頼もしい? 味方
軽食を終えた午後の時間――
結衣とみちるは机に向かっていた。
こちらの世界は年がら年中そうなのか、それとも季節的なものなのか、朝晩はかなり冷え込むが、日中はたいへんすごしやすかった。
風は優しく心地よく、豊かな自然の香りと鳥のさえずりを室内に届けてくれる。
そして、二人の腹は満たされている――となれば、やってくるのは睡魔だ。
一本調子の低いしわがれ声が、さらにそれを加速させる。
睡魔にいざなわれるまま眠りに落ちれば、最高の睡眠を得られるのは間違いない。
しかし、それはできない。
やってはいけなかった。
それをわかっている二人は、がんばった。
示し合わせたわけではなかったが、結衣とみちるはともに、痛いほどに下唇をかみ、眼前の人物――ひとり話し続ける老人を睨みつけた。
幸いなことに、老人の目は下を向いており、自身の骨ばった指の動きを追うように、絵図面の上を滑っている。
それらを、結衣とみちるは見てもいなければ、聞いてもいない。
そのことを知られる前に、睡魔から脱却したい二人は、老人を凝視した。
なにしろ、二人の前に座る老人の姿は衝撃だ。ぞろりとした長い服。そこからのぞく部分はどこもかしこも細長く、乾いた皮膚には歳相応の皺が刻まれている。それだけならば普通だが、目の前の老人は、老人らしからぬ鋭い眼光と、驚嘆に値する毛髪力の持ち主だった。
細長い目は猛禽類のごとき鋭い光を放ち、波打つ白の蓬髪は尻を過ぎ、膝裏あたりまで届いている。
『魔法使い?!』
杖も帽子もなかったが、二人にそう思わせるに足る十分な容姿だった。
そうでないことはすぐに教えられたが、衝撃は消えなかった。
しかも、空想の世界から飛び出してきたような痩身蓬髪の老人は、
狙ってる?
それとも、突っ込み待ち?
と訊ねたくなるような見事な眉毛を有していた。
頭髪と同じく真っ白なそれは、生まれてこの方一度も切ったことがないのでは? と思うほどに長かった。しかも野趣溢れるぼうぼう具合だ。
みちるも、二日はがまんした。しかし、それ以上は無理だった。
『切るか結ぶかさせてください! これじゃあ集中できません! ついでに耳毛がどうなってるのかも見せてください!』
『馬鹿をいうでない!』
と、怒られたのが三日前だ。
その衝撃の眉毛を見れば、眠気も吹き飛んでいくかと思ったが、慣れとは恐ろしいもので、最初こそ釘付けになったそれも、六日目ともなると、もはや二人には眠気を遠ざけるほどのものではなくなっていた。
「……」
気付けば、しわがれ声が止んでいた。
◇ ◇ ◇ ◇
「みちる、結衣……二人とも、先からまったく手が動いておらんが――」
「がんばってます」
「何を、がんばっておる」
「寝ないよう――」
いい終える前に、みちるの頭頂部に衝撃が落ちた。
「痛いじゃないですか、先生!」
「当たり前じゃ」
老人らしいしわがれ声だが、声にも手にも力があった。
「もうひとつ、落としたほうがよいか?」
老人が、「はーっ」とこぶしに息を吹きかける。
「あ、それ、ウチのじいちゃんもやる」
「こっちの人もそうなんですね」
「じいちゃん仕様?」
「ウチはお父さんがやってたな、わたしが小さいころ」
「……」
結局、みちるはふたつ、結衣もひとつ、拳骨を落とされた。
続けて二発くらったみちるが、老人に涙目を向ける。
「……暴力反対」
「ふん、何をいっておる」
老人は、抗議の声などものともしない。
「学ぶというたはおぬしらじゃ。助けると。そのために努力すると。違うか? それなのに居眠りか。ふん。これではいつまでたっても、セーフー女子など救えぬわ」
厳しい声に、結衣とみちるはしゅんとなり、面を伏せた。
◇ ◇ ◇ ◇
老人は、『こちらのことを学びたいので、教えてくれる先生をつけてほしい』と、結衣が侍女を通してお願いしたその数日後に、二人の前にあらわれた。
目から鼻に抜けるような、才知ほとばしる美男子がやってくるとは、二人も思っていなかった。
が、目つきの鋭い魔法使いのような老人がくるとも想像していなかった。
『わしはウードと申す。これより教鞭を執らせていただく』
といった老人の目は、すでに不審の色でギラついていた。
なにしろウードを見るなり、
『え? 魔法使い?! ここって、魔法が使えるんですか?』
と、みちるが挨拶もすっ飛ばしてお馬鹿発言をした、その後だったからだ。さらに無礼なことに、結衣とみちるは二人揃って、老人のざんばら眉毛を食い入るように見てしまった。
ウードの二人に対する心象は、かなり悪いようだった。そして、実際教えてもらい始めるとさらに悪くなり、三日前のみちるの『耳毛』発言で、老人は切れた。
『出来が悪いのはわかっておったが、その姿勢は我慢ならん! 学びたいと願い出たのはおぬしらであろう! 真面目に取り組むのであれば、出来の悪さにも目を瞑ろうかと思ったが、やる気などまったくないではないか! わしを愚弄しておるのか!!』
と、ウードは机を叩きつけた。
結衣とみちるはうろたえた。
大声で叱られたことにも動揺したが、それよりなにより、目の前の老人がいなくなってしまうのではないかと、二人は恐れた。どうしても失いたくなかった。なぜならウードは、結衣とみちるがここにきて、初めて「信頼できる」と思えた光明ともよべる人だった。ゆえに、二人はうろたえつつも必死で謝り、いい訳をした。
自分たちは頭が悪い。やる気はあるのだが、集中してもそれが長く続かない。いつの間にか、違うところに目や心が行ってしまう。愚弄する気などまったくないが、そう思われても仕方がない自分たちの態度が悪い。そのことは深く反省しているし、今後は態度も改める。努力もする――
かわるがわる、つたない言葉でそう訴える二人に、老人の態度も軟化した。
といっても、怒りが完全に解けたわけではない。激高がいくらか和らぎ、聞く耳くらいは持ってやるか――程度のようだった。
『聞かせよ』
ウードはいった。やぶ睨みの目には、まだ怒りの色が残っている。
その重々しい声に、みちるは首を傾げた。
『気化? せよ?』
みちるの頭は、ウードの魔法使いのような容貌と、呪詛のごとき声の響きから、勝手に文字を変換していた。
『消えろ、的な? 先生、わたし、消えるのはちょっと――って、痛っ! 何するんですか! いきなり』
栄えある一回目の拳骨を落とされた。
『阿呆か。……阿呆じゃったな』
声にあざけりはなかったが、憐れみがにじんでいた。
反論できないみちるが、『くっ』と口の中で悔しさをこらえる。
しかし、その憐れみのせいか、ウードの目から怒りが消えた。
『この流れで聞かせよといえば、学びたいと願いでた理由じゃ。それしかなかろう。まったく、おぬしらの散漫ぶりには心底呆れる。そうやってあっちこっちに意識をやっておるから、学習にも身が入らんのだ』
『……すみません』
『それで、どうして学びたいなどと願い出た。いっておくが、純粋な知識欲でないことはわかっておるぞ。それと、もうひとつ。先にいっておく。わしは、力になれん。じゃから、聞かせよというたのは取り消す。無理にとはいわん。話したければ、話すがよい』
といわれた二人は話した。
それはもう思い切りよく、すべてを包み隠さず話した。
化け物だと思い込まれ、スライディールの城に監禁されている四人が、実は自分たちと同じ人間であること。それがもとで、ホレイスの勘気をこうむり、もうひとりの御使い様――咲とも仲違いしたこと。監禁されている四人を助けたいと思っていること。頼れる人物を探していること。そのための情報を得られるのではないか、あわよくば助けてもらえるのではないかと思って、教師を望んだこと――
それらを、息つく間さえ惜しむようにして二人は話した。
ウードは口を挟まず、最後まで二人の話を聞いてくれた。しかし、
『なぜそのような大事を簡単に、しかも、わしに話すのじゃ!!』
聞き終わるやいなや、彼は二人を叱りつけた。
これには二人も反論した。
『えー、だって、先生がいったんじゃないですか。話したかったら話せって。ねえ? 結衣ちゃん』
『そうですよ、先生。怒るなんてひどい』
『理不じーん』
『そんな大事とは思わんかったからじゃ。おぬしらは肩身の狭い思いをしてるようじゃから、話を聞くだけでも、いくらか気が紛れるかと――』
『先生……』
『ちゃんと見てくれてるんですね』
という二人の声に、ウードは目を逸らした。
『ふん。そんなもの、見ようとしなくても見えるし、だれが見てもわかる。二日もいれば、話も聞こえてくる』
ウードの声は、侮蔑だろうか、怒りだろうか、それに類するものが含まれていた。それだけで、結衣とみちるには十分だった。
わかってくれる人がここにいる。それが知れただけで、二人の心は明るく広がった。
『わかってても、何かしてくれようとする人は、ここにはいませんでした。ひとりも』
『ここの連中は、ホレイス卿に逆らえんからな。仕方なかろう』
『でも先生はそうじゃない』
『わしは、ホレイス卿にどう思われようが構わんからの。地位もなにも、もとからわしには何もない。望んでもおらん。ゆえに、わし自身が思うまま、おぬしらに接することができる。極めて小さいが、そうした自由はある。だがそれだけじゃ。話を聞くだけじゃ。わしは力になれん。人より多少の知識はあるが、それ以外は本当に何もないんじゃ。家もなければ金もなく、地位も人脈もない。旧知を頼って糊口を凌ぐしか術のない、老いぼれじゃ』
『何もないって、先生、家族は? 家族はいないんですか?』
『家族? ……家族もおらん』
『そっか、先生、ひとりなんだ』
『そうじゃ。わしは話を聞いても、おぬしらを助けてやれん。助けたくても手助けさえできん。じゃから先にそういったのに……』
と、ウードは首を振る。
『だって、誰もいないんだもん』
みちるがぽつりといった。頼りない、迷子のような声だった。
『周りは、みんなってわけじゃないけど、嫌なひとばっかり。親切にはしてくれるけど、ハム――ホレイスさんに嫌われてから、馬鹿にしたような目で見てくるひとだっているし。こんなとこにいたくないのに、こっから出してもらえないし、他の人にも会わせてもらえない。会えるのは、変な笑顔を貼り付けた胡散臭い人ばっかり』
『みちる……』
『みーんな、ホレイスさん側の人。でも、先生は違う』
『じゃがそれは――』
『先生、ちるちゃんもわたしも、先生がきてくれて嬉しかったんです。本当に。信用できる人がひとりもいなかったから。先生は怖いし厳しいけど、ちゃんとわたしたちと向き合ってくれてますよね。話だって、こうしてちゃんと聞いてくれて、心配だってしてくれる』
『聞くだけじゃ。聞くだけで、わしは何もできん』
『それでもいいんです。だって、それすらできない、信用できない人ばっかりだから。だから先生……お願いです。わたしたちを見捨てないで……』
『わたしたちには、先生しかいないんです』
そんなつもりはなかったのに、結衣とみちるは泣いてしまった。
そして一旦出はじめると、涙は止まらなくなった。
うつむき涙する二人の前で、ウードが目を閉じた。そして次の瞬間、唇と一緒にそれは開いた。
『泣くでない、結衣、みちる』
毅然とした声に、二人は顔を上げ、視界をにじませる涙を手でぬぐった。
『これ、そのようにゴシゴシこするでない、みちる。まったく、幼子と同じじゃな。ほれ、結衣も。これで拭きなさい』
たっぷりした袖のところから布を取り出し、二人に手渡す。
二人はいわれたとおり、布に涙を吸わせた。
しゃくりあげる音が続く。
それがおさまるまで、ウードは黙って二人を見つめていた。
『もう、大丈夫か』
『はい。ありがとうございます』
結衣が赤くなった目をウードに向ける。続いてみちるも礼をいう。しかしその視線は少しずれていた。
『ありがとうございます。……先生、その袖って、小物入れになってるんですか?』
『みちる……おぬしが気になるのはそこか』
『すみません』
『まあよい。おぬしは最初からそうじゃった。まったく幼児と同じじゃな。目に付く不思議に飛びつく』
『そんなこと――』
『ないとはいわさんぞ』
ざんばら眉の下にある鋭い目で睨みつけられたみちるは、唇を、それこそ幼児のように尖らせる。
ウードの眼光が緩んだ。そして、大きな息をひとつ吐きだすと、彼は独語するように話し出した。
『わしは力がない。それは本当じゃ。それでも、知識だけはある。経験も、まあそれなりに積んでおる。おぬしら二人だけよりかは、ましじゃろう』
『先生、それって……』
結衣とみちる、二人の顔が見る間にかがやきだした。
喜色に染まる二人の顔を見て、ウードがあわてて声をかける。
『あまり期待はしてくれるな』
が、効果はなかった。
『めちゃめちゃ期待します! ありがとう、先生!』
『期待するなといっておろう!』
『よかった。ありがとうございます、先生。わたしも期待してます』
『結衣、おぬしまで何を――』
『やったー! 前進だー! おー!』
目はまだ赤いままだというのに、みちるが威勢のよい声を、拳とともに宙に突き上げる。
『先の涙はどこにいったのじゃ! みちる』
『えー、そんなの嬉しくてどっか行っちゃいましたよ。それより先生、これからどうします? 作戦会議、あたっ』
ウードの拳がみちるの頭に落ちた。
『ひどい、先生。何するんですか!』
『騒ぐからじゃ。まずは落ち着け。そして人の話を聞け』
こうして結衣とみちるは、頼もしいかはさておき、厳しくも信頼できる味方を手に入れたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
それから三日。
しかしというか、やはりというか、結衣とみちる、二人の生活に劇的な変化はなかった。
これまでと同じ、ホレイスの息のかかった人間たちに囲まれながら暮らしている。
ウードという味方ができて以降の変化はない。が、ホレイスと摩擦が生じて以降の、結衣とみちるの生活には、大きな変化があった。
まず、ホレイス自体と会うことが、前ほど頻繁ではなくなった。毎日あった、キラキラ王子様たちとのきらびやかなお茶会も、あの日を境に呼ばれなくなった。世話をしてくれる侍女の数も格段に減った。
前は数人がかりで世話を焼かれ、一日中、どこへ行くにも何をするにもうっとうしいほどの人数に囲まれていたが、それもなくなった。
侍女も数人に固定された。それもつきっきりではなく、部屋付きという形で、どちらかの用があるときにしか彼女たちは姿を見せない。
ひとりで勝手に建物内を自由に動き回ることはできないが、自室周辺をうろついたり出入りするのは自由にできる。
そんな状況は、他人から見れば放置されているように見えるだろう。が、結衣とみちるには、その状況は願ったり叶ったりだった。なんとなれば、衣食住は、いまだこちらが申し訳なく思うほど満たされている。『御使い様』と呼ばれ、ちやほやされる薄気味悪い状態から解放されて、逆にほっとしているくらいだ。
欲をいえば、だれかに譲るなり捨てて欲しいが、腐っても御使い様らしく、そればかりは無理のようで、ちょっと気晴らしに――と、いつもはいかない場所に足など向ければ、『どちらへ』と監視の目が光る。
館内を探検したい。そうした純粋な好奇心でも、見る側には脱走を画策しているように映るのか。
以来、あやしい行動はしないよう、心がけている。常に見張られるようになっては息が詰まるし、色々やりにくい。余計な関心は買わないが吉だ。
そのことは、ウードにも褒められた。
そして、ウードがやってくるようになってから、二人は以前にもまして、部屋に引きこもるようになった。
実は、これこそ、何か企んでいるのではないか――と疑念を誘いそうで二人は不安だったが、部屋で静かにしている分にはだれからも何もいわれなかった。
見張る必要もなければ手間もかからない――と、逆に喜ばれているのか、出される食事やおやつがグレードアップした。
『小娘二人と老いぼれじゃ、何ほどのことができる、ということじゃろ』
二人はウードの意見に大いに納得した。
警備は厳重だった。自分たちがいる階は、それと見受けられる人間はほとんどいないのだが、ウードがいうには、それ以外の階、そして建物の外まで含めれば、警備人は数十という数になるらしい。驚きの厳戒態勢だ。
それとは別に、建物内には侍女やら使用人やらも大勢いる。強行突破はまず無理だ。
それを知らず、みちるは強行突破を提案したことがある。
『先生。先生がわたしたちを抱えて走って逃げる、っていうのはどうでしょう? 右左にひとりづつ、小脇に抱える感じで。わたしたち、二人ともちっこいんで大丈夫ですよ。先生、歳の割りに力持ちみたいだし』
このときみちるは半分冗談、半分本気だった。
『単純すぎて、逆に上手くいくかも』
結衣も乗り気だ。みちるも、一考の価値はあるんじゃないかと思っていた。
『おじいさんが娘を両脇に抱えて走る――すごい絵面じゃないですか? まあ、前と後ろでもいいですけど、それだと先生が走りにくいですよね。もう、すっごいインパクトですよ。絶対驚きます。みんながびっくりしてる間に、ささっとこう――』
『わしを殺す気か!』
やはり拳骨を落とされた。
その後で、警備状況や館内の複雑な構造など、きついお叱りとともに色々教えられた。
『まったく。冗談ではなく、そんなことをすれば、わしは御使い様略取で即処刑じゃぞ』
『え?』
『嘘』
結衣とみちるは、自分の顔から血の気が引くのがわかった。
顔色を変える二人に、
『やはり、わかっておらんかったか』
ウードが呆れ声でいう。
『ごめんなさい』
『先生ごめんなさい。失敗しても、ちゃんと謝って、説明すれば許してもらえるのかなって』
『そうか、そう思うたか』
『はい』
『世界が違うのじゃから、仕方のないことかもしれんな。保護された御使い様を、この建物内から連れ出すことはできんのじゃ。たとえ御使い様本人が望んでも、じゃ。そんなことをすれば、即処刑――』
『先生ごめんなさい。もういいません』
みちるは何度も頭を下げる。
『そうしてくれ。老い先短いが、さすがに罪人として処刑されるのは抵抗がある』
『ほんとにもういいません』
『わかった、わかった』
『……先生』
『うん?』
『わたしたち、ひょっとして、ここから一生出られないんですか?』
青ざめたままの結衣に、ウードは首を振った。
『一生ではない。伴侶が決すれば、出ることも可能だ』
一生ではないようだが、気持ち的にはそれに近い。
結衣がうなだれた。
今の状態から予想していたことだが、第三者の口、それも、信じる人の口から聞かされると、衝撃も大きかった。
『結衣ちゃ――』
『結衣、みちる』
なぐさめようとするみちるの声を、ウードが遮った。
『聞け。御使い様というのは、特別な存在じゃ。それは、理解しておるな』
『はい』
『御使い様に関しては、様々な決まりがある。おぬしらは、ほとんど何も教えられていないようじゃ。わしも、すべてを知っておるわけではないが、今一度詳しく調べて、それをおぬしらに伝えよう』
ウードの言葉はなぐさめではなかったが、力強いそれは、二人の頭を上げさせた。
『よいか、わしも、おぬしらも色んな意味で力がない。じゃから、信頼できる力のある相手、あるいはそれにつながりそうな人間を見つけることが先決じゃ。というより、それしかないじゃろう。そういう相手が見つかるまで待つしかない。おぬしらには、酷かもしれん。セーフー女子のことも心配じゃろう。しかしな、考えてみよ。おぬしらがここへ来て、何日経っておる。スライディールの御使い様が殺されたという話は聞かん。彼女たちは生きておる。異形とはいえ御使い様じゃ。そう簡単に命など奪えぬ。人であればなおさらじゃ。それにな、後見役はサルファという副宰相じゃ。色々と派手な男じゃが、悪い話は聞かん。というより、誠実だと評判じゃ。無論、わしは会うたことはないがな』
『いい人なんですか? その人』
『ああ、そう聞くな』
『じゃあ、安心ですね』
『それはわからん。そうだろうとは思うが、断言はできん。人間だと把握しておればよいが、いまだ化け物だと思うたままかもしれん。どのように接しておるか、わからんでな。近くにおるのか、遠くから眺めておるだけか……』
『えー』
『じゃあ、そのサルファさんっていう人に、スライディールの人たちは人間ですよーって伝えればいいんですね?』
『ついでに、わたしたちのことも一緒にお願いすれば――』
『それは無理じゃ』
『なんでですか』
『伝がない。それに、ホレイス卿はサルファ副宰相を忌み嫌っておるからな。向こうが来ても、追い返すであろう』
『仲悪いんですか?』
『ホレイス卿が一方的に嫌っておるようじゃ』
『じゃ、いいひとだ』
と、単純に答えを出すみちるに、
『はは』
ウードが声を出して笑った。
『しかしみちる、おぬしは疑うということを知らんのか。わしのいうことを、そう簡単に信じるでない』
『それは先生だからですよ。わたし、そんな簡単に人を信用したりしません。初対面の人は、まず疑ってかかります。親にそうしなさい、っていわれてますから。それに、信用できない人間は、自分のことを信じるな――なんて、まずいいません』
言い切るみちるに、ウードが微笑んだ。
『そうか……ならわしは、責任重大じゃな』
『そうですよ、先生』
『わかった。わしはわしなりに努力しよう。じゃから、おぬしらも努力せよ。セーフー女子を助けるためにな。今、生きていることは自信を持っていえる。が、他は推測に過ぎん。囚われ、助けを求めているやもしれん。この先だってどうなるかしれん』
真摯に耳を傾ける二人に、ウードはいった。
『彼女たちを助けよ。だが、急くな。こればかりは待つしかない。これという人間があわわれるまで、おぬしたちが信じられると思える人間が来るまで耐えよ。その間におぬしらは知識を蓄えよ。であれば、わしも、力の無いなりにこの老骨をふるおう。どうじゃ、できるか?』
『できます』
『やります』
◇ ◇ ◇ ◇
と、力強く答えたはずが、眠気に耐え切れずふらふらとしてしまった。
結衣とみちるは恥じ入る他ない。
「まったく、呆れたものじゃ。このまま続けても無駄じゃな」
「もう寝ません」
「大丈夫です」
「そんな顔をするでない。やめるのは講義じゃ。おぬしらの好きな作戦会議にする。このままわしだけがしゃべり続けても、どうせまたすぐに眠気が戻るだけじゃからの」
ウードのしかめっ面の前で、二人の顔が陽光のごとくかがやいた。
「――それで、リファイ殿下には、おぬしらは良い印象を持っておらんのだな」
「はい」
「だって、目の奥がぜんっぜん笑ってないんですよ。しかも、『君たちの力になれると思う。心を開いてくれると嬉しいな』ですよ。頷いたりしたら、どんな壷買わされるか、わかったもんじゃありませんよ」
「なぜそこで壷がでてくるのかようわからんが、みちるは信じておらんのだな」
「ええ。あれだったらハイラル王子の方がまだましです。あのひとは偉そうなだけですもん。あの、人を見下す目は、『ちょっとは隠せよ!』って、腹が立ちますけど。それでも、あの爽やか王子様よりはましです。爽やか王子様は、取り入ろうというか、わたしたちを手懐けようとしてるのが、もう見え見えの透け透けです。見た目が爽やかな分、余計いやらしく見えるんですよね」
「みちるはえらく嫌っておるの。結衣はどうじゃ」
「わたしも、あんまり。だって、あんなすごい人が、わたしたちに優しくしてくれるなんて、どう考えてもおかしいですよ」
「それは、おぬしらが御使い様だからじゃ」
「それでも、うーん」
「好かん、か?」
いいよどむ結衣に、ウードはいった。
「はい。わたしたちは容姿も頭の出来もいまいちで、小馬鹿にされたり、侮られたりすることがあるんです。だから、人と対するときは構えますし、相手の感情にも結構敏感なんです。本当に自分たちのことを思ってくれてるかどうかくらいはわかります。それに、自惚れようにも自分を知ってるから、自惚れようがないし」
「そうか。そうじゃな」
「えー、先生。そこはすんなり納得するんじゃなくて、そんなことはない、とかいってくださいよ」
「何をいう。おぬしらが阿呆なのは、身を持って経験済みじゃ」
「ひどい! しかも、馬鹿とかじゃなくて阿呆」
「阿呆じゃろう。じゃがな、愚かではない。それもようわかった」
「先生、それって褒めてるんですか?」
「大褒めじゃ。しかし、リファイ殿下も頼れんとなると、もうグレン宰相しか、残っとらんぞ」
途端に二人の顔が暗く沈む。
「会うたのじゃろ? どうじゃった。宰相閣下の印象は」
「どうもこうも、先生。怖くて顔なんか見れませんでした」
「何? 見とらんのか?」
「だって、すんごいばりばりの威圧感ですよ。宰相ってあんな怖いんですか?」
「わしも遠目にしか見たことがないでな。恐ろしい人じゃとは聞いておるが」
「やっぱり……」
と、結衣が顔を曇らせる。
「恐ろしいというより厳しいのじゃ。大国レナーテの宰相じゃぞ、そうでなければやっていけん。公正且つ厳正で鳴る人じゃ」
「怖すぎますよ。地獄の官吏か冥府系の人かと思いましたよ。しょっ引かれてあの調子で尋問されたら、やってなくてもやりました、っていっちゃいそうなくらい怖いですよ」
「なんじゃそれは」
「毛穴全開です。とにかく、ぴりぴりくるんです。質問に答えるのがやっとでした」
「結衣、おぬしもか」
「はい。とりあえず、早く帰ってもらいたくて」
「そうか。まあ、それは責められんか。王宮の人間でも、宰相閣下の前では萎縮してまともに話せんというからな。仕方なかろう。なら、ほかの人間はどうじゃ。宰相府の人間が、毎日顔を見せるのじゃろ? グレン宰相が駄目なら――」
「無理ですよ、先生。無理。宰相さんを薄めたようなひとばっかりですよ」
「そうか……宰相閣下に直訴するのが一番なんじゃがな」
「無理無理無理無理無理、無理ですよ、先生。直訴なんて。面と向かってしゃべる自信がありません」
「先生からお話ししてもらえませんか?」
「わしか。しかし、わしは同席させてもらえん。そのような身分ではないでな。仮に同席させてもらえたとしても、じゃ。ホレイス卿か、その側近がおるからの」
「それじゃあ、どっちにしろ無理じゃないですか」
「そうじゃ。じゃがの、宰相や宰相府の人間であれば、おぬしたちが訴えたいと態度で示せば、気付いてくれるのじゃないかと」
「アイコンタクトなんか無理ですよ」
「なんじゃそれは」
「目と目で話すってやつです」
「ふむ」
頷くウードの前で、結衣が明るい声を上げた。
「それじゃあ、手紙を出す、っていうのはどうかな。直訴状?」
「ほんとだ、それいい、結衣ちゃん」
しかし、ウードが即座に首を横にする。
「駄目じゃ。ホレイス卿に、中を検められる」
「うーん、それじゃあ先生が持っていく――っていうか、先生が直接宰相さんのところに行ってくれればいいんじゃないですか? わたしたちはここから出られないけど、先生だったらいけますよね?」
「無理じゃ。宰相府など、どこのだれともしれん、わしのようなものが入れる場所ではない。軽く門前払いじゃ」
「じゃあ、宰相さんを待ち伏せする」
「宰相閣下に会う前に、不審者として、わしはどこぞに連行されるじゃろうな」
「ここの扉の前、この建物の前は?」
「ホレイス卿に見つかって、わしは二度とここに戻って来れんじゃろうな」
すべて即却下。『くっ』と声を出して悔しがるみちるの横で、結衣が顔を上げた。
「先生、目安箱みたいなものは、ここにはないんですか?」
「なんじゃそれは」
「王様みたいな偉いひとに直接届けられる、下々のお願い事なんかを書いた手紙を投げ入れる箱です。投書する箱っていったらいいのかな?」
「そのようなものはない。あっても無理じゃ」
ウードの声に、二人は同時に顔を上げた。
「おぬしらも動けんがな。わしも自由に動けんのじゃ。この館内からは出られるが、それだけじゃ。馬車が横付けされておっての、今の住まいと、ここの往復だけしか許されておらん。それ以外の場所に向かったり、人と接触しようとすれば、わしは即解雇じゃ」
「くっ、なんて狡猾な」
あのハム男――とみちるが顔を歪める。
「まあ、それだけおぬしらのことが貴重だということじゃ」
「そうは思えないけどなあ」
「そういうでない、結衣」
「はい」
という返事を聞いて、ウードは微笑んだ。
「おぬしらの良いところは、素直なところじゃな」
「なんですか、先生、いきなり。辞めるとかいわないでくださいよ」
「そのようなことは思っとらん。素直じゃと褒めたたけじゃ。で、わしのいうことを、その素直さで聞いて欲しい。わしにもおぬしらにも自由が無い。じゃが、焦って行動を起こしてはならん。おぬしらは御使い様じゃ。見捨てられるような存在ではない。必ず助け手はあらわれる。この状況に気付く外部のものがあらわれる。耐えよ。わしも許される限りは傍におる。よいな」
ウードの期待を裏切らず、二人は素直に頷いた。
「よし、眠気も飛んだじゃろ。勉強を再開するかの」
「えー」
「えーとはなんじゃ。素直じゃと褒めてすぐにこれか、まったく先が思いやられるの」
「違うんです。勉強って聞くと、つい反射で」
「やります」
「がんばります」
「ふらふらしたら、即、拳骨じゃ」
「暴力反対」
作戦会議は何の進捗もなかったが、三人の時間はそれなりに充実していた。




