将軍たちの帰還
この日、王城の大門が閉じられることはなかった。
城内とその周辺は、夜も深い時刻だというのに、日中と変わらない明るさと喧騒に満ちていた。
煌々とかがり火がたかれる中を、人馬がせわしなく行き交う。
「……有事のような有様だな」
入城者の波に馬を滑り入れながら、ヤーヴェはつぶやくようにいった。
「まったくだ」
つぶやきに、返事があった。
喧騒の中から届いた声に、ヤーヴェは驚いた。そして、その相手を見てさらに驚いた。
「ルゼー将軍?――」
低く冷たい――夜気のような声を放ったのは、目の覚めるような金髪の美丈夫だった。濃い青の瞳が、灯火を受けて冴え冴えと光っている。
「――視察でドーミにいらっしゃったのでは?」
ヤーヴェが驚きの声を上げている間に、ルゼーはするりと馬を隣に並べてきた。
キリザの側近を務めているヤーヴェは、軍部内のことを熟知している。左将軍であるルゼーの行動も、もちろん把握していた。ドーミから帰郷の途にあるルゼーの帰着は、どう見積もっても明日、いや、すでに日付は変わっていた――今日の日中になるはずだ。この時刻に姿を見るなど、思いもしない。しかも単騎である。普段いるはずの供まわりの姿が、ひとりも見えないことにヤーヴェは首を傾げたが、同時に、なるほど、と頷いた。
「神馬で翔けてこられたのですか?」
その驚異的な速さに、御伽噺にでてくる神獣――天翔ける馬を使ったのかと、ヤーヴェが冗談めかして問えば、
「早馬だが?」
簡素な答えが返ってきた。何を馬鹿なことを――という表情付きで。
ヤーヴェは、レナーテの婦女子の心を捉えて離さないこの金髪の美丈夫が、冗談の類をまったく受け付けない人物であることを思い出した。
早馬で長時間駆けてきただろうにもかかわらず、ルゼーに疲労の色はない。軍服をきっちり着込み、波打つ黄金色の髪は一筋の乱れもなく、きれいに後ろに撫で付けてある。
一分の隙もなければ、一筋の乱れもない。加えて遊び心もないルゼーに、ヤーヴェは声をひそめて訊ねた。
「閣下は、詳細をご存知ですか?」
ヤーヴェの発言は、褒められたものではない。上位者に向かって失礼な上、直截すぎた。しかも、ここは往来だ。叱られても当然だが、ルゼーという将軍は、軍の規律にはたいへん厳しいが、それ以外のことは、見かけからは想像できないほど柔軟だった。おまけに、もってまわった言い方を嫌う。そういうところは、キリザと同じだった。
ルゼーが鋭い目をヤーヴェに向ける。そこに、怒りの色はにじんでいなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
奇跡の塔でおこった事の仔細を、ルゼーが知っているのかいないのか――
喧騒の中、泰然と馬を操る姿からは、どちらなのか、ヤーヴェにはわからなかった。
ルゼーが冷静沈着であるのは常のことだが、その落ち着きが、不安を隠してのものなのか、何もかも飲み込んでのものなのか、まったくわからない。
ヤーヴェ自身はどうかといえば、前者だった。不安を隠している。
知っていることといえば、降臨した御使い様は異形で、しかも複数である、ということくらいだ。
どうせ使いの者を寄こすなら、もう少し詳しく書けばいいものを――
ヤーヴェは使者を寄こした同僚に、心の中で悪態を付いていた。
おまけにその文末は、
『本日登城の必要なし。いま、城の中はごったがえしだ。門番と俺の仕事を増やすな。登城は明日、城下の噂を拾ってから来い。文句はそのとき聞いてやる。いうまでもないだろうが、騒ぐな』
という、たいへん腹の立つものだった。
余計なことは書くくせに、肝心なことは書いていない。それとも、書けないのか――。
腹の立つ文面は、殴り書きだった。嫌味なほど整ったいつもの文字ではない。
そのことだけも不安は募る。城下はもちろん、登城の道々に拾った話が、さらにヤーヴェの不安を煽った。無責任な噂話を丸呑みにはしないが、事実が含まれている場合もある。だが、判断しようにも、そのもととなる情報をもっていない。
大門をくぐり抜け、王城のキリザの執務室へいけば、知ることができる。その距離も時間も、知らせを受け取った昼からのことを思えば、ささいともいえる時間だ。しかし、ヤーヴェはこれ以上待てなかった。
「ご存知でしたら――」
教えていただきたい。
というヤーヴェの声は、突如湧き上がったどよめきにかき消されてしまった。
何事か――
にわかに騒がしくなった周囲に、ヤーヴェが振り返る。その前に声がした。
「ああ、いたべ、いたべ。兄じゃー、ルゼー将軍こっちにいたべー!」
それは、夜にたいへん不似合いな声だった。どこか春の陽気を思わせる、のどかさと明るさに満ちている。
「ああ、すんませんだす。すんませんだす。ちょっと通してもらうだすぅ」
足だけで器用に馬を操りながら、人馬の波をかきわける。陽気の主は、大きな荷物を両手いっぱいに抱えていた。そのまま、目的の人物――ルゼーのもとに来るだろうと思われた青年は、しかし突然、後ろを振り返った。
「あーにじゃー!!」
夜空にのどかな大声を響かせる。
「おおー。聞こえてるべー。すぐ行くべー」
呼びかけに、のんびりとした声が返ってきた。
大門前の緊張した空気が、どよめきながら一気に弛緩した。
「これは……」
ヤーヴェは、その声の主を知っていた。知っているのは、ヤーヴェだけではない。軍に身を置くもの、いや、王都にいるもので知らないものはいないだろう。
「ルゼー将軍。北のご兄弟とご一緒だったのですか?」
返事はなかった。
ルゼーを見れば、その眉間が険しく寄っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「ちっ」
と、隣から舌打ちが聞こえた。空耳ではない。
なぜなら、声が続いた。
「まいたと思ったが……」
ルゼーの声に、ヤーヴェは笑った。一瞬前までは、不安で胸が押しつぶされそうだったというのに、今は笑ってしまっている。そのもととなる人物が、ルゼーとヤーヴェの前にあらわれた。
「ルゼー将軍、待っててくれないなんて、ひどいだす」
と文句をいうのは、灰味がかった銀髪の、ほっそりとした青年だ。くるりとくせのある髪が、ひと房ちょこんと額にかかっている。青年は、北出身者特有の、抜けるように白い肌をうっすら上気させていた。
「……」
むっつりと不機嫌さを隠さないルゼーに、銀髪の青年――エルーシルは、なおもいいつのる。
「もう、あっちこっちさがしたんだすよ。迷子になったんでねえか、って、心配しただす」
「……」
ヤーヴェは声をたてずに笑った。
王都生まれの王都育ち――しかも将軍職にあるルゼーが、王都で迷子になるわけがない。
エルーシルの声に、周囲もひそやかな笑いを発していた。向かう先があるだろうに、多くのものが、その足を止めていた。
ルゼーの眉間の谷間がさらに深くなった。
「俺は王都出身――」
「あれえ、ヤーヴェさんでねか。いま帰りだすか?」
ルゼーの低い声に、エルーシルの明るい声が重なった。
ひとなつっこい笑顔を向けるエルーシルに、ヤーヴェは答えた。
「……いえ、いまからです」
ヤーヴェは笑いをこらえるので精一杯だった。発言を捨て置かれたルゼーの顔を見てみたい衝動にもかられたが、それはできない。
「それはご苦労さまだす。晩飯は済ませただすか? ちょうどよかっただす。これ、食ってくれだす」
「これは?」
両腕に抱えた包みを差し出されたヤーヴェは訊ねた。
「肉饅頭だす。うまいだす」
「にくまんじゅう?」
「そうだす。まだ、ほかほかだすよ。よかったら、みんなも食ってくれだす。ほれ、あんた。すまんだすが、これ、みんなに配ってくれだす」
いいながら、エルーシルは、自分を見上げている男に大きな包みを預ける。そして、預けた包みを開いて肉饅頭をふたつ取り出した。
「あとはみんなでわけてくれだす。ああ、門番のひとには多めにやってくれだす。動き回れない立ち仕事は、えらいだすからな」
いいながら、取り出したうちのひとつをヤーヴェにくれた。
「……エル」
「うん? なんだすか?」
背筋がぞわぞわするような、ルゼーの低い呼びかけに、エルーシルは明るく応える。応えはしたが、目と口は違う方向に向いていた。彼の意識は肉饅頭に向いており、早くもそれにかぶりついていた。
「うん。うまいだす。ヤーヴェさん、あったかいうちに食うだすよ。あっ、兄じゃー」
背伸びをし、空いた片手を大きく振る。
北の兄弟――彼らは自由だった。
◇ ◇ ◇ ◇
ヤーヴェたちの前に、銀髪の美しい男性がその姿を見せた。
右将軍ウルーバル。
キリザ、ルゼーと並び称される剣豪であり、レナーテの誇る将軍である。容姿は『銀の月』と称されるほどに整っており、性格はたいへんおおらかだ。しかし、過ぎたるは及ばざるが如し――。おおらかに過ぎる性格からの言動は、端正な見目を激しく裏切っていた。
はじめて言葉を交わすものは、その独特のゆるいしゃべりに、必ず己が耳を疑う。北出身者の中でも、ウルーバルのしゃべりは特にゆるく、間延びしていた。そのしゃべる調子にも狂わされるが、内容も、どこかずれていた。
「すごいべぇ。祭りのような賑わいだべ」
よく手入れされた黒毛の馬にまたがり、ゆるゆると馬を進めながらヤーヴェたちのもとにやってきたウルーバルの、開口一番がそれだった。
月の化身のような――といわれる端正な容姿。右手には食いかけの饅頭――かなり大きなそれを、『賑わいだべ』と嬉しそうにいい終えたウルーバルは、ひと口で口の中にしまいこんだ。当然のことながら、両ほほが膨らんだ。パンパンだ。
残念すぎる――
ルゼーとは別の意味で、ウルーバルは多くの女性を嘆かせてきた。それは今も継続中だ。嘆く女性の数を、日々順調に増やし続けている。しかし本人はまったく気にしていない。というより、気付いていない。
北の美丈夫――右将軍ウルーバルは、色々なことから大きくはみ出していた。そしてその弟、エルーシルも、兄に及ばずながら、色々とはみ出していた。
「兄じゃ……」
エルーシルが顔を曇らせた。
周囲では、多くの人間が立ち止まっていた。
そのうちのほとんどが肉饅頭を手に、笑みを見せている。
しかし、ほんの少し前までは、不安や焦燥といった胸苦しさを、それぞれの面に浮かべていた。それらは消え去ったわけではなく、まだ彼らの内にあるはずだ。
それを、祭りのような賑わいなどと――空気を読めないにもほどがある!
と、非難するような弟君ではないことを、ヤーヴェはよく知っていた。なので、続く兄弟の会話にさして驚きはしなかった。が、ひとつ、困ったことがあった。
「兄じゃ!」
「んー、なんだべ」
「なんだべ、じゃねえべ。饅頭はどうしたべ? まさか……兄じゃ、食っちまっただか?」
「ああ……」
「ああ、じゃねえべ! あんな大量に食っちまったら、腹こわしちまうべ。食うにしても、ゆっくり食わねばだめだ! って、あだっ。何するべ、兄じゃ」
額に垂らしたエルーシルの前髪を、ウルーバルが引っ張っていた。
「ひとの話は良く聞くべぇ、エル」
(はっ、お前がそれをいうか、お前が)
「おめはせっかちでいけねえ。いくらオラでも、ひとりであんなに食えるわけねえべ」
「んなことねえべ。兄じゃの腹は底なしだぁ。ばばがいつもいってたべ」
(そうだな。いってるお前もそうだがな)
「そりゃ若いころの話だぁ。いまはあげなほど食えねえべ」
(嘘をつけ)
「さびしいべ」
(あれだけ食えれば上等だ)
「ん? なんかいっただか? ルー?」
「いや」
と首を振るルゼーの顔を、ヤーヴェは凝視した。
最初、空耳か?――と、自分の耳を疑ったヤーヴェだが、それは、空耳にしては、はっきりしすぎていた。
兄弟の会話の合間に聞こえてくる、切れの良い突っ込みは、あろうことか、ルゼーが発していた。
ヤーヴェは困った。まさかのルゼーだ。
彼は唇を動かさず、口の中で毒を放っていた。口中、小声だというのに、声はこもらず一字一句がヤーヴェの耳に届いていた。しかも、ヤーヴェにしか届かない絶妙の声量で……。慣れているとしか思えない。
そのルゼーは、平然と前を向いている。冷静沈着、かつ寡黙でもあるルゼーが、兄弟の会話に毒舌を挟んでいるなど、だれが思うだろう。
「ルゼー将軍――」
自分ひとりだけが聞かされるのはたまらない。他者にも聞こえるようにいうか、ルゼーひとりの胸に収めるか、どちらかにして欲しい――
そう思ったヤーヴェは、声をひそめていった。
「――お心がもれていらっしゃいますが」
「もらしてるのだから当然だ」
「普通におっしゃられてはいかがですか? 北のご兄弟はお気になさらないかと」
「……」
恐ろしい形相で睨まれた。
ヤーヴェの願いは叶わなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
願い届かず。ヤーヴェが嘆息している間にも、北の兄弟たちは、会話を続けていた。
「んじゃ、どうしたべ? 饅頭、どこさやった?」
エルーシル――弟君は、饅頭の行方が気になって仕方ないようだ。
他に、もっと気にしなければならないことがあるはずだが……
と思いつつ、ヤーヴェは聞いていた。北の兄弟の思考と感性を、凡人が理解しようとしてはいけない。
「ああ、あれだ。あん男にやったべ」
「あん男って、だれだぁ?」
「ほら、ソルジェ殿下んとこの、えらい男前の――」
「兄じゃ、それじゃわかんねえべ。ソルジェ殿下の側近は、みぃんな男前だぁ」
「んだんだ。ははは」
と、ウルーバルとエルーシルは何がおかしいのか、ふたりして夜空に笑い声を上げる。
同時に、周囲からも哄笑が上がった。
往来にいる人々の足は、いまや完全に止まっていた。兄弟たちの周りには人だかりができ、その人だかりがさらなる人を呼び集めていた。動く気配もない。王城の大門前は、深夜だというのに、行き来がままならない状態になりつつあった。
しかも、いつの間にあらわれたのか、ウルーバルの部下たちが、饅頭を配り歩いている。それがさらなる停滞を引き起こしていた。
その中に、ルゼーの部下たちが混じっていることにヤーヴェは気付いたが、それは見なかったことにした。
「そうだすか。ソルジェ殿下の側近のひとにあげただすか」
「ああ、青い顔して、暗かったべ。そういや、髪の色も暗かったべ」
「そりゃ、ユリさんだすな。ジルさんもバルさんも顔色は暗いだすが、髪の色は明るいだす。しっかし、兄じゃ、殿下の側近のひとの名前くらいは、覚えねばだめだすよ。失礼だす」
「顔はわかるべ。なーんも問題ないべ。しっかし、暗い顔してたべ。髪が黒いから、余計そう見えたんだべか。いやぁ、でもありゃただごとじゃねえ顔だったべ。なんか心配事があるんだべな。とりあえず、腹いっぱい食って、寝ろ、っていってやっただ」
「それはいいことをしただす。さすがは兄じゃだす。わしも、あんひとたちの顔色が悪いのは気になってただす。なにか差し入れようと思ってたのだすが、よかっただす。しかし、なんだすかね? 何をそんなに心配してるんだすかね?」
「わっかんねえ」
ふたりの会話を聞いて、ヤーヴェはルゼーの気持ちがよくわかった。もう、突っ込みどころが満載だ。
指摘したいが、指摘してどうなるものでもない。余計な時間を食うだけだ。ヤーヴェは嵐が通り過ぎるのを待つように、兄弟たちの会話が落ち着くのを待った。隣からは、ぶつぶつと呪詛のような声が聞こえていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「あの、失礼を承知で申し上げますが――」
気抜けた会話をする兄弟に業を煮やしたのか、彼らの斜め具合を気の毒に思ったのか――囲んでいた群衆から、控えめだがはっきりした声があがった。
「――両閣下は、昨日の御使い様の件をご存知ないのですか?」
それは、ヤーヴェがいまもっとも訊きたいことだった。
「おい、なんてことを」
「失礼だろ」
「将軍と副将、両閣下だぞ。ご存じないはずが――」
と、制する声を、ヤーヴェが睨みつける――前に、男たちが黙った。ヤーヴェより先に、ルゼーが男たちを睨みつけていた。
「知ってるだすよ」
ルゼーの作った静けさの中に、のほほんとした声が通る。
「わし、候補者だすよ。白の広間におっただす」
エルーシルが答えた。なぜそんな質問をされるのか、わからない――という風だ。
気軽に答えるエルーシルに、別の男が声を上げた。
「で、では、化け物をごらんになったんですね?」
「見ただすよ。すごかっただす。あげな恐ろしい姿、わしは見たことも聞いたこともねえだす。びっくりしただす」
「んだんだ」
とウルーバルが頷く。
「ウルーバル将軍もいらしたんですか?」
「いんや、エルに聞いただ」
「そうですか……しかし、両閣下はなぜそのように、平然としていらっしゃるのですか? 城内は、それはひどい騒ぎになっておりますが」
「城内ばかりか、城下もひどい騒ぎです」
口々にいう男たちに、ウルーバルが答えた。
「そりゃ、騒ぐべ。いつもひとりのはずが、七人だべ。みなが有頂天になるのもわかるべ。しっかしあんまり騒いじゃなんねえべ」
「え?」
有頂天?――と思ったのは、ヤーヴェだけではない。
呆気にとられる男たちをよそに、ウルーバルは首を横に振り振りいう。
「神様も何を考えていなさるんだべか。あんまりえこひいきされても困るべ。加護もほどほどでねえと。レナーテばっかり、と、まぁた他の国に恨まれるべ。……ひょっとしたら、ラドナ神様は、オラたちを試していなさるのかもしんねえな。驕っちゃなんねえべ」
「わしもそう思うだす。兄じゃのいうとおり、わしらは驕っちゃならんのだす。調子にのって喜んでると、きっと痛い目を見るだす。慎ましやかに、こっそり心の中で喜ぶだす。しかし、屋台はうれしいだす。花火も上げてほしいところだすが……それはやっぱり、我慢するだす」
と、エルーシルは真顔でいう。
「花火は豊穣の祭りで見れるべぇ、エル」
「だから我慢するだす。しかし兄じゃ、屋台はいいんだすかね?」
「いいべ、いいべ。ちっとは喜ばねば失礼だべ。こんだけしてやったのに、と神様も逆に腹がたつべ」
「そうだすな」
なにやらずいぶんと解釈が違う。が、これこそが、北の兄弟が北の兄弟と騒がれるゆえんだった。
ヤーヴェは安堵で笑ってしまった。その笑いには、平静を欠いていた自分への嘲りも混じっていた。
エルーシルが候補者であることを、すっかり失念していた。冷静に考えればわかることだった。
キリザの隣に立つ両雄が、事の仔細を知らないわけがない。そしてその事実をもたらしたのは、他のだれでもない、実際にその場を見てきたエルーシルである。
城下で飛び交う話と、兄弟の会話――それらは真逆だが、どちらを信じるかは考えるまでもない。考えなければならないのは、騒ぎを嫌うルゼーが、なぜ、わざわざ大門を使ったのか。兄弟を待たず城内に入ればいいものを、なぜ、この場に身をとどめているのか、だ。そこになにかしらの意図がある。
さすがだな――
平静を取り戻したヤーヴェは、ルゼーの意図するところを読み、遅まきながら、それの手伝いをすることにした。
「エルーシル閣下――」
「なんだすか? ヤーヴェさん。わしのことはエルでいいだすよ。わしとヤーヴェさんの仲だす」
「そういうわけにはまいりません、閣下」
元王族であり、副将軍である人物を呼び捨てにはできない。なにより、そんな仲ではない。
「閣下、皆は喜びに騒いでいるのではありません。かつてない事態に、不安を感じ、騒いでいるのです」
「え? そうなんだすか?」
「はい。かくいうわたしも、そのひとりです。御使い様が異形――しかも複数人である、ということしか知らされておりません。詳細を知らず、異例の事態に不安を抱えておりました。ですが、皆様の変わらぬご様子を見て、安心しました」
ヤーヴェはエルーシルに微笑みかけた。
「皆が騒ぎ恐れているようなことは、おこっていないのですね?」
「恐れるってなんだすか? そりゃ、御使い様たちは恐ろしい姿だすが――」
「血が流れたと、城下のものたちは騒いでおりました」
「はあ?」
と、驚くエルーシルの声を機に、周囲にいた男たちが口々にいいはじめた。
「幾人かが食われたと聞きました」
「恐ろしい咆哮をあげ、候補者に襲い掛かったとか」
「わたしは、アリアロス軍師が犠牲になられたと聞きました」
「キリザ大将軍が、やっとのことで取り押さえたと」
勢い込んでいう声に、エルーシルは目を丸くした。
「何いってるだす。だれも食われてなどいないだす。人死にどころか、怪我人のひとりもいないだすよ。御使い様は、それは恐ろしい姿だすが、とても大人しかっただす。咆哮など上げとらんだすよ。うるさく騒いどったのは、わしらの方だす」
エルーシルの声に、今度は男たちが目を丸くした。
「そう……なんですか?」
「アリアロス軍師は、ご無事なんですか?」
「無事だすよ。ぴんぴんしてるだす」
といってから、エルーシルは口をつぐんだ。
「ちょっと違うだすな。軍師殿はお疲れのようだすが、大活躍だっただすから、それは仕方ないだす。ああ、ヤーヴェさんは知らんのだすな」
ヤーヴェの顔を見て、エルーシルは笑った。
「軍師殿はすごいだす。こけてしまったのは、はなはだ残念だすが、それでもさすがだす」
「そうですか」
気を利かせて話してくれたのだろうが、よくわからない。ただ、アリアロスが生きている、ということと、彼が、エルーシルを感心させるだけの働きをしたのだ、ということはわかったので、ヤーヴェは頷いた。
「わしなんか、突っ立ってるだけだっただす。副将軍だというのに、恥ずかしいだす……」
まだまだ修行が足らんだす――と、エルーシルはしょげるようにいったが、次の瞬間には立ち直っていた。
「しかし、さすがといえば、キリザ将軍だす。わしらの大将はすごいだす」
目だけでなく、顔全体をかがやかせていた。
「御使い様の怒りを、将軍は鎮めてくれただす」
◇ ◇ ◇ ◇
「もう、よろしいのですか? 将軍」
ヤーヴェは訊ねた。
キリザがいかにすごかったか――そのときの様子を、エルーシルが群集に向けて熱く語っている最中に、ルゼーが声もかけず、ひとり静かに馬を動かせたからだ。
「聞くのは一度で十分だ」
ルゼーはそのまま、ゆっくり馬を歩かせる。
大門に向かうルゼーに、エルーシルが気付いた。
「大丈夫ですよ、エルーシル閣下」
ヤーヴェはいった。
「ルゼー将軍も、ここまでくれば迷子になられることはありません。どうぞご安心を」
「んだ。心配ねえべ。ほっといてもシカンダールが連れてってくれるべ。ありゃ賢い馬だぁ」
「そうだすな」
ヤーヴェとウルーバルの声に安心したのか、エルーシルは聴衆に向き直った。
ヤーヴェも馬を動かした。笑いをかみ殺しつつ、おそらく眉間にしわを寄せているだろうルゼーの後を追った。
◇ ◇ ◇ ◇
予想どおり、ルゼーの眉間には谷間ができていた。怒ってはいないだろうが、機嫌は悪い。
「申し訳ありません。副将軍には、もう少し、話を続けていただいたほうがよろしいかと思いましたので」
睨まれたヤーヴェは、いいわけをした。
「しかし、さすがです、ルゼー将軍。風評を押さえつけるのではなく、事実を撒いて、新たな風評をおこすとは」
世辞ではない。本心をいった。
聞きかじった話では、不安しか生まれない。すでに城下では、耳を疑うばかりの話が広まっていた。
不安が不安を呼ぶ悪循環だ。人々は口々に不安をばら撒き、勝手な憶測で、恐怖と不安を自ら肥大化させていた。
それを力で制することはできない。口を閉じろといえば、陰でその口を思いのままにひらめかせ、騒ぐなといえば余計に騒ぐのだ。
無責任な噂話が一人歩きし、あたかも真実のように語られる――その前に、事実で逸らす。
事実が事実のまま、語られることはないだろう。尾ひれや背びれがつくに違いない。しかしそれでいい。要は、先んじた噂に対抗できるものとなればいいのだ。
その種を撒くために、ルゼーはこの場にとどまっていたのだ。ヤーヴェは感心した。
事実を出す頃合いといい、場所といい、その人選といい、考えれば考えるほどに感心する。しかし。
「俺ではない」
ルゼーの素っ気ない声に、ヤーヴェは驚いた。
「アリアロスだ」
「軍師殿、ですか」
「ああ。エルを寄こしたのはあいつだ。ウルーバルに教えにいくついでに、俺を迎えに行けといったそうだ。おかげでとんだ道草を食わされた」
「そうだったんですか。わたしはまたてっきり――」
いいかけて、ヤーヴェはやめた。背後の音に注意を引かれた。ふたりが同時に振り返る。
馬蹄の音を響かせながら近付いてきたのは、ルゼーの側近だった。名をセリカという。ヤーヴェもよく知っている顔だ。上司に忠実で、とても真面目な青年だ。
「お疲れ様です。ヤーヴェさん」
挨拶をくれるセリカに、ヤーヴェも同様に挨拶を返す。
「そちらこそ、お疲れ様です。遠方から急ぎ戻られて、たいへんでしょう」
「いえ、自分だけではありませんから」
年若い同僚の返答を、ヤーヴェは好ましく聞いていた。
セリカは若くして将軍の側についているが、その驕りを微塵も見せない。実力ばかりでなく、人柄も優れている。あわてて上司を追いかけてきたのだろう、髪と息が若干乱れていた。と、そこに、心を乱す声がかけられた。
「……セリカ」
「はっ」
「饅頭は、配り終えたのか?」
「……」
ルゼーの問いに、セリカは声を詰まらせた。
上司の冷ややかな視線に、じっと耐える若い同僚を、ヤーヴェが気の毒な思いで見ていると、ルゼーが問うた。
「俺のは?」
「え?」
セリカは驚いている。ヤーヴェも驚いた。そして、続く言葉を聞いて、さらに驚いた。
「俺はまだ、食してないのだが……」
「す、すみません! 饅頭はもうございません」
セリカが風をおこす勢いで頭を下げた。
食いたかったのか……。
と、ヤーヴェが呆気にとられている間に、ルゼーが馬首をめぐらした。
「閣下、どちらへ?」
セリカがあわててその後を追う。
「そちらは――」
「休む。少しでも寝ておきたい」
「えっ? キリザ将軍のもとに行かれるのでは?」
「将軍が起きていると思うか? それに……腹もすいた」
「すみません。すぐご用意いたします」
「いらん」
遠ざかるふたりの後ろ姿を、ヤーヴェは見送った。
仕えるものの苦労は、どこにもあるのだな――
としみじみ思いながら、手綱を握る手に力を入れた。そして、
「……ふふ」
馬上でひとり、笑い声をこぼした。
いつのまにやら、肩の力が抜けていた。そればかりか、身の内から、ふつふつと陽気がわいてくる。ヤーヴェの心は、自分でも驚くほど軽くなっていた。
ヤーヴェは顔を上げた。夜空にまたたく星々を見て、今日、一度も空を見ていないことに気付いた。星々のかがやきを目に写しながら、ヤーヴェはつぶやいた。
「俺も、寝とくか」
夜明けには、まだ時間があった。