軍師の失敗
ユリアノスは、アリアロスの部屋を選んだ。
場所を移したアリアロスとヤーヴェ、ユリアノスの三人は、執務室の中央に置かれた応接用の長椅子と、個がけの椅子にそれぞれおさまった。
普段、ガウバルトの寝床と化してしまっている長椅子にユリアノスが座り、その向かい――テーブルを挟んだ個がけの椅子に、アリアロスとヤーヴェが腰を下ろした。
ユリアノスは、先よりは幾分おさまったものの、いまだ怒りでぎらつく目をテーブルの上に落としている。
ヤーヴェはそんなユリアノスを見つめていた。そしてアリアロスも――といいたいところだが、彼は、目をユリアノスに向けつつ、別のものに心を奪われていた。
「……ユリアノス君、その包みはなんだい?」
アリアロスは、訊ねてしまった。
緊張した空気を和らげようとしたわけではない。長椅子の端に置かれた一抱えほどもある大きな包みが、さっきから気になって仕方なかった。目に入れないようにするには大きすぎる上、その形状は、持ち主にもこの場にも、なんとなく不似合いで、異質に感じられた。しかし……。
「……」
ぎらつく目が返ってきただけだった。
のっけから失敗してしまった。
「ああ、すまない。気になってしまってね」
アリアロスは自分の不適切な質問を詫びたが、
「饅頭です、軍師殿」
ヤーヴェがこともなげに教えてくれた。
「饅頭?」
アリアロスの声は裏返った。異質物の正体はやはり異質だった。
「ええ、肉饅頭です。ウルーバル将軍からいただいたんでしょう。将軍がそうおっしゃってましたから……。そうだ、ここで、皆でいただきましょう」
「え? ええっ?」
思いもよらない提案に、アリアロスの声が、今度はひっくり返った。
「いや、これ、将軍がユリアノス君に上げたものだろう?」
「ご兄弟は、大門前で気前よく振舞ってらっしゃいましたから、いいと思いますよ。軍師殿に食べていただければ、エルーシル副将軍も、さぞお喜びになるでしょう。ちょうどお茶もありますし……。わたしもひとついただきましたが、旨かったですよ」
と、ヤーヴェは微笑みを向けてくる。
存外に大胆な男だな――
先も思ったことだが、アリアロスはキリザの側近に対する認識を改めた。
ユリアノスに選択肢を与えたように見せかけて、選択の余地がないことを示した。日ごろの業務で培った手腕だろうか……。なんの押し問答もなく、上手く相手を折れさせた。
そして、この提案だ。
ヤーヴェという男が有能な人物であることは知っていたが、アリアロスは、穏やかで如才ない――というこれまでの彼の人物評に、『冷静且つ大胆』という言葉を付け加えた。
ま、キリザの側近を務めるくらいだから当然か――
と思いつつ、小腹のすいていたアリアロスは、饅頭の現所有者に確認した。
「いただいていいかな?」
キリザの側近の大胆な提案に乗った。
「……どうぞ」
小心に見えてその実、図太いところのあるアリアロスは、所有者の了解を得て、饅頭をいただくことにした。
◇ ◇ ◇ ◇
「ごちそうさま。おいしかった」
饅頭をふたつ平らげたアリアロスは、満足の声をあげつつ破顔した。熱いお茶と旨い饅頭で腹が満たされ、気分が大分よくなった。アリアロスに付き合って、ヤーヴェもひとつ食したが、ユリアノスはさすがに口にしなかった。
無理に食べることは勧めなかったが、茶を飲むことだけはヤーヴェが強く勧めたので、ユリアノスはぎらつく瞳に呆れをのせながら、茶器に口を付けていた。
「すまないね、ユリアノス君」
アリアロスは、若干の後ろめたさを感じながらいった。
問答無用とばかりに部屋に連れてきておいて、話を聞く前に、まず自分の腹と気分を満たしてしまった。
恥じ入りながらいうアリアロスに、ヤーヴェが笑った。
「モノには食べ時がありますし、話も聞き時があります。どちらも頃合です」
「そうかい?」
「ええ」
頷くヤーヴェの穏やかな笑みに励まされ、アリアロスは口を開いた。
◇ ◇ ◇ ◇
「それじゃあユリアノス君、どうして君があそこにいたのか、理由を教えてくれるかな?」
問いかけたアリアロスは、
「ちょっと話しにくいかな?」
自分でいっておいて笑った。
「そうだね。まず、君の心を乱しているものが、公的なものか、私的なものか、どちらなのか教えてくれるかな? 理由が極めて個人的なものなら、わたしも詳しくは訊かないよ。軍師といえど、そこまでの権限はないからね。第一それを聞かされても、逆に困る。そういった類の話は苦手なんだ。家庭内のことや、私的な人間関係の問題や悩みを相談されても、たいへんだねえ……って同情するくらいしか、わたしにはできない。だから、いま君の抱えてる感情が、君個人に関すること――それにとどまる話なら、それ以上は聞かない。ずいぶん心を乱しているようだから、それにふさわしい別の相談者を推薦する、くらいはさせてもらう。でもね、それが個人にとどまらず、波及する恐れのあるものだとすれば、放ってはおけないよ」
そういうと、アリアロスは大きく息を吐いた。
「わたしはほんと、話すのが下手だな」
と自嘲するように笑った。
ここにガウバルトがいれば、『得手なものがありましたかね?』などと憎まれ口をいうはずだが、護衛の二人は、「どこに目と耳があるかわかりませんから」と、もっともらしい顔と台詞を残して姿を消していた。
護衛たちの見事な逃げっぷりを頭の隅で感心しながら、アリアロスは真剣な顔で続けた。
「はっきりいうよ、ユリアノス君。君が心を痛めているのは、ソルジェ殿下のことだね?」
「……」
なぜ、そのことがわかるのか?――
驚きに顔を上げたユリアノスの表情が、そう告げていた。
アリアロスは薄く笑った。
「君たちがそういう顔をするのは、ソルジェ殿下に何かあったときだよ。気付いてないのかい?」
アリアロスの優しい笑みに、ユリアノスは小さく首を横にふる。
「ユリアノス君、ジリアン君、それに、バルキウス君――君たちはみんなそうだ。殿下のこととなると、びっくりするほど感情をむき出しにする。その中でも、ユリアノス君はまだ自制してるほうだと思う。その君が、あんな風にひと目を忍んで耐えているのは、よほどのことだ……」
アリアロスは、うつむいてしまったユリアノスのつむじを見ながら、続けた。
「ソルジェ殿下に何かあったとは聞いてない。王宮の騒ぎは、別の理由だよ。ユリアノス君、君は何を、どこで、だれに、どう聞いたのかな?」
幼子に問うように、アリアロスは訊ねた。
ゆっくりとした優しい声に、ユリアノスが応えた。
「リファイ殿下に……」
「え?」
「リファイ殿下?」
思いもよらない人物の名に、アリアロスだけでなくヤーヴェも驚いている。
「リファイ殿下が、なんて?」
驚きに、優しさも礼儀も吹っ飛ばして、アリアロスは訊ねた。
「ホレイス卿が……スライディールの御使い様の伴侶に、ソルジェ殿下を推挙するといきまいている。確実にそうするだろう、と、リファイ殿下に教えていただきました」
「……」
アリアロスは驚きのあまり、声が出せなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「ホレイス卿が……」
アリアロスはようやく声を出した。
「まさか、ユリアノス君、それを信じたのかい?」
「は?」
アリアロスの声に、ユリアノスがそれこそ信じがたい、というような声を返した。
「信じない理由がどこにあるんですか?」
その目には、強い怒りが戻っていた。
「リファイ殿下は、それはもう嬉しそうに教えて下さいました。ホレイス卿は異形の御使い様の伴侶に、ソルジェ殿下を推挙する――その準備を、早や進めていらっしゃるそうです」
「まさか……。そんな話が、会議で通るとでも思ってるのかい?」
「通らないとでも、軍師殿はおっしゃるのですか?」
怒りのまま、ユリアノスは皮肉の形に唇をゆがめている。
男前はどんな顔をしても男前だなあ――
こんな状況でもそう思ってしまうほどに、ユリアノスの顔は整っていた。整っているからこそ、恐ろしい。だが、アリアロスは気持ちでは負けなかった。容姿のほうは完敗だが。
「通らない。万一通ったとしてもだ。御使い様がそれを承知しない」
アリアロスは断言した。断言した裏で、アリアロスは忙しく頭を働かせていた。どこまでいっていいものか。しかし、いらぬ不安は払拭してやりたい。
「ユリアノス君、ヤーヴェ君も聞いて欲しい。君たちは白の広間にいなかった。御使い様たちは恐ろしい異形だったよ。それは本当だ。わたしは幸か不幸かその場にいた。その場にいて、異形の御使い様たちと間近に接した」
「はい」
ヤーヴェが相槌を打つ。
「御使い様たちの姿は恐ろしかったよ。だけどね、驚くほど頭のいい方たちだった」
「それは初耳です」
「そうかい。だったら、もっと驚くよ。彼女たちはね、レナーテの三傑――グレン宰相、キリザ将軍、サルファ副宰相を相手に一歩も引かなかった。それどころじゃないな。御使い様たちは、その知力と豪胆さで、三人の度肝を抜いていたよ。もちろんわたしは木偶のように、それを見てるしかなかった」
実際そのときの自分はどうだったろう? 口は閉じていただろうか?
と思うくらい情けない状態だった。
「スライディールの城に入ったのもね、あれは御使い様の希望だよ。自ら入られた」
「そうなんですか?」
「そうだよ、ヤーヴェ君。どういう噂が流れてるか知ってるけど、事実はそうなんだ。御使い様は自らスライディール城に入り、自ら後見役をサルファ副宰相に決めたんだよ。それを直ちに公表するように指示したのも御使い様だ。強い意志を持ってる。そんな御使い様が、ホレイス卿の提案を呑むと思うかい? 呑まないよ。おそらく、御使い様は耳すら貸さないよ。貸すに値しない人物だと、思ってらっしゃるはずだ」
アリアロスの声に、ヤーヴェの顔が喜色に染まった。
「それはいいお話を聞かせていただきました。御使い様にお会いしたいですね」
「ははは。君は怖いもの知らずだね」
アリアロスは笑った。
「残念だけど、御使い様は、スライディール城の立ち入り者を限定された。おいそれとは会えないよ」
「余計にお会いしたくなりました」
「はは、それじゃあ、副宰相にお願いしないといけないよ。面会者はサルファ副宰相を通すようにいわれた。陛下でも駄目だと御使い様はおっしゃってたから、当分は無理じゃないかな?」
「そうなんですか……。失礼ですが、立ち入りを許されたのは、どなたですか?」
聞き役に徹しようとしていたヤーヴェだったが、気持ちを抑えられなくなっていた。
「後見役のサルファ副宰相はもちろんそうだね。あと、グレン宰相、われらが大将軍もそうだ」
「は、キリザ将軍もですか」
「そうだよ。キリザ将軍はすごいひとだ。ひと目で、いや、わずかばかりの時間で、御使い様たちのすごさを見抜いたんだからね。あのひとがいたからこそ、こうしてわたしは笑っていられるんだよ」
「そうですか」
ヤーヴェの声は嬉しさをかみしめているようだった。
「それと、副宰相の副官、ゼクト君。その四人だけだよ」
「ゼクト……ですか? あの」
これにはヤーヴェも驚いたようだ。
「驚いたかい?」
「ええ」
「なんとなく御使い様のすごさがわかったんじゃないかな?」
「それはもう」
と頷くヤーヴェに笑ってから、アリアロスはユリアノスに顔を向けた。
「君も、わかってくれたかな? 御使い様はホレイス卿の提案を呑まないよ――」
それは自信を持っていえた。が、話しているうちに、別に気付かされたことがあった。
なぜ、それに気付いてしまったのか? それも、今。
自分の頭を叩いてやりたいほどに、腹立たしい。
隠せるものなら隠したい。だが、気付いてしまった以上それはできない。確実性でいえば、こちらの方がはるかに高いのだ。
怒りの解けだしたユリアノスの顔を、そのままにしておきたかったが、アリアロスは隠さず伝えることにした。
「――でもね。ユリアノス君には酷なことかもしれないけど、いっておかなければならないことがある」
不審の目を向けるユリアノスに、アリアロスはいった。
「ホレイス卿の提案は呑まないが、御使い様自身が、伴侶をソルジェ殿下に決めることは考えられる」
その言葉に、ユリアノスばかりでなく、ヤーヴェも驚きを見せた。
◇ ◇ ◇ ◇
「それは……」
「うん、いった通りだよ。御使い様は、色々な話をされたし色々な話を聞かれた。その中で、ソルジェ殿下の話題もあってね。御使い様は、強い関心を示された」
「まさか……」
信じられないのか、信じたくないのか――ユリアノスの声は不安に揺れていた。
「実をいうと、こちらの話を聞く前から、御使い様はソルジェ殿下に目を付けてた。白の広間にいる人間たちの中で、殿下を一番の実力者だとにらんでた。殿下を押さえれば、あの場を制圧できると考えて、実際そうしようとしたんだよ」
「そんな物騒な話は聞いてませんが……」
「ああ、実際にはそうならなかったからね」
アリアロスは微笑んだ。あのときの焦燥と恐怖を思い出すだけで、背中が震えた。そしてよく足が動いたものだと、いまさらながらに思い、軽い打撲だけで済んだわが身の悪運を笑った。
「御使い様は、ずっと理性ある行動をとられてた。剣を向け、騒ぐだけだったわたしたちに、落ち着く時間を与えてくれた。でも、いくらたっても、ホレイス卿は殺せというばかりだった。御使い様たちも、さすがに痺れを切らしてね……。力ずくで聞くしかないと、判断したんだよ。そうおっしゃってた。むやみに暴れようとしたわけじゃないんだよ。辛抱強いと、キリザ将軍も感心してらしたよ」
「……御使い様は、ずいぶん落ち着いた行動をとられてますね。そうかと思えば、大胆なことも考えられるようですし」
「そうだね。とにかく、わたしたちの想像を何から何まで超えてらっしゃるよ。スライディールの御使い様たちは流されることはない。ホレイス卿はもちろん、レナーテの三傑にも、唯々諾々と従う方たちじゃないよ。違うと思えば拒否する。それだけの意思と力を持ってる」
「だから、諦めろ……と、軍師殿はおっしゃりたいのですか?――」
ユリアノスが声を挟んだ。
「――それとも、優れた御使い様に選ばれるだろう主のことを喜べ、と?」
「そういうわけじゃ……」
といいかけて、アリアロスは困った。御使い様が、本当は普通の人間ではないかと、たぶんそうに違いないと思ってはいるが、確証はない。
ここで断言などもちろんできないし、におわすこともできない。
アリアロスが逡巡している間に、ユリアノスは首を振った。まとわり付く現実を拒否するように、何度も、何度も。
「いくら優れているとはいえ、相手が化け物では……あまりにひどすぎる」
ユリアノスの声は震えていた。
「殿下が何をしたんですか? この国のために我を殺し、尽くしてこられた殿下への仕打ちがこれですか? 恐れられ、影で笑われ、それでも国民のために剣を振るう殿下に、今度は化け物の伴侶になれと?」
「ユリアノス君、そうはいってない」
「そういうことでしょう!」
「ユリアノス!」
声を荒げるユリアノスを、ヤーヴェが厳しい声で制した。
「御使い様がソルジェ殿下を伴侶と決めれば、従わざるを得ない。だれも異論は唱えられない。そして、ソルジェ殿下はお逃げにはならない。殿下は強いお方だ。それに従うお前が、主より先に取り乱してどうする」
ヤーヴェは厳しい現実を、ユリアノスに突きつけた。
はっ、とユリアノスが吐き出した息で笑った。
「ああ、ソルジェ殿下はお強い。あんたなんかにいわれなくても、そんなことは、いやというほど知ってるさ」
諦めたような乾いた笑いだった。しかしそれは、深い悲しみと怒りに満ちていた。見ているだけで、アリアロスは胸が締め付けられた。
自分は、間違ったことをしてしまったと思った。ホレイスやリファイ、世間に対する怒りだけに支配されていた方が、まだましだったのではないかと思う。そこに、アリアロスが諦めを付加してしまった。
「軍師殿――」
突然、ユリアノスは立ち上がった。
「――夜分に、お邪魔しました。戻ります」
その姿に、アリアロスは声をかけることもできなかった。




