此方と彼方
「ごめんなさい」
良子の脇をつついた犯人――瑠衣は、両ほほを引っ張られながら謝罪の言葉を述べていた。
「おー、意外に伸びるねえ」
「ほんと。あれで結構、普通にしゃべれるのね」
玲と玲於奈、外野のふたりは、妙なところを感心している。
「ひどーい」
「いやいや、瑠衣ちゃん。やったことの報いは受けないとね」
「そうよ、瑠衣。隙があるからって、だれかれなしにつついちゃ駄目よ。相手はきちんと選ばないと」
「そうそう」
いいながら、ふたりは着替えの手をふたたび動かし始める。
「ったく」
存分にほほを引っ張り、謝罪の言葉を聞いて気が収まったのか、良子が瑠衣のほほから手を離した。
「反省した?」
「うん、反省した。ごめんね、良子ちゃん」
「もうしないでよ」
「うーん。それは無理」
「ちょっと!」
良子が声を上げる前に、瑠衣はベッドから抜け出した。
「ほら、良子ちゃん。わたしたちも早く着替えないと、ね?」
「そうよ、良子。早く着替えて。これから朝ごはんのしたくもしなくちゃいけないのよ。それでなくても今日はずいぶん出遅れてるんだから」
という玲於奈の声に、良子もあきらめて身支度を整えはじめた。
そして、二時間後。
素っ気ない生成りのドレスに身を包んだ四人は、階下の台所に集まり、できたてほやほやの朝食に挑んでいた。
「うん。おいしくない」
玲が雄雄しくいった。ミラクルはおきなかった。
「そう?」
「玲於奈、あんたの舌どうなってんの? どう考えても、しょっぱすぎでしょ、これ。なんかへんなえぐみもあるし……」
「こっちは味、無いね」
「あ、ごめん。それ塩ふるの忘れた」
「もう、玲ちゃん」
「はは、ごめんね。でも、こっちと一緒に食べればいい塩加減に…………ならないね」
「はあ」
大騒ぎの末に出来上がった朝食は、壊滅的ではなかったが神経にさわるほどにはひどかった。
「うーん」
玲がうなった。
「偏差値は高いけど、女子力はやっぱ低かったかぁ。うーん、誤算」
「誤算でもなんでもないでしょ。やったことないんだから、そんなもんあるわけないでしょうが」
「いやあ、良子は器用だし、なんだかんだで、できちゃうんじゃないかなあ、って思ってたんだけど」
「できるわけないでしょ。料理なんか調理実習でしかしたことないっつの」
「一般家庭のお嬢様だもんね、わたしたち」
「でも、なんとか形にはなってるし、味も、いうほどじゃないと思うけど?」
人に関しては極めて狭量な玲於奈だが、味のストライクゾーンはかなり広いようだった。友人の新たな一面を知ったが、いまのところ、何の役にもたたない。
「玲於奈、ほんと、あんたの舌どうなってんの?」
「うん、玲於奈ちゃんの舌も心配だけど、わたしたちの先も心配だなあ。栄養的に問題なくても、このままじゃ、ちょっとずつ心を削られちゃうよ、玲ちゃん。ご飯はおいしく楽しく食べたい」
「うん。三日間はこれでもいいけど、やっぱり、食事作ってくれるひとはいるね。良子、これも書いといてね」
「了解」
「洗濯や掃除してくれるひとも必要ね。人力でやるとなったら、それだけでもう、一仕事でしょ。自分たちでやってたら、それこそなんにもできなくなっちゃうわよ」
「そう考えると、結構人手がいるなぁ。そういったひとは最小限に抑えたいんだけど……」
「いるものはいるでしょ。サルファさんにいって、信用のおけるひとを入れてもらうしかないわね」
いいながら、良子は昨夜作った自作のノートに書き付けている。
「うん。それとは別に、侍女もつけてもらわないといけないしなあ……。優秀な女のひと、こっちは二、三人もいればいいわよね?」
「ええ。多ければいいってものでもないし」
「足りないと思ったら、そのときまたお願いすればいいでしょ」
「うん。あ、良子、悪いんだけど、時間のあるときでいいから、日々の時間割、作っといてくれる?」
「ああ、それ。作ったわよ、ざっくりだけど」
「いつの間に……」
「いつものことだけど、仕事が早いね、良子ちゃん」
「当たり前でしょ」
「ちょっと、良子。作った時間割見せて」
という玲於奈に、良子は一枚の紙を渡した。
「ふふ……わかってたけど、すごいわね」
いいながら、見終えた玲於奈は紙を玲に手渡した。瑠衣が横からそれをのぞき込む。
「えー?! 勉強と鍛錬の時間しかないよ! 良子ちゃん!」
「当たり前でしょ! 学生の本分でしょうが。こっちにきたからって何ひとつおろそかにしないわよ。こっちのことも勉強しないといけないし、向こうにいるときの倍になるのは当然でしょうが」
「でも、お昼休みも休憩時間もないよ」
「それは適宜とるわよ。でも、昼休憩は一時間。合間の休憩は十分だから」
「ひー」
と、瑠衣が悲壮な声を出す。
玲が笑った。
「瑠衣、良子のいうことはもっともだから諦めて。でもまだ環境も十分に整ってないし、いろいろ落ち着くまでは、この時間割も無理だから安心して」
「相手もあることだし、ね?」
と、玲於奈もいう。
「そう、一週間、十日はかかるかな? ああ、良子、この時間割なんだけど、午後の二時間はフリーの時間にしておいて。後は、良子の好きに、みっちり組んでくれていいから」
「うん、わかった」
玲の声に、良子が頷く。瑠衣はまだしょんぼりしている。
「瑠衣、元気出して」
「出ない。文化祭が終わって、やっとのんびりできるって思ってたのに……」
悲しげに瑠衣はいう。が、慰めてはもらえなかった。
「しょうがないでしょ」
逆に、良子の叱咤するような声にはたかれた。
「ふふ。地獄の先に、また別の地獄だものね。地獄のスケジュール、鬼の管理人はそのまま良子だし……」
「ちょっと、失礼ね」
「はは。いやあ、なんか、生きてるって感じがするよね」
「あんただけよ、そんな風に思ってんのは」
「そう? ま、とにかく、やることも考えることも多いから、しばらくは大変だけど、その内落ち着くだろうから、安心して、瑠衣。それに、面白そうな催しも発見したし……」
という玲の声に、瑠衣は顔をかがやかせた。
「ほんと? 玲ちゃん」
「うん。そっちにも力を入れるから、わたしたちがするのは勉強と鍛錬だけじゃありません。忙しくなると思うけど、絶対面白いから、期待してて」
いい切る玲に、良子が眉根を寄せた。
「何、それ?」
「ふふふ。それはもう少ししてからのお楽しみ。まずは三日後に備えないとね」
「うん!」
すっかり元気を取り戻した瑠衣とは反対に、良子は顔を曇らせる。そんな良子に玲於奈がいった。
「諦めたほうがいいと思うけど……」
「わかってるわよ」
良子が諦めのスイッチを押したのを見て、玲は立ち上がった。
「うん、それじゃあ今から片付けをして、三日後に渡すお願い事を、みんなで考えるとしましょうか」
「ふふ、ペンが鳴るわね、良子」
「ふん、そっちこそ」
「サルファさん、ゼクトさん、ご愁傷さまです」
「何いってんの、瑠衣。ほら、さっさと片付けるわよ」
「はあい」
出遅れた四人であったが、その気力と体力は満ちている。
早々に遅れを取り戻すばかりか、四人は一丸となって、着々と、来る日に備えるのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
そのころ、王城では会議がはじまっていた。
会議の間は、独特の緊張感と重苦しい雰囲気に包まれていた。
国王をはじめ、宰相、総大将、大臣、諸将――レナーテの政務、軍務の要である人物たちが顔をそろえている。そうそうたる顔ぶれだ。が、その顔つきは一様に厳しかった。昨日の、異例尽くしの御使い様の降臨が、彼らをそうさせた。
御使い様の降臨はなった。だが、それ以外はすべて、過去の例から外れていた。七名の内三名が王城にあり、異形の四名はスライディール城にある。
昨日の経緯と現状を、グレンが最初に説明した。
それを聞いて、厳しさに険しさを加える者もいたが、反応の有無に関わらず、だれも声を上げることはしなかった。
幾人かが、広間の上座に目を向ける。
そこには、レナーテ国王ドレイブが座している。レナーテを統べる人物はしかし、声を発するでもなく、表情を変えるでもなければ、臣たちの様子を見るでもなく、気だるげに肘を付き、指の背で自身の唇をなぞっていた。半ば閉じたような目は、下に向けられるばかりで、だれのことも見ていない。
その表情は眠たげにさえ見えた。が、見ようによっては、静かに憤っているようにも見える。だがそれとは真逆に、心ここにあらず――のようにも見えた。
重臣たちには、自国の王の、心の在り処がわからなかった。
レナーテ国王ドレイブは、本心を見せないことで有名だった。そればかりか、正体を見せない。剛であるか、柔であるか、複雑であるか、単純であるか――何も掴ませない。ドレイブは、感情を表に出すことも稀なら、言葉を発するのも稀だった。
器ばかりが立派で、中は空ではないか?
とささやかれるほどだ。『傀儡の巨王』と呼ぶものまでいる。グレンやキリザの傀儡にされている――というのだ。そのことを、わざわざドレイブの耳に入れるものがいたが、国王は眉ひとつ動かさなかった。
余計なことを耳に入れたものは、レナーテ国王の底知れぬ不気味さを知るばかりだった。
得体の知れない国王は、国の内外から恐れられていた。
とはいえ、レナーテの臣下らは、推戴する国王が木偶でないことを知っている。ただ、その思いや考えが、どこにあるのかわからなかった。
国王は、激高することもなければ、声を荒げることもない。表情を変えることさえあまりしない。だが、迂闊にものをいうのは、はばかられた。
王のそれを寛恕ととらえてはならない。増長してはならない――と、肝に銘じるものが大多数を占めていた。そんな中、意気高く声を上げるものがいた。ホレイスだった。
「陛下、御使い様の御降臨があいなり、又、つつがなく皆様をお迎えできたこと、このホレイス、謹んでお喜び申し上げます」
ホレイスは席から立ち上がり、大仰に頭を下げる。
「神の恩寵は我らレナーテにあり。此度の御使い様の顕現は、それを世に広く強く知らしめることになりましょう」
幾人かの顔が歪む。中でもドレイブの隣に座るキリザの眉間は、これ以上寄りようもないほどに、きつく寄せられていた。しかし、口を開こうとはしない。
ホレイスは、だれも口を出さないのをいいことに、しゃべり続けた。
「かつてない御使い様のご降臨。レナーテの先の多幸は約束されたも同然である――と臣めは考えております。が、それをより確かなものにするために、ひとつ、ご提案したきことがございます。この場で申し上げてもよろしいでしょうか?」
とホレイスは、うかがいの目を国王ドレイブと宰相グレンに向けた。
ドレイブがグレンに目をやる。それを受けてグレンが応えた。
言葉無く頷いただけだったが、それが発言の許可であることは、重臣の誰もが知っている。
グレンの頷きに、ホレイスは顔をかがやかせながら、頭を下げた。
「ありがとうございます。陛下には、心より感謝いたします。そのご寛容に触れるたび、わたくしはしびれるような感動を覚えます。大陸広しとえど、陛下ほど慈愛と寛容に満ちた方はおられません。それがどれほど嬉しく、われらの誇りとなっておりますことか……。レナーテが大陸の覇者となるは道理。ラドナ神がレナーテに特別な恩寵を与えてくださるのも、陛下のような優れたお方がいらっしゃればこそ、にございます――」
ホレイスのへつらいまみれの長広舌は、臨席する諸大臣、諸将の顔を、不快を飛び越えうんざりさせた。
「おい、さっさといわねえか」
しびれを切らしたキリザがいった。
凄みを効かしたその声に、ホレイスは一瞬、ぎょっとしたような顔を見せたが、すぐに立ち直ると不遜な笑みをキリザに向けた。だが、キリザは声を放っただけで、ホレイスを見ていなかった。
ホレイスは、自分の発言を邪魔したばかりか、こちらを見向きもしない傲岸不遜の将軍に強い憤りを覚えたが、先にある喜びを思い出し、怒りをしまった。
咳払いをひとつしてから、ホレイスは長い舌をふたたび動かした。
「それでは、陛下の御許可を賜りましたので、申し上げます」
やっとか――という思いを、重臣たちの多くが表に出していた。だが、耳に飛び込んできたのは、耳を疑うばかりの内容だった。
「レナーテのため、国民のため、スライディールの御使い様には、速やかに伴侶をお決めいただくことが、必要かと存じます。その伴侶に――」
言葉の前に、ホレイスはいやらしい笑みを挟んだ。
「ソルジェ殿下、レイヒ将軍、アリアロス筆頭軍師、副宰相副官ゼクト氏――以上四名の方々を、推挙いたします」
会議の間が、静まり返った。




