大将軍の朝
一夜明けて、ヤーヴェはキリザの前に立っていた。
明るい執務室で、昨夜の出来事を主に報告した。
結局あれから一睡もできなかったヤーヴェやアリアロスと違い、しっかり睡眠をとったのだろう――キリザは非常にすっきりとした顔をしていた。おまけに機嫌もすこぶるいいらしく、朝から消化不良をおこしそうな話をしたというのに、
「へえ、そんなことがあったのか。おちおち寝てもいられねえな」
と、渋い顔をするどころか、笑っていた。
「しっかし、どいつもこいつも勤勉だな。おかげでこっちは朝から報告だのなんだのうるさくて仕方ねえぞ。おい、リグ、なんだこりゃ?」
キリザが、横合いからそっと書類を置くリグリエータにいった。
リグリエータの目が光った。機嫌はそう悪くないようだが、寝不足のせいか、いつにも増して眼光が鋭い。
「譴責書ですよ。しかも、宰相閣下じきじきのね。未明の、大門前の騒ぎの説明をしにこいって、将軍を名指しですから、絶対行ってくださいね」
「あの野郎……」
キリザの顔が、声とともにみるみるうちにゆがむ。
「いいたいことはわかりますよ。いたずらに騒ぎを起こしたわけじゃない。宰相閣下も、恐怖の流布を阻止するための騒ぎであることは、ご存知だと思いますよ。上手くいきましたね、って使いのひとが言ってましたから」
「へえ、上手くいったのか」
キリザのゆがみが一瞬で消えた。
「みたいですね。どういう噂が流れてるか、までは知りませんが……」
いいながら、リグリエータが横目でヤーヴェを睨みつける。
「すまん」
ヤーヴェは素直に詫びた。
「ったく。ま、お前の気持ちもわかるし、たいへんだったみたいだから別にいいさ。それより、閣下。会議の前に、グレン宰相のところに顔、出してくださいね。どうやら、違う話のようですよ」
というリグリエータの声に、キリザは頷いた。
「おお。なんか、そうしたほうがいいみたいだな」
「それと、あの連中――ホレイス卿とリファイ殿下のことですが、あれはどうします?」
リグリエータの問いに、キリザは眉根を寄せた。
「あいつらなあ……ほんっと、余計なことしかしねえな。で、お前は調べる必要があると思うのか?」
「ええ。欲得まみれの御仁と、ただの小賢しい御仁なので、俺も関わりたくありませんし、必要もないと思ってましたが、なにせ、実害がでてますから」
歯に衣着せぬリグリエータに、キリザは笑った。
「お前はほんと、容赦ねえな。ああ、そっちはお前に任せる。でもあんま、つつき過ぎんなよ」
「はっ、そんな、相手を喜ばせるようなことはしませんよ」
キリザを笑わせたリグリエータは、そのまま真顔で続ける。
「それと、こっちもどうにかしたほうがいいですね」
「こっち? どっちだ? ああ、アリスか?」
「違いますよ。軍師殿は放っておいても大丈夫ですよ」
「ひでーな。なあ? ヤーヴェ」
声を向けられたヤーヴェは頷いた。
「まったく……。リグリエータ、軍師殿はひどく心を痛めておいでだ。昨日は色々活躍なさったというのに、ユリアノスの件で一睡もできてない」
「あっちこっちで活躍したのは知ってるし、馬鹿みたいにヘコんでるのも知ってる。だがな、あれで軍師殿は意外と頑丈だ。一日二日寝なくたって、問題ない。大丈夫だ」
「身体の方はそうかもしれないが、心の方は? そっちの方が問題だろう」
「心配ない。そっちの方も頑丈だ。考える暇もないくらい仕事をさせれば、その内戻る」
「……」
リグリエータの声に、キリザとヤーヴェは顔を見合わせた。キリザも大概ひどいが、リグリエータはさらにすさまじい。
「さすがに今日くらいはゆっくりさせてやろうぜ。寝てないんだろ? あいつ」
活躍の割りにまったく報われない部下を、キリザははじめて気の毒に思った。
「ええ、そうしますよ。俺も鬼じゃありません」
と返すリグリエータに、キリザは笑った。
「そうか、安心したぜ。今から仕事をわんさか持ってくのかと思ったぜ。で、アリスのことじゃないとすると、ユリアノスか……」
「そうです」
リグリエータは首肯した。
「そっちはなんとかした方がいいでしょう。ユリアノスだけでなく、ソルジェ殿下の側近ですね。彼らが自棄をおこして無謀な行動に出るとは思いませんが、周りのものが心配します」
「うーん。そうだなあ――」
「それじゃあ、この件は閣下にお願いしますね」
さらりというリグリエータに、キリザは目を剥いた。
「おい、俺に丸投げか」
「当たり前ですよ。軍師殿で駄目だったんですから、もう閣下しかないでしょうが。納得させろとはいいませんよ。あいつらを安心させてやってください」
「簡単にいうなあ……」
というキリザに、リグリエータが笑みを向けた。
「さすがに簡単とは思ってませんよ。でも、できますよね?」
含みのある側近の笑みに、キリザは目を眇めた。
「将軍――」
探るような目を向ける上司に、リグリエータは笑みのまま続けた。
「俺たちに、言ってないことがあるでしょう? 言えないこと、といった方が正しいですかね? 文句をいいたいわけじゃありませんよ。それは当然のことです。側近にすべてを教える義務はありませんし、俺たちだって、別にそれを望んじゃいません。な? ヤーヴェ」
問われたヤーヴェは頷くしかない。そしてリグリエータは続ける。
「ですがね、言われなくてもわかることはあるんですよ。閣下は動じません。それが悪いことなら特にね。ところがいいことは……」
「顔に出るか」
キリザはわざわざ眉間に溝を作りながら、側近の言葉を引き継いだ。
「顔ではなく、全体の雰囲気というか、閣下の在りようでわかりますよ。楽しいことを抱えて、浮き浮きしてるように見えますからね」
「そんなわかりやすいか? 俺」
「ええ。俺らじゃなくてもわかりますよ。なあ?」
と、顔を向けられたヤーヴェは同僚の声に頷いた。
「ホレイス卿の悪巧みを聞いても、笑って流せるくらいですから、なかなかにいいことのようですね? 閣下」
「お前ら……」
側近たちの微笑に、キリザは自然な渋面を作ったが、それは、側近たちの笑みを深めただけだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「ですから、ソルジェ殿下の側近たちのことは、閣下にお任せしますよ。頭をはたくもよし、煙に巻くもよし。好きにやってください。詳しいことは話せなくても、閣下の姿を見れば、彼らも安心するでしょう」
「閣下、ついでにそこら辺りを歩き回ってきてください。軍内は落ち着いてますが、それでも安心感が違ってきます」
ヤーヴェまでいい出した。
「グレン宰相のところへ行くんですから、王宮の方もぶらついてきてください。リグリエータも、今日は怒りませんよ」
「ああ。でも、会議には忘れず出てくださいよ」
「ああ、あと、サルファ副宰相のところで長居するのはやめて下さいね。軍師殿から聞きましたが、大量の仕事を抱えて、あちらの皆さんも大わらわでしょうから」
「そうですよ。行ったところで、茶のひとつもいれるわけじゃなし。邪魔しかしないんですから、顔見るだけにしといてください」
「おい――」
キリザはいった。
「――俺にも返事くらいさせろ」
◇ ◇ ◇ ◇
そのまま側近たちに、執務室から放り出されるかに思われた大将軍は、まだそのときではないようで、解放されることなく、側近たちにあれやこれや指示を仰がれていた。
「――軍師殿が引き取られた仕事はどうします? 早々に手をつけないといけないでしょう。副宰相に返すわけにもいきませんし、こっちで引き取るといっても手が足りませんし、だれにやらせます?」
というリグリエータの声に、キリザは考えるまでもなく答えた。
「ああそれな。そっちはヤーヴェ、お前、手伝ってやってくれ」
「ちょっと待ってください」
と抗議の声を上げたのは、リグリエータだ。
「ただでさえ忙しいのに、ヤーヴェをそっちに回されたら、こっちの手が足りなくなりますよ」
「どの道お前らのどっちかを、アリスの手伝いに回そうと思ってたんだよ。なんせ大量だし、おいそれと出せない資料なんかも入ってたしな」
「だからって今の今は困りますよ」
「そこをなんとかすんのが、お前の仕事だろう。いい機会だ。そこらへんに転がってんのを二、三人ばかし捕まえて――」
といってる最中に、おとないをのべ、ルゼーが入室してきた。
かがやくばかりの黄金の美丈夫は、端然とした様子であらわれた。後ろに、若い側近セリカを従えている。
乱れのない左将軍の姿に、空気が引き締まった。
リグリエータとヤーヴェが姿勢を正し、礼で迎える。しかし、キリザにはその必要がない。
「ちょうどいいとこに来たな、ルゼー」
キリザはやってきた有能な左腕に、人の悪い笑みを向けた。
「おはようございます。すみませんが、急用を思い出しましたので――」
「嘘つけ、こら」
キリザの笑顔を見た瞬間、ルゼーは逃げを図ったが、あえなく失敗した。
◇ ◇ ◇ ◇
「よおし、これでひとり確保だ。まったく、いい具合に転がってきてくれたな。おし、じゃ、俺は行って来るぜ。なんせ、忙しいからな。じゃあな、ルゼー。詳しいことは、こいつらに聞いてくれ。あ、昨日はよくやってくれたな。ご苦労さん」
と、今度はいい笑顔をルゼーに向け、キリザは出て行ってしまった。
「……」
「……」
「……」
「……詳しく聞かせてもらおうか」
ルゼーの低音が、主不在となった執務室に響いた。
◇ ◇ ◇ ◇
「おはようございます、キリザ将軍」
「おう」
「おはようございます、閣下。ずいぶんお早いですね」
「お前らもな。ご苦労さん」
側近たちに追い出される前に、自ら執務室を飛び出したレナーテ軍の総大将は、ぶらぶらと歩きながら
どこへ行こうか考えていた。
考えている間にも、キリザに気付いた男たちが道を開け、挨拶を寄こす。
「おはようございます」
「おう、ご苦労さん」
それらに気軽且つ適当に応える合間に、キリザはひとりごちた。
「うん、やっぱ、まずは朝飯だな」
向かう先が決まっても、ぶらぶらとしたその歩みが変わることはなかった。