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ウィルバード  作者: 白銀
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二 「平和のアイドル」

 二 「平和のアイドル」



 ノアは壁に背を預け、裏の方から聞こえて来る慌しい足音を感じていた。

 思ったよりも身体に蓄積されたダメージは大きかったらしい。乱れた呼吸が中々静まらず、手足の痺れが抜けきっていなかった。

 足音の振動を感じながら、ノアは部屋の中を見回す。

 ぬいぐるみは十個以上は目に映り、カーペットも敷かれ、ソファには花柄のクッションが置かれている。ノアの身長ほどもある本棚にはぎっしりと本が詰まっており、テレビやパソコンなどの情報端末も見受けられた。

 まず最初に感じたのは、人気の無さだった。

 部屋の奥には二階へと続いているだろう階段があるが、上の階に人の気配は無い。壁を挟んだ部屋から大勢の気配がするぐらいだ。やがて、その気配も一つになった。

「あの……みんな、行っちゃいましたよ……?」

 ノアの直ぐ脇にあったドアが開き、少女が小さく囁いた。

 長めの栗色の髪に、テレビに映っていた時と同じ青色のワンピースを身に着けた少女がそこにいる。体付きこそ細いが、胸はそこそこある。スタイルは良い方だ。

 ただ、目を引いたのは、彼女が車椅子に座っているという事だろう。電動式の車椅子に乗った少女は、ゆっくりと部屋に入って来た。

「あ、ああ、ありがと……」

 慌てて、礼を言い、ノアは立ち上がろうとした。

「あだっ」

 治まってきていた痺れだったが、ノアの足元をふらつかせるには十分だった。

 立ち上がろうとして、また尻餅をついたノアに、少女は目を丸くした。

「だ、大丈夫ですか?」

 少女がノアへ白くか細い腕を差し伸べる。

「ちょっと大丈夫じゃない、かな?」

 苦笑しながら、ノアは少女が差し出した手を掴んだ。

 引き上げて貰えるのかとノアが腕を引いた瞬間、少女の方が引っ張られた。

「あ」

 互いに声が重なる。

 腰を浮かせていたノアに少女が倒れ込んだ。ノアは少女を抱きかかえるような体勢のまま、再度地面に倒れた。

 少女は、見た目以上に華奢だった。強く抱き締めたら壊れてしまうのではないかと思うほどに。

 ノアの上に倒れ込んだ少女は、軽かった。力が弱いのか、軽かったためかは分からないが、少女はノアを引き上げる事ができなかったのだ。

 二人とも、直ぐに動けなかった。

 微かに甘さを感じる香りがノアの鼻腔をくすぐる。少女は華奢ではあったが、その肌は柔らかく、温かかった。

 ノアが視線を落とせば、ワンピースを着込んだ少女の胸元が見えた。そんな光景を見てどきっとする程、ノアもウブではない。内心で得をしたとすら思っていた。

 が、ノアの視線は一点に釘付けとなった。

 胸元から見えた肌の一部に、大きな傷があった。筋のようなものではなく、大きく張り付いているような傷だ。普通に少女を見たのでは気付かないだろう。ワンピースの服で隠しているのかは分からないが、少女の右胸の辺りには確かに傷があった。少女が痛がる素振りを見せない事から、もう完治しているようだが、傷は消えていないようだ。

「すす、すみません!」

 我に返った少女が慌てて飛び退く。

 どうやら、足が不自由という訳ではないらしい。彼女はしっかりと立っていた。

 ノアは慎重に身を起こし、少女を見上げた。

「君、名前は?」

「え?」

 目をぱちくりさせる少女に、ノアは笑みを浮かべ、自分の名を告げる。

「名前だよ、名前。俺はノア・ウィルバード。君は?」

「私は、アルシア。アルシア・ルネット」

 少女が名乗ったのを聞いて、ノアは一つ頷いた。

「オーケー、アルシア。助かったよ」

 身体の痺れが消えたのを確認して、ノアは立ち上がった。

「家、ぶっ壊しちゃって悪いね。弁償はするよ」

「いえ、別に……」

 口篭るアルシアを見て、ノアは首を傾げた。

 普通なら、いきなり飛び込んで来たノアを警戒するはずだ。そうでなくとも、家に穴を開けたり、机やら椅子やらを破壊したのだから怒るだろう。だから弁償する、と言ったのだが、アルシアはそんな事はどうでも良いと言いたげにすら見えた。

「あれ? 怒んないの?」

「お金なら、ありますから……」

 ノアの疑問に、アルシアは笑みを浮かべて見せる。

 ただ、その笑みは、とても心から笑っているようには見えない。むしろ、哀しんでいるような笑みだ。それも、ノアではなく、自分を。

「あ、怪我してますよ。ちょっと待ってて下さい」

 哀しげな笑みをさっと消し、アルシアはノアを頬の傷を見ると直ぐに戸棚へと向かい、救急箱らしいものを引っ張り出してきた。

「これぐらい、放っておいても治るさ」

 傷に沿って親指を触れ、血を拭う。

 頬の傷は軽傷だ。後で絆創膏でも貼っておけば直ぐに治るだろう。それに、この程度の傷は何度も負っている。慣れているのだ。

「いえ、雑菌が入ったら大変ですよ」

「そんな大袈裟な」

「動かないで下さいね」

 ノアは一笑に付したが、アルシアはそれを無視した。ピンセットでガーゼを摘み、消毒薬を染み込ませてノアの頬の傷に当てる。

「沁みるんだけど」

「そういうものです」

 アルシアは消毒薬を塗り終えると、ノアの頬に手早く絆創膏を貼り付けた。

「ん、サンキュ」

 ノアが素直に礼を言うと、アルシアは僅かに微笑んで、救急箱を片付けた。

 それを眺めながら、ノアは彼女が変わった少女だと思う。ノアを助けてくれた事も、先ほどの哀しげな笑みも、何も聞かない事も。

「何も聞かないんだな?」

「色々、事情があるでしょうから」

 疑問を口にするノアに、アルシアはさも当然といった様子で返した。

「聞かれたくないかもしれない事は聞かないって事か」

 アルシアはノアの言葉に小さく頷いた。

 ノアは小さく息を吐いて、ドアを開け、そこにあった光景に苦笑した。

 壁は崩れ、向かい側のドアは開け放たれている。床には瓦礫と埃、椅子や机の破片が散乱していた。花瓶も割れて転がっており、水浸しになっている。更に、ぶちまけられた花は大勢の人間に踏み潰されたらしく、見るも無残な状態だ。

 流石に心が痛む。アルシアは構わないと言っていたが、このままの状態にして去る事は、ノア自身の罪悪感が膨らむだけだ。彼女一人しか今はいないが、身内が帰って来たらさぞ驚く事だろう。

「とりあえず、まずは掃除かな」

 溜め息をついて、ノアは瓦礫を拾い始めた。

「あ、私がやりますから」

「いや、何もしなかったら俺の方が心苦しいからさ、片付けぐらいさせてくれよ」

「でも……」

 アルシアがすまなそうにノアを見ている。

 何だか立場が逆な気がして、ノアは頭を掻いた。

 最初は、もっと怒られたり、迷惑がられたりするものと思っていた。実際、そういう場合がほとんどだったのだ。部屋の中を滅茶苦茶にされれば、大抵の人は怒る。頭ごなしに怒りをぶつけられれば、ノアも反発していただろう。しかし、アルシアは違った。

「君は、これ見て何とも思わないのか?」

「そんな事はないですけど」

「だったらいいじゃん」

 笑みを浮かべて、ノアは瓦礫を外へとどかし始める。

「でも、ここは私の家です。あなたには関係ないんじゃないですか?」

 アルシアの言葉に、ノアは目を丸くした。

「ははっ、面白い事言うね。ますます気に入ったなぁ」

 アルシアを見て、ノアは歯を見せて笑った。

「関係ないわけないじゃないか。いきなり君の生活に飛び込んで来たのは俺の方なんだぜ?」

 ノアの言葉に、今度はアルシアが首を傾げた。

「まぁ、厳密には関係ないだろうけどさ、そんな事はどうでもいいや。そう思ってたら誰だって部外者じゃん?」

 崩れた壁の穴から瓦礫を外へ放り出しながら、ノアは言葉を続けていく。

「見ての通り、俺は追われてた」

 そこでノアはアルシアに視線を向け

「で、君は、俺を助けてくれたわけだ」

 彼女を見て、ノアはにっと笑った。

「恩人に恩を返したいと思うのは普通だろ? そういう事さ」

 良いものも見させてもらったしね、そう言って、ノアは手際良く瓦礫を片付けていった。

 穴自体は専門の業者でないと塞ぐ事はできないが、それにも現場を片付けておく方が良い。業者に追加料金を支払う事になったり、修理までに時間がかかったりするからだ。

「私も手伝います」

「んー、まぁ、時間短縮にもなるし、いいか」

 駆け寄ってくるアルシアに、ノアは肩を竦めて見せた。

 いつ、あの白コート達が戻ってくるとも限らない。この場を去るにしても、できるだけ早い方がいいだろう。

「あ、瓦礫は重いから俺がやるよ」

 アルシアが瓦礫を持ち上げて運んで来るのを見て、ノアは告げた。

 ノアに比べて彼女は非力だ。アルシアには瓦礫のような重いものよりも花瓶や木片を片付けて貰った方が効率が良い。

 家の壁などに使われている特殊金属は、空母の装甲よりも脆いものではあるが、そこらにある金属よりは硬質なものだ。言うまでも無く、見た目よりも重量がある。

「そ、そうします」

 額に汗を浮かせたアルシアは、ノアの言葉に素直に応じた。

 どうやら、彼女はかなり体力が無いようだ。

 車椅子の事や、この家の住人について気になったが、ノアは聞かなかった。言いたくない事かもしれないし、何よりもノアには直接関係のある事ではない。聞き出す事は躊躇われた。

「瓦礫はこんなもんかな」

 手を打ち合わせて埃を払い、ノアは振り返った。

「アルシア……?」

 ノアの目に飛び込んできたのは、胸を押さえてうずくまるアルシアだった。

「おい! どうした! アルシア! おい!」

 駆け寄り、呼び掛ける。彼女の全身は汗で濡れ、懸命に呼吸をしようとしていた。

 震える手を伸ばして、木片を片付けようとするアルシアを、ノアは抱き上げた。そのまま、ノアが先ほどまで隠れていた部屋へと連れていき、ソファの上に寝かせる。

 アルシアは苦しげな表情ながらも怒ったような目を向けてきたが、声を発する事はできないようだった。

 病院に通報すべきかとも思ったが、ソファの上に寝かされたアルシアの呼吸が安定して行くのを見て、止めた。ノア自身、追われていた身だ。通報しなくても良さそうならば、そのままにしておきたい。

「何が何だかわかんねぇけど、苦しいんなら休んでろよ」

 困惑しつつ、ノアはそう告げると片付けの続きをするために部屋を出て行った。

 片付けを終えたノアが部屋の様子を身に来た時には、アルシアも落ち着いたようだった。

 不意に、電動車椅子に視線が向かった。あれはアルシアの体力を補うためのものに違いない。両足で立ち、歩くこともできるようだが、長時間、もしくは長距離を移動するのは困難なようだ。

「とりあえず、ゴミだけ外に出しておいたぞ」

 ソファの上で身を起こすアルシアを見て、ノアは告げた。

「……ごめんなさい」

「何で謝んだよ? 怒るならともかく。さっきも、怒ってたみたいだったし」

 俯いたアルシアに、ノアは眉根を寄せた。

「迷惑、かけてしまいました」

「気にしてねぇけど。迷惑かけたの俺だし」

 ノアは苦笑する。

 迷惑をかけたのは間違いなくノアの方だ。いきなり家に飛び込み、白コート達を呼び込み、部屋の一つを瓦礫だらけにした。ノアは何一つ良い事などしていない。迷惑かけた、とはノアのセリフでこそあれ、アルシアの言うべき言葉ではないだろう。

「とりあえず、ここに長居してても邪魔だろうから、そろそろ出てくよ」

「あ、はい」

 立ち上がろうとするアルシアをノアは手で制した。そのままでいい、そう言って、ノアはドアへと歩み寄る。

「最後に聞くけど、俺が怖くはなかったのか?」

「飛び込んで来た時は、少しだけ。でも、眼を見たら、怖くなくなりました」

「何で?」

 アルシアの言葉に、ノアは目を丸くした。

「真っ直ぐな眼をしていましたから」

 にっこりと微笑むアルシアにノアは吹き出した。

「良い奴だな、あんた」

 ノアはアルシアに笑い返してから、部屋を出て行った。

 部屋を出たノアは、周囲を見回してから大通りへと向かった。そのまま、手近なホテルに入ると、直ぐに手続きを済ませる。状況を整理するためだけでなく、身を隠すためにも宿を取りたかった。

 ホテルの一室に入ると、ノアはベッドに倒れ込んだ。

「アルシアか……。ん、悪くねぇな」

 うつ伏せのまま小さく呟いてから、

「違う! そんな事考えてる場合じゃねぇじゃん!」

 ノアは本来の目的に気付いたのだった。

 まだ夜にはなっていないというのに、様々な事がありすぎた。

 白コート達の存在は調べる必要がある。同時に、ディヴィエイトについても。恐らく白コート達について調べていけば、おのずとディヴィエイトの情報も出てくるだろう。白コートの一人が「同族」と呼んだのだから、関係があると見て間違いない。

 ノアとディヴィエイトがヘヴンに派遣された理由が分かったような気がした。

 だが、表立って聞き込みをするのはかえって目立つ。ただでさえ、ノアは顔を知られてしまった。白コート達が本気で捕らえようと動き出せば、ノアはあっという間に追い込まれてしまう。

 ノアは大きく溜め息をついた。

 いきなり発狂して失踪したディヴィエイトに腹が立ってきたのである。パートナーとして組んだのだから、相応の働きをして欲しかった。だが、ディヴィエイトはそれをする前にどこかへ飛び去ってしまったのだ。結局、ノア一人で全てこなさなければならなくなった。

 舌打ちして、ノアはベッドの上で仰向けになった。

 右腕を額の上、丁度バンダナの上に乗せて、天井を見上げる。

 疲れたなぁ、と小さく呟いて、身体から力を抜いたノアは目を閉ざした。そのまま、ノアは眠ってしまっていた。

 気付いたのは、もう日が沈んでからの事だった。

 ノアは飛び起きて時計に視線を向け、溜め息をついた。

「七時、か……」

 三時間以上経っていた。

 これからどうすべきかと考えながら、ノアは部屋に備え付けられているテレビの電源を入れる。

 歌声が聞こえて来た。

 清流のような澄んだ歌声だった。消えてしまいそうなくらいの、小さく細い声を引き立てるように、控えめの曲が流れている。画面に映し出されているのは、アルシアだった。ステージの上で、彼女は両手でマイクを持ち、その場から動かずに目を閉じて、ただ歌っている。

 反戦を歌う曲を、ノアはベッドに座った状態で組んだ足の上で頬杖をついて聞いていた。

 静かな雰囲気の中で、彼女の歌声だけが響いている。どこか物悲しげな彼女の歌声が耳朶を打つ。

 最後まで聞かずに、ノアはテレビの電源をオフにした。

「なんか、気になるなぁ……」

 左右のリストバンドに一度ずつ触れ、ノアは分厚い窓を開けてその枠に足をかける。

 部屋は五階の高さにあった。前方、五百メートルほど先に大きなビルがある。ホテルとの中間よりややビル寄りの位置に、目的地が見える。

 吹き込んでくる夜風に、バンダナと髪が靡く。

 口元に一つ笑みを浮かべると、ノアは右手を前方へと伸ばした。

 白銀の光がリストバンドからビルへと伸びる。光の反射の仕方によっては、他の誰にも見えない筋だ。一拍の間を置いて、ノアは窓枠を蹴って外へと飛び出した。

 振り子のように緩やかな曲線を描きながら、ノアは夜の上空を落下して行く。光の筋に自身を引っ張らせ、目的地へとノアは風のように移動する。

 バンダナと髪がはためき、風を切る音がノアの耳に入って来た。

 目的地との距離が十数メートルに近付いたところで、ノアは右手を引き、今度は左手を目的地へと伸ばした。

 右手のリストバンドに、今まで伸びていた光が一瞬で収まる。同時に、左手のリストバンドから伸びた光が目的地の窓の上まで伸びた。そのまま光に身を引かせ、ノアは目的地の窓枠に足をかける。

 窓は閉ざされているため、ロープを伝って崖を下りる途中のような体勢でノアの身体は停止した。二階の窓だ。

 ノアは中からカーテンが閉ざされているのを見て取り、窓を数回ノックした。ノックした後で、別人が現れたらどうしようかと思ったが、そんな不安は杞憂に過ぎなかった。

 カーテンの中央から目が覗き、ノアを見て、見開かれる。カーテンが開かれ、アルシアが窓を開けて顔を出した。

「どうしたんですか?」

 目を大きく見開き、驚いた様子でアルシアが聞く。

「んー、ちょっとね、話がしたくなったってとこかな」

「話、ですか?」

 目を丸くするアルシアを見て、ノアは小さく笑みを見せる。

「入ってもいい? 流石にこのまま話せるほど短時間じゃなさそうだからさ」

「え、ええ、いいですよ」

 驚きながらも、アルシアは身を退いてノアを窓から部屋の中に招き入れた。

 寝室らしく、ベッドがある。カーペットは地味なものだったが、安物には見えない。寝心地の良さそうなベッドも、ホテルにあったものよりずっと上質なものだ。クローゼットや、鏡台らしいものも見受けられる。

 両足が部屋の中に入ってから、ノアは光の筋をリストバンドに収めた。それから窓を閉め、カーテンを戻す。

「あの、今のは?」

「ああ、これ?」

 アルシアの問いに、ノアは右のリストバンドに着いている突起のようなオブジェの一つを左手で摘んで見せた。

 そのまま、左手を引っ張ると、突起はリストバンドから離れる。突起の収まっていた穴から、白銀に光を反射する糸のようなものが突起へと伸びていた。

「単分子ワイヤー、細くて強靭な糸さ」

 ノアの武器であり、移動にも使える便利な道具だ。恐らく、この系統の武器を使わせたらノアの右に出る者はいない。そう自負するほどの腕前をノアは持っていた。

「ま、俺の商売道具ってとこだな」

 言って、ノアは笑った。

 先端部分は重りであると同時にアンカーでもある。高圧縮空気による弾丸並の推力を持ち、物体に食い込んだ所で内側から返しの爪が飛び出す仕組みだ。また、空母都市での運用を前提に、強力な電磁石も備えている。それらの切り替えは、リストバンドと一体になっている、指部分のない手袋の内側に仕込まれたリモコンで行う。微細な手の動きと、腕の振るい方によって、ノアは単分子ワイヤーを操っているのだ。

「えと、何か飲みます?」

「ん、じゃあ貰おうかな」

 アルシアの提案に、ノアは笑みを返した。

「では、下へ行きましょう」

 ゆっくりと階段を降りていくアルシアの後に、ノアはついて行く。普通の人の二倍ほどの時間をかけて、アルシアは階段を降りた。ノアにとっては三倍近い時間だ。

 一階に下りて、ノアは疑問を抱いた。

「もしかして、ここに一人で住んでるのか?」

 ノアは、疑問を口にした。

 一階には、誰もいなかった。昼間、ノアが隠れていた部屋が、二階の寝室と繋がっていた。ノアが破壊した部屋は、外と直通の、いわゆる玄関だったのである。今、ノアとアルシアがいる部屋をリビングとするなら、破壊された部屋は応接間にあたる場所だ。

 大きな部屋は、その三つしか見受けられなかったのだ。そして、夜になっても、いるのはアルシアだけである。

「はい。ここには、私一人で住んでいます」

 質問に答えながら、アルシアはノアをソファに座るよう手で促した。

「……両親は?」

 聞くつもりの無かった言葉が、ノアの口をついて出ていた。聞くべきではないと思いながらも、どこかで知りたかったのかもしれない。

「他界しました。二年ほど前に」

 カウンターのようなもののあるキッチンの辺りから、アルシアが答えた。

「二年前……」

 小さく、ノアは呟く。

 ヘヴンが、中枢区域から離れた時期と一致する。偶然か、とも考えたが、アルシアの口ぶりからはそうは思えなかった。

「戦争に巻き込まれて、両親は命を落としました」

 キッチンから、アルシアが二つのカップを手に戻って来た。

 どうぞ、そう言って、アルシアがノアの前にカップを置いた。

「君も一緒に?」

「私だけが、助かりました」

 アルシアは頷いた。

「助かりはしましたが、一生消えない傷を負ってしまいました」

 微かに寂しそうな笑みを浮かべて、アルシアは両手で包み込むように持ったカップに口をつけた。

「昼間の事、覚えていますか?」

「ん、倒れてた事か?」

「はい、あれは、私が助かった代償なんです」

「代償?」

「……私、右の肺が無いんです」

 困惑して眉根を寄せるノアに、アルシアは告げた。

 ヘヴンが攻撃された際、アルシアは重傷を負ったらしい。背中に直撃した瓦礫によって肋骨が折れ、右の肺を貫いたのである。その瓦礫の衝撃が尋常なものではなかったらしく、ダメージは背中から胸までを貫いた。背中側だけでなく、胸部側の肋骨も砕け、挟まれた肺がズタズタになったのだ。勿論、アルシアは気絶した。

 気が付いた時、アルシアは病院にいた。その時には既に、右肺は機械化された人工臓器に置換されていたらしい。両親が死亡した事と、アルシア自身が瀕死だった事で、人工臓器の移植は彼女の意思とは無関係に行われたようだ。

 結果的には、砕けた肋骨や他の外傷も治療され、右胸に傷が残った以外に外見的変化は無かった。ただ、人工臓器は本物に劣る。左肺よりも大きいとされる右肺を人工臓器に変えた影響で、彼女の体力は極端に低下した。更には、激しい運動をして低酸素状態になるだけで直ぐに呼吸困難に陥るようになってしまったのである。

「そうか、それで、体力が無いのか」

 発作からの回復は早いが、発作が起きるという時点でマイナスな事に変わりは無い。

「ええ。ご迷惑をおかけしました」

「悪ぃ事聞いちまったな……」

 カップを手に取り、ようやくノアは口につけた。寸前に見た中身は、黒い色をしていた。それがコーヒーだと気付いたのは、口をつけたのと同時だった。

「にが……」

 僅かに眉根を寄せ、ノアは呟いた。

 アルシアがくすりと笑う。

「ごめんなさい、好みが分かりませんでしたから……」

「いや、まぁ、嫌いって訳じゃないし」

 好きでもないけど、という言葉を飲み込んで、ノアはアルシアが差し出したミルクと砂糖を受け取った。

「俺も、両親はいないんだ」

「え……?」

「孤児なんだよ、俺」

 意外そうな顔をするアルシアに微笑みかけながら、ノアは言った。

「育ったのは、テミスだけど、本当の出身地は知らないんだ」

 空母都市『テミス』。中枢区域に置いて、連合国家の首都と呼ぶべき都市である。最大級の大きさを持つ空母であり、軍事力や経済力も一際高い。

 ノアは、そのテミスの孤児院にいた。

 もっとも、ノアは直ぐに孤児院から引き取られ、特殊戦闘員として英才教育を受けるのだが。

「色々あってね、今じゃちょっとばかりヤバイ仕事もしてる」

 だいぶ甘くなったコーヒーを、ノアは口に含んだ。

「ま、それはさておきアルシア。あんた、テレビに出てるよな?」

「う、うん……」

 ノアの問いに、アルシアは頷いた。

「二年前の事故の後、それを振り返るような番組が企画されていたらしいんです」

「そこから、テレビに?」

「ええ、気付いた時には、平和を掲げるアイドルになっていました」

 少し困ったように、アルシアは言った。

 テレビに出るというのも体力を使う仕事だ。彼女には結構な負担になっているに違いない。

「辛くない?」

「私の言葉で、少しでも、平和が広がるのでしたら」

 それでも構わない、アルシアはそう答えた。

「やっぱり、良い奴だな、あんた」

 惚れたかも、そう言って、ノアは笑って見せた。

 アルシアの頬が微かながらも朱に染まる。

「でさ、ちょっと聞きたいんだけれど」

「は、はい」

 慌てたように、アルシアは背筋を伸ばした。

「俺を追ってた奴らについて、何か知ってる? 俺、来たばかりで、ここの事ほとんど知らないんだよな」

 頭を掻きかながら苦笑し、ノアは問うた。

 ノアも半ば忘れかけていた事が、聞いておかなければならない。今までの行動や言動から、アルシアは無闇にノアの事を通報したりはしないはずだ。それを利用する、という事に心が痛んだが、ディヴィエイトの事もある。できる限り情報は集めておかなければならない。

「私も、詳しくは知りません」

「詳しくなくてもいいや、知っているだけの事を教えて欲しい」

 詳細な情報でなくても、手がかりになれば十分だ。ノアはアルシアの言葉を待った。

「彼らは、エンジェルズと呼ばれています。警察とは別の、自衛組織のようです」

 天国ヘヴンを守るための天使、という意味合いだと、アルシアは語った。詳細は知らないが、公安機構とは別物でありながら、ヘヴンの政府の下に活動している組織らしい。

「そこまで知ってるのに、何で追われてるのかは聞かないんだ?」

「あなたが悪人には見えませんでしたから」

 苦笑するノアに、アルシアは微笑みかける。素直に、その笑みがノアは気に入った。

 ただ、ノアがヘヴンにとって悪人である可能性は少なからず存在する。アルシアに少し後ろめたさを感じながらも、ノアは口に出せなかった。いや、出す訳にはいかなかったというべきか。

「エンジェルズかぁ……。ここに住む人はみんな知ってるのか?」

「自衛組織である事は、ほとんどの人が知っていると思います」

 アルシアの言葉に、ノアは昼間の事を思い返した。

 エンジェルズに追われているところを、ノアは見られてしまっている。報道されている可能性もある。だとしたら、ノアの今後の行動に支障が生じる可能性も高い。

 今のところ、本格的にノアを探し回っている様子はないが、その辺りも注意しておかなければならないだろう。

「とりあえず、それだけ分かっただけもありがたいや」

 ノアは空になったカップをテーブルに置くと、ソファから立ち上がった。

「あ、帰りますか?」

「また来てもいいかな?」

「ええ、私がいる時でしたら」

 ドアを開けて問うノアに、アルシアは微笑みかけた。

「オーケー、じゃあ、またな」

 ノアもアルシアに笑みを返し、破壊された部屋から外へと出た。

 人気の無い路地裏へと進み、ノアは両腕のリストバンドに一度ずつ触れる。それが、単分子ワイヤーの射出ロックを解除する動作になっているのだ。

「そういや、いつなら家にいるんだろ……」

 外に出てから、ノアは肝心な事を忘れていたような気分になった。アルシアに会うためには、彼女が家にいる時間帯に訪ねていかなければならないのだから。

「って、そうじゃねぇ」

 頭を左右に振り、ノアは思考を切り替えた。わざわざアルシアに会わなければならない必要性はないのだ。

「エンジェルズとヘヴンの政府に繋がりがある……。手がかりとしては十分だな」

 アルシアに感謝しながら、ノアは右腕を自分が泊まっているホテルへと向けた。

 飛び出してきた部屋の辺りに狙いを定め、ワイヤーを射出する。白銀の光が伸びていくのを見つめながら、ノアは明日の行動を考えていた。

 ディヴィエイトを追う術はノアにはない。ならば、ディヴィエイトと繋がりのありそうなエンジェルズを調べるのが得策だろう。ヘヴンの政府と関わりがあるのなら、政府周辺から探るのが良い。

 ワイヤーの先端がホテルの壁に固定されたのが手ごたえとして腕へ伝わってくる。それを合図に、ノアは地面を蹴り、ワイヤーを回収させて体を持ち上げた。

「そういや、飯食ってねぇや、俺」

 夜空を裂くように進みながら、ノアは今頃になって空腹を思い出していた。

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