芽吹き
小さなノックの音が聞こえて、結衣は顔を上げた。
付けられた侍女には、ひとりにして欲しいといって、部屋から出て行ってもらっていたので、自分で応対しなければならなかった。
ベッドから降り、隣室に足を踏み入れる。
侍女のひとだったらいやだなあ――と思いつつ、結衣は「どなたですか」と、遠くから声をかけた。
「わたし、みちる」
声を聞いた結衣は駆け寄り、その勢いのまま、扉を開けた。
「ちるちゃん!」
「へへ、ごめんね。結衣ちゃん」
みちるが、ばつが悪そうに、ほほをかきかき立っていた。
友人の姿を見た瞬間、結衣の体中の熱が一箇所に集中した――と思う間もなく、一気にそこからあふれ出た。
「入っていいーーって結衣ちゃん、どうしたの?!」
自分を見るなり泣き出した結衣に、みちるがあわてる。
心の中で泣いていた結衣は、みちるの顔を見るなり泣いてしまった。自分でもびっくりするくらい次から次に涙がでた。
「何? なにかされた? なにかいわれた? それともどっか痛いの?」
「違う、違うの――」
結衣は涙をぽろぽろこぼしながら、首を振った。
「安心したの。ちるちゃんの顔みたら、なんか、ほっとしちゃって、涙出てきちゃった」
「はあ。だったらいいけど、ってかごめん、結衣ちゃん。ひとりにしちゃって」
「ううん。こうして来てくれたもん。嬉しい。さ、ちるちゃん、入って」
「うん」
◇ ◇ ◇ ◇
「涙、おさまった?」
「うん。びっくりさせちゃってごめんね、ちるちゃん」
結衣の赤くなった目は、まだ潤んでいる。
「ううん、それはいいんだけど、あ、これ、侍女のひとにもらったの。お菓子、一緒に食べよ」
みちるは明るくいいながら、丸く膨らんだ袋を振ってみせた。
「うん。そういえば、お腹減った」
「でしょ? 腹がへっては戦はできぬといいますから、まずは食べよう」
「うん」
ふたりでお茶を入れ、みちるの持ってきたお菓子を半分ほどお腹にしまってから、結衣はいった。
「ちるちゃん、咲ちゃんのこと、ごめんね」
「結衣ちゃん、それは昨日もききました。お詫びは一回で十分です。それに、結衣ちゃんのせいじゃないし」
「でも、今日もひどかったし」
「ああ、あれはひどかったね。キラキラ王子様たちも引いてたけど、多田さん気付いてなかったね」
「だね」
「あそこまでわからなかったら、逆に幸せかなあ」
のんびりいうみちるに、結衣は驚いた。
「え? ちるちゃん、もう怒ってないの?」
「うん、多田さんのことはもう怒ってないよ。腹も立つけど、ありゃしょうがないって諦めた。わたしが怒りまくってるのは、あのおっさんだから。あのハム野郎~」
両手指を危険な形にうごめかせながらいうみちるに、結衣は笑ってしまった。
「ちるちゃん、憎しみのオーラが、怒りのオーラが出てるよ」
「おかしいな。さっき、ありったけの怒りをクッションにぶつけてきたんだけど……残ってた?」
「うん、まだすごい残ってる」
「よし、あとでまたハム男クッションを叩きつけてやる。待ってろよ、ハム男。今はクッションだけど、いつか本体に一発決めてやる」
威勢のいいみちるに、結衣は笑った。笑いながら感心した。
「ちるちゃんはすごいね」
「ああ、恨みが強いってこと?」
「違う。前向きなとこがすごい」
「そっかな?」
「そうだよ。ありがとう、ちるちゃん、わたしに元気をくれて。ちるちゃんがいてくれるから、こうして笑ってられる。わたしひとりだったら、泣いてばっかりだから」
「わたしだってそうだよ」
「嘘、ちるちゃんは泣かないでしょ?」
「今はね。怒りの方が強いから。でも怒ってるだけで、他は何にもできない。わたしだって結衣ちゃんと同じだよ。結衣ちゃんがいてくれるから、泣かないでいられる。それだけで、心が強くなるもん」
「ほんと?」
「ほんと、ほんと。ひとりじゃ何にもできない。でさ、結衣ちゃん。わたし、このままじゃ、ヤなんだ。こんなわけのわからないところで、信用ならない人間に囲われてじっとしてるなんて――」
「わたしも絶対いや」
結衣はみちるの言葉をさえぎって同意した。
「よかった。結衣ちゃんも同じ気持ちで」
と、みちるがほっとしたように笑う。
「結衣ちゃん、ふたりで頑張ろう。どこまでできるかわからないけど、ここを出て、清風の女の子たちを助けよう」
「うん。足引っ張るかもしれないけど、精一杯頑張るから、わたし」
「うん。頑張ろう。でもさ、そうなると、多田さんと離れちゃうけど……」
いいにくそうにいうみちるに、結衣はきっぱりいった。
「もう、離れてるから」
「結衣ちゃん……」
「だから気にしないで、ちるちゃん」
「わかった」
決然という結衣に応えるように、みちるは頷いた。
◇ ◇ ◇ ◇
「多田さんはハム男に気に入られてるから、大丈夫だと思う」
「うん」
「問題は、わたしたちだけど」
「外に出て、誰かほかに人に会いたいね。あの様子じゃ、簡単に出してもらえそうにないけど……。どうやったらあの子たちが化け物じゃないって伝えられるかな?」
「うん。反抗心むき出しにしちゃったのは、まずかったな」
と、みちるは自分の行動を振り返る。
「仕方ないよ……っていうより、ちるちゃんがああしていってくれたから、ホレイスさんがひどい人だって、わかったんだよ? 感謝してます」
「へへ、そう? そういってもらえると、嬉しいな」
「これからがたいへんだけどね」
「いうねえ、結衣ちゃん」
「だって、これからわたしたち、本当にたいへんでしょ?」
「うん。だれか頼りたくても、ここにいるのは、みいんなハム男の関係者みたいだし、困ったな」
「どうしよっか。隙を突いて逃げる?」
「どこへ?」
「だよね」
「この建物の中に、ハム男関係者以外の人間がいるのかな? まず、ここがどこかわからない。どこへ行けばいいかわからない。だれにいえばいいかもわからない」
「わからないことだらけだね」
「ハム男より偉い人に直訴するのがいいと思うんだけど」
「そんなひと、いるのかな?」
「いるでしょ。王子様がいるんだから、王様がいるでしょ」
「ハイラル殿下のお父さん? 会いたくないなあ」
結衣が首を落とす。
「わたしだって会いたくないよ。あんなかっこいいだけの偉そうな王子。あの金髪碧眼は見事だけど、『お前ら平凡顔が!』って、顔に書くなっつーの」
「でしょ? あんな王子様の親だよ。子は親を映す鏡だっていうし、あんまり期待できないなあ」
「うーん。他にだれかいないかな? 聞いても教えてくれないだろうし、自分たちで調べるしかないけど」
「ね、ちるちゃん」
結衣がみちるの腕をつかみ、揺すった。
「教えてくださいってお願いしよう」
「いやいや結衣ちゃん。さすがに教えてくれないでしょ、ここのひとたちは」
「直接聞くんじゃなくて、ほら、わたしたち、ここのこと何にも知らないでしょ? だから、国の歴史とか、風習とか礼儀とか、いろいろ教えてくださいってお願いしたらどうかな? 遠回りになるけど、その中に出てくるかもしれない。教えてくれる人も、雑談とかでぽろっと何か話してくれるかもしれないでしょ?」
「うん……それ、いいね」
みちるの目がかがやきだした。
「でしょ? ちょっと時間がかかるかもしれないけど、そうすれば、何か情報が手に入るかもしれない。真面目に勉強して、いい子にしてれば、向こうも気を許すかもしれない。外出だって……」
「逃げるチャンスもできるかもね」
「うん。どうかな?」
「いいよ! 結衣ちゃん。それでいこう」
「すぐ、どうこうはできないけど」
「それはしょうがないよ。彼女たちを助けたいけど、焦っても何もできない」
「うん」
「よし、いい子にして、知識を身につけて逃げよう。名付けて『いい子計画』!」
「まんまだね、ちるちゃん」
「いいの。よし、そうと決まればお願いしようか」
「うん。ちるちゃん、くれぐれもいい子にね」
「え? お願いするのは結衣ちゃんだよ」
「ええー?」
「だって、反抗心むき出しのわたしがいきなりしおらしくなったら、向こうも警戒するでしょ? だから、お願いするのは結衣ちゃんね。わたしは徐々におとなしく、いい子になる。そのほうが疑われないでしょ」
「……そだね。わかった」
結衣は頷いた。
心の雨は上がった。
簡単にいかないのはわかっている。自分たちには頼れる人もいない。知識もない、力もない。でも、できるだけのことはしたかった。
このままでは帰れない。帰りたくても帰れない。
『お天道様に顔向けできないようなことだけはするな』
父の言葉が胸に響いていた。
お父さん、お母さん、わたし、頑張るから。ちるちゃんと頑張るから――
心の中で誓いながら、結衣は侍女たちが待機している控えの間の扉を叩いた。
◇ ◇ ◇ ◇
「ははは」
リファイはソファの上で、身体を折り曲げて笑った。
「ああ、おかしくて、涙が出るよ」
「それは、ようございました」
「しかし、本当に馬鹿だね、ホレイスは」
目尻にたまった涙をぬぐいながら、リファイはいう。
「ハイラル兄上もお気の毒だ。あんな男が伯父だなんて、ね?」
「殿下、それをいうのはここだけにしてくださいね」
「わかってるよ。燦然たる第二王子様の、唯一の汚点だからね。わざわざそれをあげつらって、睨まれるようなことはしないよ。いわなくても、本人が強く自覚してる」
「ええ、そうですね」
「しかし、おもしろいな。咽から手が出るほど欲しがってた御使い様を、手に入れた途端、手のひらを返すように突き放すなんて、ほんと何考えてるんだろうね」
「それはもう、頂をとることしか考えていないでしょう。いろいろお粗末すぎて呆れますが」
「はは」
「ホレイス卿は過去にあるように、御使い様はひとりだと断定したのでしょう。何をもとに判断したかはわかりかねますが」
「だろうね。馬鹿だからね、彼は」
リファイは笑う。
「何の根拠もないのに、自分が正しいと信じて疑わない。過去にあるから、それからはみ出たことは誤り――か、明快だけどね」
「正しいかどうかなど、だれにも見極めることはできないというのに」
「そうだ。普通だったら、三人全員が御使い様だと思うけどね。ま、彼もはじめはそう思って囲ったはずだけど……やっぱり、最初からひとりと思ってたのかな? ま、どっちでもいいけど。普通の頭と神経じゃないからね。自分の好みに合わない、可愛げがない――で切り捨てるんだから、ほんと、すごいよね」
「ホレイス卿のすごいところは、それを力で押し通してしまうことです」
「ああ、あの強引さは見習いたいね。間違いを恥ずかしげもなく正当化する。恥を恥とも思わない心の強さはレナーテ一だね。で、ラズルは、なんて?」
「ホレイス卿は、正しく間違いを行っている――と、申しておりました」
男は綺麗な薄茶色の瞳に光をたたえながら答えた。
「はは」
リファイが気持ちのいい笑声を上げる。
「さすがは僕の友人だ。いや、君の甥だ、っていったほうがいいのかな?」
「どちらでも」
「ああ、間違いではないよね。で、兄上たちはどうしようとしてるのかな?」
「ハイラル殿下もさすがに、あれは看過できないとお考えになったようですよ。突き放されたお二人を、候補者の三人でつなぎ止めることにしたそうです」
「そうか」
「なにせ、ホレイス卿が御使い様と定めた方は、見目はそこそこのようですが、お心ばえがよろしくないようで……」
「はは、ホレイスに気に入られるんだから、そうだろうね」
「ラズルが、愚かな娘だと」
「簡潔だね」
「ハイラル殿下が、それは嫌がっておいでなのですが、それにも気付かぬ鈍さだとか」
「それはまた、逆に興味を惹かれるね」
「ラズルは、リファイ殿下にご助力いただいてはどうかと、ハイラル殿下とアブロー殿に進言したそうです」
「なんだって?!」
にこやかだったリファイの面が急変した。
「どうしてそうなるんだ。嫌だよ、僕は馬鹿が嫌いなんだ」
と、そっぽを向く。
「存じております、殿下」
本気で眉をひそめるリファイに、男は笑った。
「ラズルは、ハイラル殿下に熱を上げている咲様ではなく、あとのお二人、みちる様と結衣様を、リファイ殿下にお願いしたいようです。見目は咲様に劣りますが、愚かではありません。警戒心が強く、いまだ、だれにもお心を開いていらっしゃいません」
「ふうん」
「ハイラル殿下やアブロー殿が声をかけても、最初こそ驚き、戸惑っていたようですが、今では迷惑そうになさるだけだそうです」
「へえ、それはおもしろいな」
「そのお二人が、ホレイス卿の勘気に触れた原因をお聞きになれば、さらに興味をもたれると思いますよ」
「そうそう。結局、なんだったんだい?」
「スライディールの御使い様たちの安否を教えろ――と迫ったからだそうです」
「化け物様の?」
「そうです」
男は深く頷き、続けた。
「それはもう、しつこくお訊ねになったそうですよ。侍女たちが困惑したと、いっていたそうです」
「どういうことだ?」
「その理由を、ホレイス卿も、侍女のだれも訊かなかったというんですから、信じられません。ただ、スライディールの城に閉じ込められているということは、ホレイス卿がお教えしたようです。それから、双方ともに距離をおく状態になっているとか」
「……ふうん。で、ラズルは? その二人の御使い様と話してないの?」
「お二人は、ラズルがホレイス卿の甥であることをご存知です。会いはしましたが、肝心なことは、何も話してくれなかったそうです」
「そうか……」
リファイはしばらく唇を噛み、考えていた。
「うん、引っかかるね」
「はい」
「どういうことだろう? スライディールの御使い様は、化け物だ。それは間違いない。僕もこの目で見た」
「ええ。スライディールの城から戻られた方々の、やつれきったお姿に、皆が同情しておりました」
男の声に、リファイが顔をほころばせた。
「ああ、帰りの道中でアリアロスが気を失ったって聞いたときは、大いに笑わせてもらったよ」
「ソルジェ殿下も、殿下らしからぬご様子でした」
「側近たちが怒りも忘れるほどに心配してるっていうからね。なのに、二人の御使い様は、化け物様の安否をしりたがった。……あれかな? 死んでるのを確認しないと、怖くて夜も眠れないとか? 安否ときくと、生きているのを望んでるように、ついつい思うよね?」
「会わせて欲しい――と、いったそうですよ」
「どういうことだ?」
「それを、殿下に確認していただきたいと、ラズルは申しております。つなぎとめるというのは、ハイラル殿下たちへのいい訳です。だれが伴侶になろうが、御使い様が誰を選ぼうが、はっきりいってどうでもよろしい。それが、ソルジェ殿下以外であればいいのです」
「ああ」
「スライディールの御使い様が、真実化け物であるなら問題はありません。ですが……よもや、そのようなことはないと思いますが……」
「そんなことは……」
「ない、と言い切れますか?」
男の目が、鋭く光った。
「化け物の伴侶が決まったと、浮かれていましたが、だれが、あのものたちと直に話しましたか? だれが間近で接しましたか? それらをしたのは、レナーテの三傑と呼ばれる三人と、それに連なる連中だけです。仔細を知るものは、他にいないといっていいでしょう。騒乱を防ぐ――そのためだけに詳細を伝えないのでしょうか? 伴侶を決めたのでしょうか?」
自分を睨みつけるようにして聞いているリファイを見返しながら、男はなおも続ける。
「ラズルから聞く前であれば、わたしも笑って否定したでしょう。しかし、否定できなくなりました。知ってしまった以上は、確かめねばなりません」
「ああ」
「スライディールの御使い様が化け物でないとなれば大問題です。われわれの計画が、根底から覆されます。早急に確認する必要があります。ですが、スライディールの城には迂闊に近寄れません。城もそうですが、その周囲の人間にも近づけません。後ろ盾はサルファ副宰相です。それにキリザ将軍も深く関わっています。探るような動きをすれば、すぐに見つかってしまうでしょう。探るなら、別のところからです」
「ああ」
「化け物に『会わせろ』といった理由を、彼女たちから聞き出さねばなりません。幸か不幸か二人の御使い様たちは、ホレイス卿の息のかかったもの、類する縁者を信用していません。第三者が必要です。しかし、まったくの第三者は困ります。殿下?」
男の問う声に、リファイは素直に応じた。
「わかったよ」
美しい緑翠の瞳が夕日にきらめいた。




