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よめない男 

 男は、先ほどからせわしなく、軍服の詰襟つめえりに指を引っ掛けていた。

 かたい襟に、無理やり指で隙間を作り、しきりと首を動かしている。

 その動きに合わせて、男の枯れ草色の髪が揺れる。寝起きのまま、くしを通していないような髪は、立ち枯れた草のように野放図に乱れ、男の顔や肩に垂れかかっていた。


 目にかかる髪を、襟に指を突っ込んだまま、わずらわし気に首を振って払う。

 それでもまだ、男は襟元から指を外そうとはしなかった。



 大陸に最強の名をとどろかせる、レナーテ王国。

 その名を圧倒的な力で支えているのは、十万からの兵を擁する軍である。

 男が身に付けている黒の軍服は、上級武官の証であり、ほん一握りの人間にしか、着用を許されていないものだった。


 軍に属するものは、だれもが、一度は袖を通すことを夢見る。

 レナーテ軍の威信と威厳を知らしめることに特化した、式典用の黒の軍服は、自国他国を問わず、数多あまたの公式行事の場において、その役割を十二分に果たしていた。


 名と実を備えるレナーテの上位の武人たちが、黒の軍服をまとい並び立てば、それは、大国の力と威厳の、まさに縮図となるのだった。そしてその威容は、自国のものに安心と誇りを与え、他国のものに畏怖を植えつけることに成功していた。


 見せ付けることを意図して作られた軍服は、しかし、機能という点ではいささか問題があった。

 厚みのある生地で、かっちりと作られたそれは、硬くて重いだけでなく、体に張り付き、窮屈なことこの上ない――という代物だった。が、


「男っぷりを二割は上げてくれる」


 と、ちまたでささやかれているように、黒の軍服は、上級武官たちの強さと精悍さを引き立てるのだった。

 ただし、それも人による。残念ながら、せわしげに首を振る男に関しては、その限りではなかった。


 他者が評するに、男の場合、


しな、下がってんぞ」


 ということだった。

 

 軍服と男、いったいどちらの品が下がるのか?――

 

 男は一瞬迷ったが、鏡を見て、すぐに答えがわかった。下がっていたのは自分だった。完全に、服に負けていた。


「はああ、こいつが似合わない奴がいるとはなあ……」


 上司にそう言わしめたのは、五年ほど昔のことだ。

 

 中肉中背、顔も可もなく不可もなく――だと、男は自分のことを思っていたが、黒の軍服を着こなすには、いろいろなものが足りないことを知った。鍛え上げた体もなければ、華もなく、腕力もなければ、気概もない。唯一あるものは、体内にあるため見せられない、ときた。


「ま、似合わないのもしょうがねぇか。お前は武人っつっても、ここだけしか使わねえもんな」


 男を今の高みに引きずり上げた上司が、頭をとんとん、と指で叩く。


「いや、ほんと、お前って奴は読めないな。俺の常識を、上に下にと越えてくれるぜ。しっかし、服にも負けるとはなぁ。そんなだから、馬にも舐められちまうんだな。レナーテの黒服で、馬に舐められるなんざ、お前だけだぞ。馬にも服にも負けちまうなんてなぁ、ほんっと、俺は恥ずかしいぜ」


 自身が、どこに出すのも恥ずかしい、と側近たちにいわれているのだが……。

 そんな上司の言葉に、男は黙って身を縮めるしかできない。


「ま、いいさ。笑われんのはお前だし、黒服ん中にひとりぐらい、そんな奴がいてもいいだろ。……面白いもんな」


 自分のことを笑うのは、主に、目の前の上司だろうな――と、男は予想した。その予想は当たる。

 今朝も、五年というときを経ても、一向に馴染まない男と服をしげしげとながめて、上司は笑った。


「おい、髪ぐらい梳かしていけ。ほかはどうしようもないんだからな」


 服にはいまだ慣れないが、笑われることに慣れた男は、上機嫌な上司の言葉に、あきらめたような笑みを返し、その言に従った。


 そのわずか数時間後。


 梳かし付けた男の髪は、いつものように跳ね広がっていた。

 襟に指を引っ掛けたまま、せわしなく首を動かし、もう一方の手で、枯れ草色の髪を掻く。

 男は何度となく、その行為を繰り返していた。


 そんな自分の行為を、男は自覚していない。というより、自覚できない状態だった。男の意識と視線は、ただ一点に向かっていた。

 目が離せない。離してはいけない――という心の声に、男は従っていた。

 言葉にできない嫌な感じが、男の背中を這い上がる。それは見るほどに、そして時間が経つほどに大きくなる。


 男がまた首を振る。だが、払えたのは髪だけで、まとわり付く不安を振り払うことはできなかった。

 男は唇をかみ、その痛みでもって、息苦しさを誤魔化すしかなかった。




 ◇  ◇  ◇  ◇



 男はこれまで、自分の不遇を少々嘆きはしても、恨んだことはなかった。

 意に沿わない仕事に就かされようが、不相応な役職に抜擢されようが、影で、日なたで、笑われようが、三歩ほど引いた目で、己の境遇を見つめることができた。


 不遇、などといえば、逆に天罰が下るだろう。

 悪意でもって心身を痛めつけられることもなければ、不条理な扱いを受けることもない。

 ただ、「安穏と暮らしたい」「恵まれた環境で、好きな道に邁進したい」そんなロクでもない願望が、大きく方向転換されたに過ぎない。


 環境が激変したが、男はただ驚くだけで、その変化を受け入れた。

 どうしようもないからだ。できるなら、自由気ままなかつての生活に戻りたかったが、それは許されなかった。そして男も、いろんなものに抗ってまで、取り戻そうとはしなかった。

 無駄な努力はしない――それが男の信条だった。


 今日、この場にいるのも、いろんな流れに身を任せた結果だ。

 三十六にもなるというのに、いまだ妻帯せず、独り身でいる男は、この場に立っていた。否、立たされていた。


 奇跡の塔――その白い巨大な建物に集うのは、レナーテの王侯貴族をはじめとする、高級武官、文官、そして、一定の水準と条件を満たした武人、文人たちだ。ごく一部を除いて、全員が独身だ。

 彼らは、候補者と呼ばれる、御使い様の伴侶となる資質を備えたものたちだった。男も候補者として立たされていた。年は取りすぎているし、伴侶になる気など毛ほども無かったが、要件を満たしていたため出席せざるをえなかった。


 七百年の長きにわたるレナーテの歴史の中で、時折あらわれる神の使い――御使い様。もはや、文献でしか確認できない存在で、「寓話ではないか?」とささやかれるまでにうつろとなった遠い存在が、ここにあらわれるのだ。


 一堂に集められた男たちの意気は、高揚していた。

 レナーテの未来を喜ぶもの、伴侶となる夢を見るもの、歴史の生き証人になることを喜ぶもの、候補者に選ばれたことを、ただただ感謝するもの――男たちは、様々だが、それぞれに明るさを抱いていた。白の広間は、そんな男たちの高揚した気分に染められていた。


 だが、その高揚感は、木っ端微塵に粉砕された。

 あらわれたのは、文献にも伝承にもないものたちだった。見たことも、聞いたこともない異形。そのいでたちと数は、男たちの心を粉砕すると同時にその場を凍てつかせた。


 男も目を剥いた。記憶のどこを探しても見つからないものどもの出現は、恐怖と緊張の撚糸ねんしでもって、男の体を縛り上げた。



 ◇  ◇  ◇  ◇



 異形たちは出現した瞬間こそ、こちらと同様、驚いていたようだったが、すぐに驚愕から立ち直った。

 事態を把握し、危険を察知した。それを回避するための行動は、無理がなく、ごく自然だった。成り行きのようにも見えたが、考えた上での行動であることは、すぐにわかった。


 恐ろしい異形に、自我と理性があるばかりか、知性まであることに、男は打ちのめされる思いだった。

 そして今、それらが恐るべき胆力をも備えている――ということを、見せつけられていた。

 異形たちは衆人環視の中、大理石の床に身を横たえ、体を奇怪に捻じ曲げていた。


 男はとうとう詰襟のボタンを引きちぎった。

 それで何かが変わるわけでもないが、息苦しさは多少緩和された。襟元からようやく指を離す。しかし、不安は離れない。

 

 胸騒ぎが収まらない。おぞましい姿を見続けている――それだけが理由ではない。

 異形はこちらをまったく恐れていない。

 剣を恐れない。数を恐れない。

 そして異形らは、時間を経るごとに、心身を充実させている。

 それがどういうことなのか――


 答えに行き着く前に、男は焦れた目を大扉にやった。そこに上司たちの姿が見えないか、確認した。

 異形の出現と同時に、男は、どこにいるか皆目検討もつかない上司に使いをやった。男と同様に、副宰相の副官、ゼクトも使いを走らせていた。


 異常事態に対処できるのは、異形に対抗できるのは、その両者しかいない。

 男ばかりでなく、この場にいるほとんどの人間が、そう思っているはずだった。本来なら、そのふたりがここに立っていたはずなのだ。それが……男の眉間にしわが寄る。が、無意味な思いに割く時間は無いことを思い出す。

 

 頼む、来てくれ――

 どちらかでいい。贅沢はいわない――


 しかし、願いはむなしく、彼らの姿は見えなかった。



 そんなときに、異形たちが立ち上がった。

 なにやら会話をしている。いっそ、和やかともいえる雰囲気だ。

 しかし、さりげなくこちらの様子をうかがっている。


 嫌な汗が、男のこめかみを流れていった。背中には、汗を吸った服がすでにべっとりと張りついている。

 男は大きく息を吐いた。


 異形らは、はかっている。

 牙を剥く瞬間を。


 男は恨んだ。

 鬱陶しい髪を、へばりつく軍服を、こんな場に居合わせてしまった自分を、そして何より、この場にいるはずの上司がいないことを、男は強く恨んだ。


 頭の割れた異形が、一歩前に出て、笑った。


 来る―― 


 感じた瞬間、男の体は勝手に動いていた。



 ◇  ◇  ◇  ◇



「ま、待って。待ってくれ!」

 

 懇願の声を絞り出しながら、男は突進した。周りにいる男たちを押しのけ、包囲の隙間をくぐり抜ける。


「た、頼む。待ってくれ」

 

 いいながら、異形たちの前に飛び出した男は、次の瞬間、


「うわっ」


 ズボンの裾に足を引っ掛けて、床に倒れこんだ。

 体に衝撃と強い痛みが走る。勢いがあったため、叩きつけられたも同然だった。気絶してもおかしくない。全身が転倒の衝撃に見舞われたが、なぜか頭だけが強打をまぬかれていた。自分に意識があることを不思議に思いながら、男は目を開いた。


「えっ」


 男は異なる衝撃に目を剥いた。

 ひとりの異形が、自分を見下ろしていた。

 死人のような青灰色の肌の異形だった。顔は青黒く、目だけが炯炯けいけいと光っている。その目が男を見つめていた。


 男は、至近で見た異形に体を強張らせた。が、その異形の片足が、自分の頭と大理石の床の間に差し込まれているの見て、強打を免れた理由を知った。


「あ、えっ? あ、ありが――うわっ」


 礼をいいきる前に、男の頭が床に落ちた。正しくは、足から投げ捨てられた。

 ゴツッという音とともに、頭に痛みが走る。男は頭を抱え込んだ。

 そんな男のかたわらで、異形たちが話し出した。


「玲於奈ちゃん、ナイスキャッチ」

「その後がひどいけど……でも、今日は足技が冴えるわね」

「そう?」

「はあ、もうどうでもいいけどさ。厄日じゃないの? 今日」

「ほんと、今日はダメダメだねぇ」

「そうね」

「うーん、確かに。ここぞというときに邪魔が入るなぁ」


 痛みに縛られた男に降りかかってきたのは、若い女たちの声だった。いずれの声にも緊張はない。どころか、なにやら明るく、朗らかでさえあった。


 声と内容に驚きながら、男はゆっくり上半身を起こした。驚いている場合でも、寝転んでいる場合でもない。考えなしに飛び込んでしまった男は、次に自分がなすべきことを早急に考え、実行に移さなければならなかった。

 骨折などはないようだったが、軟弱な体は、痛みに悲鳴を上げている。労わるように身を起こした男は頭を上げた瞬間、息を飲んだ。


 頭の割れた異形の顔が、間近にあった。異形は片ひざを付き、男を見つめていた。

 男は眼前にあるものを見て、息を止めた。

 頭蓋が割れ、脳が露出している。血が流れるままのその顔は、笑っていた。

 

「大丈夫ですか?」


 男は一瞬、何をいわれたのか、理解できなかった。が、すぐに了解すると、頭をこれでもか、というほど縦に何度も動かした。


「それは良かった」


 異形はそういって笑うと、体をわずかに傾け、男の目をのぞき込んできた。


「では、あなたの官、姓名と、わたしたちの前に飛び出してきた理由を教えてください」


 男は答えなかった。否、答えられなかった。

 生きていられるのが不思議な異形。しかしその口から放たれた声は、穏やかでいて厳しく、言葉は礼儀にかなったものだった。そして男を見つめる瞳は、強く美しかった。青みがかったような、清らかに澄んだ白と、闇をそのまま固めたような黒が、光を受け、かがやいている。

 おぞましい姿と対極をなす、怜悧な声と、強く美しい黒の瞳に、男は混乱しながら魅入っていたのだった。


「……」

「あなたの役職と名前を――」 

 

 反応しない男に、異形が今一度、問いかけている最中だった。


「そいつの名は、アリアロス」


 太い声が背後から飛んできた。


「なりはそんなだが、うちの筆頭軍師だ。剣もまともに振れねえが、頭の方はまあまあだ。な?」


 異形に魅入っていた男が、その声に振り返った。


「おう、遅くなっちまったな。すまん。しっかし、お前って奴は、ほんと読めねえな。そんなとこで転がってるなんざ、俺は夢にも思わなかったぜ」


 レナーテ軍総大将、キリザの笑う姿が、そこにあった。







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