玲ルール 玲時間
結衣とみちるが叫んでいるころ――
玲たち四人は、大広間で報告書に目を通していた。
四人の居場所となっているスライディールの大広間は、日中、多くの人間が出入りする。
伴侶たちがやってくる夕方に近い時間ともなると、それはもう、うるさいほどに人が集ってくる。
人、それ自体が多い上、各人がそれぞれに用事や用件を携えている。
聞くことも多ければ、こちらから話すことも多い。
しかも、
『それはたいへんだすな。しかしわしは思うんだすが――』
『お前の意見なんか、だれも聞いてねえんだよ』
『大将軍がなんてことをいうんだすか! 上に立つものは、下の意見をよくよく聞かねばならんのだす。この間スルーエに、それで、こんこんと説教されただすよ』
『んだ。えれえ、怒ってたべ。しっかしこりゃ、うめえな。ルー、おめ、食わねえのか? だったら――』
『やるから黙って食え』
と、黙っていられない外野も多いので、夕刻の大広間は大賑わいだ。集中できない。
加えて、報告書の数が多い。
報告書は、玲が方々に依頼、あるいは指示したもので、一回限りの単発のものがあれば、毎日のもの、区切ごとに届けられるものなど、実に様々で、じっくり読んでいては情報共有に漏れが生じるほどに増えている。
しかも、書き手の違うものが多く、書式も内容もまちまちで、上がってくるそれらすべてに目を通すのは、なかなかたいへんな作業だった。読むだけでも時間がかかる。
というわけで、朝、といっても昼に近い、人の出払うこの時間帯――四人だけでくつろげる、貴重なひとときが、その時間に充てられた。
良子と玲於奈はソファの定位置で、深く、背もたれに身体を預け座り、
玲は個掛けのソファにすっぽりおさまり、片腕を後頭部に、もう片腕は肘掛に、というラフな姿勢で、
瑠衣は、あれだけ身体を動かした後だというのに、まだ動かし足りないのか、床に直座り、上半身のストレッチをしながらだ。
そんな風に、四人が思い思いのスタイルで、静かに報告書に目を通していると。
「ぶふっ」
突如静寂が破られた。
「……」
「……」
良子と玲於奈が顔を上げる。
またか――という表情をする二人の先で、瑠衣が床に突っ伏していた。
「……瑠、衣?」
「今度は何?」
友人たちの冷ややかな声に、瑠衣は上半身を伏せたまま、「これ……これ……」と書類を振る。
その表紙を見て、
「ああ」
良子と玲於奈が納得の声を落とした。
◇ ◇ ◇ ◇
その冊子には、ほとんどの報告書には見られ無い、表紙が付けられていた。
報告書には、色々なものがある。
そのほとんどは、今後のために必要なものだ。
しかし全部が全部――というわけではなかった。
報告書として提出されたものの中には、不要と思われるものが、ごくわずかだが存在した。
それらは、ジリアン、バルキウス、ミレアといった、玲を信じて疑わない生真面目な面々に、
『世相や慣習、貴族の子弟が普段どのように過ごしているか、それを知るための具体的な一例として』
と、もっともらしさを装って、玲が個別に課題を出し、書かせたものだった。
知らずにそれを読んでしまった良子と玲於奈は、白い目を玲に向けた。
以来、二人のご陽気娘、玲と瑠衣の好奇心を満たすがための――『コルト令嬢ミレアの優雅な一日』『若奥様ミレアのどきどきの一日』などのふざけたお題に、真摯に書かれた――個人向けの報告書には、はっきりそれとわかるように。逆に、重要度の高いものにも同様に、色の付いた表紙が付けられるようになった。
瑠衣が手にしている報告書は、一目でわかるそれだ。遠目では読めないが『実録! 侍女は見た!! スライディール編』と、題まで付いている。
題名からは捨て置いていいようなものとしか思えないが、重要部類に入るものだ。
いわずもがな、題名を付けたのは玲であり、題字を書いたのも玲だ。
やはり、玲は何をするにも玲で、いかなることも楽しむ――というモットーを忘れなかった。
『いやあ、ここは娯楽が少ないからね。自分たちで作っていかないと』
と、挟める場所にはアグレッシブに、己の趣味と娯楽をねじこんでいた。
ともあれ、表紙にはおふざけが入っているが、指示も内容もふざけていない。
書き手は生真面目な主の元に長く居た、生真面目な侍女たちの手による、観察記録だ。
玲はコシマとリシェに、新住人となった二人の御使い様の生活を事細かに記録するよう指示していた。
体調、学習進度、誰が来て、どんな話をしたか、その時の結衣とみちる、そしてウードの反応はどうだったか――三人の様子を克明に記録してもらっていた。
それを読んで、瑠衣はふきだしたのだった。
面白おかしく書いてあるわけではない。
書き手のコシマとリシェは侍女であり、いわれたことを几帳面に記録しているだけで、むしろ、面白さは期待できない。しかし、それゆえの面白さが、最近でてきた。
「何? 今度は誰?」
毎日目を通している四人は、もちろんそれを知っている。
「シャ、シャルナーゼさん」
良子の問いに震え声で答えると、瑠衣は立ち上がり、良子と玲於奈にその箇所を見せにきた。
「……半日居座るって、どういう神経してんの?」
「図太いとは思ってたけど、思った以上ね。でも、馬鹿笑いするほどじゃないと思うけど?」
「暇か!」
報告書に突っ込む良子の隣で、想像範囲内じゃない?――と、玲於奈が微笑む。
瑠衣が眉間に皺を寄せた。
「そこじゃなくて、もっと下。最後読んで」
笑いを堪えながらいう瑠衣に、二人は従い、字を追った。
報告書の最後には、
シャルナーゼ様におかれましては、しばらくの間、休日は不要かと存じます――
そう、書かれていた。
「これ、リシェさん?」
「うん、リシェさん。怒ってるよね? これ」
「ふふ、そうね」
つつましやかな侍女からは、想像できない文句だった。分をわきまえた侍女が、それを踏み越え、ここまでぴしゃりと書くのだから、よほど腹に据えかねたのだろう。
「一所懸命やってる後ろでゴロゴロされたんじゃ、そりゃ腹も立つでしょ」
「それはそうだけど。人が来ること自体は、別に悪くないんじゃない? ねえ?」
「うん。それだけ居心地がいいってことだもんね。ね? 玲ちゃん」
「え? 何? ごめん、聞いてなかった」
目の前でかざすようにして読んでいた報告書を横倒して、玲が顔を見せる。
「村瀬さんと中尾さん、勉強の方は気の毒なほど進んでないけど、別の方は、どうやら順調みたいよ」
「シャルナーゼさんね、昨日、半日べったり居たんだって」
玲於奈が笑いを含んだ声でいい、瑠衣が補足した。
「半日? それはまた、すごいね」
破顔する玲に、「でしょ?」と瑠衣は嬉しそうに笑う。
「それも、話し相手になるとか、手伝うとかじゃなくてね……」
しかしこみ上げてくるもので、すぐに続けられなくなる。
と、代わりに玲於奈がいった。
「黙々と飲み食いして、昼寝して――」
「昼寝?」
「そう、昼寝。で、起きた後は、ひたすら武器の手入れだったそうよ」
「リシェさんがそれで怒ってね、当分休みは必要ないと思います、って書いてた」
「そうなんだ」
玲は声を出して笑った。
「――いや、すごいね。ガウバルトさんといい、やる人たちだとは思ってたけど」
「やりすぎでしょ。昼寝までするって、いったいどういう神経してんの?!」
良子がいいながら、書いてある箇所を指の背で叩く。
「そのうち住み着きそうね?」
「うん。シャルナーゼさんだったら、しれっとやってそう」
「ははは」
「はははじゃないでしょ。ほんとにそうなったらどうすんの?」
「いやあ、こっちと違って、向こうはそれだけ居心地がいいってことでしょ」
「向こうには、怖い人も、無茶なことをいう人もいないもんね?」
「瑠、衣?」
「えへ」
「ま、ちょっと問題はあるけど、傾向としてはとってもいいですよ。この調子で、どんどん味方を増やしてもらいましょうか、ね?」
「そうだけど……あれ、味方になんの?」
「何いってるの、良子。大陸最強レナーテ軍、その筆頭軍師の護衛ですよ? 腕だけじゃない――と、うっすら期待しましょう」
「うっすらなんだ」
「うん、そっちはね。だってガウバルトさんとシャルナーゼさんには、味方というよりは、敷居を下げてもらうというか、呼び水的な役割を期待してるから」
「その点でいえば、二人とも、期待以上よね?」
「確実に下げてるわね」
玲於奈と良子が頷き合う。
「でしょ? しかもあの二人のおかげで、コシマさんとリシェさんにもいい影響が出てる。助けたい、力になりたいって気持ちが強くなってる。報告書も、最初の頃とはぜんぜん違うでしょ?」
「うん」
「まあね」
「そうね」
玲がいうように、言われたことだけを記録していた報告書に、書き手の私見や意見が混じるようになっていた。
「ミレアさんも、そうだもんね」
ミレアはミレアで、誰にいわれるでなく、結衣とみちるのもとに足繁く通い、二人の手助けをしている。
「すこぶる良い傾向です。これも、がんばる女の子の敵というか、邪魔をしてくれるガウバルトさんとシャルナーゼさんのおかげです」
「でもそのおかげで、他が思うように進んでないみたいだけど?」
「ま、それはしょうがないかな?」
あっさりいった玲は、
「それで、ウード先生は? いつもと同じなの?」
三人に訊ねた。
「ええ、同じね」
玲於奈が答える。
「昨日の勝手三昧にも、何もいわなかったみたいよ? いってれば、書いてあるでしょ?」
「そっか。うーん、ウード先生……やっぱりわかってるのかな?」
「何もいわないところをみると、なんとなくは、わかってるんじゃない?」
ウードは、結衣とみちるに足りない知識を叩き込もうと厳しく指導する一方で、それを阻害する来訪者たちの無法な振る舞いをまったくとがめなかった。
苦言をいわなければ、嫌な顔をすることもない。
報告書で、コシマとリシェが不思議がるほどだった。
無位無官の老人であっても、ウードは高邁な精神の持ち主であり、わが身可愛さに言動を控えるようなことはしない。
結衣とみちるはそんなウードを信頼しているし、ウードも、奇縁で深く関わった二人のことを、大事に想っている。だからこそ、指導に熱が入るのだ。何も知らない、幼子のような二人が、自らの足で立つために必要なものを身に付けさせようと、ひとり躍起になっている。
それなのに、水を差すばかりか停滞させる連中を野放しだ。
それらは、矛盾したもの――と、侍女たちの目に映った。
が、玲たちには、そうは映らない。
「亀の甲より年の功――小娘の考えは、お見通しかぁ」
玲は笑う。
「――どこまでわかってるのかな?」
「あたしに訊いたってわかるわけないでしょ。本人に訊きなさいよ」
「うん、そうする」
玲が頷いていると、
「で、そっちはどうなの? 玲」
玲於奈が訊いてきた。その目は、玲の顔ではなく、手元に向いている。
玲が手にしている報告書は、こちらも色付きで、友人たちの目の前にある報告書の姉妹編となるものだった。
姉妹編だが、中味はずいぶん違う。
良子が表情を固くし、瑠衣の面から笑みが消えた。しかし玲はそのままだ。
「うん、変わりなし」
こともなげに答えると、玲は立ち上がり、瑠衣の向かいに腰を下ろした。
「目に見えて人は減ってるけどね」
いいながら、良子に報告書を手渡す。すばやく目を通した良子が「何? あのときあそこにいた侍女、あれ全員辞めたの? とんずら?」と、驚きの声を上げた。
「うん。多田さん付きだった皆さんは、そこそこのお家のお嬢様だったからね。家かな? それとも本人かな? 希望が通ったみたい。残ってるのはそれ以外になりました」
「うわぁ」
「逃げ足が速いわね。沈みかけた泥舟から退去するのは正しいとは思うけど、わかってるのかしら? こっちに顔も名前も知られてる、って」
「一回会っただけだし、こっちが覚えてるとは思ってないんじゃないの?」
「動向が筒抜けになってるの、知らないからね。居続ける方がまずいって、判断したのかもね。でも、結果的にはそれでよかったんじゃないかな? そういう人に残られても、ねぇ? 親身になってくれるわけでなし、逆に、何されるかわかんないでしょ」
「うん、でも、残るしかないっていう人も、どうかな? 玲ちゃん。向こうでの話を聞く限りじゃ、とても期待できないよ?」
「五十歩百歩だけど、ちょっとはマシだと思う。だって御使い様ですよ? あのホレイスさんでもそこらへんをわかってるんだから、大丈夫でしょ」
「多田さんは、残された唯一だものね?」
「そう」
玲於奈の言に、玲は頷いた。
「残された唯一を失えば、今度こそすべてを失う。ホレイスさんも己を護る盾だとわかってるから、粗雑には扱わない。残ってる人間は、ホレイスさんには逆らえない。でも、いずれ、防護の盾を攻撃の槍に変えるときがくる」
「その『いずれ』は、近いのかしら?」
「うん。遠からずね。そう仕向けるし」
淡々という玲の後に、
「……がんばって欲しいね」
瑠衣がぽつりといった。
瑠衣のそれは、渦中に放り込まれることになる二人を思ってだ。
「そりゃ、がんばるでしょ」
「がんばってもらわないと」
「うん、中尾さんと村瀬さんには、がんばってもらうしかありません。なので、まずは、ウード先生を見極めた確かな目で、大臣の皆さんを見極めてもらいましょうか」
◇ ◇ ◇ ◇
「というわけで、しゃべらなくていいから、中尾さんと村瀬さんは、大臣の皆さんをじっくり観察してね」
玲はいった。
しかし、結衣とみちるは固まったままだ。
なにせ、ここまでが早かった。
結衣とみちるが玲たち四人に会うのは、スライディール城に移って以来のことで、久方ぶりとなる邂逅に、二人は胸をときめかせながら、箍を外してしまった前回と同じ過ちを犯すまい――と大いに緊張していた。
ミレアら三人の手を借り、大慌てでなんとか見苦しくない程度にまで身形を整え、まずは挨拶、そして、前回はっちゃけてしまったお詫びを――と、その文句まで考えていたというのに、大広間に入るなり、
『久しぶり! 元気にしてた? してたよね?』
声をかけられ、問答無用で座らされ、説明を受けたのだった。
付いて来なくてもいいのに、『護衛ですから』といって付いて来たガウバルトは、結衣とみちる、ウードの三人が『こっちこっち』と、瑠衣に呼び寄せられている間に、
『ああ、ガウバルトさんはもう結構ですよ。お休みなのに、ご苦労様でした』
朗らかな声に追い払われた。瞬殺だ。
向こうでは益体もないことをべらべらとしゃべっていたが、ここでは一声も放たず、ガウバルトは引き下がった。
明るいが、有無をいわさぬ玲の声と、その傍らにいる良子と玲於奈の無言の圧力に、護衛騎士は屈したのだった。
大袈裟にいってたわけじゃなかったのか――
真実の一端を見た結衣とみちるが、ガウバルトの背中を見送る――その間に、話は始まった。
◇ ◇ ◇ ◇
今日来る大臣たちの中には、結衣とみちるが後見候補に残した人物が、二名いた。
それは、グレン、サルファ、そしてミレアも推奨する人物で、家柄、地位、人柄、いずれも申し分ない人たちだった。
後見人に必要な資質を有している。が、相性などもあるし、実際会ってみないとわからないこともある。何より大事なのは、ウードを受け入れる度量があるかどうかだ。
残った二人は高位貴族だ。結衣とみちるの傍に、ウードがいることをよしとしないかもしれない。
『わたしたちは先生のことを知ってるけど、世間的には先生は、出奔したってことになってるからね』
事情を知らない人間の方がはるかに多い。そもそもウードを知る人間が少ない。どこの馬の骨ともわからない、大陸を渡り歩いてきたさすらいの老人――というだけならいいが、調べれば、元貴族、それも褒められない過去があることがわかる。御使い様の傍にいるにはふさわしくない、と判断するのが普通だろう。
スライディールの外では実際そうした声があり、特に貴族は、同属を貶めるような行為をしたウードに不快感を見せているという。
レナーテでも高位の貴族、大臣という要職につく男たちが、ウードをどう見るか、どう思うか――。
それを、自分たちの目で確かめるように、玲はいったのだった。
ウードは結衣とみちるの精神的支柱だ。それは、スライディール城に移った今でも変わらない。
後見人は大事だが、それがもとで、ウードが排除されるようなことになっては、本末転倒だ。
『先生が、中尾さんと村瀬さんにとって、どういう存在かを理解できる人じゃないと困るでしょ?』
まったくもってその通り。
それらを玲は明るく、前回の一.三倍ほどの速さで滑らかに紡いでいった。
四人の美しさに見とれる暇もなければ、頷く暇もない。結衣とみちるには、取りこぼさずに聞くのがやっとだ。
「……」
「……」
全身を耳にして聞くことに特化していた二人は、そういうわけで、頷くべき箇所で反応できなかった。
ために、時間にしてわずかだが、静寂ができた。
突如出現したエアポケットに、玲が、「ん? え?」表情を変える。と。
「早いわ!!」
玲の独演と化した場に、ようやくそれ以外の声――良子の突っ込みが入った。
◇ ◇ ◇ ◇
「いくらなんでも、早すぎんでしょ! あんた」
「あー、ちょっと早かった?」
「ちょっとどころか、突っ込む隙もなかったわ!! どこで息継ぎしてんの?」
「え? どこっていわれても……。でも、だいたいの話はわかるよね?」
「それでも自分本位に進めすぎっ」
「玲の勝手はいつものことだけど、中尾さんと村瀬さんは慣れてないんだから、噛んで呑み込むくらいの時間は、あげてもいいんじゃない?」
「いやあ、今日はなんだか調子が良くてさ」
「何いってんの。いつもでしょうが」
「うん、そうなんだけど、今日は特に舌がね。もう、滑らかに動きますよ。まさに絶好調! ふふ……舌だけに? ぶっ」
絶好調の玲は、気分ももちろん絶好調! のようで、突っ込みから笑いまでをひとりでやった。
「……」
「……」
良子と玲於奈が、何をか言わんやという目つきで玲を見つめる。
それに慣れっこの玲は「いやあこっちも快調、快調」と友人たちの冷たい視線に突き刺されながら、ひとりご満悦だ。
自分で自分を満たすことができる自給自足娘、玲の隣で、瑠衣が笑った。
「ごめんねぇ、二人とも。でも、ここでは玲ちゃんがルールだから、色々がんばってついてきてね」
いきなり張り手の嵐で押し出され、砂被り席に転げ落ちた力士の心境だった結衣とみちるは、さらに、ものいいがついたことで呆然としていたが、東の横綱――瑠衣の優しい声で、ようやく頷くことができた。
◇ ◇ ◇ ◇
「ごめんね。で、さっきもいったけど――」
と玲は巻きでしゃべり倒したことを結衣とみちるに詫び、そのまま何事も無かったかのように普通に話し出した。
「後見人は、ウード先生が、中尾さんと村瀬さんの傍にいることを厭わない人じゃないといけない。それだけじゃなく、ウード先生の協力者となってくれるような人が、理想かな?」
玲の声に、結衣とみちるは頷いた。
怒涛の説明後ワンクッションを置いた玲は、気が済んだのか口調を緩め、頷くだけの時間をくれた。
「大臣の皆さんは貴族だから、先生に対していい印象を持ってない。貴族であるという矜持がある。国を思う気持ちが強かったり、誠実な人ほど、反感を抱いてると思う」
結衣とみちるが、にわかに顔を曇らせる。
「でも、今日ここで先生に会えば、違うっていうことがわかる。先生の姿を見れば、先生が、志高く生きてきたことがわかる。生き方や信条は表に出る。先生の場合は特にそう。長く人生を歩んでこられた分、身体の隅々、奥深くまで染み込んでる。だから、佇まいや眼差し、言葉一つにも、そうした潔さ、清々さがにじみ出る。中尾さんと村瀬さんだって、それがわかったから、先生に何もかも話したんでしょ?」
二人は首を縦に大きく動かした。
「うん。先生は、地位や名誉、そんな俗な欲のためにここにいるわけじゃない。御使い様だから、国のためだから……でもない。先生は、中尾さんと村瀬さんのために、ここにいる。だから、しっかり見てね。残した人が、世間の噂や話に惑わされず、目の前にある現実をわかって、なおかつ受け入れられる度量を持っているかどうか……それを見極めてね」
「はい」
「はい」
結衣とみちるは、はっきり声に出して頷いた。
「うん」
と優しく微笑んだ玲は、きゅっと口角を上げた。
「というわけで、中尾さんと村瀬さんには、後見候補に残った二人をじっくり見てもらいたいんだけど、わたしたちはわたしたちで、大臣の皆さんがどういう人たちなのかを見てみたいの。それでね……はい! リグリエータさん、どうぞ!」
脇で控えていたリグリエータに目をやった。
「何です? いきなり。そんな急にいわれても、わかりませんよ」
突然の指名に、リグリエータが顔をしかめる。
「リグリエータさん、先ほどおっしゃってた、わたしの人物評を、ここで言ってください」
「さっき?」
「あらあら、ご自分でいっておいて、もうお忘れですか? 『お人が悪い』と――」
聞こえてたのか――と驚き、顔をしかめるリグリエータに、玲は人の悪い笑みを向ける。
「あら? ご存知ありませんでした? わたしはどこもかしこもいいんですよ? ま、藪から棒ですし、ほんとのことなので怒ってはいませんけど、次のときは、期待通りの答えを速やかにいってくださいね?」
「次?」
と、リグリエータの眉間の縦皺を深くしてから、前に座る三人に視線を戻す。
「人の悪いわたしは、ちょっと悪いことをしようと考えてます」
しかし悪戯な笑みは、面から消えていた。
「ウード先生、中尾さん、村瀬さんを使って、大臣の皆さんを試したいと思ってます。その過程で、ウード先生には不快な思いをさせてしまうことが予想されます。先日の王城での出来事は、誰もが知るところですし、どういう経緯でこちらにいらっしゃったか、先生の出自なども含め、だいたいを大臣の皆さんはご存知です。同じ席につくのですから、先方も、気付かないふりはできません。先生の姿は目立ちますからね。当然、無視もできません。大臣たちは先生を見ます。そのとき彼らは不快を見せるかもしれません。それをはっきり口に出すかもしれません。ですが今日は、すべて、堪えてください」
固い口調でウードにそういうと、玲は結衣とみちるに目を向けた。
「中尾さんと村瀬さんも、先生が槍玉に挙げられても、怒らないでね? あー、でも、それは無理か……うん。怒ってもいいけど、口に出していわないで。当然だけど、体当たりとかもしないでね? 我慢して欲しいの」
ウードに向けたのとは違って、こちらは構えた相手の気持ちをほぐすような、くだけたものだった。が、結衣とみちるが返したのは困惑顔だった。
「何? 無理? 中尾さんと村瀬さんも、玲於奈と一緒で、口より先に手が出ちゃうタイプ?」
「玲?」
「違うんです、そうじゃなくて、あの……」
思わずいってしまった結衣だが、発言が玲於奈とかぶり、さらには視線が自分に集ったことで、先を続けられなくなった。
「結衣ちゃん、がんばって」
「うん、どうぞ、続けて」
みちるの小声と鷹揚な玲の声に励まされ、結衣は口を開いた。
「先生を悪くいうような人がいるんですか? その……先生のこと、悪く思うのはわかるんです。でもそれを面と向かっていうような人が、大臣さんの中にいるんですか?」
結衣はいった。
悪く思う人間がいるのはわかる。しかしそれを本人を目の前に、しかも御使い様も一緒の場でいってしまうというのは、人としてどうかとも思うし、大臣という偉いひとがそんなことをするだろうかと、疑問に思ったのだ。
それを聞いた玲が、にっこり微笑んだ。
「うん、村瀬さんがいいたいことはわかる。大臣なんだから、良くも悪くも頭が回る人たちなはずだし、そうした位に就くには、人格だって求められる。実際そういうひとが多い。めぐりが良ければ、先生のことはわかるだろうし、先生がどうしてこの場にいるかを考える。そうでなくても、己の立場を理解している人は、思ったことをそのまま口にしたりしない。たとえ嫌悪を抱いても、面従腹背ができる。でもね、ものには例外がつきもので、今日来る大臣の中にも、『え?』っていう人が紛れ込んでるの。その人は、運が良いのかな? いいお家に生まれて、年齢的にもいいときに、派手な割にさほど重要でないポストが空いて、そこにポンと納まった人がいるの。ただの廻り合わせを自分の実力と勘違いしてる、とーってもおめでたい人なんだけど、その人が絵に書いたような貴族主義でね。ま、ここの人は多かれ少なかれ皆そうだと思うけど、貴族にあらずんば人にあらず――っていう感じの人みたい」
玲は笑う。
「その勘違いさんがやってくるの。気位が高くて、それなりに野心もある、ホレイスさんのお友達……」
と聞いて、結衣とみちるの顔が強張った。
「というより、腰ぎんちゃく? いや、コバンザメかな? ホレイスさんの援護というか、擁護をして、そのおこぼれに預かってるような人。だいたいどんな人か、想像つくでしょ?」
二人は声なく頷いた。
「その人にね、ちょっと踊ってもらおうかなって思ってるの。わたしたちっていうエサを前にぶら下げてね」
いいながら、玲は友人たちに目を移す。と、良子、玲於奈、瑠衣の三人が、応えるように微笑んだ。
それを見た結衣とみちるは、息を呑んだ。見目麗しい四人の微笑みは、文句無しに美しい――のだが、美しさの中に、何やら見てはいけない、背筋を震わせるものがあった。
それを多分に含んでいる玲の口元が動いた。
「その人は――プラークさんっていって、どうも、人の価値は出自と美しさで決まるって思ってるらしいの。そう信じてるだけあって、本人はなかなかの美男子というか美中年らしいんだけど……。中味はかなり残念な人みたい。外見重視で自分磨きも外側だけ。当然、物事や相手のことも外側ばっかり。上っ面だけしか見ないから、思考もそれなり。浅いところで切り上げる。自分の都合のいいように解釈して納得して終わり! っていうね、まあ、ホレイスさんのお仲間らしいっちゃ、らしいかな?」
玲は隣に笑顔を向けた。
「うん、でも、ホレイスさんとはまたちょっと違うよね? こっちは明るいお馬鹿さん、って感じ?」
「あぁ、陰湿なイメージはないね」
「はっ、自分基準をクリアしない人間は、価値なし興味なし――で放置してるっていうだけでしょうが。そもそもいい年のおっさんが、人を美醜だけで判断するとか、とんでもないわ!」
「五十の声も聞こえようかっていう大人がすることじゃないよね?」
「しかも大臣。痛さが増しますな」
「ふふ、ほんと馬鹿も色々よね? でも、害を撒き散らす向こうの迷惑馬鹿より、こっちの単純明快ストレート馬鹿の方が、まだマシなんじゃない? おめでたいだけで、影響力なんて、ほとんどないんでしょ?」
「玲於奈ちゃん……」
「玲於奈の舌も、絶好調ですな」
「〝マシ”で済ませられる問題じゃないでしょ。空気の読めない口だけ人間なんて、力がなくても居るだけで周りが迷惑するわ。なんでそんな『賑やかし』にしかならないような人間を大臣に据えてんのか、ほんと責任者を問い詰めたいわ!」
「いやいや良子、この間それで、グレンさん問い詰めてたよね?」
「うん、膝詰めで追い込んでたよね?」
「あれじゃ足りないんじゃない?」
「ははは」
笑い声を上げた玲は、「いやでも『賑やかし』って、上手いこというね」と良子を賞賛してから、目の前に視線を戻した。
しばらく放置されていた三人は、静かに座っていた。
結衣とみちるは驚きのためか、しきりに瞬きを繰り返している。その横で、ウードは変わらない。
入室してから、ウードは表情を固くしたままだった。こちらが何をいっても慌てることなく、冷静に受け止めている。その一方で、ひどく神経を尖らせている。
頷きはしても、声を返さない。
これ以上安全な場所はないはずの、スライディールの大広間でひとり、緊張の構えを崩さないでいる老教師――ウードの姿を一瞥してから、玲は前に座る同郷の娘たちに目を向けた。
「その賑やかしのおじさん――プラークさんは、これまではホレイスさんの影に隠れてたんだけど、ホレイスさんは今、巣穴にこもって出てこない。そんな時に、御使い様っていう極上の獲物が目の前にあらわれたらどうすると思う? おまけに今日は、サルファさんとキリザさんがいないの。いるにはいるんだけど、面談の席には着かない。立会いは、リグリエータさんとヤーヴェさんとウード先生の三人。そして相手はわたしたち、右も左もわからない異界の娘……。欲があれば当然、欲のない人でもひょっとしたら――っていう気になると思わない?」
という玲の顔は、狩られる獲物のそれではない。罠に誘い込む狩人の顔だ。そこへ、リグリエータが嘆息交じりの声を挟んだ。
「いくらなんでも、あからさまにすぎませんか? 玲様のおっしゃる方は別として、他の大臣方はさすがに気付きますよ」
「気付いてもらわないと困ります。わたしたちが見たいのは、そこから先なんですよ?」
短くいい、玲は視線を戻した。
「というわけで、わたしたちは大臣たちの出方を見るために、人の悪いことをします。ウード先生が誹られようがどうしようが、庇ったりはしません。むしろそうなるよう誘導します。中尾さんと村瀬さんが、だれであるかもいいません。二人がだれであるか、なぜそういうことをするのか、わたしたちがどういう人間か、その上でどうするか……じっくり見させてもらいましょう」
最後に玲は微笑んだ。
その微笑は、
「そのお顔は止められたほうがいいですよ」
相手に見破られることを危惧してか――
それとも自身が見たくないのか――
リグリエータがそっぽを向きながら注進するほどに、不敵だった。




