木漏れ日の道を
執務室でひとり、書類に目を落としていたソルジェは、人の気配を感じ、顔を上げた。
隣室に通じる戸口に、青年がたたずんでいる。
「ああ……」
その姿を目にしたソルジェは口元を緩めた。
「レイヒか」
穏やかな笑みを自分に向けるのは、レナーテの若き将軍レイヒだった。
「お声もかけずにすみません。殿下は、お仕事中でしたか」
髪色と同じ、茶色の瞳がソルジェを見つめる。
その風貌は、どちらかといえば優しげだ。発する声も穏やかで柔らかい。
人目を奪うような華やかさはない。態度も言葉も控えめだ。が、大陸最強と謳われるレナーテ軍の将軍のひとりである。
「いや、構わない。急ぎのものではない」
レイヒに応えながら、ソルジェは書類を机の端に寄せた。
実際、急ぎの仕事ではなかった。すべきことは、やり終えていた。
「どうした?」
用向きを訊ねる。断りも挨拶も必要ない。
レイヒもそれをわかっている。
「お誘いにあがりました」
彼も簡潔に答えた。
だがそれを聞いて、ソルジェは唇を引き結んだ。
「……」
何の誘いかわからないのではなく、わかるだけに答えられなかった。
「殿下?」
「あ……」
ソルジェはらしくもなく、視線を逸らす。
「今日は、行く日ではないだろう?」
「いつ来てもらっても構わない、就寝時間帯以外は――と、玲様はおっしゃっていましたよ。社交辞令でもないと」
婉曲な断りを、レイヒは受け入れてくれない。
「そうはいうが、玲たちも何かと忙しくしているようだ。邪魔をするのは――」
「気が引けますか? 殿下がお顔を見せれば、玲様もお喜びになると思いますが」
「それは……」
否定しない。ソルジェが顔を見せれば、玲はいつだって嬉しそうに迎えてくれる。
「殿下は、お会いになりたくないですか?」
屈託を見せるソルジェに、レイヒはずばりと訊く。そして、
「わたしはお会いしたいので、いってきます。せっかくの時間ですから、ありがたく使わせていただきます」
逡巡なしにいうのだった。
伴侶になってからというもの、ソルジェとレイヒの任務は、目に見えて減らされていた。
予定されていた合同演習や視察など、日数を要するものは、すべてが白紙か繰り延べにされ、いまやあるのは通常業務のみ――という、指揮官である自分たちには、ほとんど何もすることがない状態だ。
レイヒが担当していたスライディール城の警固も、伴侶になったと同時に解かれ、いまではルゼーがその任に就いている。
『伴侶の披露が終わるまでは、こちらを優先して欲しい』
という玲の要望に、キリザが全力で応えた結果、二人はもてあますほどの自由時間を手に入れた。
通常業務や鍛錬だけでは時間を潰せず、ソルジェは過去の資料や、順延された演習工程などを引っ張り出して、眺めていたのだった。
スライディール城に行きたくないわけではない。
玲の顔を見たくない、わけでもない。
逆だ。行きたいし、会いたい。
行けば、玲と瑠衣は手放しで喜んでくれる。良子と玲於奈のふたりは、特別嬉しそうにはしないが、嫌な顔もしない。ソルジェを避けることもなければ恐れることもなく、普通に接してくれる。
スライディールの城では、ソルジェは気を張らずに過ごすことができた。
そればかりか、そこでの時間は楽しかった。
四人は好奇心が旺盛で活動的だった。彼女たちが動き、ぽんぽん言葉を交わすのを見聞きする――それだけでも楽しい。四人の会話が早すぎて、ついて行けないこともあれば、内容それ自体がわからないこともあった。それでも、楽しさだけははっきりわかる。
明るい雰囲気に浸っていると、突然話しかけられる。傍観することは許さない――とばかりに、伴侶はもちろん、居合わせた人間を質問攻めにしたりする。まったく気が抜けない。
これまで、上辺の会話もやっとの状態だったソルジェには、すべてが新鮮で刺激的だった。自分がいることで、萎縮させてしまうこともない。玲はソルジェを自分の伴侶として、三人は、友人の伴侶――身分ある年長者として、節度を持ちながら親しみある態度と言葉でソルジェに接してくれる。
まだ片手におさまる回数しか訪問していないというのに、スライディールで過ごす時間はすでに、ソルジェにとって特別な時間となっていた。
しかし、楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。スライディール城からの帰り道は、いつも複雑だ。
現実に引き戻される中で、ソルジェは自分を戒めねばならなかった。
望んではいけない――
なのに、望んでしまう、期待してしまう自分がいる。
「殿下?」
レイヒの呼びかけに、ソルジェはため息で返した。
◇ ◇ ◇ ◇
結局ソルジェは、レイヒに誘われるまま、馬上のひととなっていた。
「こうしてのんびり馬に揺られるのも、悪くないですね」
「ああ」
木漏れ日のもと、馬の歩みに任せながら、森をすすむ。
王城の森は、静かだった。
人気はまったく感じられない。スライディール城を抱えるこの森に、自ら進んで入ろうとするものはいなかった。
そもそも、スライディールという城自体が敬遠されている。
不幸な王女の城だ。二百年という時を経た今でも、王女の魂は城に閉じ込められたまま、すすり泣いているという――。
そんな噂といわくのある城に、血の色も生々しく禍々しい実体のある化け物が入った。
おぼろげな恐怖をまとっていた城は、いまや恐怖そのものとなっていた。
真実を知らされていない王城の人々は、想像力もたくましく、恐怖心を広げに広げ、城ばかりでなく、城を擁する森にまで、恐怖の範囲を広げていた。
あの陰に、潜んでいるのではないか――
森に足を踏み入れたが最後、生きては戻れぬ――
実際には、死者、行方不明者ともにゼロである。
加えて、日々行き来している人間が、それなりにいる。
その事実を、彼らがどう誤魔化しているかはわからない。
が、
生い茂る木々、それらの作る陰にすら恐怖する人々は、森どころか周辺付近にさえ近付かなくなっていた。
「ここは、本当に静かだな……」
「ええ」
ソルジェとレイヒの二人は、森の静けさと清冽な空気を堪能していた。
恐怖に染まった目には、森は恐ろしく映るだろうが、真実を知る二人には、緑豊かな森でしかない。
人目を気にする必要も無い。
ソルジェはゆるゆると歩く馬の背から、レイヒに訊ねた。
「周りから、いろいろいわれていないか?」
平民から将軍という、異例の出世を異例の若さで成し遂げたレイヒは、あらゆる方面から注目されている。
当然の人事だ――という声もあるが、それは軍内部に限ってのことで、それ以外のところでは、人目を引かない見目であることも関係しているのだろう、懐疑の声も多かった。その大半を放っているのは、貴族の子弟の口だ。
平民が――、若すぎる――、威厳がない――
説得力も何もない。
レイヒの飛びぬけた才能と資質をわかっていないとしか思えないそれは、しかしある場所――大勢の貴族たちで占められる王宮では、まかり通っていた。
レイヒが平民ということで、直接それを本人にいうものがいれば、レイヒの存在、そのものを無視する――そういった連中もいる。貴族たちにしてみれば、レイヒは、自分たちの領分を侵す異分子でしかないのだろう。
しかし、そんなことで折れるレイヒではない。
レイヒはそんな連中に対しても、礼儀正しく接している。
彼の側近や、他の人間からそう聞かされて、ソルジェは何度ため息をついたことかわからない。
情けない――
もちろん腹立たしい。だがそれ以上に、ソルジェは情けなかった。
そういった連中は、キリザやソルジェがいるときには、絶対にそうした態度をとらないのだ。自分たちがそうしたことを嫌うのを知っている。
敵わない相手の前ではそれを隠すという、卑小さが許せない。
平民が――と嘲りの目を向けられるレイヒの方が、どれだけ高潔であるかしれない。
「いえ。グレン宰相の指示通り、緊急会議以来、王宮へは足を向けていませんので……」
「そうか」
「殿下、お気に掛けていただけるのはたいへん嬉しいのですが、なにかいわれたところで、わたしは気にしませんので、どうかほどほどに願います」
「ああ……わかった」
ソルジェは頷いた。
無用であることはわかっていた。が、わかっていても気分が悪い。
スライディールの四人を化け物と信じて疑わない貴族たちは、伴侶にされたレイヒを気味が良い――と思っている。
『化け物の伴侶になるために、将軍になったようなものだな』
『逆ではないか? 将軍になるために、伴侶になった……』
『そうまでして地位が欲しいか』
『そうでもしない限り、われらと肩を並べることなどできまい。だが所詮平民……』
『気にかけるまでもありませんでしたな』
悲しいことだが現実に、こうしたことが、王宮でささやかれているというのだ。
これを聞かされたのは、レイヒの若い部下だ。レイヒが王宮に姿を見せないものだから、貴族たちはその周辺を捕まえて、悪戯に残虐心をぶつけることにしたようだ。
レイヒの部下の、憤然としながら耐える様に、貴族たちの嗜虐心も、大いに満たされたことだろう。
貴族たちのはけ口にされた部下は、さすがにその場で怒りを爆発させることはなかったが、怒りを消化できず、かといってそのまま上司のもとに戻ることもできず、ソルジェの側近たちのところへやってきた。
その選択は正しい。
彼らはソルジェのことで、そういった屈辱的な経験を嫌というほどしている。経験者であり、まだ公にされていない真実も知っている。
側近たちは、悔しがるレイヒの部下の話を、わがことのように聞いた。そして、
『今にわかる』
『いわせておけ』
と、なだめたというのだから、ソルジェは笑ってしまった。
側近の三人は、聞き流すことができないために、これまでさんざ苦しんできたのだ。
しかし、三人は変わった。ソルジェが伴侶に決まってから、玲たちを知ってから、驚くほど変わった。
『お前ら、嬉しいのはわかるが、もうちっとつらそうにしねえと、周りの人間に気付かれちまうだろうが』
キリザに苦言をいわれ、
『閣下ほどではないように思います』
言い返すほど、心に余裕を持つようになった。そればかりか、
『静かに過ごしたいという玲様たちのご希望を、わたしたちが潰えさせてしまうなどあってはいけませんから、しばらくの間、スライディールの城に勤めさせていただけませんか?』
『あちらは人手が、特に力仕事をする男手が足りないようです』
『玲様に、殿下のお話を聞かせて欲しい、ともいわれておりますし……。なにしろ通常業務ばかりで、わたしたちもすることがありません。ふらふら遊んでいるわけにもいきませんから』
『ユリアノスがいれば十分でしょう。もちろん、何かあれば飛んで戻ります』
『お許しいただけませんか? 殿下』
と訴えてきた。
バルキウスがいうのはわかる。高位貴族の次男で、側近の中で唯一社交的なバルキウスは、ソルジェにもためらわずものをいう。しかし、ジリアンはいつも控え目だ。そのジリアンが、バルキウスと一緒どころか率先して、スライディールに通いたい――と言い出したのには、驚いた。
もちろん、否やはない。
綺麗さっぱり仕事を取り上げられてしまったので、支障はない。しかし、驚きだ。自らの意思で、彼らがソルジェから離れるなど、これまでは考えられなかった。
そして、ソルジェの許可を得てからというもの、二人は朝一番に顔を見せると、夕方まで戻ってこなかった。
向こうで何をしているのかと聞けば、宣言通り、下男のような仕事をしているという。下男の仕事ばかりでなく、四人に呼ばれてお茶をともにしたり、話をしたり、他の用事を頼まれたりもするという。
二人は、伴侶のソルジェよりも、よほど親睦を深めていた。
親睦を深めた二人は早々に、レイヒの部下の件も話したという。
『伴侶の皆様のことは、良いことも悪いことも、どんな些細なことでも知っていることはすべて教えて欲しいと、玲様にいわれましたので……』
『私怨は交えていませんよ』
どうだか……と思いつつ、ソルジェは側近二人のその日の行動、玲たち四人の様子を聞くのが、日課となりはじめていた。
その、レイヒの部下の話を聞いた時、いつもにこにこ笑っている瑠衣が、この時ばかりは寂しそうな顔をしたという。
当然だ。
瑠衣はレイヒを慕っている。その相手が悪意に晒されていると聞いて、何とも思わないわけがない。
しかしその表情は、三人の友人たちによって、すぐさま修正された。
『はっ。平民が、って、馬鹿じゃない? 自分はなんぼのもんだっつーの』
『ふーん。そういう人間って、やっぱりどこの世界にも一定数はいるんだね。ま、レイヒさんはそんなこと気にしないだろうし、瑠衣も気にしちゃいけません』
『ふふ。そうよ、瑠衣。瑠衣は気にしないことね。そういうことは、わたしと玲に任せて。しっかり覚えておくから。でも、自分は馬鹿です、相手の力量もわかりません、人としても最低です、って自分で宣伝してるってことに、気付かないのかしら?』
『うん。レイヒさん見てたら、わかると思うんだけどなぁ……』
『わからないんでしょ。だからいうんでしょうが』
『いわせておけばいいんじゃない? その内、打ちのめされることになるんだから。実際、起き上がれなくなるくらい、打ちのめしてあげてもいいけど……』
『やるんだったら、あんたひとりでやんなさいよ』
『あら、良子は手伝ってくれると思ったのに』
『馬鹿は死んでも治らないんだから、投げ飛ばすだけ時間と体力の無駄でしょうが』
『ははは。うーん、でもこうなると、やっぱり伴侶の披露は、盛大にやらないといけませんな』
『なんで? 普通でいいでしょうが』
『いやいや、わたしたちの魅力をあますところなくレナーテの皆様にお見せしないといけません。それこそが……ふっふっふっ』
『やだ、出たわ。玲の微笑み』
『はあ……』
『臍を噛むがよいわ……ということで、頑張ろうね、瑠衣』
『うん』
いつもの笑顔を取り戻したという。それは素直に喜ばしい。
瑠衣は姿ばかりでなく、心根も明るく愛らしかった。グレン、キリザ、サルファ、自分たち四人の伴侶はもとより、その側近たちにも、隔てなく笑顔を振りまく。
ソルジェの顔をみれば、『殿下ー!』と手を振って迎えてくれる。はじめて手を振られたときには驚いた。レイヒには駆け寄っている。まったく愛らしい娘だった。
愛らしい娘は、愛情ばかりでなく、レイヒにこれ以上ない権威を与えるはずだ。御使い様に選ばれた――その事実は、レイヒに付きまとう『平民上がりの将軍』という忌々しい声をなぎ払うことだろう。
しかし――
『臍を噛むがよい――玲はそういったのか?』
『ええ、それはもう楽しそうにおっしゃってました。俺は胸がすっとしましたよ』
『わたしは何やら肝が冷えました。幼いころに聞かされた、魔を統べる夜の王の話を思い出しました』
胸を押さえながらいうジリアンを、青の瞳をかがやかせるバルキウスを、ソルジェはうらやましく思った。自分はまだ、見せてもらっていない。
『そうか……』
『玲様はとても楽しそうでしたが、良子様はひどくうんざりされていました。瑠衣様はいつもどおり、お可愛らしくていらっしゃいました。玲於奈様は――』
『玲於奈様は、玲様の微笑みが――とおっしゃっていましたが、俺には玲於奈様の微笑みの方が、よほど恐ろしかったですね』
『ええ。玲様のご発言は恐ろしいんです。ですが玲様は、どこか茶目っ気があるんです。声も目も笑っていらっしゃるんですが……玲於奈様のあれは、本気ですね』
『投げ飛ばすのかな? あの細腕で』
『そのための鍛錬を毎日朝晩かかさずやっておられるじゃないか。ああ、玲様たちは祖国で体術をなさっておられまして――』
『悪いことはいわない、ちょっと見せてくれ、とかいうなよ、投げ飛ばされるぞ――とキリザ将軍に脅されましたよ。相当な腕前なんでしょうね』
『皆様の鍛錬の模様を拝見したいのですが、なにしろ朝は日が昇る前から、晩は、わたしたちが辞去してからということですので、残念ながら、一度も拝見したことはありません』
『今度、ガウバルトに、見せてください――といわせようかと』
『バルキウス、何をいっている』
『だって、見てみたいだろ? どれほどの腕前か』
『それはそうだが、玲様たちのお邪魔になるじゃないか。ガウバルトが投げ飛ばされるのは一向に構わないが、玲様たちのお手を煩わせるのは反対だ。あれだけご勉学に励まれているというのに』
『そうだな。それはやめておくか』
『玲様たちはそれはもう熱心に、あらゆることを学ばれています』
『サルファ副宰相に、見習って欲しいですね、と真顔でいわれましたよ。そのうち俺たちも、講義に同席させられるかもしれません』
『そうか……』
いつもうつむきがちだった側近たちは顔を上げ、目をかがやかせながら、見てきたこと、感じたことを口々にいう。
結構、多弁なのだな――
ソルジェは思いながら、側近たちの報告を聞く。
話も面白いが、これまで見ることのなかった側近たちの一面を見るのも、なかなか面白かった。それらの変化をもたらしたのは、あの四人だ。
思い出すだけで、胸にあたたかいものが広がる。
「……殿下?」
「ああ、いや、ちょっと思い出して――」
その微笑が、声の途中で固まった。
◇ ◇ ◇ ◇
スライディールへの道のりも半ば――というところで、ソルジェはあることに気付いたのだった。
「レイヒ、アリアロスにも声をかけたほうが良かったのではないか?」
ソルジェたち四人の伴侶は、玲から『とりあえずしばらくは』という限定つきで、二日おきにスライディールの城に行くことを義務付けられていた。しかし、ゼクトだけは例外で、彼は後ろ盾のサルファとともに、スライディール城に日参している。
今日、自分たち二人が行けば、玲於奈の伴侶、アリアロスだけが顔を見せない、ということになってしまう。
自分の伴侶だけが顔を見せない、というのは面白くないだろう。
しかし、声をかけたところで、アリアロスが頷くとは思えない。
「……殿下?」
レイヒが、考え込んでしまったソルジェを見る。
「いや……声をかけないほうが逆によかったかと、思い直してな。アリアロスは、二日おきの登城もつらい、せめて三日おきくらいにして欲しいと護衛にこぼしていたくらいだ。声をかけたところで、断るだろう――」
それを聞いたレイヒが「ふふ」と、ひそやかに笑った。
「殿下、実は殿下のところへうかがう前に、アリアロス軍師にもお声をかけようと、執務室に寄ったんです」
「そうか」
さすがにレイヒだ。抜かりがない。
「ということは、アリアロスはやはり断ったか……。だがそれはそれで、後々玲於奈に追いつめられることにならないか? まあ、俺たちが、それをいわなければいいか……」
ソルジェは、アリアロスが精神的に追い込まれる――そのもとを伏せようと考えた。
初回以来、二人きりという状況になることはなかったが、アリアロスには、『つらいだろうな』と思われる状態が続いていた。
玲於奈という娘は、他の人間には普通に接する(もちろん愛想はない)のだが、どういうわけか、自分の伴侶――アリアロスにだけは普通に接しなかった。
当然のようにアリアロスの隣に座る。が、話しかけない。アリアロスに話しかけるのは、玲や瑠衣、良子、もっぱら三人の友人たちばかりだ。
そのくせ、無関心ではない――というのが厄介だった。
玲於奈はじっと、アリアロスの様子を見ているのだ。無表情で。
その無表情の上に、たまに微笑がのるのだが、それがまた、見る側にはまったくわからない、意味不明な箇所で「ふっ」と微笑むものだから、アリアロスの緊張も倍増だ。なまじ美しいだけに、不気味にも、恐ろしくも見える。
アリアロスが行きたくないとこぼすのも、無理なからぬことだった。
緊張を強いられるばかりか恐怖まで覚える状況に、身をおきたくないだろう。
他人のことに立ち入るのはどうかとも思ったが、ソルジェは前回の訪問の折、玲にこっそり訊ねた。
『玲。玲於奈の、アリアロスに対する態度……あれは、どうにかならないか?』
『どうにもなりませんね。慣れていただくしかありません』
答えは簡明だった。
『傍目にはわからないと思いますが、あれで、玲於奈はアリアロスさんのことを気に入ってるんですよ』
『あれで?』
『ええ。アリアロスさんのことは、玲於奈はとても気に入ってます。彼女は人間嫌いなんです。特に異性は大がつくほど嫌いですから、基本、男性は無視なんですよ』
『俺たちには普通ではないか?』
『キリザさんたちにはたいへんお世話になってますし、殿下や他の皆さんは、わたしたちの伴侶ですからね。皆さんがどういう方々かも、わかってますから、玲於奈も普通に接してるんですよ。理解しにくいでしょうが、通常に見えるこちらの方が、実は異常なんです』
『どうにも信じがたいが……』
『そうでしょうね。ちなみに、玲於奈があれだけの関心を異性に示すのは、はじめてです。アリアロスさんは自信を持っていただいていいんですよ。ですが……アリアロスさんには自信を持っていただきたくないんです。自信を持ったアリアロスさんは、アリアロスさんではありません。ああ、でも、アリアロスさんでしたら、そんなことになりませんね。レナーテの筆頭軍師で、あの弱腰ですから、こちらが自信を持てと背中を叩いても、そう簡単に変わらないでしょう。お歳もお歳ですし……。ふふ、杞憂でした』
『……よく、わかっているな』
『アリアロスさんがわかりやすいんですよ』
『そうか』
『そうです。ということで、たいへんでしょうが、アリアロスさんには慣れていただくしかありません』
『しかし、あれでは慣れるものも慣れないと思うが……』
『ええ。玲於奈はエスですからね。たいへんです』
『エス?』
『ええ、玲於奈はエスの女王様なんです。本人も否定しません。肯定もしませんが』
『玲、玲たちは、日本という国家の平民ではなかったか? 象徴としての皇族はいるが、貴族もいないと……』
『そうですよ。女王ではありませんが、玲於奈は女王然としているので、そういわれることが多いんです』
『そうか。しかしその……エスとはなんだろう?』
『殿下……それをお知りになりたいですか?』
『……』
ソルジェが首を横に振って、その時の話は終了した。
玲於奈はアリアロスを気に入っているらしい。
が、その態度からは、それと聞かされてもわからない。
あれで? 本当に?――
ソルジェが眉根を寄せていると、レイヒが笑い声でいった。
「執務室にはだれもいませんでした」
「そうか……」
とりあえず、今日の難からは逃れられたか――
ソルジェが安堵していると、レイヒが驚くべきことをいった。
「スライディールの城へ向かわれたようですよ」
「そうなのか?」
「どうやら護衛の二人に連れて行かれたようです。いやがる軍師を護衛二人が無理やり引っ張っていくのを見た、と、同階の人間がいってました」
「そうか……。アリアロスも、たいへんだな」
「まったくです」
くすくす笑いながら、レイヒは続ける。
「ですが、玲於奈様はアリアロス軍師のことをとてもお気に召していらっしゃるそうですから、こちらがあまり心配することもないでしょう」
「レイヒは、知っていたのか?」
「ええ。瑠衣が教えてくれました」
「そうか。……では、玲於奈がエスの女王というのも、聞いたか?」
「いえ、それは初耳ですね。皆様は平民のご出身でしたよね? ……あれでしょうか? 歴史上の人物か、御伽噺に出てくる人物になぞらえて、そういわれているのですか? いわれるだけの気品と近寄りがたさがありますからね、玲於奈様には」
「さあ、どうだろう? いや……違うな」
「玲様にはお聞きにならなかったんですか? 瑠衣に聞いてみましょうか?」
「いや、やめておいた方がいいように思う」
いつもは遠く感じるスライディールの往き道が、今日は少しだけ短く感じられた。




