間の時間
御使い様たちだ――
キリザがサルファにいったのは、それだけだった。
続く言葉を待っていたサルファに向けられたのは、笑顔だ。それも、口の片端だけがつり上がっているという、あまりよろしくない笑みだった。
◇ ◇ ◇ ◇
急報を受け、奇跡の塔に駆けつけたキリザとサルファが見たものは、異形と、それに向かって突進するアリアロスの姿だった。
いったい何が――
思考する前に、アリアロスの姿が消えた。
同時に、サルファとともに立ち止まっていたキリザが動き出す。棒立ちになった男たちを押しのけ、まっすぐに進んでゆく。進んだ後に道ができ、それは見る間にキリザの先を走り、目指す場所まで開いた。キリザに気付いた男たちが、その身を脇にどけたのだった。
見通しの良くなった先で、身を起こすアリアロスの姿が見えた。
彼の無事を確認したサルファは、次いで、周囲に目をやった。地に倒れているのは、アリアロスを除いて、ひとりもいないようだった。血も流れていない。
取り返しのつかない事態になっていないことに、サルファは胸をなでおろす。が、何も解決したわけではない。中心地をひとますキリザに預け、サルファ自身は状況を把握するために、ゼクトのもとへ足を向けた。
だがそこで、思いもよらない妨害に遭う。
ゼクトから話を聞く前に、サルファはホレイスと向き合わなければならなかった。彼は頑なだった。
異形の扱いを任せて欲しい――
というサルファに、ホレイスは頑として首を縦にしなかった。
迎えの使者としての全権はホレイスにあり、それはいかなる事態が出来しても変わらない――
と、訴えても駄目だった。
そんな頑なな相手を追い払ってくれたキリザには、感謝するほかない。
しかしキリザは、応接の役をサルファに引き渡すにあたり、たった一言で済ませてしまった。
いつもなら恐ろしく滑らかに動く舌を、唇の向こうにしまいこんでいる。しかも、動かす気配がない。
無意味に時を費やしたサルファは、異形があらわれた――まさにその一事しか知らないというのに。
先入観を与えたくないのだろうか、それとも――
答えは後者だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「な? すげえだろ?」
というキリザの声は弾んでいた。
「できれば先に教えていただきたかったですね」
サルファが恨みがましい目つきでキリザを見る。が、やるだけ無駄だった。
「あ? 頭のくるくる回る嬢ちゃんだ、ってか? そんなもん、いったってわかんねえだろうが」
「心の準備くらいにはなりますよ」
「は、準備したって間に合わねえさ。それに、俺ばっかりびっくりさせられんのも、しゃくだしな」
キリザは自分が受けた衝撃と驚愕を、サルファにも味わわせたかったようだ。そのたくらみは成功した。
◇ ◇ ◇ ◇
「わたしはお岩といいます。サルファさん、あなたがわたしたちに説明してくださる、ということでよろしいですね」
続く言葉を待っていたサルファにかけられたのは、思わぬ相手からの、思いもよらぬ明瞭な確認の声だった。
不意をつかれた形のサルファだったが、驚きを身の内に隠すくらいのことはできる。
「ええ」
サルファは、微笑のまま頷いた。
その声に、異形が頷きを返す。
近付いて見れば、どの異形もおぞましい姿をしていた。特に目の前の、お岩と名乗った異形の奇異さは格別だ。だが、血のかかる唇から放たれた声には、理性と知性が同居しており、そのいずれもが、かなり高い水準にある――と確信させるだけの、言葉の運びと強さがあった。
サルファは、とてつもない違和感を感じた。だが、
「では、説明していただく前に、お願いしたいのですが――」
相手は考える暇をくれなかった。目の前の異形は、お願いという名の「注文」と「問い」を、サルファの前に並べたてたのだった。
彼女はまず、場所の移動を求めた。次に、紙と筆記用具、飲み物のほか、いくつかの物品の提供を求め、それらの準備にかかる時間を問い、別室での同席者を確認した後、自ら二名の同席者を指名してきた。
そして別室に移動してからは、机と椅子の配置に関して細かく注文をつけた。
今、レイヒ配下の男たちが、足りないものを運び入れ、それらを注文どおりに並べているところだ。
男たちが立ち動く中、当の異形たちは室の片隅を陣取り、注文した品々を前に額を寄せ合っている。
「使い方がわからねえのかな?」
並べられた品を見つめるだけで手を伸ばさないでいる四人に、キリザがつぶやく。その声は、彼にしては珍しく、相手を気遣うものだった。
「さあ、どうでしょう」
それに応えるサルファの声は、こちらも珍しく、彼にしてはおざなりだった。
自力で相手を知るしかなくなった彼に、不親切な隣人――キリザを構う余裕はない。
声を殺して笑う隣人の気配を察しても、サルファの薄青の瞳が、四人のもとから動くことはなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
玲たち四人は、用意されたものを前に、しばし仲良く押し黙っていた。
ゼクトは注文どおりの品を速やかに用意してくれた。数をいわなかったが、飲み物も他のものもすべて人数分、きちんとある。
「うん、まあ、ここで大学ノートとシャーペンが出てくるとは思ってなかったけどね」
並べられたものを前に、玲が苦笑する。
色とりどりの羽根がたいそう美しい。目に楽しい品だったが、実用という観点では、あまり頼みにできないようだ。
瑠衣が手を伸ばし、青のグラデーションの入った一本をつまみあげる。
「羽根ペンだよね? これ。わ、軽い。あー、きれい」
上下に動かすと、柔らかい羽根の部分が優雅に揺れた。
「あ、ほんと、きれい」
「でも、書きにくそうね」
「使ったことないもんねぇ」
「せめて万年筆」
と良子がうなだれる。が、すぐに頭を起こすと、
「いや、ものがあるだけ感謝しないといけないわね」
自分にいい聞かせ、瞬時に気力をよみがえらせた。手近にあった一本を手に取り、インク壷にペン先を浸してそれを紙面に走らせる。
「……問題はなさそうね」
「は? どこが? 問題ありありでしょ」
玲於奈の声に、良子は険しい顔を上げた。
書きにくさはいうまでもない。太さがあるため、ある程度の文字の大きさが必要だった。しかも、すぐにかすれてしまう。ほんの数行を書くのに、紙とインク壷の間を三度も往復しなければならなかった。
どれも使う前から想像できたことだが、良子は、これから自分がしなければならない作業を考えて、うんざりした。
「細かく書くのは無理そうだけど、用は足りるでしょ」
「まあね。でも早く書くのも難しいし……。あー、なんか変な夢かと思ってたけど。現実だ、って、今つくづく実感したわ」
「え? ペンで実感? ってか、良子、いまさら?」
良子の発言は、玲を驚かせた。
「何? 悪い? だいたいこんなのが現実だなんて、すんなり受け入れられるわけないでしょ」
「で、ペンで実感?」
「良子がいいたいこともわかるわ」
羽根ペンを振りながら、玲於奈がいった。
「でしょ? 日常行為の違いが一番こた――」
「書きづらい」
「え? そこ?」
玲於奈の反応に突っ込みを入れた良子だったが、
「実際問題これ、使い慣れるまでは大変よ。小さく書けないし、なによりインクを吸わせる手間が問題ね」
それを聞いて、すぐさま気持ちが切り替わった。
「そう、そうなのよ。絶対ストレス溜まるわ。でも、そんなこといってもしょうがないし、時間もないし……。ちょっと瑠衣、あんた、ポケットにボールペンの一本も入ってないの?」
「えー、持ってないよ。今日は踊るし危ないから、ポケットの中身は全部置いてけ! って良子ちゃんがいったんじゃない」
「あー、そうだったわね」
「他にないのかしら?」
「ゼクトさんに聞いてみるわ。紙もこれじゃ足りないし」
「そうね。あ、こんな豪華なやつじゃなくていいから、もっと他に使いやすいものがないか、聞いてみて」
「了解」
良子は玲於奈に頷くと、席を立った。どうのこうのいいながら、結局は現実を受け入れ、今できる限りのことに全力を尽くす良子なのだった。
「うんうん、うちの美人書記官たちは、有能だね」
良子の背中を見送りながら、玲は満足気にひとりごちた。そして視線を引き戻すと、隣に座る瑠衣に笑いかけた。
「それでは瑠衣ちゃんにお願いです。あそこにいる、ほうき頭のお兄さんを、借りてきてください」
◇ ◇ ◇ ◇
「どうぞ、アリアロスさん。掛けてください」
玲は席を立ち、自分の座っていた場所をアリアロスに勧めた。
アリアロスが、おそるおそるといった様子で椅子に腰掛ける。見事な及び腰だ。
「襲い掛かったりしませんから、安心してください」
と、いってはみたが、効果はないだろう。彼は玲たちを恐れ、怪しんでいる。
この説明の場に、アリアロスの同席を求めたことが、怪しみの原因であるのは間違いない。
玲の請求は、指名された当人はもとより、先方にとって意外なことのようだった。
玲にしてみれば、驚かれたことの方が驚きだ。彼、アリアロスの同席を求めるのは、至極当然のことで、何の不思議もない。
これから臨む説明の場は、知る、ということが目的だ。
サルファは、自分たちが求める情報をくれるだろう。しかし、懸念がある。情報の真偽を疑うつもりはないが、情報を故意に出さない、隠す、ということは考えられる。
御使い様――その聞こえはいいが、果たしてそれは、言葉どおりのものなのか?
極端な話だが、『贄』という可能性だってある。その場合、相手は正直にそのことをいうだろうか?
自分だったらいわない。
キリザは玲たちに好意的だが、なんといっても向こう側の人間だ。豪快な人物で、玲も好ましく思っているが、その腹は広すぎて逆に読みづらい。ちょっとした思い付きと悪戯心でした不自然な玲の名乗りを、彼はわかっていて放置した。取るに足らないことと判断したのだろうが、あっさり流してしまえることに、底知れぬものを感じる。
サルファのことはまだよくわからない。麗しの副宰相殿は、微笑を浮かべたままだ。感じのいい人物だが、国の中枢にあり、キリザが任せるくらいなのだから、単純な人間ではないだろう。心のうちを簡単に表に出すとは思えない。
そしてもうひとり、サルファが「同席させて欲しい」と願い出た人物がいる。聞けば、この国の宰相だという。その人物、グレンはまだ姿を見せていないが、キリザとサルファ――この両者に劣らぬ人物だろう、ということは予想できた。
サルファがその是非を目顔で問い、キリザがそれに頷きを返した。そしてその名を聞いただれもが、驚きを見せなかった。
二人と同等か、それ以上の人物だと思うのが無難だろう。
そんな中、アリアロスの普通さは、逆に目立って貴重だった。
彼は、驚きや安堵といった内心を、そのままさらけ出してくれる。
感情だだ漏れの、試験紙のような彼には、ぜひとも同席してもらわなければならなかった。おまけに反応も面白い、とあっては、玲としては放っておけない。
玲が同席を求めた際、彼は無言で『何故!』の叫びを全身でもって表現してくれた。
上位の人間があらわれたことで、もはや自分は用無し――と、彼はすっかり気を抜いていたようだ。そこへ、自分の名が呼ばれたのだから、驚くのも無理はない。
そしてつい今しがた。
「キリザさーん。アリアロスさんをお借りしてもいいですか?」
彼は、無邪気な瑠衣の声に文字通り飛び上がり、
「おお! 好きにしてくれ」
キリザの鷹揚な声に、しおれるように身体を縮めたのだった。
「うん、やっぱり面白いなあ、あのひと」
玲は自分の判断の正しさを再確認した。
◇ ◇ ◇ ◇
玲の中で、頭突きをくれてやりたい――という気持ちはもはやなくなっていた。今は彼に、親しみすら感じている。
目の前でかたくなっているアリアロスをみて、その緊張をいくらかでもほぐしてあげたい、と思うくらいだ。ただし、思うだけだ。実行はしない。面倒だし、そんな時間はない。とっとと用事を済ませて解放するのが、双方のためだ。なので、玲は極めて事務的に進めることにした。
「アリアロスさん、これを見てください」
アリアロスの前に、一枚の紙面をたらす。
「なんと書いてあるか、わかりますか?」
紙面には、ひらがなが書かれている。良子が書いたものだ。
アリアロスはそれを手に取り、じっくり見た上で、
「いいえ」
と首を横に振った。
「では、これは?」
別の一枚を取り上げる。こちらは玲於奈が書いたもので、アルファベットと数字が書かれている。
「いいえ」
答えは同じだった。
「この中に、わかるものはありませんか?」
「ありません」
「ひとつも?」
「ありません」
「そうですか。ありがとうございます」
玲はそういうと、次に、白紙の紙をアリアロスの前に滑らせた。
「では、アリアロスさん。今度はここに、あなたの名前と職業を書いてください。ああ、あと、生年月日と年齢もお願いしますね」
玲の声に、良子がペンとインク壷を、アリアロスの前に移動させる。
アリアロスはペンを持つと、深呼吸をひとつしてから書きはじめた。
緊張のためか、ところどころ文字が揺れている。
四人は食い入るように、つづられてゆく文字を見つめていた。
だれも何もいわない。
無言で文字を追う四人の表情は、かたく張り詰めている。その表情がにわかに変化したのは、アリアロスが彼の名前の横に文字を書き入れたときだ。それは数字だった。ローマ数字の表記によく似たそれは、四人を等しく驚かせた。
「アリアロスさん……」
玲がため息のような頼りない声を落とした。
これまでとはまったく調子の違う声に、アリアロスが顔をあげる。
驚くアリアロスの横面に、玲於奈が無情な言葉を投げつけた。
「おっさんね」