21.カーテンフィグツリー
「なんだかこの世の悲劇なんか忘れちゃうくらい、超楽しいわね、お姉ちゃん?」
「そうねー。このまま時間が止まってほしいとさえ思ってしまうわ」
「ほんと、ほんと!ってゆーかー、お姉ちゃんはこの数日間で特に何が楽しかった?」
「うーん、そうさねえ……。まあ、こうして綺麗な海でのんびりと過ごすのも勿論良いけどー。私はやっぱりお馬さんに乗って大自然の中を巡り歩いたのが忘れられないわねー。お馬さんの、あの大きくて黒い瞳がクリクリってなって、超可愛かったわー。そういうあんたは、ステフ?」
「よくぞ聞いてくれました、お姉さまん❤あたしゃ何と言ってもラフティングよおっ!あんなドッキドキしたの初めてだもんっ!あと、電車でのんびり行ったクランダ・マーケットもまったり感があって良かったなあ」
「はーいっ!私は断然、気球よっ!あの綺麗な朝陽をのーんびりと空中散歩しながら迎えられたこと……あんな綺麗な朝やけ、絶対に忘れられないわ!」ミシェルはサングラスをかけて、青空に浮かぶ太陽に人差し指をさして言った。
この数日間、三姉妹は旅の途中で出逢った二人の日本人の男とバカンスを楽しんでいた。五人は今、日帰りツアーでケアンズ沖合いに浮かぶグリーン島に来ている。三人はリクライニングチェアーに体を預け、この数日間に撮り溜めたデジカメの画像を回し見しながら青春の日々とも言える時間を謳歌していた。
「――三人共、すっかり楽しんでくれてるようだね?」ユタカとヤスが、冷えた缶ビールとフィッシュ&チップスをテーブルに運んで来ると、DJとステフの間に腰を下ろした。彼女たちの水着姿をじっくりと楽しむ為だ。勿論、目のやり場を悟られないよう濃い目のサングラスをかけている。
「うん。ほんとに楽しいわ。これもみんな、二人のおかげよ。ほんとにありがとう」DJはサングラスを頭の上にずらしてユタカを見つめると、ゆっくりとウィンクをした。
「――ねえねえ?ユタカとヤスはこの数日で何が一番楽しかったのお?」ステフは早速ヤスの腕に自分の腕を絡ませて言った。
「えっ?そうだなあ……。全部良かったけど……オレはやっぱりラフティングかなあ」
「キャーッ❤やっぱりラフティングよねーっ!❤」ステフが歓喜と共に両手を掲げると、ヤスはそれに応えてハイタッチを交わした。揺れるステフの胸にヤスの目はすっかり釘付けだ。
「オレはスカイダイブも良かったけど、さっきやったパラセイリングも良かったよね。でもやっぱり、こうして皆と一緒にいられる時間が一番だよ」
「ああ、それは言えてる」
ユタカとヤスは勢いよく缶のプルタブを開けると、飲み口から泡立つビールをグラスに注ぎ込み、ステフのお腹の上で乾杯した。
「――きゃっ!冷たいっ!」重ねたグラスの縁から零れたビールが、太陽に焦がされたステフのお腹で弾け飛んだのだ。
「あ、ゴメン、ゴメン!冷たかったかい?」ヤスはテーブルの上のナプキンを取ると、ステフのお腹を優しく愛撫するように拭き取った。
「んもうっ!二人だけで乾杯なんかしてズルーイ!あたしたちだってユタカやヤスと一緒にいるのが一番楽しいんだからね!?」プクッと頬を膨らませるステフの表情が、ヤスの目には何とも愛おしく映っていた。
「あはははっ。ゴメン、ゴメン。まあ、とりあえず今晩は宿でゆっくりしてさ。明日は朝からドライブでもしようよ。滝巡りをしながらパロネラパークへ行ってさ。そんで帰りは満天の星を追い駆けながらのナイトドライブって感じで。どうかな?」
「ああっ!それ素敵ぃーっ!❤❤❤」三姉妹は両手を胸の前に握り締めて感激の声をあげた。
「グッド!じゃあ、それで決まりだね!」
太陽から零れるサンシャワーが止めどなく五人のもとに降り注いでいた。白い砂浜、そしてどこまでも透き通った海と珊瑚礁。清々(すが)しく吹き抜けてゆく潮風は、艶やかなまでの深い緑の熱帯雨林をくすぐってゆく。生きてゆく上でこれ以上何が必要だろうかと思うくらい、目に映る全ての存在が輝いていた。その中で五人は思いのまま、感じるままに時の流れを楽しんでいる。ただ、DJとステフが、いつからかユタカとヤスの前で本気で女を出していることに、ミシェルはいささかの不安も覚え始めていた。
そして翌日。
朝の静けさがまだ残るうちに五人は車へと乗り込んだ。運転するユタカの隣にはDJが腰を下ろすようになり、後部座席にはヤス、ステフ、ミシェルの順に並んでいた為、ミシェルは益々もって姉たちの慕情に不安を寄せていた。五人は昨夜のうちに作っておいた朝食を分け合いながら、一路パロネラパークへと走り出す。軽快なJポップをBGMに、五人は互いの笑顔を確かめ合うように移りゆく景色と会話を楽しんだ。
――道中、ユタカはユンガブラの村外れへとハンドルを向けた。以前からどうしても見たかったという、巨大な絞め殺しのイチジク《カーテンフィグツリー》を観る為だ。
駐車場に停めた車から下りると、五人は車内から解放された喜びを表すように、一斉に背伸びをしながら大きく伸びをした。どこまでも澄んだ空気の中に溶け込む野鳥の鳴き声がとても心地よく耳に響く。五人は他の観光客に混じりながらも辺り一面、草木で覆われたボードウォークの上を歩き周った(といっても、ミシェルは一人、呆れた表情を浮かべていた。二人の姉がユタカとヤスを相手に腕を組み、肩を寄せ合いながら歩いているのだ)。
(バッカみたい!良い歳して何を舞い上がってんだか……。本来の目的を忘れてんじゃないの?)ミシェルは小石を蹴りながら渋々と後をついて行ったが、やはり心のどこかでは、一人取り残された嫉妬感を拭えないようだ。
程なくして五人は、ついに《カーテンフィグツリー》を目の当たりにした。立ちはだかるその高さはゆうに五十メートルはあろう。そこから滝のように無数の根を下ろす不気味な風貌は、言葉では表現しにくいものがある。幾重にも絡まる根はまさしくカーテン状に広がり、まるで五人の行く手を塞ぐ巨大な壁のように威圧しているのだ。凛とした深山幽谷の一角に潜む、威風堂々とした大自然の脅威が五人の本能を圧倒した。
「うおおおおおっ!デッケーってゆうか、なんぢゃこりゃあっ!?」
「マジ、やばくねーっすか、これっ!?」
「これ……。マジ、ありえねーよっ!な、なんでこんな風に育っちまうわけ!?」
「ってゆーか、兄やん!なんか、あそこに看板があるよっ!」
二人はカーテンフィグツリーの生い立ちについて説明書きされている看板を見つけると、そこに向かって駈け出した。一方、二人の興奮とは対照的に三姉妹はじっと《カーテンフィグツリー》の根元からてっぺんを舐めるように見上げている。
「――ねえ?なんか、風が……」ステフが小声でミシェルに囁いた。
「うん……。なんか、急に変な……だよね?何かいるような気配……」
「――やっぱり、あんたたちもそう感じる?」DJは辺りを慎重に見渡して言った。
吹き抜けてゆく風の行方。生い茂る木々の、何かを訴えるかのようなざわめき。そして不特定多数の観光客など、三人は一通り警戒心を抱きながら慎重に見回した。が、特に変わった様子はない。
――と、その時だった。
突然にして風の質が変わったのだ。
木々の僅かな隙間を行き交うように吹き抜けていた風が、徐々に三姉妹を軸にその周囲を渦巻き、囲み始める。そして次の瞬間、三人は耳を疑うことになる。
『……ここだ……』
三姉妹はハッと顔を見合わせた。なんと風の中から声が聞こえたのだ。いや、声ではない。空気を引き裂く風の音が言葉に聞こえたのだ。いや、そんなことよりも確かに三姉妹は風の中に声らしきものを耳にした。しかし次の瞬間、ユタカとヤスが三人に声をかけてきた為、風は途端にそこから消え去ってしまった。
「おーい。何やってんの、三人ともーっ!?」
「見てみなよ、これーっ!?すっごい木だよ、マジで!」
大声で呼びかける二人の声は、早く看板を見せたくて仕方ない、というように弾け飛んでいた。
「う、うん。今、行くよーっ!」そう返事すると三姉妹は、動揺をその表情の下に隠して二人のもとへと向かった。
「――ほら、見てよ!まったくとんでもねー野郎だよ、この木はっ!」
ユタカとヤスに促されるも、三姉妹は辺りの気配に用心しながら看板に目を向けた。ひとつ風が吹くと、その度に動揺が心の中に走ったが、結局、それ以降は風の中に声を聞くことはなかった。
看板には
一、鳥がイチジクの種を実ごと食べる
二、その鳥が木の上(親木)に止まり、イチジクの種が混じったフンをする
三、その種が親木の幹や枝の上で発芽する
四、イチジクは根を親木に絡ませながら地表に伸ばして行く
五、イチジクの根は何本にも分かれ、太く成長し、親木を更に絞めてゆく
六、親木はきつく締められながらイチジクに養分を吸い取られ、枯れて死にゆく
七、親木があった部分は空洞化し、結果、イチジクだけが生き残る
と書かれている。
「――なんつーか、その……せこいってゆうか、生き残る為の術なんだろうけどさ。すっげーよね?」
「ほんとっすよ!これが人間なら最悪ですよね?人の家に図々しく居候しながら、自分は働かないで食っちゃ寝の人生ってことですもんね」
「まあな。ある種、ヒモ的な生き方で、考えようによっちゃ羨ましいっちゃ羨ましいけどな」
「――ねっ?ねっ?三人もビックリでしょ?こんな木が存在してるってことがさ?」
「えっ……。う、うん。ほ、本当に凄い木だよね。ありえないわ、まったく」DJは一瞬、返事にためらったが務めて平静を装った。
「とりあえずはビックリな木だけど、そろそろ車に戻ろうか?それともまだ見ていたい?」ユタカが聞くと、今度はミシェルがとってつけたように慌てて答えた。
「――えっ?う、うん。もう充分よ。次、行きましょうか」
「良し。じゃあ、行こう!」
大自然の驚異的な生命力に驚愕したユタカとヤスは、すっかり興奮していた。しかし三姉妹はうって変わって沈んだような表情を見せていた。先程の風の声がどうしても気になるのだ。五人は再び車に戻ると、改めてパロネラパークへと向かったが、三姉妹とユタカたちの間には少しずつ気持ちのずれが生じ始めていた。
幸いにも車の故障もなく順調に目的地へと進んではいたが、途中、大小様々な滝に立ち寄ったせいで、結局到着したのは夕暮れ前のことだった。それでもユタカとヤスは、念願だったパロネラパークを目の前にしてすっかり心を高揚させていた。
「――なんか、ドキドキするな……?」
「う、うん。想像もつかないっすよ。子供の頃に夢見た世界が、もう目の前にあるんすから……」ユタカとヤスは憧れの地を前に、童心に帰ったように言葉を交わした。
入り口で入場料を払い、二人は若干高揚した面持ちで三姉妹の手を引き、苔に覆われた園内へと進んだ。門を潜ると、そこにはまさしく『ラピュタ』を彷彿させる世界観がどこまでも広がっていた。
熱帯雨林の中にひっそりと潜むようにたたずむ古城。悠久の時の流れを儚く奏でる噴水。神聖な雰囲気の中をゆっくりと踊るように漂う風。背伸びをすれば今にも届きそうな真っ青な空と白い雲。鳥の歌声が四方八方から降り注ぎ、一面に広がる美しい緑の絨毯の上で、五人は映画の世界に迷い込んだように息を飲んだ。
「す、すげーな……」
「う、うん……。雰囲気は……確かに『ラピュタ』っすね……」
「ああ。なんつーか……確かに『ラピュタ』を連想させるような景観だわな……」
五人は、まるで時が止まった世界をさ迷うかのように園内を練り歩いた。言葉を口に出そうにも、例えようのない感情が口を遮り、ただただ溜息混じりの声を上げることしか出来ない。
やがて空が夕闇に染まり始めると園内に明かりが灯り始める。ライトアップされた古城や滝はとても幻想的に映り、ここを訪れる者全てが、その儚くも淡い夢のような世界観に益々酔いしれてゆくであろう。
――帰り道は前日の予定通り、星を道標にユタカがアクセルを踏み続けた。しかし行きとは違い、帰りの車の中はどうも様子がおかしかった。三姉妹の誰もが口を開こうとしないのだ。そのせいか、どこか重苦しい雰囲気さえ車の中に漂っていた。
ユタカとヤスは、いつからか三姉妹の変化が気になり始めて仕方がなかったが、それがなぜなのかは分からない。
「――ねえ?なんか……三人とも元気ないようだけど、どうかしたの?」ユタカがバックミラー越しに尋ねると、DJが力なく答えた。
「……ううん、ごめんなさい。私たち、ちょっと疲れちゃったみたいなの……」
「……そっか。じゃ、ゆっくり眠って良いからね?もし……オレたちが気付かぬうちに三人を傷つけてたら……ごめんね?」
「――ううん、そんなことないよ。私たち、二人の、子供のようにはしゃいだ笑顔を見られて、すっごく楽しかったもん。ただ、やっぱり……ちょっと疲れちゃったかな。この数日間は、ほんとに駆け抜けるように皆ではしゃいちゃってたから……」ステフが答えたが、やはり声に力がない。
元気が取柄のステフが、本当に疲れているような声をあげた為、ユタカとヤスはそれ以上言及はしなかった。
「――じゃ、ほんとにゆっくり寝てて良いからね?星を眺めながら眠りにつくと良いよ」
「うん……。ありがとう」
こうして五人は沈黙に伏せていった。遥か頭上に広がる星空の下、車体の風を切る音だけがやけに寂しく聞こえた。そして三姉妹は、訪れ始めた現実から逃げるように、その微かな寝息をエンジン音の中に溶け込ませてゆく。一方、ハンドルを握るユタカは、バックミラーに映る三人の寝顔に愛おしささえ感じていたが、この数日間の、まるで夢のような季節とも言える時間が間もなく終わりを告げようとしていることに気付くことはなかった。
夜道に若干迷いながらも、ようやくケアンズへ戻って来ると、五人は倒れ込むように宿の堅いベッドへと倒れ込んだ。体力に自信のあるユタカとヤスでさえ、さすがにシャワーを浴びる気力もないぐらい疲れ果てたようだ。二人はそのまま深い眠りへと落ちていった。
部屋の壁掛け時計は午前二時を指し示している。カーテンの隙間から刺し込む月の明かりは微かに部屋の壁を青白く染めていたが、やがてそこには三人の人影が揺らめくように映っていた。
三つの影は互いの意志を確認したかのように頷くと、何も知らずに眠るユタカとヤスのもとに歩み寄り、順番に唇を重ねた。そして物音を立てぬよう、二人のバッグの中からカメラを取り出すと、これまでに撮り溜めた五人の画像を確かめた。カメラが表示する画像には楽しそうな三姉妹の姿が数え切れぬほど映っている。どれもが掛け替えのない青春の記録であり記憶でもある。やがて三人は幾度かためらった後、意を決するとカメラに向ってフッと息を吹きかけた。すると、次第に画像のひとつひとつから三人の姿が跡形も無く消え、そこにはユタカとヤスの二人だけの思い出だけが残されていた。三姉妹は口づけをした際、二人の記憶から自分たちの存在を吸い取り、カメラの画像からも自分たちの存在を消し去ったのだ。三人は今一度目を合わせて頷くと、カメラをそっとバッグの中に戻し、ユタカとヤスの寝顔を名残惜しそうに見つめ直した。
「――ユタカ?ヤス?ありがとうね?」三姉妹は、声にならないほどの小さな声で二人に優しく声をかけた。
「二人と出逢えたこと……一生忘れないよ?そして一緒に過ごした時間も……。ずっと、ずっと忘れないからね?」
「――だからもう、私たちのことは忘れて、これからの旅を楽しんでね?」
三人は込み上げてくる悲しみの嗚咽を強く噛み殺していた。気を緩めると一気に涙が溢れ出してくるのも分かっている。そして最後にもう一度だけ純粋な口づけを捧げると、ベッドを軋ませながら寝返りをうつ二人を置いて、とうとう部屋を後にした。
宿を出て、人気のないエスプラネードラグーンまで来ると、ステフはユタカとヤスが眠るカラベラズ・バックパッカーズの方を振り返った。
「――ステフお姉ちゃん?」ミシェルが心配そうに声をかける。
「…………うん。分かってたと思うけど……いつの間にか好きになってたんだよね、あたし」そう言うとステフは強く唇を噛みしめた。そして再び歩みを進めると、胸の上で揺れていたペンダントがふと落ちてしまった。止め具がうまく噛んでいなかったのだろうか。ステフはそれを拾うと、しばし黙って見入る。クランダへ行った時、ヤスに買ってもらったサーフボードの形をしたペンダントだ。
ステフの脳裏にたくさんの想い出が駆け巡り始める。アーリービーチでの出逢いから、このケアンズまでの楽しい日々。何もかもが本当に楽しかった。しかし必死に押し殺していた想いがわっと胸の内に溢れ出すと、ついに泣き崩れてしまったのだ。
「――バカッ!泣いちゃ駄目っ!」DJが、泣き崩れるステフの両肩を鷲づかみにし、首を横に振った。が、DJ自身の頬にも冷たい雫が伝っている。
「…………まったく。最初からこうなるってことぐらい分かってたはずじゃん?それなのにお姉ちゃんたちったら本気になるから……。まったく年の差も忘れちゃって、大人げ無いったらありゃしないわ!」ミシェルは呆れた口調でそう言うと、二人の姉に背を向け、肩を震わせながら夜空に浮かぶ月を見上げた。
永い間生きて来た中で、別れというものがこんなにも辛いとは知らなかったのだ。きっかけは遊び半分の出逢いだったが、いつの間にか恋心が芽生え、この数日間で愛の始まりを知り、女の喜びを知った。寝ても覚めても常に二人と過ごし、触れ合う時間がたまらなく愛おしかった。せめて夢の中でも一緒に過ごしていたい。こんな時間が永遠に続けば良いのにと思ってさえいた。しかし幸か不幸か、彼女たちは今日、自分たちに課せられていた運命に遭遇し、同時に忘れていたはずのあの名前をも思い出してしまったのだ。よって、二人をこの先待っているかもしれぬ危険に巻き込むことはどうしても出来なかった。父との再会の為にも、三姉妹は二人との別れを決心したのだ。
三人は悲しみに打ちひしがれるまで泣き続けた。とにかく涙を流すことで全ての想いを吐き出すしかなかったのだ。そしてようやく涙が枯れ果てると、三人は目を真っ赤に腫らしながら大きく息をついた。
「……未練はここに残して行くの。良いわね?」ミシェルが姉たちに声をかけると、二人は力なく無言で頷いた。
そして三人は自分の頭髪を数本ずつ引き抜くと、それを両手に持って鞭のように振り回した。すると髪は途端に強固でしなやかなロープへと化し、そこでミシェルが高らかに指笛を吹くと、遥か向こうの夜空から群れを成したメガネコウモリがやって来た。
「――ごめんね?あなたたちの力が必要なの。今からじゃ(空を飛ぶ為の)手頃な箒が手に入らないから……」
コウモリたちはDJの言葉を聞くと、すぐに三つの編隊を組み始めた。どうやら三人の気持ちが伝わったようだ。
「ありがとう。恩に着るわ。――じゃあ、行くわよ?」
DJの合図で、三人は同時にロープを頭上に放り投げると、コウモリたちはそれを器用に足でつかみ取り、三人をあっという間に上空へと連れ出した。三人は二度と後ろを振り返ることなく、両手に持つロープの先端どうしを空中で器用に結ぶと、そこに腰を乗せて眼下に広がるケアンズを後にした。
月はすっかり雲の影に隠れ、涙で濡れた頬には夜風が冷たく突き刺さった。三人は風の行方を読みながらコウモリを巧みに誘導し、とにかくひたすら南下した。三人は終始無言を貫いていたが、きっと心の中では彼らとの想い出と戦っているのだろう。やがて、そんな未練をひとつずつ断ち切りながら降り立ったのは、半日前に訪れた《カーテンフィグツリー》だった。
コウモリたちは三人を下ろすと、そのまま夜の闇へと消えて行った。足元に横たわるロープも魔力が切れたせいか、再び細い頭髪に姿を戻したが、それもすぐに風で飛ばされていった。
「――ありがとう。助かったわ。実は箒に跨るよりも、あなたたちと空を飛ぶ方が私は好きよ。またね?」ステフは、コウモリたちが飛び去った方向を見つめながらそっと呟いた。
辺りは虫の鳴き声すら聞こえないほど、畏怖されたような静寂な夜気に包まれている。
「――それにしてもこんな所に居たとはねー。予想外も予想外。大穴中の大穴だわ」
「うん……。あの声が聞こえなかったら絶対に見落としてたわ。意識をほんとに集中しない限り、こんな微かな魔気には気付かないもの……。まったくよりによって、ほんとタイミングが悪過ぎだわ」ステフは無理に笑みを浮かべて言った。
「まあ、とにかく、やっととこさ奴の体に辿り着いたってわけね?」
「まだ分からないわよ、ミシェル?奴の体かどうかすらなんて決まってないんだから。とにかく慎重にいかないと」
「まあ、それはそうだけどさー。でも、この魔気からしてほぼ決まりなんじゃない?」
「とにかく、お願いだから無茶な真似はよしてよね、二人とも?」それだけがDJの不安なのだ。
「――へいへい。分かってますって、お姉さま♪」
「もう、ほんとに頼んだわよ?」DJがこうしていつも以上に釘を刺したのは、何やら嫌な予感がしたからだ。
三姉妹は《カーテンフィグツリー》を囲む柵を背にして座り込むと、昼間に感じたあの風の声を待つことにした。
月明かりさえ届かないほど生い茂る木々のせいで、視界はほとんど暗闇に覆われている。三人は、鬱蒼とする枝葉の僅かな隙間に浮かぶ星空をぼんやりと見上げながら、行き交う風の行方に意識を集中させた。が、いくら待てどもそれが現れることはなかった。
「――ってゆーか、なんなの?全然来ないじゃん?こんな美人を三人も待たせておくなんて、一体どーゆーことかしら?精神的猛打撃なんだけど?」ステフが足元の小石を二、三個拾い、遠くに投げつけながら言った。
「ねえ、ステフ?さっきから思ってたんだけど……もしかしたらだけど……来ないんじゃなくて、来られないんじゃない?」DJが言った。
「何それ?それじゃ私たちがせっかく来ても意味ないじゃん?」ステフはまた石を拾い上げると闇の向こうに投げつける。
「でも……あの時、確か『ここだ』って言ってたわよね?逆に本当は……来ちゃまずかったのかも……」DJの抱いた予感は確実に迫ってはいたが、未だ三人はそれに気付いてはいない。
「そんなの考え過ぎだってば!大体からして『ここだ』って言われたら、来たくなっちゃうのが人情じゃない!?違う?」
「私もそう思うな。DJお姉ちゃん、ここにきてちょっと考え過ぎなんじゃない?とにかく、この木の……このびっしりと垂れ下がってる根っこの中に何かが隠れているんじゃないかしら?。根拠はないけどね」ミシェルが言った。
「――といってもミシェル?このまま姿を現さない。いいえ、現せないんだとしたら、何か意味があるとは思わない?」DJはあくまで慎重だ。が、二人の妹には通用しない。
「まあ、今更意味があるとか無いとか話しても、それこそ意味の無い話じゃない?だったら行動あるのみよ!」そう言うとミシェルは、何か吹っ切れたように立ち上がり、お尻に付いた砂を両手で軽やかに払ってみせた。
「――こ、行動って……何する気なの、ミシェル?」ステフがミシェルの膝裏を軽く突つきながら尋ねる。
「とりあえず、この木が何だか怪しいから、何とかしようかなって」ミシェルはあっけらかんと答えた。引き続き根拠は無い。感じるままに言っているようだ。
「な、何とかするったって、あーた?どうすりゃ良いか分かんないから困ってんじゃないの?」
「まったく、そんなことで悩んでたら、お姉ちゃんたち、あっという間に皺だらけの顔になって、お肌もカサカサになっちゃうわよ?待ってても来ないってことは、こっちから乗り込んで来いっていうことじゃないの?」ミシェルは皮肉をひとつ交えながら柵をヒョイと飛び越えた。そして事もあろうか、躊躇うことなく《カーテンフィグツリー》の真下まで来ると、行く手を阻むようにびっしりと垂れ下がる根を引きちぎり始めたのだ。
「――ちょ、ちょっとミシェルっ!何やってんのよ、あんたっ!?」さすがの二人の姉もこれには驚いた。
「何って……見りゃ分かるでしょ?とにかく、この木が一番怪しいんだから丸裸にしてやるのよ!」ミシェルは姉たちの顔を見ることなく、根を引きちぎりにかかっている。
「バ、バカッ!そんなこと聞いてんじゃないわよ!早く戻んなさい!折れた根の口から変なものが出てるじゃない!」
DJの言う変なものとは、実は、ある者の魔気だった。しかし、三人にはそれが魔気であることが分かっていない。
「お姉ちゃん……たちも!ぼさっと見てないで……早く……手伝ってよ!」ミシェルは力任せにどんどん根を引きちぎり前へと進んでいった。もはや引きちぎるというよりも、力任せに折っているという方が適切だろう。そして折られた根の口からは、異様なほど紫色に輝く魔気が煙のように噴き出し、辺りをほのかに照らし始めていた。
――と、その時だった。
無残にも折られたシダの根が、ミシェルの背後で触手のように蠢き出すと、なんとその折れ口から再び根が生え始めたのだ。
「――ちょっ!ミシェル、後ろっ!危ないっ!」
「に、逃げてっ!!」姉たちが、その異様な光景に恐怖し、叫び声をあげた。
「えっ、何言ってんの?――――わ、わあっ!!」
それはミシェルが姉の方を振り返った瞬間だった。なんと復元した大量の根がミシェルに向かって飛びつくや、全身にきつく絡みつき始めたのだ。
「――っく……。くる……し……い……」
「――ちょっ!ミシェルっ!」
DJとステフは妹を救うべく柵を飛び越えると、ミシェルに巻き付いたシダの根をほどきにかかった。が、それはあまりにもきつく巻き付いている為、全く歯が立たない。それどころかシダの根は更にDJとステフにも攻撃をし向けてきたのだ。
二人は、襲いかかるシダの根を何とか払いのけながら後退し、二十メートルほど下がったところで、ようやく難を逃れた。
「お、お、お、おね、おねね……お姉ぢゃん!ミ、ミシェルがやばいよ!ど、ど、ど、どうしようっ!?」ステフはすっかり狼狽し、ろれつが回らないでいた。
「――ミシェルっ!魔法を使うのよっ!魔力を振り絞って脱出するのよっ!」
「…………駄目……ち……力……が……出……ない……」ミシェルはDJの助言を何とか聞き取れたものの、脱出する糸口すら作ることが出来ない。
「――おね、お姉ちゃん!ミシェルがっ!は、は、は、早く助けなきゃっ!早っ……ケホッ、ケホケホ……」
「咳き込むほど大声を出すんじゃないよ、ステフ。混乱は敗北の始まりよ?『心は熱く、頭はクールに』よ!」DJは、ステフを背後に下げると腰から杖を抜き、それを天にかざした。すると杖先に輝くガーネットのもとにエネルギーが次第に集まり、あっという間にバスケットボール大の火の玉を創り上げた。
「――動植物ってのはね?ウェルダンに焼き焦がして食べるのが手っ取り早いのよっ!」
DJは、シダの根目がけて火の玉を飛ばすと、同時にミシェルのもとへ駆け出した。が、火の玉はなんとシダの根を焼き尽くすどころか、まるで太陽が水平線の向こうに沈みゆくかのように、根の中にすっと溶け込んでしまったのだ。
「えっ!?」DJは慌てて足を止めると再び後方へと駆け戻った。その間にも《カーテンフィグツリー》は徐々にミシェルの全身を締め上げてゆく。
「――ちょ、ちょっと!な、なんなのよ、今のっ!?奴を燃やっ、もやもや……燃やすどころか、あっさり溶けちゃったじゃないのっ!な、な、何があったの!?」
「分からないわ。とりあえず言いたいのは、ステフ?お願いだからちょっと落ち着いてくれない?あんたの噛み噛みの実況中継を聞いてると、良い案も浮かばないわ」
「そ、そ、そんな……そんなこと言ったって、落ち着けるわけないでしょ!ミシェルが捕まって、火の玉がドーンで、スーって、パアッて無くなっちゃったのよっ!?それで△☆※±§▼¶ΘΓΛ●〒Ξ¢@$㏍仝じゃないっ!?」ステフはタガが外れたように騒ぎ出した。が、決してこの事態を解決するには役立たない言葉ばかりが並べられている。
(――ほんと、うるさいわね……)DJは嘆息を漏らしながらも打開策を練り始める。(ええっと……とにもかくにも、あの火の消え方は水でもなければ風の冷気でもない……となると……火は消えたのではなく取り込まれた?……つまり吸収されたってこと?でも、そんなことって…………。えっ、ちょっと待って!ミシェルは……あの娘は力が出ないって言ってたわ……それは魔力が出ないってこと?いえ、違うわ!今の火の玉は魔力の産物よ?火が吸収されたってことは、もしかして魔力……魔力を吸収されたってこと?そんな……っ!?)ステフのわめきが止まぬ中、DJは努めて冷静に徹し、目の前で起こった事態を分析した。
「――ステフ、分かったわっ!謎が解けたわっ!」心の闇が砕け散ったようにDJが声をあげた。
「えっ!マジで!?まっ、まさか、そんな植物がいるだなんて聞いたことないわっ!で、でも、どうやってミシェルを助けるのよっ!?」
「まだ何も言ってないわよっ、バカッ!」DJは、錯乱するステフの肩を鷲づかみし、面と向き合うと、一発頬を張り飛ばした。
「ステフ、ちゃんとしてっ!よく聞いてちょうだいっ!」ステフの両肩を更にガクガクと揺らしDJは言う。
「う、うん……(いたたたた……)」ステフは、まさしく千五百年振りの痛みを思い出したかのように頬をさすった。
「――良い?あのシダの根は、ミシェルの体から魔力を吸収しているのよ、きっと!私の火の玉も溶けたように見えたのもそのせいよ!ほら、見て!シダの根がどんどんミシェルの魔力を吸い取って太くなっているように見えない?」そう言うとDJはステフの頭を鷲づかみし、ミシェルの方へ顔を向けさせた。
「そ、そういえば……さっきよりも太くなったような……。――えっ!?じゃ、じゃあ、どうするの!?魔法が効かないなら、どうやって助けるのよ!?」今度はステフがDJの肩を揺すり始める。
「魔法を使わなきゃ良いのよ!」姉はあっけらかんと答えながら杖をしまい込んだ。
「――はあ!?ど、どういうこと!?」
「論より証拠!黙って見てなさい!」そう言うとDJは、再びミシェルに向かって駆け出し、大声で叫び始めた。
「ミシェルっ!!魔法を使っちゃ駄目っ!魔力を体の中で起こさないでっ!」
「お、お姉ちゃんっ!危ないわっ!戻って来てっ!攻撃されちゃう!――って……あれ?」ステフは慌ててDJを呼び戻そうと叫んだが、すぐにある異変に気付いた。なんとシダの根はDJに対して何の反応も示さないのだ。
「ミシェル!聞こえるっ!?魔力を意識しちゃ駄目っ!体内で魔力を生み出しちゃ駄目っ!そうすれば助かるわっ!」DJは何度も呼び掛けた。しかし、目に見える僅かなミシェルの姿からは既に何の反応も見られない。全てのエネルギーを吸い尽くされかかっているのだ。
「ミシェルっ!お願いっ!目を開けてっ!魔力を抑えてっ!」
DJは必死に叫び続けた。しかしそれも虚しく、とうとうミシェルの体はシダの根に飲み込まれてしまった。《カーテンフィグツリー》は、取り込んだミシェルに満腹感を覚えたのか、その動きをようやく抑え始めると、やがて何事もなかったかのように再び周囲に静寂が戻ってきた。
「……ミ、ミシェル?……う、嘘でしょ?出てきてよ……。は、早く出て来なさいってば…………。ミシェル…………ミシェルーーーーッ!!!」DJは唇を震わせると、絶望を吹き飛ばすように叫び声をあげた。
――と、その時だった。
なんと《カーテンフィグツリー》が、まるでスニーカーの紐を解きほどくように自らの根を緩め、左右に広がり始めたのだ。やがて根の壁が開き切ると、なんとその奥にはミシェルの姿があった。どうやら間一髪で助かったようだ。
「ミ、ミシェルーーーーっ!」ステフは後方から、いの一番にミシェルのもとへ駆け付けつけると、思い切り抱き付いた。
「――痛っ!ちょ、ちょっとお!痛いわよ、ステフお姉ちゃん!」ステフがあまりの勢いで飛び付いた為、二人は思わず後方に倒れ込んでしまったのだ。
「バカッ!バカ、バカ、バカ、バカッ!この大馬鹿三太郎の、ヒョウロクダマーッ!!」
ステフは誰にも渡さんとばかりにきつくミシェルを抱きしめると、涙を零して叫びをあげた。
「まったく……ほんとやってくれたわね、このミシェル坊やは(それにしてもうるさいわね)」DJは、ステフの喚きにうんざりしながらも、ようやく安堵の表情を浮かべた。
「――うん……。ごめんなさい」さすがにミシェルも反省の色を浮かべているようだ。
「ほんとにもう、バカなんだから。でも、まあ良いわ。こうして無事だったんだから。ほらステフ?もう良いでしょ?泣くのをやめて、離れなさい?」DJは、まだまだ手のかかる妹たちに手を差し伸べ、体を起こしてやると、二人の背中とお尻についた砂や落ち葉を払ってやった。
「うん……。ギリギリ……。ほんとギリギリでお姉ちゃんの声が届いて……すぐに魔力を封印したの。そしたら、あんなにきつく縛られて苦しかったシダの根が急にほどけ始めて……」
「そっか……。やっぱり魔力だったのね」DJは、今は静寂を保つ《カーテンフィグツリー》を見上げて言った。
「――うん」
「まったく、人騒がせな妹を持つと姉はほんと苦労するのよねー。とにかく、もう危ない真似はやめてよね?ま、とにもかくにも、とりあえずはこの根の中から出ましょう」DJは二人の背中を優しく押すと、根で張り巡らせた回廊をくぐり始めた。
――と、その時だった。
三人は背後からかつてないほどの魔気の強さを感じ取ったのだ。そしてその戦慄に三人の脚が無意識に震え始める。そして恐る恐る後方を振り返ると、なんとそこには不気味な肉塊らしきものが根の奥に潜んでいたのだ。
「あ……あ、あ……お、お姉……ちゃん?」
「な……なによ、あれ?き、気味が悪いんだけど……」
肉塊らしきものは、何やら石碑らしきものに封印されているようで、今にも目を覚まし、そこから抜け出して来そうなほどの生気と魔気を発していた。三人は、息を飲みながら目を凝らし、そして近づいてみる。
まるで地球の記憶から忘れ去られたような、古く重々しい石碑の表面に浮かび上がる上半身の肉体には、無数もの強固なシダの根が突き刺さっており、その肉体から発せられる強大な魔力を吸収しながら大きく脈打っていた。
「ま……まさか…………?」
三人は恐怖から目を逸らすように顔を見合わせると、すぐに共通の名を頭によぎらせた。
「ナ……ナマルゴンなの……?」
ステフがその名を口にしたと同時に、《カーテンフィグツリー》はナマルゴンの肉体を三姉妹から引き離すように、その根を深く、そして硬く閉ざし始めた。
三人は慌てて逃げるようにそこから脱出すると柵を飛び越えた。更にそこから十メートルほど離れた所で後ろを振り返ると、《カーテンフィグツリー》は何事も無かったかのように、夜の静けさの中にたたずんでいた。




