……。よぐ分がんねーなあ。錯覚だべ、錯覚。まあ、もしもハーマイオニーちゃんがこの写真の中に出できたら、今度はもっとよぐ見でみっからよ。頑張って探してみろや」
聡は、伊織の話に付き合うのが面倒になったのか、その写真を何の疑いもなく伊織に手渡した。
「まあ、良いべ。よっぽどその写真が気に入ったんだべな?やるよ、その写真。それは《スリーシスターズ》っていう世界遺産で、めっちゃ有名なんだぞ?シドニーっていう大っきな町がら、バスでどんぐらいだったがなあ?よぐ覚えでねーげど、日帰りで行ってきたんだわ。ほら、他に気に入った写真、無がったのが?あど一枚位ならあげっから、なんか選べ。オレは由美と遊んでっからよ」
そう言うと聡は居間を出て、庭で遊んでいる由美のもとへと行ってしまった。
「……ほんとに飛んでだのに」
居間に取り残された伊織は、ぽつりとそう漏らすと、チョコで汚れた《スリーシスターズ》の写真を手に、もう一度テーブルの前に座り直した。もしかしたら他にも不思議な写真があるかもしれないと、期待に胸を膨らませたのだ。しかし結局、他の写真からは不思議なものは何ひとつ見つけ出すことは出来なかった。
そして気づくと、伊織は聡に起こされていた。どうやら写真を見ながら眠ってしまったようだ。
「伊織、もう遅ぐなっから帰っぞ!」
肩を揺すられながら、伊織は気だるそうに目を半分だけ開けた。
「伊織?欲しい写真はあったのが?ほら、しっかり起ぎろってば!」
「――うぅん……まだ……選んでない」
「んじゃ、早いどご選んちめえ。もう帰っからよお」
寝起きで急かされた為、伊織は写真をよく見ることなく適当に一枚の写真に指をさすと、聡は少しだけ興奮したような声をあげた。
「おおっ!《月への階段》ってが!?良いの選んだなあ、オイ!これはブルームっていう町にある景色でな。ひと月に数えるほどしか見らんねんだよ。当然、天気が悪げりゃ見らんねえ自然現象でな。ほら、見でみ?まるで月に向がって階段が伸びでるみでーだべ?……って、ちゃんと聞いでんのが、おい?」
伊織は、聡の話を聞き流しながら両手を上げて大きく欠伸すると、今日初めてまともなことを聞いてみせた。
「聡兄ちゃん、オーストリアって自然が凄いど思ったげど、オーストリア人はどうだったの?」
「オーストリアじゃなくて、オースト『ラ』リアだがんな? とにがぐ、まあ、あれだな。オーストラリア人は、ほんと良い人ばっかだよ。陽気でフレンドリーだし、優しいしよお。海なんかも本当にいわきの海ど比べもんになんねーぐれー綺麗なんだよ!ゴミをポイ捨てする奴もいねーしな。おめーも大人んなったら、ぜってー行った方が良いぞ?大した目標もねーのに大学に行ぐぐれーなら、オレみてーにワーホリでオーストラリアに行った方が全然良いわ」
聡は、まるでこの世の全てを手に入れてきたかのように、自称英語訛りの日本語(聡に言わせると、標準語で話しているつもりだが、実際は立派ないわき弁だ)で、そう答えた。わざわざこの台詞を言うが為に伊織の家に来たのではないかと思えるほどの言いっぷりだ。
聡はその後、
「お兄ちゃんには写真をあげて、私には何もないの?」
と膨れっ面で由美に詰め寄られた為、伊織と同様に写真を二枚あげた。由美が選んだのはコアラの写真とカンガルーの写真だった。
聡は、伊織と由美と一緒に手を繋いで玄関を出ると、そこで待っていた伊織の両親に笑顔で挨拶をし、庭に停めていた車のエンジンをかけた。五年ローンで買ったハスラーが聡の愛車だ。
「じゃ、また遊びに来ますね」
車に乗り込み、窓を開けると、聡は改めて伊織の両親に挨拶し、ティムタムを一パック、由美に手渡した。一個しか食べられなかった、と由美が聡に不満をあげたからだ。
そして最後に、聡はもう一度窓から顔を出すと、「See ya mate!!」と伊織に向って挨拶をした。
「スィーヤマイト!」
伊織も同様に返すと、聡は笑顔でウィンクをしてからアクセルを踏み込み、家を後にした。ウィンクがこれほど似合わない男も珍しい、と伊織は一瞬だけ思った。
「ねえ、お兄ちゃん?今、何て言ったの?」
由美は大事そうにティムタムを抱きかかえながら、伊織に聞いた。
「『スィーヤマイト』って言ったんだよ。オーストリアの言葉で『さようなら』っていう意味なんだって。友達と会った時は、『グダイマイト』って言うみだい」
伊織は、次第に小さくなってゆくテールランプを見送りながら、由美にそう教えてやった。