2.ナマルゴンの復活
《風の谷》へと続く洞窟内に重々しい足音が響いている。遥か頭上の天井からは水晶のクラスターが連なるようにぶら下がっており、絶え間なく清らかな滴が零れ落ちている。
ロクセットの数歩先には青白く燃え盛る大きな炎が揺らめき、奥へ奥へとをいざなっていた。炎が大きく揺らめく度、ロクセットの色白の肌が不気味に照らされ、不精ひげを生やしたその顔立ちがより貧相に映る。
洞窟内には絶えずどこからか迷い込んできた風が口笛を吹くように行き交っており、至るところ風によって運ばれた赤土で覆われていた。
炎の後についてゆくこと十五分。ロクセットの前には行き止まりの岩壁が立ちはだかっていた。炎は、立ち止まるロクセットを気にすることなく、そのまま岩壁の中にすっと消え入ると、周囲は突然何も見えぬ暗闇に深く沈んでいった。
ロクセットは慌てる素振りも無く、自らの手の平から新たに炎を生み出すと、それを頭上に浮かばせ、暗闇に沈んだ洞窟内を照らし始めた。立ちはだかる岩壁は赤土で覆われており、永い時間、誰もこの場所を訪れていなかったことが伺え知れる。その赤土を手で払ってやると、次第に岩肌に刻まれた魔法陣が浮かび上がってきた。ロクセットは、最後にフッと息を二度、三度吹きかけ、頭上の炎を岩肌に近づけると、魔法陣に記された古代魔法族の文字をひとつひとつ確かめるように解読し始めた。
「ハー・ロン」
一通り目を通した後、ロクセットはそっと魔法陣の中央部に手をあてがい、魔法呪文を口にした。
するとその数秒後、途端に手元からエメラルドに輝く光が溢れ出し、次の瞬間、光がひと固まりに集中すると、閃光を煌めかせながら岩肌に刻まれた魔法陣と文字をなぞるように疾走し始め、まるで長年の眠りから目を覚ましたかのように封印が解き放たれた。
ロクセットが光の眩しさに、しばし閉じていた瞼をそっと開けると、目の前に立ちはだかっていたはずの岩壁は跡形も無く消え去っており、代わりに現れたのは一面真っ白な霧の世界だった。道らしきものはおろか、地平線も水平線も見えない。ただ、一枚の青白く淡い光を湛えるクリスタルの円盤だけが足下に浮かんでいるだけだった。
ロクセットは乾いた唇をひとつ舐めると、慎重に円盤の上に足を乗せた。すると円盤は静かに、そしてゆっくりと宙を漂うように移動し始めた。深い霧と、重力を感じさせない空間のせいか、上に進んでいるのか、下に進んでいるのか、前後左右、どの方向へ進んでいるのかは全く分からない。ただ、とにかく円盤は霧の中、風を切りながら進んでいる。
途中、宙に浮かぶ島々が随所に現れ始めた。そこには立派な神殿や聖堂、そして家屋のようなものが建っていたが、人らしき気配はどこにも感じられない。ただ、美しい芝と花々の中、小鳥のさえずりだけが響き渡っている。
やがて左前方に何やら塔のような建物の影が見え始めると、円盤はそこに向かって直進した。ほどなくして塔に見えた影の正体は、宙に掛かる階段であることが分かったが、それはまるで、時の記憶から忘れ去られたような、見るからに古びたものだった。そして、その階段の頂上には燦然と輝く青い光の渦が宙に浮かんでいた。
円盤は階段の最下段の前まで来ると、息絶えたように静かにその動きを止めた。
円盤から降り立つと、ロクセットは躊躇うことなく一段一段を踏み締め、その先に見える光の渦を目指した。ロクセットが一段歩みを進める毎に後ろの段は霧の中に消えてゆく。追っ手の追跡を拒む為の仕掛けなのだろうか。とにかく後戻りは出来ない仕組みのようだ。そしてついに頂上まで昇り詰めると、ロクセットは身を包む《紅のマント》に付いた土埃を丁寧に払い落した。どうやらこの渦の向こう側に目的の場所があるようだ。
ロクセットは最後に唾を飲み込み、もう一度だけ唇を舐めると、目の前に渦巻く光の扉の中へと足を踏み入れた。
――次の瞬間、ロクセットはとある広間に立っていた。と、いってもそこには壁や天井は一切なく、一面クリスタルのブロックで敷き詰められた床が暗闇の中に浮かんでいるだけだった。床の中央には深紅の毛氈が敷かれており、それを挟むように歴代の屈強な魔法戦士たちの彫像が列を成して向かい合っている。そしてその毛氈の向こうには、見事な宝飾で飾られた重厚な椅子に腰を下ろす年老いた男と、その隣に佇むもう一人の年老いた男がロクセットを見つめていた。
ロクセットは姿勢を正し、数歩だけ歩みを進めると、周囲を静かに見渡した。
(……昔のままだ)
無表情ながらも、ロクセットはほんの少しだけ郷愁感に想いを馳せた。
「戻って来たか……。ロクセットよ」
椅子に腰を下ろす男が口を開いた。穏やかで安らぎを感じさせる、優しい声が広間を流れる空気を震わせる。
「……はい」
ロクセットは緊張の色を浮かべながら、深紅の毛氈を恐る恐る踏みしめ、正面に待ち構える男たちの前へと進んだ。
「遅れて申し訳ございませんでした。ロクセット、ただ今戻りました」
深々と床に腰を落とし、丁寧に挨拶の言葉を口にすると、ロクセットは初めてその年老いた男を見上げた。
男の名はマイルス。現魔法界の頂点に君臨する長であり、同時にロクセットの師でもある。聖糸で紡いだ聖心のローブをまとい、胸元にはブラックオパールの美しい銀細工を下げ、右手には代々魔法族の長に受け継がれてきた《賢者の杖》が柔らかく握りしめられている。バオバブの木で作られたこの杖には竜のヒゲが巻き付けられており、先端には握り拳大のブラックオパールをがっしりとつかむ、本物と見間違えるほどの竜の手が宝飾されていた。長髪でボサボサの髪は昔と変わらずも、その色はかつての黒髪から銀髪に変わり果てており、右耳には二つのピアスを通している。
「うむ。久しぶりじゃのう、ロクセットよ。何年ぶりじゃろうか、おまえがここに来るのは……」
マイルスはそう返事すると、静かにうんうんと二度頷いた。
「はい、五十年ぶりでございます。マイルス様、お変わりはありませんでしたか?」
ロクセットは、かつての生気を感じられないほど、マイルスの老いを痛々しく感じていたが、せめてそれが気のせいであってほしいとすら願ってもいた。
「いや……おまえが感じておる通り、わしは老いてしまった。特にこの百年は命を削る為に生きてきたようなものじゃった。しかしロクセットよ。わしもおまえの成長を強く感じておるぞ。おまえがわしの老いを感じているようにな。この五十年のおまえの働きは見事じゃった。わしの力が及ばんばかりに、若いおまえには苦労をかけのう」
「いえ、そのようなことは……決して……」
マイルスから労いの言葉を授かった喜びと、マイルスの老いへの不安が交錯する複雑な想いがロクセットの胸中を駆け巡る。
ロクセットは右手をギュっと握りしめると、小指にはめている指輪を祈るように眉間に押し付けた。その指輪は五十年前、マイルスの右耳についていたピアスで、ロクセットはそれを片時も離さず身につけていたのだ。
ロクセットは続いて、マイルスの隣に立つ、同じく長老のチャックの方にも目を向けた。マイルスと同様に歳を重ねてはいるが、マイルスと比べて顔色も血色も良い。思っていた以上に元気そうなその姿に、ロクセットは少しだけ安堵の息を胸の内で漏らした。
チャックは、マイルスと共に魔法族の歴史を守り抜いて来た、言わば現代魔法界の生き字引だ。魔法学のみならず、宇宙学や自然学についても造詣が深く、その幅広い見識をもって、これまでに多くの弟子たちを育て上げてきた。ちなみにロクセットは、マイルスとチャックの最後の弟子にあたる。
「ほっほっほっほ。ロクセットや?わしは大丈夫じゃ。心配せんで良い」
どうやらチャックは、ロクセットの意を汲み取ったようだ。チャックの微笑にロクセットは改めて心が救われた想いだろう。
「それにしても、だいぶ腕を上げたようじゃの?」
「い、いえ。とんでもありません。まだまだ―――」
「そんな謙遜せんでも良い。魔気を発せずとも、杖先の魔石をひと目見ればすぐに分かる。のう、マイルスや?」
ロクセットの言葉を遮るようにチャックが言った。
「うむ……。その通りじゃて。立派なクンツアィトじゃ。くすみが消え、洗練された波動を強く感じる」
二人の長老は、弟子の成長ほど嬉しいものはない、といった想いでロクセットの姿を見つめている。しかし、その成長ぶりが見えたからこそ、逆にロクセットをここに呼び戻さざるを得なかったという心苦しさも、二人は胸の内に抱えていた。
「ところで、チャック様。今回、突然、私を呼び戻したのは……?」
ロクセットは、あえてマイルスではなくチャックの方へと声を向けた。マイルスの体調を気遣っているのだ。
「うむ。わざわざタスマニアからおまえを呼び戻したくらいじゃ。薄々は感じておるかもしれんが……まあ、皆が来るのを待ってから話すとしよう…………と思ったが……その必要もないかの?どうじゃな?久し振りのロクセットは?」
「…………??」
ロクセットは、まとまりの無いチャックの言葉尻に疑問の表情を浮かべた。しかし次の瞬間、ロクセットを驚かせる声がどこからともなく聞こえ始めてきたのだ。
「――はい。相変わらず緊張感の無い男です」
声はロクセットの背後から響き渡ってきた。久しく耳にすることのなかった、聞き覚えのある懐かしい声だ。
「えっ?」
ロクセットは、流れるように声の主を追って後ろを振り返る。すると、誰もいなかったはずのそこには、かつてロクセットと共に魔法修行を乗り越えて来た多くの同志たちが立っていたのだ。
「フ、フレディーっ!?みんなっ!?」
ロクセットは踵を返すや、すぐにフレディーのもとへと駆け寄り、ぎゅっと再会の抱擁を交わした。
「久しぶりだな、ロクセット」
フレディーが太く低い声で口を開いた。
「ああ。一瞬、誰の声かと思ったぜ」
ロクセットも思わず口元を緩ませて言った。
「まあ、五十年も顔を合わせなきゃ当然だろうな。それにしても、何もここまで来るのに、わざわざ遠回りするか?普通に正門から入って来れば良いものをだぜ、ロクセット?」
「別に大した意味は無いさ。懐かしくてただ単に通ってみたかっただけだ」
「おまえはしょっちゅう、事ある毎に円盤に乗ってたからなあ。まったく、いつまで経ってもマイペース野郎だぜ。どうりでいくら正門で待ってても現れないわけだ。おかげで待ってる間に頭ん中で人生を三度も振り返っちまったぜ。自叙伝が書けるくらいだ。もし出版されたら、おまえに真っ先に買ってもらうからな?」
「相変わらずだな、フレディー。でも、いつの間にここに来たんだ?まったく分からなかったぞ?」
「フン。本当に緊張感が無い奴だな」
このフレディーは、ロクセットと同じ時期にマイルスのもとに弟子入りし、共に修行に明け暮れた、いわば同期の間柄だ。目鼻立ちがくっきりとした顔立ちと濃い眉毛は相変わらずだが、上唇の上には立派なヒゲが蓄えられ、ロクセットと同じ位の体格だったはずが、今ではがっしりとした筋肉の鎧を身につけ、ロクセットよりも十センチほど身長が高くなっていた。そして懐かしいのはフレディーだけではない。多くの苦行を共に乗り越えてきた兄弟子たちもロクセットを出向かえに来てくれていたのだ。皆、旧友との再会に自然と笑みが漏れてしまうところだったが、事態はそれを許すほどの余裕は無かった。
「――ロクセットや。せっかくの仲間と懐かしむ時間を設けたいところじゃが、皆の者が揃ったところで大事な話をせんとならんのじゃ。悪いが今から《太陽と月の間》へ来てくれんかの」
か細い声でそう言うと、マイルスは力無く腰を上げ、若き弟子たちを《太陽と月の間》へと案内すべく、玉座の真裏の方へと足を進めた。
一同は遅れを取らぬよう、すぐに長老たちの後に続いた。その途中、マイルスが《賢者の杖》を天に向かって振りかざすと、なんと途切れていたクリスタルの床の端から暗闇の宙に向かって、美しい光の階段が現れた。一同は黙ってその階段を昇り、頂上を目指した。そしてその頂上には、やはり渦巻く光の扉があり、そこへ足を踏み入れると、ついに《太陽と月の間》へとつながった。
「こ、これが《太陽と月の間》なのか?」
「ああ……。みたいだな」
《太陽と月の間》とは、太陽と月の存在を信仰する魔法族の中でも、選ばれし者のみぞ踏み入れることが出来る重要な場所であり、ここに立ち入るということは、真の魔法戦士、つまり魔法竜騎士団の一員として認められたことを意味する。それだけに、初めて訪れるロクセットやフレディーにとっては幾分困惑した想いが駆け巡っていた。
「おい、二人とも?ぼさっと突っ立ってないで、座れや」
呆然とする二人に声をかけてきたのは兄弟子のリバーだった。リバーは、ロクセットとフレディーが幼少の頃から慕っている兄貴分で、卓越した魔力と素質を誇る、マイルス自慢の弟子の一人だ。二人は、このリバーから魔法の基礎を教わった為、未だに頭が上がらない師でもある。
二人は椅子に腰を下ろすも、どうも落ち着かない様子だ。そんな二人に「ほっほっほ。驚いたかな、二人とも?」とマイルスは目を細めながら優しく声をかけた。
天井や壁、床、テーブルに椅子など、ありとあらゆるものに太陽と月の紋章が刻まれ、歴史を感じさせる空間だったが、ロクセットとフレディーは、まるでおもちゃ屋に来た子供のように落ち着いてなどいられなかった。
「ではマイルス様。そろそろ……」
マイルスの後継者と目されているU2が静かに口を開いた。
「ふむ、そうじゃな」
マイルスは、テーブルに両手をつくと、重い腰を上げて再びロクセットとフレディーに向かって口を開いた。
「良いか、二人とも。この場所は地球における魔法族の繁栄を築く為に、魔法界の全ての掟をとり決めてきた場所じゃ。魔法界のみならず、この地球に存在する全ての種、すべての生命が良い関係を築く為に必要な掟じゃ。勿論、掟だけではない。新しい魔法の研究や創造に始まり、その有効性や有害性、地球への影響を判断したりもする所でもある。邪悪な力を擁する黒魔法を禁断の魔法に制定したのも遥か昔、ここでの会議じゃった。ここで話し合われ、決定した事は、全て現代まで繋がり、そして未来へと受け継がれてゆく。つまり、この《太陽と月の間》は、言わば魔法界の歴史と未来なのじゃ。今日、ロクセットとフレディーを新たに迎えた、おまえたち魔法竜騎士団をここに呼んだということは、これからの魔法界の未来をおまえたちに託すという意味でもある。それを肝に銘じて聞くのじゃぞ?」
まるで孫を諭すかのようにマイルスの表情は柔和に満ちていた。そして続け様にマイルスは同席している他の弟子たち一人一人の顔を見渡すと、うんうんと二度頷き、再び口を開いた。
「皆の者よ。改めて見たが、良い顔になったのう。多くを語らずとも、おまえたちの成長を強く感じておる。わしも、隣にいるチャックも嬉しい限りじゃて」
そう言うと、マイルスは隣に腰を下ろしているチャックと目を合わせ、感慨深気に小さく二度頷いた。
「では今から、今日、ここに来てもらった理由を話そう」
そう言うと、マイルスとチャックの表情が一変した。これまでにないほどの緊張した面持ちだ。二人のこの様子に一同は早くも事の大きさと、その意味の重さを察し始めることになる。しかし突然、不意にマイルスが激しい咳に見舞われ始め、その進行を遮った。
「マ、マイルス様、大丈夫ですか!?」
咄嗟にU2が立ち上がると、マイルスは心配いらん、とU2を制すように左手を広げ前に差し出した。そしてようやく咳が治まると、安堵にも似た溜息を大きくつき、ローブの袖口で口を拭った。
「マイルスよ。わしが皆に話そう。おまえは座っておれ」
マイルスの昨今の体調の悪さを鑑み、チャックが立ち上がった。マイルスは小さく二度頷くと、力なくその腰を椅子に沈め、そっと目を閉じた。まるで弟子たちの悲痛な眼差しから避けるかのように。
「では、わしから話そう。よく聞いてくれ。魔法界の未来に大きく関わることじゃ。いや、そんな小さな枠の話ではない。地球の未来が懸かっているんじゃからな」
と、早速マイルスに代わり、チャックが口を開いた。その口調から察するに、相当な事態が押し寄せているのだろう。一同は緊張感を心に忍ばせ聞き入った。
「おまえたちもよく知っておるじゃろう、《ジュードの裁き》を。魔法族ならば誰しも幼少の頃に何度も聞いておるじゃろうから、改めて話す必要もないじゃろうが、かつて、この地球には魔法族と竜族が共生していた。それは、もう今とは比べ物にならんほど平和な時代じゃった。しかし、ある日のこと。魔法族の中に悪しき心を持った男が現れおってな。その男はこともあろうに禁断の黒魔法の封印を解いて、この魔法界のみならず、地球そのものを滅亡に追い込むほどの狂乱を引き起こしおった」
「ナマルゴン……」
ジャニスが噛みしめるように、その名を口にした。
「そうじゃ。ナマルゴンじゃ。魔法族に生まれし者は、死ぬまでこのナマルゴンという名の呪いを背負い続けていかねばならんことは言うまでも無いが、この男が犯した罪は、我々の体に流れる血の記憶から消してはならんのじゃ。もしも我々の血の記憶から消し去ってしまえば、また同じ惨劇を繰り返す者がいつまた現れるやもしれんからの。この地球の青い空を再び赤い血で染めあげるようなことだけは絶対に避けねばならんのじゃ」
チャックは熱を持ってそのまま話を続けた。
「ナマルゴンは、この《風の谷》のクロスロードにて悪魔に魂を売り、黒魔法を手にした。そして一頭のドラゴンを黒竜に変え、我々のご先祖様に襲いかかったのじゃ。ご先祖様たちは、竜族と共にナマルゴンに立ち向かったが、全くと言って良いほど歯が立たんかった。数え切れぬほどのご先祖様たちと竜族の血が流されたのじゃ。特に竜族は地球の天地を守護する聖生物。その竜族の血で覆われた大地は脆くも割れ、川や海も枯れ果て、やがては空までもがその血で赤く染めあげられたのじゃ。一体誰が想像出来たであろう?空も雲も血の色に染められることを……。しかし、血塗られた雲の隙間より現れた新しき生命の種こそがナマルゴンの狂気を食い止めることになった」
「それが《ジュードの裁き》ですね?」
ガンズがそう言うと、チャックは大きく頷いた。
「我々、魔法族と竜族は、新しき生命の種として誕生した人間の一人、ジュードによって救われたのじゃ。同時にこの地球もな。おまえたちが幼少の頃から知っているのはここまでじゃろう」
チャックは椅子の背もたれに皺だらけの両手を乗せると、さも意味ありげな言い回しで弟子たちの顔を見渡した。
「おまえたちの知っている通り、その時、ナマルゴンは倒された……。確かに倒されたのじゃ。だが、しかし……滅ぼすことまでには到らんかった」
「えっ!?」
「ナ、ナマルゴンは絶命したのではなかったのですか!?」
魔法竜騎士団は、突然ともいうべきチャックの告白に衝撃を受けた。同時に、今日、この《太陽と月の間》に呼ばれた理由が、今のチャックの一言で明らかになったと言える。ナマルゴンは倒されたが死んではいない。つまり、近い将来、自分たちがナマルゴンという魔法界と地球の悪夢と対峙することになる、とチャックは言っているのだ。戦戦恐恐とした雰囲気が一気に《太陽と月の間》に広まり始めた。
「よく聞くのじゃ、若き戦士たちよ。今から真実の全てを話そうぞな」
チャックは、自身を落ち着かせようと、大きく深呼吸をしてから続きを話し始めた。
「わしらのご先祖様は、ジュードの力を借りて何とか黒竜を滅ぼすことは出来たが、ナマルゴンを滅ぼすことまでには到らんかった。それが人間の、ジュードの力の限界だったのかもしれん。しかし、それだけでも充分じゃった。魔力が極限にまで弱り切ったナマルゴンは、ご先祖様の白魔法でも充分に抑えることが出来たからじゃ」
「ど、どうしてご先祖様は、その時、ナマルゴンをこの世から滅ぼさなかったのですか?」
危機迫る緊張の中、口を開いたのはレイラだった。魔法族なら誰しも幼少の頃から何度も聞いてきた伝説ではあるが、まさか、それが表向きの話だったとは正直、歴史を覆されたような衝撃だろう。
「うむ。それは黒魔法のせいじゃろう。黒魔法の世界に踏み入った者の心は悪魔に奪われてしまうのは知っていよう?ご先祖様も弱り切ったナマルゴンの息の根を止めることは可能じゃった。しかし、ナマルゴンの息の根を止めれば、心を支配していた悪魔はすぐに相手の心に乗り移ってしまうのじゃ。ナマルゴン自身が死んだとしても、悪魔にとっては何ひとつ問題はない。代わりの者の心を乗っ取れば良いのじゃからな。つまり悪魔は、実体を持たない存在なのじゃ」
「誰かの心を支配して操る……わけですか?」
「その通りじゃ」
チャックは、ガンズの問い掛けに大きく頷いた。
「実体を持たん悪魔は、乗り移った者の命が尽きるまで全てを支配する。だからナマルゴンを辛うじて生かしたままの状態で、悪魔をそのままナマルゴンの中に留めさせておくことにしたのじゃ。心を乗っ取っとられた者が死なぬ限り、悪魔は他の者の心に乗り移ることは出来んからの」
黒魔法によって目覚めた悪魔が死ぬことはない。ただ、その尽きることのない無尽蔵の憎悪と怨念が今もこの世界のどこかに存在しているのだ。生きることに罪を何ひとつ感じることなく、ナマルゴンはこの世界のどこかで、ひっそりと息を潜めている。
「そしてナマルゴンは――」
チャックはそう言いかけると急に顔が強張り、後に続く言葉を飲み込んだ。その表情は、ナマルゴンの手に下されたご先祖様たちの無念が心に宿ったようにさえ見えた。
「――解かれたのですね?ナマルゴンの封印が」
これまでのチャックの話と表情からエアロスミスがそう察した。エアロスミスだけではない。ここにいる誰もがそう察しているのだ。そしてもうひとつ。マイルスとチャックは、これから起こるであろうナマルゴンとの戦いで命を捨てるつもりだということも同時に察していた。
「ああ、その通りじゃ……。ナマルゴンの封印は解かれた」
チャックは力なく、申し訳なさそうに俯くと、そう返事した。
「でも……でも、どうしてナマルゴンが今になってその封印が解かれたのですか?いえ、それ以前にナマルゴンはどこに封印されていたのですか?」
レイラは、何かの間違いであってほしいという、祈りにも似た悲痛な声でチャックに尋ねた。
「……あの時、ジュードは、戦いの末にナマルゴンの肉体と魔石、そして魂を分断しての。それをご先祖様が別々に封印したのじゃ。この大陸の、ある場所にじゃ。以降、世は再び平和を取り戻し、その後は魔法族と竜族、そして人間がこの地球上で手を取り合って共生を計ろうと三種協定を結んだのじゃ。しかし、ジュードはその後すぐに死んでしまいおった。人間の命は我々魔法族や竜族とは違って儚いほど脆くての。ジュード亡き後、その子孫たちはこの地球上の環境にうまく順応し、その種をどんどん増やしていった。
しかし……人間は増え過ぎてしまったのじゃ。増え過ぎてしまったせいで、やがて大地や海は悲鳴をあげ始め、それは地球の寿命を削ることに繋がり出した。人間は、自分たちで創り上げた文明の右に出る者はいないと言わんばかりに地球を我が物顔で支配していったのじゃ。その自惚れが人間の心に欲望を誕生させてしまったのじゃろうな。いつしか人間の欲望は、我々魔法族や竜族と共に暮らしていたことすらも記憶から消し去り、それ以降、我々のご先祖様は竜族と共に、人間によって侵された地球の傷跡を癒す歴史を綴ることになったのじゃ。
魔法族と竜族との共存を拒否した人間が次々に地球を壊し始める姿は、まるで『ナマルゴンの再来』とまで言われ始めた。かつてジュードという人間の手によって助けられた地球ではあったが、今度はその同じ人間の手によって滅ぼされつつあるのじゃ。
なんとも奇妙で数奇な運命を人間は背負っておる。人間が創り出す文明の力は、決して大きくはなかったが、罪の意識がない様はナマルゴンとなんら変わりない、とご先祖様たちの目にもそう映っておったはずじゃ。しかし、その文明の力は日を追うごとに強大となり、特にこの百年は酷かった。人間はいつでも地球を滅ぼすことが出来る力を手にしおったのじゃ。そして、ついに異変が起こり始めおった……。皆の者よ、ここからが大切なことじゃ。心して聞いてくれ」
チャックの話に、一同は脳天を砕かれた思いだったろう。ナマルゴンの狂乱が人間の手により現実となって間もなく訪れようとしているのだ。明日が平和でなければ誰にも生きる意味はない。チャックとマイルスは、自分たちの世代で食い止められなかった、迫り来る災いを若き弟子たちに背負わせることに、これ以上ないほどの罪の意識を感じている。例え自分たちの命を捨てても、後世にその災いが降りかかることだけは避けたい思いだろう。
そして、いよいよチャックは核心について触れ出す。
「異変の始まりは、先ず、ホワイトヘブンの青の竜が倒れたことじゃ」
「えっ!?青の竜がっ!?」
誰よりもまず取り乱したのはロクセットだった。ジェシーとは、ロクセットが特に可愛がっていた、水の力を司る竜のことだ。
「そうじゃ。ジェシーじゃ。ロクセットよ、座るのじゃ。座ってわしの話を聞くのじゃ」
「そ、そんな……ジェ、ジェシーが……」
ロクセットは呆然とした表情で力なく腰を落とした。
「皆の者も知っておろうが、青の竜は《水》を司る神の使者じゃ。雲を創り、雨や雪を大地に降らせ、川や湖、そして海を形成するなど、この地球上に計り知れない恩恵を与えてくれておる。しかし、いつしか地球の水は、人間たちの身勝手な振る舞いによって汚されてしまっての。多少の汚染ならば青の竜でも浄化する力を持っておったが、人間による汚染の広がりはあまりにも速く、そして酷く――」
「し、しかし、チャック様。人間による海洋汚染は今に始まったことではないはずですが……」
チャックの話の途中で、フレディーは堪らずそう尋ねると、生唾を飲み込んだ。
「うむ。青の竜が倒れた原因は、勿論、海の汚染だけではない。人間はそれまで築き上げてきた文明の集大成として、ついに我々の魔法に匹敵する力を手に入れてしまいおったのじゃ。それは人間の言葉で何と言ったかのう……まあ良い。とにかくそれは黒魔法の中でも最も恐れられている《悪魔の記憶》に匹敵するほどの力を秘めておる」
「あ、《悪魔の記憶》っ!?そ、それほどまでに……」
カーペンターは話の途中で言葉を失った。ここまで人間の力が強大になっていたとは思いもしなかったのだ。
「で、でも、我々白魔法族の《白刃の風》でなら抑え込むことが……」
再びカーペンターは立ち上がったが、やはり話の途中で言葉を捨ててしまった。《白刃の風》でもそれを防ぐことが不可能だとすぐに察したからだ。
「うむ……。もはや《白刃の風》でも手に負えないじゃろうて。なんせ人間のそれは魔法ではないからの……。わしらは所詮、魔法使いなのじゃ。ある程度の魔法には対抗出来ても、人間が創り出したものには太刀打ち出来んのじゃ」
「……おい、フレディー?《悪魔の記憶》とか《白刃の風》とかって、一体何なんだ?」
「知らねえな。聞いたことねえよ。強力な魔法であることは何となく分かるが……」
ロクセットとフレディーがヒソヒソと小声で言葉を交わし始めた。どうやらこの場面でチャックの話を折ってしまうことを憂慮しているようだ。そんな二人に気付いたガンズは、小さく鼻で笑うと、やれやれといった口調で二人に説明を始めた。
「《悪魔の記憶》ってのは、簡単に言うと、この世の全てを破壊し、焼き尽くす……まあ、最悪の極地ってやつらしい。まあ、見たことはないがな。そして《白刃の風》ってのは、我々白魔法族というより、魔法竜騎士団が誇る最高峰に位置する魔法のひとつだ。全ての魔法の悪しき威力や効果を浄化させちまう最大の防御魔法のことだ。来たるナマルゴンとの戦いでは必要なものになるから、それまでの間にしっかりと出来るようにしておけ。良いな?」
ガンズは説明を終えるとチャックに向かって目礼した。チャックの話を途中で折ってしまった無礼を詫びたのだ。
チャックは話を再開させた。
「うむ……。しかもじゃ。それには我々の言う所、つまり《悪魔の吐息》が詰まっておる。それによって青の竜は鱗を焼かれ、体中を蝕まれてしまいおった。海が侵されただけなら、まだ青の竜も何とか耐えうることが出来たかもしれんが、そこに《悪魔の吐息》を浴びてしまっては……さすがに青の竜も耐えることは出来んかったのじゃろう。しかし、話はそれだけでは終わらんのじゃ」
チャックの口調に僅かな心の昂ぶりが灯り始める。そして口の中で今から伝える言葉を噛み砕くと、興奮と共に新たな事実を告白した。
「人間たちは……人間たちは、ついに、この自然や気候をも操る術を手にしてしまいおったのじゃ。神の使者である竜族の力をな。おお……人間はなんと恐ろしい存在へと化してしまったのか……。ここまで狂気に歪んでしまったとはのう……」
「……海を死の水に化すだけでなく、《悪魔の記憶》と《悪魔の吐息》まで一緒に創り上げ、まさか魔法制定でも禁じられている気候改変の術まで手にしていたとはな……。なるほど、この百年の異常気象も頷けるはずだ」
U2は、既にチャックの言わんとすることを悟ったようだ。それはあまりにも過酷で危険な道を指し示していたが、それは天が自分に与えられた試練だと受け入れ、それに立ち向かう強い意志がその瞳には宿っている。
「確かにこの百年、いや、この数十年は異常気象が多い。局地的な豪雨が目立つようになった。一部では氷河が溶け、雪も減ったかと思えば、別の地では異常なほど豪雪が降り続いている。津波や洪水が世界各地に押し寄せては大地を浸食し、オゾン層も破壊され、恵みである筈の太陽の陽射しも今や我々の肉体を蝕むようになってしまった。尋常じゃない暑さによる干ばつも広がり、竜巻も増え、地震もその数が増えている。これは青の竜の力が弱まったせいで、風の竜や大地の竜など、他の竜族たちにも悪影響が出始めたということか?」
リバーがU2に尋ねた。
「その通りだ、リバー。つまり、人間による地球汚染と気候改変によって、竜族の力のバランスが崩れ、乱されているのだ」
U2の明快な返事に、一同は二人の長老の言わんとすることを静かに察した。そんな若き弟子たちの心情を読み取ったチャックは話を続けた。
「良いか?繰り返すようじゃが、異変の始まりは青の竜の力が弱まったことじゃ。結果、地球上の水が悲鳴をあげ始め、それに伴い深緑の竜や大地の竜の力まで弱まり始めた。この世の生命の礎は水である以上、青の竜の死は全ての生命の死へと繋がる。それを誘発したのは人間の欲望じゃ。狂気という負のエネルギーは地球を侵すだけでなく、ついにナマルゴンをも目覚めさせおったのじゃ。そして、その欲望は、今もなお強大になり地球を侵し続けておる。欲望は姿、形のない悪の炎と同じじゃ。その炎が強まれば強まるほど、ナマルゴンはそのエネルギーを吸収し続ける。奴がかつての魔力を取り戻し、魔石をも取り戻せば、この地球に存在するすべての生命は破滅に追い込まれるじゃろうて」
「つまり、問題はひとつではないということね?」
「でも、全ての問題に人間の欲望が関わっているとはね……」
双子の姉妹であるレイラとジャニスが嘆息を漏らした。
「その通りじゃ。しかし人間を責めてはいかん。人間は今、心が病んでおるのじゃ。それよりもやらなければならんことがある」
「――チャック様、よろしいでしょうか?」
ここで、ついにU2が席を立った。
「みんな、聞いてくれ。マイルス様とチャック様の話で、私たちのするべきことは決まった」
U2は皆の顔を見渡すと、更に力を込めて口を開いた。
「人間の欲望の果てに竜族の力のバランスが狂い始めただけでは、我々の手でも何とかなったかもしれん。しかし問題はナマルゴンが目覚めてしまったことにある。
そして我々が今、真っ先にすべきは竜族の守護だ。青の竜をはじめ、力を失いつつある竜族を守るのだ。それには《風の谷》に連れて来るのが良い。竜族が住む各地に結界を張るよりは竜族を一緒にまとめておいた方がナマルゴンからの危険も回避しやすいだろうからな。
そして次がナマルゴンの封印だ。先ほど、チャック様が言われた通り、私たち魔法族の力だけではナマルゴンを抑え込むことは出来ない。《ジュードの裁き》の時と同様、人間の力が必要だ。しかし、人間なら誰でも良いというわけじゃない。ナマルゴンの魔力を弱めることが出来る、選ばれし者でなければならん」
「それはそうと、魔石はどうするんだ、U2?」
ロクセットが尋ねた。
「ああ。この際、魔石は後でも良い。ナマルゴンが決して取りに行ける場所に封印はしていないからな」
U2はロクセットを真っ直ぐに見つめながら、そう答えた。
「ふむ。竜族を守りつつも、ナマルゴンが肉体と魔力を取り戻す前に封印する……か。こいつは大変なこったぜ。しかし、やらなければ未来は無い……か。フフ」
エアロスミスは少しだけ不敵に笑った。
「そうだな。それ以外に道はないだろう。しかし、問題はこの地球にいる人間たちの中から誰を選ぶかということだ。七十億とも八十億ともいる中から捜してちゃ、その間にこっちが潰れちまうぜ?」
と、ここでリバーが待ったをかけた。
確かにリバーの言う通りである。さすがに数十億分の一を見極めるのは至難の業だ。もはや不可能と言っても良い。
しかしU2は「そのへんは安心しろ」と自信を持って答えた。
「どういうことだ?」
リバーが改めて聞き直す。
「マイルス様が知っておられる」
U2は、マイルスに目配せをすると、既に呼吸を整え終えたマイルスが、再び腰を上げて口を開いた。
「皆の者よ。U2の言う通り、魔石については後で良かろう。とにかく今は竜族の守護じゃ。そして、ナマルゴンに立ち向かうことが出来る人間は、もう分かっておる」
「ほ、本当ですか、マイルス様!?」
レイラが目を見開いて立ち上がった。
「ああ。本当じゃとも」
マイルスはそう答えると、小さく二度頷いた。
「その人間は、ジュードの血をしっかりと受け継いでおる。それは海を越えた遥か北の地、火出国におる」