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ウィルバード  作者: 白銀
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七 「混迷の中を駆け抜けて」

 七 「混迷の中を駆け抜けて」



 ノアは政府の使う全層直結のエレベーターで下層区の更に下、最下層区まで降りていた。

 ヘヴンには必ず一つは全層に直結しているエレベーターがある。主に空母の政府関係者が移動をするために利用しているものだ。一般人が使う大型エレベーターと違い、容積が少ないが、ノアとアルシアの二人を運ぶには十分過ぎる広さがある。

 大型エレベーターには住人が殺到している。中層区と下層区のシェルターに向かうために上層区から流れ込んだ住人が多数いるためだ。勿論、大型エレベーターが複数あるとはいえ、住人全てを一度に運ぶ事はできない。上の階層でも大型エレベーターの周囲には人が集まり、混雑している事だろう。

 アルシアとその中に向かう事は躊躇われた。

 平和の象徴とされていたアルシアの存在は目立つ。いくら、混乱する街中だとしても、行く場を無くしてエレベーターを待つ人達に近付けばアルシアの存在は見つけられてしまうだろう。そうなれば、住人はアルシアに注目するはずだ。

 広場でいきなり姿を消したアルシアがいれば、少なからず問題になる。ノアにとっても、それは好ましくない。ヘヴンの排除には、アルシアの存在も含まれている。

 住人の中で注目されてしまっては、アルシアの居場所は直ぐにばれてしまう。

 ノアとアルシアは二人きりで動く方が逃げ易い。もっとも、ノアにとってはアルシア一人が生きているだけでも良いのだが。

「ヘヴンの人達は……?」

「シェルターで非難すると思う」

 不安げなアルシアに、ノアは静かに答えた。

 空母外部に射出されたシェルターはパラシュートを開き、降下していく。海上に落下したとしても、数日間は生き延びられる食料はシェルター内に備わっている。運が良ければ助かるだろう。その可能性が低い事は誰の目にも明らかだが、緊急時には少しでも生き延びる事ができそうな道を選ぶのが普通だ。

「ここは……?」

「ヘヴンの本当の最下層さ。エンジェルズの生体調整をしてた場所だ」

 エンジェルズが生体調整を行っていたシリンダーは全て空になっていた。全員が防衛戦に回っているらしい。ノアは端末を操作し、脱出艇の場所を確認する。

 二人が建物の外に出ると同時に、空母が揺れた。

 最下層の地面、船底が下方から吹き飛んだ。

「なに……?」

 アルシアの表情の不安が強まる。

 爆雷を投下しただけでなく、下方からも攻撃を仕掛けているようだ。機兵やジェットパックを背負った兵士が多数侵入してくるのが見えた。

「アルシア、俺に掴まれ」

 ノアは言い、リストバンドのロックを解除する。

 脱出艇があるのは、ノアがいる位置とは対照的な場所だ。最下層はエンジェルズのための空間になっている。単独での飛行能力を持つエンジェルズの居住区である最下層は脱出艇の必要性が薄い。同時に、各層に備えられているはずのシェルターも最下層だけは一つもなかった。

 アルシアを背負い、ノアはワイヤーを手近な建物に打ち込んで床を蹴った。

 兵士達は最下層の天井へと向かっていく。爆薬を用いて天井を破壊し、下層区へと侵入するつもりなのだ。同時に中層区からも下層区へと続く穴を開ける事ができれば、ヘヴンは陥落したも同然だ。

 ノアの予想通り、最下層区の天井の一部が爆発し、穴が開いた。振動でワイヤーが震え、バランスが崩れそうになる。ノアはすかさずもう片腕のワイヤーを別の建物に打ち込み、体勢を持ち直した。

 機兵が天井に開いた穴から上へと向かっていくのが見える。

 アルシアがノアに抱き付いている腕をきつくした。ヘヴンが壊れていく様子を見るのが辛いのだろう。

 比較的、建造物の少ない最下層をワイヤーで高速移動していく。

 その途中、突然前方の地面が吹き飛んだ。内部装甲を突き破り、空母の船底に横一直線の亀裂が入る。亀裂といっても、ゆうに五百メートルはある大きさのものだ。

「天井にワイヤーを打ち込んで進むしかないか……」

 ノアは呟いた。

 天井付近にはまだ兵士や機兵がいる。そんな中へワイヤーを打ち込めば、ノアとアルシアの存在が気付かれる可能性も高い。だが、亀裂の向こう側にワイヤーを打ち込もうにも、アルシアを背負ったまま並行移動するのは難しい。ノア一人ならともかく、アルシアを連れて移動するのなら振り子のように伝っていく方が簡単なのだ。平行移動の場合、下手をすればアルシアが落下してしまいかねない。

「おっと、そこから先には行かせねぇぜ、ノア」

 背後からかけられた声に、ノアは振り返った。アルシアを背中から降りるよう促し、身構える。勿論、アルシアを庇うように。

 そこには、リーガがいた。他にも数名、ワイヤーを使うであろう兵士がいる。

「また、戦うの……?」

 悲しげに問うアルシアに、ノアは何も答えない。答えなくとも、彼女には分かっている。ノアが戦わなければ、二人共殺されるであろう事を。

「メインとサブの機関部に時限爆薬をセットしておいた。そう経たないうちにヘヴンは墜落する」

 リーガへ、ノアは右腕を伸ばした。

 誰が動くよりも早くノアが放ったワイヤーを、リーガは首を逸らしてかわす。アンカーが頬を掠り、赤い血が舞った。

「だから、これで決着をつけようってんだろ?」

 リーガの口元に凄惨な笑みが浮かぶ。

「そういう事だ」

 敵が動いた。

 同時にノアも床を蹴って駆け出す。両腕のワイヤーを左右に放ち、上半身を捻るようにしてワイヤーを振るう。兵士達は天井へワイヤーを打ち込み、水平に振るわれたワイヤーをかわす。

 天井と繋がった兵士達のワイヤーへ、ノアは横合いからワイヤーを叩き付けた。途中で横からのベクトルを受け、敵のワイヤーが歪曲する。ノアはバランスを崩して目を剥く兵士に容赦なくワイヤーを叩き付けた。

 両断されれる兵士の身体が落下し、生々しく音を立てて血溜まりの中に崩れ落ちる。

 兵士が横合いから振るうワイヤーへ、ノアは縦にワイヤーを振り下ろした。ノアのワイヤーが命中した部分を支点に、兵士のワイヤーが湾曲し、放った自身の首を刎ねた。鮮血を撒き散らして倒れる兵士を他所に、ワイヤーが絡まるも、ノアは素早く腕を捻って解く。

 ノアの足元にワイヤーが打ち込まれた。飛び退いたノアの目の前に兵士が着地し、腕を振るう。銀色のワイヤーが閃く。

 細く息を吐き出しノアは大きく跳躍した。兵士の振るうワイヤーを飛び越え、その顔面に回し蹴りを叩き込む。容赦の無い一撃に、鼻血を撒き散らして兵士が昏倒する。

「大丈夫、勝てる……!」

 ノアは心の中で呟いた。

 アルテミスは過去に、一度解散した部隊だ。ノアとリーガを残して、部隊は壊滅した。ワイヤーを操る最強の特殊部隊は、その二人以外にはいない。今、リーガが率いているのはアルテミスを真似ただけのものだ。リーガ以外の兵士の練度は低く、ノアの技術には及ばない。

 ノア一人でも、リーガにさえ注意していれば全滅させる事は十分に可能だと思えた。

 背後から突っ込んでくる兵士に浴びせ蹴りを放ち、ノアは真正面からワイヤーを振るう兵士へと右腕を伸ばす。放たれたアンカーが兵士の頭部に命中し、頭蓋骨を砕いた。果物が内側から破裂するように、内容物が撒き散らされる。

 視線を逸らしながら、ノアは腕を薙いだ。扇状に展開していた兵士を薙ぎ払う。

「それ以上動くな!」

 背後から聞こえたリーガの声に、ノアは振り返った。

 目に飛び込んできたのは、リーガがアルシアの腕を掴んでいる光景だった。その数歩後ろには亀裂があり、空が覗いている。

「ここまで連れて来たぐらいだからな、お前にとって、この女は大切なものらしいな」

「お前、何を……!」

「こいつを死なせたくなければ、動くなよ」

 リーガが腕からワイヤーを放った。

 ノアの身体は無意識のうちに、軸をずらしていた。心臓へと向けられたワイヤーをかわし切れず、左腕が深く切り裂かれた。血が噴き出し、鋭い激痛が走る。筋肉の一部が切り裂かれたらしく、上手く力が入らなくなっている。

 考えての行動ではなく、長年の特殊部隊での生活によって形成された反射だ。

「動いたな、ノア」

「まっ……!」

 冷酷に言い放ち、リーガはアルシアを後方へ突き飛ばした。

 即ち、亀裂の方へ。

 目を見開き、呆然と、アルシアが背中から倒れ込んで行く。足場の無い亀裂の中へ、アルシアは吸い込まれるようにして消えていく。

「アルシアァァァァアアアアアッ!」

 叫び、ノアは駆け出していた。

 右腕を伸ばし、亀裂の縁にワイヤーを打ち込む。隣に立つリーガには目もくれず、ノアは亀裂の中へ頭から飛び込んだ。

 リストバンドからワイヤーが引き出されるよりも早く、ノアは落下していくアルシアへと近付いていく。

 きつく目を閉じたアルシアの手を、ノアは左手で掴んだ。

 同時に、ワイヤーが限界まで吐き出され、停止する。その瞬間、ノア自身と、アルシアの体重が右腕に圧し掛かった。加速していた分、荷重は大きく、右肩が外れてしまうかと思う程の衝撃がノアの腕に走る。

「ぐっ……!」

 ノアは呻き声を漏らす。

 原因は荷重による衝撃だけではない。ノアは切り裂かれた左腕でアルシアを掴んでいた。裂けた傷口から血が溢れ出し、腕を伝い落ちていく。

 アルシアの軽い体重でさえも、筋肉の一部が裂けた上体のノアの腕には相当な負荷になっている。傷口が強引に押し広げられているかのような激痛に、ノアは歯を食い縛った。

「ノア、さん……!」

 アルシアがノアを見て、開いている方の手で口元を押さえた。

「直ぐに引き上げてやるから、待ってろ」

 ノアがワイヤーを巻き取り始めると同時に、銃声がした。

 アルシアが目を見開いた。ノアの身体が揺れる。

 亀裂の上の方から、ジェットパックを背負った一般兵の一人がライフルを構えていた。放たれた銃弾は、ノアの脇腹を貫いていた。血が滲み、服を赤く染めていく。脇腹に激痛が走る。

 それでも、ノアはアルシアを捕まえた手を離さなかった。

 きつく握り締めた手から、ノアの血がアルシアの腕を伝っていく。

「ノアさん、手を離して下さい……」

 震える声で、アルシアは言った。

「ノアさん一人なら、助かるはずです……!」

 アルシアは開いた手でノアの左手に触れた。ノアの手を、解こうとしている。

「足手纏いになるのは、もう厭なんです……」

 目に涙を浮かべるアルシアに、ノアは何も答えなかった。ただ、力の入らない手を強く握り締める。手を握り締めれば左腕全体に痛みが走る。それでも、ノアにはアルシアを放すつもりはなかった。

「はっ、健気なもんだな」

 横合いから聞こえたリーガの声に、ノアは鋭い視線を向けた。

 リーガはノアと同様、亀裂の縁にワイヤーを打ち込んで同じ高度まで下りて来ていた。

「一緒にあの世へ行けばいい」

 リーガが片腕をノアへと向けた。

 瞬間、横合いから飛来した黒い影がリーガをかっさらった。その影は高速で空を駆け、亀裂から空母内へと飛び込むと、上空からノア達を狙っている兵士を薙ぎ払った。

 リーガを空母内に放り出し、人影は掌から衝撃波を打ち出して兵士を打ち倒して行く。

「二人とも、大丈夫?」

「あんたは……」

 見れば、ノアの背後にはフィーゼシアがいた。

 そっと、下からアルシアを抱き上げ、ノアの身体も支えて空母内へと向かっていく。

「空母内の人はもうほとんどシェルターで外に射出されたわ。残っているのは、あなた達ぐらい」

「良く俺達がこっちに来てるって判ったな?」

 亀裂から空母内に戻ったところで、ノアは尋ねた。

「ここであなたが端末を使って脱出艇のありかを探ったのが解ったから」

 フィーゼシアは言い、その場から飛翔する。

 空中ではディエルが敵を衝撃波と風で切り刻み、機兵をも打ち倒して行く。どうやら、エンジェル・セカンドはかまいたちも起こす事ができるようだ。

「全く、厄介なもんだな、生物兵器ってのも」

 ディエルに吹き飛ばされて倒れていたのか、リーガが起き上がりながら呟いた。

「あなた達からしてみれば、そうでしょうね」

 フィーゼシアは言い、リーガへと突撃した。

 ワイヤー移動の最高速にも達するほどのスピードで接近するフィーゼシアに、リーガは身を投げ出して攻撃をかわした。その上で両腕のワイヤーを放つが、フィーゼシアは衝撃波を巻き起こし、ワイヤーの向きを逸らせた。リーガの体勢も同時に崩し、蹴りを放つ。

 リーガはワイヤーを打ち込んで強引に移動し、フィーゼシアの蹴りを避ける。その頬に一筋の傷が浮かんだ。フィーゼシアの攻撃が掠ったらしく、静かに血が流れ出る。

「ごめんなさい……私のせいで……」

 アルシアがノアの背中に顔を埋める。ノアのジャケットをきつく握り締めている。

「気にすんな、俺が好きでやってんだから」

 ノアは笑みを浮かべ、告げた。左腕は痛みを増している。だが、まだ右腕だけでも戦える。脇腹の傷に軽く触れ、内臓に損傷がない事を確認した。肉体的な痛みなら耐えられる。アルテミスにいた時には、もっと酷い傷を負った事が何度もあるのだから。

 見れば、リーガが二つのワイヤーを振るい、フィーゼシアを追い詰めていた。

「くっ……!」

 フィーゼシアが悔しそうに歯噛みする。

「アルテミスを舐めるなよ」

 リーガとフィーゼシアがすれ違う。

 膝をついたのは、フィーゼシアの方だった。両腕と一対の翼がワイヤーによって両断され、フィーゼシアが絶叫する。傷口から夥しい量の血が溢れ出た。白銀の光が閃き、フィーゼシアの身体が胸の辺りから上下に分断された。

 アルシアが息を呑み、身を強張らせる。

「貴様ぁーっ!」

 上空から飛来したディエルがリーガに肩からぶつかった。

 黒い翼がはためき、ディエルが上空に打ち上げられる。追い討ちの衝撃波を、リーガは天井にワイヤーを打ち込んで移動する事でかわした。

 突如、リーガとディエルの間に戦闘機兵が割り込んだ。

「邪魔だ!」

 ディエルが手をかざした瞬間、機兵の装甲が前面から剥がれ跳んでいった。強烈な衝撃波を浴び、機兵の両腕がもげ、脚部間接が崩壊する。そのまま吹き飛び、機兵が爆発した。

 ディエルは爆煙の中へと飛び込み、リーガを追う。空中からワイヤーを放つリーがへ、ディエルは強烈な衝撃波を打ち出した。リーガはディエルの構えから衝撃波の放たれる位置を読み取り、そこから逃れるようにワイヤーを使っていどうする。

「ディエル! そいつは俺がやる!」

「断る。フィズの仇は俺が討つ!」

 凄みを効かせ、ディエルが言葉を返す。

 上の層から降下してきた機兵がディエルとノアの間に割り込む。

 ノアは右腕から四つのワイヤーを射出し、機兵へと振るった。綺麗に切断された機兵の身体がずれて落下する。搭乗者までもが切断され、機能を失った機兵が崩れ落ちて瓦礫と化した。

「俺にやらせろ、ディエル。そいつはお前には戦い難い相手なはずだ」

 ノアは告げた。

 ワイヤーを扱う人間は、敵としては厄介な動きをする。空中だろうが地上だろうが、ワイヤーを壁や建物に打ち込む事で自在に移動方向を変えられる。その上、切断力の極めて高いワイヤーを防ぐ術はほとんどない。いくら飛行能力があるとはいえ、ワイヤーを用いる敵と対峙した経験の無いディエルには不利だ。フィーゼシアが負けた理由も、同様だ。

「お前には、他に優先すべき事があるんじゃないのか?」

 ノアの言葉に、ディエルは渋々といったように応じた。フィーゼシアが負けるまで空中にいたという事は、ディエルは敵の殲滅が優先事項という事になる。ならば、リーガを相手に手間取ってしまうのは避けるべきだ。

 仲間が殺されたという事が大きいのだろうが、ノアの言葉に、自分よりも確実に勝機を持っている人物の言葉に従う事にしたようだった。

 後退するディエルの向こうで、リーガが着地するのが見えた。

 リーガの視線がノアへ向かう。同時に、二人は同時に駆け出していた。

 上体を捻り、ノアは右腕を横薙ぎに振り払う。弧を描くワイヤーを、リーガは屈んでかわした。

 すれ違う瞬間、ノアはリーガの口元に笑みが浮かんでいるのが見えた。視線が絡み合い、リーガはノアの後方へと抜ける。

 リーガの踏み込みによる加速を見て、ノアは気付いた。リーガはノアを狙っていない。さきほどと同じだ。

 気付いた時には遅かった。

「アルシア! 逃げろ!」

 叫びながら、ノアは振り返る。

「弱くなったな、ノア!」

 リーガがアルシアへと腕を伸ばす。

「アルシア!」

 ノアの声に、アルシアが動いた。

 アルシアはリーガから逃れるように、横へと足を踏み出す。だが、運動能力の低いアルシアにはリーガから逃れる事はできない。時間稼ぎにでもなればと思ったが、振り返った瞬間にノアの脇腹が強く痛んだ。

 顔を顰め、痛みを理性で捻じ伏せ、ノアはアルシアとリーガの間にワイヤーを打ち込んだ。強引に身体を引き寄せ、リーガを追いかける。

 リーガがワイヤーを放ち、アルシアがふらついた。アルシアの息が上がっているのがノアには見えた。

 ワイヤーがアルシアの右足を掠め、切り裂いた。鮮血が舞い、アルシアがうつ伏せに倒れる。

「ちっ、運の良い奴だ……」

 リーガが呟くのが聞こえた。

 息が上がり、アルシアがふらついた事で、リーガの狙いから彼女の身体がずれたのだ。

 ひゅっと微かな音を立て、ノアの足がリーガの背中に突き刺さった。

「ぬぐっ!」

 ワイヤー移動による加速を加えた蹴りを受け、リーガが吹き飛ばされ、亀裂から外へと弾き出される。

「アルシア!」

 倒れたアルシアへ駆け寄り、ノアは傷口を確認する。

「うぁぅ……」

 アルシアが痛みに呻き声を上げる。傷口は浅くない。骨にまでは達していないものの、夥しく出欠している。アルシアは歯を食い縛って痛みに堪えている。しかし、額に汗が浮き出た彼女の身体は微かに震え、痩せ我慢だという事は一目瞭然だった。

 ノアは額に撒いていたバンダナの結び目を掴み、片手で解いた。

 それを素早くアルシアの脚へと撒き付け、縛って止血する。

「痛むか?」

 アルシアは頷いた。目に涙が浮かんでいくのが判った。

「ノアさん……」

「ん?」

「私、やっぱり、死にたくないです……!」

 アルシアの頬を涙が伝う。

 実際に傷を受けた痛みが、彼女の本音を溢れさせたのかもしれない。

「それさえ聞けば十分だ!」

 ノアは微笑み、立ち上がった。

 亀裂からワイヤーを使って這い上がって来たリーガと、ノアの視線がぶつかり合う。

 すうっと、ノアは目を鋭く細めた。心の中から感情を全て消し去り、かつてのノアへと戻る。アルテミスにいた頃の、ノアへ。

 リーガがノアへ腕を向ける。瞬間、ノアはリーガの足元へとワイヤーを打ち込んでいた。リーガの腕からワイヤーが放たれると同時に、ノアは姿勢を低くして跳んでいる。ワイヤーが身体を引き寄せ、リーガの背後に着地する。

 リーガが回し蹴りを繰り出す。ノアはその軸足を払う事でリーガを押し倒し、防いだ。

 背中が地面に着いた瞬間に、リーガは全身のバネを使って起き上がる。ノアが振るったワイヤーに、リーガが放ったワイヤーが絡み付く。

 ノアは瞬時に腕を捻りながら引き、ワイヤーを解く。同時に、リーガの腹に蹴りを打ち込む。吹き飛ばされるリーガが地面にワイヤーを打ち込んで強引に停止した。

「ノアァーっ!」

 叫び、リーガがワイヤーを薙ぐ。

 痛みを堪え、ノアは左腕のワイヤーをリーガのワイヤーに絡ませた。同時にリーガの背後へとワイヤーで移動し、左腕を強引に動かして解きの技術を使う。

「ノア……!」

「これで、終わりにしよう、リーガ」

 右手のワイヤーで作り出した円が、リーガの首を捉えていた。

 ノアは顔の前にある空気を掴むように腕を捻り、外側へと振り払う。

 白銀の光が閃いた。

 腕に伝わる微かな振動に、ノアはリーガの命が消え去るのを感じた。

 消し去っていた感情が心に戻ってくる。

 今まで、ノアがリーガと戦う場面は何度もあった。だが、その度にノアはリーガを退けて来た。できる限り、向かってくる敵を殺さずに戦って来たのだ。

 だが、それももうこれで終わりだ。

 誰かを守りながら、多数の敵を相手に不殺は難しい。だからこそ、ノアはアルシアを守るために中枢区域の敵の命を全て絶ってきた。

 ノアの背後でただの肉の塊になった人間の成れの果てがくず折れる。撒き散らされる血が服に飛び散ったが、気にしなかった。

 辺りには、先程までノアが戦って来た兵士の死体が散乱していた。船底の亀裂から吹き込む風が血の臭いを掻き消していく。

 アルシアの元へと歩み寄り、ノアは手を伸ばした。ノア自身にも、上手く笑えていない事が判った。強い敵意を抱いていたはずなのに、悲しいと感じていた。

 ノアの表情に気付いたのか、アルシアは微かに目を見開いた。一瞬の間を置いて、アルシアはノアの手を取った。アルシアを引いて起こし、ノアは彼女に肩を貸した。

「ノア、お前の戦いは終わったのか?」

「後はここから脱出できれば終わりだな」

 ゆっくりと降下してきたディエルに、ノアは言った。

「その身体でここを越えられるか?」

「無理じゃなければできるさ」

 ディエルの問いに、ノアは笑って答えた。

「急いだ方がいい。脱出艇は準備しておいた。そこまで辿り着ければ直ぐに脱出できるはずだ」

「お前らはどうするんだ?」

 ノアは問いを返した。

 最下層の兵士はほとんど片付いたようだが、まだ上の層では戦闘が続いているようだ。住人が全て脱出したというのなら、もう戦闘を続ける理由はない。

「俺達にはまだする事がある。俺達の事を、他の空母の人間に知られるわけにはいかないからな」

 それは、暗に、自らもこの場で散るだろう事を示していた。

 生体兵器として完成しているエンジェルズのデータが中枢区域に渡れば、戦況にも影響が出かねない。下手をすれば、戦争はよりいっそう激しいものになってしまう。

 そうならぬよう、全てのデータを抹消するのだ。恐らく、それがエンジェルズの最後の仕事なのだろう。

「死ぬなよ、ディエル」

 フィーゼシアの死は、ディエルにとっては大きな事だ。彼女の下へとディエルも行こうと考えているのかもしれない。折角記憶が戻ったのだから、生きて欲しい。ノアは心からそう思った。

「考えておく」

 ディエルは微かに笑みを返し、飛び立った。

「行くぞ、アルシア」

「はい」

 ノアはアルシアの返事を確認すると、右腕のワイヤーを天井へ打ち込んだ。そのまま、振り子のように移動して船底の亀裂を飛び越える。

 着地を確認してからワイヤーを回収し、奥へと進んだ。

 その先に脱出艇はあった。既に飛行可能なように準備がされている。十人程度しか乗り込めるスペースのない、小型の輸送機といった外観の脱出艇に、二人は乗り込んだ。

 脱出艇の中にあった救命道具を用いて傷を処理する。ノアは左肩と脇腹の消毒と止血を行い、アルシアの傷口も同様に行った。

「操縦、できるんですか?」

「任せとけ」

 機長席にノアが、副座にアルシアが座る。

 ノアは手際良く機器を操作していった。昔いた部隊の中で、ノア達はできる限り万能であるように訓練されていた。無論、脱出艇の操作の訓練も受けている。

 ヘヴン全体が大きく揺れた。

 機関部が爆発したらしい。

「しっかり掴まってろよ!」

 ノアは言い、操縦桿を倒した。

 ゆっくりと脱出艇が前進し、徐々に加速していく。船底の亀裂へと脱出艇を向け、ノアは少しずつ加速させていった。

 揺れはヘヴン全体を小刻みに、しかし大きく振動させている。ヘヴンが陥落するまで、もう時間はなくなっているのだ。やがては機関部の爆発が他の場所へも広がり、空母全体が崩れるような爆発を起こし始める。

 その寸前に、二人は脱出艇で外へと飛び出していた。

 背後で轟音が響き、爆発が起きる。衝撃の余波が脱出艇を襲ったが、どうにか乗り切る事に成功した。

「ノアさん、このバンダナ、良かったんですか?」

 アルシアが自分の右脚に巻かれたノアのバンダナを軽く撫でる。

「後で洗えばいいだろ?」

 アルシアの問いに、ノアは歯を見せて笑って見せた。

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