準備はOK?
玲がアリアロスを呼んだのは、文字が理解できるかどうかを確認したかったからだ。
会話はできる。
いったいどういう原理で理解でき、相手に自分たちの言葉が伝わっているのか、まったくもって不明だが、わかるものはわかる。受け入れがたい事実だが、自分たちがここにいる――それ以上の受け入れがたさではない。
次は、文字が読めるかどうかだ。
その可否は、今後に影響が出る。会話は何の問題もなく成立している。意思の疎通ができるだけでも十分ありがたいことだが、読めるにこしたことはない。
読めるか、読めないか――その前提が変われば、今、玲が頭の中に描いていることどもも、大きく違ってくる。
アリアロスが読めない、とわかったときは、玲は内心でため息をついた。実のところ、読めるのではないか――とかなり期待していたのだ。
自分の甘さを内で笑いつつアリアロスの手元を見ていた玲は、つづられてゆく文字を見て、驚いた。
読める――
見たことのない文字が理解できることに、まずは驚き、驚きの次に、何故、という思いにとらわれた。
先方はこちらの文字を理解できないのに、こちらは向こうの文字を理解できる。この不均衡はいったい何なのか? 自分たちが優位な側にいることはうれしいが、理解の及ばない何かしらの力が働いている、と思い知らされる。友人たちが表情をかたくしているのも、そのあたりのことを考えているからだろう。文字がわかるからといって、手放しでは喜べなかった。
そこへ、衝撃の文字が書き加えられた。
◇ ◇ ◇ ◇
四人は、肩を落として去ってゆくアリアロスの後姿を見送っていた。
「うーん。アリアロスさん、三十六歳かぁ。うーん」
青二才という言葉がぴったりな人物は、三十六歳の中年だった。その事実に、玲はうなっていた。
「お兄さんだと思ってたら、おじさんだったね」
と、瑠衣も笑う。
「うん。三十いってるとは思わなかったなぁ」
新卒に毛が生えたくらいの歳だろうと、玲は思い込んでいた。彼の役職は頭にあったが、その容姿、風貌、頼りない感、服に着られてる感、全体からかもし出す雰囲気は、どれも三十代半ばを越す中年のものではない。と断言できるほどだ。
とはいえ、すべてはこちらの勝手な思い込みだ。勝手に思い込み、勝手に驚いただけだ。アリアロスに責はない。しかし頭のどこかで、自分たち全員をひとしなみに勘違いさせてしまう容姿や態度は問題だろう、という思いもあった。同時に、そのことについてとやかくいう立場ではない、ということもわかっていたので、何もいわなかった。すでに、キリザなり、だれかにいわれているに違いない。
おっさんね――
その、端的にして無情な言葉は、柔な中年のハートにぐっさりえぐり刺さったようだ。
肩を落として遠ざかるアリアロス。
悲哀漂うその背中に、玲於奈がいった。
「なんだか気の毒ね。盛大に笑ってあげたほうがよかったんじゃない?」
「あんたがいう?」
的確な言葉でひと突きにした張本人の、傷つけた相手を思ってるんだか思ってないんだかよくわからない発言に、良子が非難の目を向けた。
◇ ◇ ◇ ◇
「さてと。いつまでもびっくりしてる場合じゃないのよね」
ひと笑いして、玲は視線と意識をアリアロスから外した。
「衝撃の事実の前に、重要な事実がかすんじゃったけど……読めたね」
「うん。でも、どうしてわかるのかなぁ? 不思議だね」
「こんな見たことない字がわかるなんて、気味悪いわ。しかも向こうは読めないなんて、おかしいでしょ?」
「理解不能だけど、結果からいえるのは、わたしたちになんらかの力が作用してる、ってことかしら」
玲於奈の言葉に、瑠衣と良子がそれぞれに頷く。もちろん、玲もまったくの同意見だったので、頷いた。
「そうとしか考えられないわね」
アリアロスは、見せたものの中にわかる文字はないといった。
あの状況で嘘はつかないだろう。というより、性格的に嘘はつけないだろう。仮につけたとしても、それによって何が守れるのか、あるいは隠せるのか――利はないように思う。
「ま、理屈や原理はぜんぜんわからないけど、あるものはある。わかるものはわかる、ってことで、いいでしょ? 困ることはないし」
理屈や原理を探ろうにも、いまは無理だ。手段も方法もわからなければ、知識も時間もない。
「うん。そだね」
「ありがたいわよね。これが逆だったら、大いに呪うところだけど」
「あーいえてる。それに、ここにいる以上の衝撃でもないしね」
あきらめと投げやり感の混ざった良子の声に、玲は笑いを誘われた。
「おっ、良子もとうとう腹をくくりましたか」
「くくるしかないでしょうが。ほんと、今日は厄日だわ。っつか、あんたと関わると、も、ほんとロクなことがないわ」
「しまった、やぶへび」
「いまさら何いってるのかしらね? 良子は」
「だねぇ」
この半年で数え切れないほど聞かされた良子の決まり文句を耳にして、玲於奈と瑠衣は笑い合う。そして、ロクなことがない――と良子にいわれるのはいつものことなので、いつものように玲はそれを聞き流し、良子もいえば気が済むので、何ごともなかったように玲は先を続けた。
「うん、会話もできるし、字も読める。で、このあとおじさまたちと対峙するわけだけど……話はわたしに任せてもらっていい?」
「は? いまさら何いってんの? あんたがするに決まってんでしょうが」
瑠衣と玲於奈も同じ気持ちなのだろう。うんうんと良子の声に頷いている。
「あたしと玲於奈はあんたの補佐兼記録係。瑠衣はお飾り。いっつもそうでしょうが」
お飾りといわれた瑠衣が、ひときわ深く頷く。
それを見て、玲於奈が笑う。もちろん、玲も笑った。
「いやあ、一応確認とっといたほうがいいかな? と思って。じゃあ、今回もそれでいきますか」
「それでいくわよ。こっちはもう、そのつもりで考えてるっての。あんたも何をどう聞くか、考えときなさいよ」
「玲のことだから、もう考えてるでしょ? いろいろと」
いいながら、玲於奈が視線を玲に向ける。
「うん? まあ、それなりにね。でも、知らないことだらけだし、不確定なことばっかりだし、ちょっとまとまらないっていうか、うーん、あちこち飛んじゃうんだよね」
「ちょっと、頼りないこといわないでくれる?」
「あれ? 頼りにしてくれてる?」
「当たり前でしょ。あんな、見るからにお偉いさんな連中と平常心で渡り合えるのは、あんたぐらいのもんなんだから」
「ふふ、そうね。なにせ、玲には実績があるし」
「そうそう。学年主任と教頭先生に『うん』っていわせたんだもん。さっきだって、キリザさんをびっくりさせてたし」
「前のは、強気でいけるだけの材料があったからなんだけどね」
「勝てる材料があっても、目上相手にあそこまで堂々と、しかもとうとうと喋れる人間はいないっての」
「いえてる」
「とにかく、あんたはいつもの図太さと狡猾さと強気であっちのお偉いさんたちにあたること。いい?」
強気という一点でいえば玲に引けをとらない良子が、厳しい口調でいった。
その発言を、瑠衣が笑いながら非難する。
「良子ちゃん、ひどい」
「ほんと、褒めてるんだか、貶してるんだかわからないわね。ま、どっちにしろ、あのおじさんたちと渡り合えるのは玲しかいないんだし、玲だってそのつもりでしょ。机と椅子の配置、あれ、どう見ても、あの時と同じよね」
「だよね、だよね」
瑠衣の声は跳ねている。
「はは、やっぱりわかった? ゲンは担いどかないとね?」
玲は笑った。
「時間稼ぎにもちょうどいいし、こっちの要望を受け入れてくれるのも確かめられたし、相手に、ちょっと違う、やりにくいな、って印象も与えられたと思うし、形だけでも自分たちのスタイルに持ち込めたし……うん、そう考えると、思いつきでいったけど案外良かったわね」
目を細めて頷く玲に、玲於奈が笑う。
「じゃあ、あれもそうなの? 思いつき? それとも計算?」
「何? あれって?」
「な・ま・え」
聞くなり、玲、ではなく良子が反応した。
「そうそう、それそれ。あんた、何考えてんの? あんな丸わかりの嘘つくなんて」
すっかり忘却の彼方にあったはずのそれを思い出した良子は、目を剥いてせめてきた。
「ああ、あれね。やっぱり嘘ってわかるかな?」
「わかるに決まってんでしょうが。いきなりいうもんだから、こっちがびっくりしたわ。いうならいうで、先にいっときなさいよね」
「いや、そんな時間なかったし……」
「で、理由があるんでしょうね?」
「うん。聞かれてそのままほいほい名乗るのは、なんかくやしいじゃない? だからね」
「はあ?」
「まったくの嘘ってわけでもないから大丈夫。それに、御使い様っていうのがなんなのか、はっきりするまでは、いわないほうがいいとも思ったの。聞こえはいいけど実のところなんなのか不明でしょ? 人柱や生贄にされる可能性だってなきにしもあらず。しかも、ここがどういう世界かわからない。名をとられる、名によって縛られる――なんてことがある世界かもしれない。自分でも、ちょっと突飛すぎるかな? って思うけど、わたしたちがここに来たときのことを、思い出して。物理も摂理もまるで無視。あんなこと、考えられる?」
「……」
「まあ、こっちの常識にあてはめて考えること自体、間違ってるのかもしれないんだけどね」
玲は黙り込んでしまった友人たちに笑顔を向ける。
「実際聞いてみたら、祈るだけでOK、とかかもしれないし」
「そんなこと、あるかしら?」
その極端さに、玲於奈が笑う。
「無いとはいえないでしょ? で、祈るだけだったら、やってみてもいいかなとは思うけど、生贄は辞退しなくちゃならない。そのとき、相手が二つ返事で許してくれると思う?」
「ないわね」
良子と玲於奈が声をそろえた。
「うん。そうなると、わたしたちは逃げなきゃならない」
「それで、名前を隠したってわけ?」
感心したように自分を見る友人たちに、
「いやあ、実は、簡単に名前を教えるのが悔しいってのが九割で、あとで考えると、いろいろ考えられるし、気持ちを優先したのもあながち間違いじゃなかったかなあ、なんて」
玲はすぐに本音を吐いた。
「何? いろいろいってたけど、あれ全部後付なわけ?」
「うん」
「はっ、感心して損したわ」
「はは、ごめん」
「玲ちゃんらしいね」
「そうね」
「だから、名前に関しては深い意味はないの。第一、完全に隠せてないし。良子の名前なんて、キリザさん、はっきり聞いてたしね」
「とぼけたふりして、しっかり覚えていそうだものね」
「そうなのよね。でも、わたしたちの本来の姿はばれてない。逃げるには、もってこいだと思わない?」
「逃げるの前提なんだ?」
「まあ、そうならないことを期待してるけど、見積もりは辛くしといたほうがいいでしょ?」
「そうね」
「うん。というわけで、今しばらくは、名前も姿もお化けのままでいきます。人間です、って主張したところで信じてもらえるかどうか疑問だし、何より相手がびっくりしてくれるでしょ? ちょっと普通にしゃべっただけであれだけ驚いてくれるんだから。そう考えると、お化けも悪くないわよね? 正体は隠せるし、向こうは恐れて逃げてくれる。あの改悪ミシュランマンみたいなおじさんも、ぜんぜん近寄ってこなかったし。うんうん。最初は呪うばっかりだったけど、今となっては逆に良かったわね。みんなもそう思わない?」
「うん、思う」
瑠衣は即答したかと思うと、いきなり笑い出した。
「思うけど玲ちゃん、改悪ミシュランマンって」
「いや、名前知らないからね。なーんか、ぶよぶよしてたし。その割には逃げ足が速かったし」
「それで、ミシュランマン? ミシュランが気の毒ね。白豚でいいんじゃない?」
玲於奈の放った痛烈な名詞に、瑠衣がふき出す。と同時に良子がぎりりと眉根を寄せた。
「ちょっと玲於奈、少しは考えてから口にしなさいよね。あんたさっきからひどいでしょ」
「あら、どうして?」
「どうして、って返すあんたがどうしてだわ。図星すぎんのよ」
「いえてる。玲於奈ちゃん、言葉は凶器だから。アリアロスさん、かわいそうだったなぁ」
「でも、事実でしょ?」
「事実だからって、なんでもかんでもポロっといわない。うちにはゲラが二人もいるんだから、そこらへん気をつけてよね」
「まあ、気をつけてみるけど……」
「何よ、頼りない返事しないでよね」
「だって、もうすぐ来る宰相さん? 見るからにヅラだったりしたら、自信ないわ。良子だって、難しいんじゃない?」
「え? なんでいきなりヅラ?」
という玲の笑声は、ふたりには無視されてしまう。
「何いってんの。あたしはハゲ散らかしてようが、あきらかにずれてたりしてようが黙ってられるっての」
「でも、見ちゃうでしょ?」
「そりゃ見るわよ。どういう人間か、見ないわけにいかないでしょ」
「ヅラでも? ずれてても? 黙っていられる?」
「だから、あたしは大丈夫だっていってんでしょ。そりゃ、ちょっと気の毒な目で見ちゃうかもし――」
「もう止めてー、ふたりとも、お願い」
瑠衣が涙目で訴えた。
「あー、どうしよう」
瑠衣は笑いの渦にひとり、飲まれてしまった。
無理もない。
ハゲだのヅラだの、茶目っ気を利かせてやってくれるなら軽く笑うくらいで済むが、真剣な口調でやり合われては、笑点の極めて低い瑠衣など、ひとたまりもない。
「もう」
玲於奈が良子に非難の目を向ける。
「良子がハゲ散らかすとかいうから」
「何? あたしのせい? もとはといえば、あんたのせいでしょうが」
「これで瑠衣は、宰相さんを見た瞬間、笑い出すわね」
「ちょっと、変な暗示かけないでよね」
貴重な準備の時間は、玲於奈と良子――ふたりのダメ押しともいえる会話で締めくくられてしまった。
◇ ◇ ◇ ◇
「そうか、嬢ちゃんたちは字も読めるか」
キリザは手持ち無沙汰なのか、分厚い手のひらで顎をさすりながらそういった。豪華な一人がけのソファに身を沈める彼の前には、アリアロスが立っている。いつにもまして精彩を欠く部下に、キリザは笑顔を向けた。
「それにしても、お前、嬢ちゃんたちにずいぶん気に入られたようだな?」
茶化すような声と言葉でアリアロスの気持ちをさらに降下させると、キリザは隣に座るサルファに目を向けた。
「字も読めるみたいだな」
「そのようですね」
サルファは答えたが、その視線と意識は変わらず対角にあった。
当の四人はこちらを見向きもせずに、額を寄せ合っている。
「いったい何話してんだろうな?」
キリザの声はいぶかしむものではなく、単純な好奇のそれだ。
「たいしたもんだ。うちの連中より、よっぽど肝が据わってるぜ」
心から感心したようにそういうと、キリザはサルファに笑いかけた。
「過去の例はあてはまらないな」
「……」
いわでものことをいうキリザに、サルファは頷きすら返さない。そしてキリザは、反応がなかろうがまったく気にしない。
「ま、がんばってくれや。くれぐれも嬢ちゃんたちの機嫌を損ねないようにな。なにしろ、殿下に襲い掛かろうかって気概のある嬢ちゃんたちだ。お前なんか、あっという間にきゅうきゅうに締め上げられちまうぜ」
「さきほどもお聞きましたが、本当に、殿下を狙って、ですか?」
「レイヒがいうんだ。間違いない」
はあ、っと大きく息を吐くサルファに、キリザはさらに続ける。
「殿下に笑いかけたってんだから、そうだろ。しっかし、すげえよな。目立つってこともあるが、あの中から殿下に狙いを定めるか? 狙い定めたところで、手を出そうなんて思わねえだろ? 普通」
「普通ではありませんね。姿からして」
「ははっ、確かにな。ありゃびっくりだよな。ま、それは置いといて、だ。殿下に襲い掛かろうなんざ、よっぽど腕に自信があるか、とんでもない馬鹿のどっちかだが……」
「どちらも困りますが……自信があるのでしょうね」
「だろうな。でなきゃ、ああも平然としてらんねえだろ」
と、キリザは笑う。
四人はいまだ、話に夢中だ。
「まったく、なにもかもが度はずれの御使い様たちだぜ。な?」
「ずいぶん楽しそうですね。というより、うれしそうですね。わたしは聞けば聞くほど気分が沈んでゆくのですが」
「おいおい、しっかりしろ。お前の仕事はこれからだぞ」
「わたしの仕事ですか」
「あ? 他のだれがやるってんだ? 嬢ちゃんたちにも、もういっちまってるんだぜ。相手をすんのはお前だ。心配すんな。話のわかる嬢ちゃんだ」
「あなたの方が適任のように思いますが」
「さっきもいったが、これはお前の仕事だ。俺の手には負えねえよ。なんせ、頭の良く回る嬢ちゃんだからな。俺なんか、いいように転がされちまうぜ」
というと、キリザはにやりと笑った。
「期待してるぜ、副宰相」
サルファの緊張をほぐすどころか気負わせる発言をした彼は、最後に微妙ないい回しをした。
「俺は、じっくり拝ませてもらうとするぜ」
サルファは眉をひそめた。
高みの見物を宣言したキリザの声は明るいものの、それだけではない何かが混じっていた。それを確かめるべく、サルファはキリザに顔を向けたのだが、彼の目はすでに反対側に移っていた。
「来たか」
キリザの声と同時に、扉の向こうから人影があらわれた。
腑に落ちないまま、そして沈む心を抱えたまま、サルファは異形の娘たちと向き合わなければならなかった。