2-イエローワールド
風を感じる。砂の城が崩れていくような音が耳を叩く。花のような匂いが鼻孔をくすぐる。
棺桶にしか見えないカプセルにその身を納めたハズの二人は、本来ならば有り得ない感覚を五感に浴びていた。夢の中が一番近いが、それよりも明らかに明確で現実感のある刺激だ。
目蓋によって辛うじて遮られていた世界を確認すべく、薄闇のベールを持ち上げていく。そして二人は、自分の周囲に広がる世界の形を目の当たりにした。
「なにこれぇー!」
ステラの絶叫が、木霊することすらなく青い――否、黄色い霞のかかった空に溶ける。
そこは黄色い、何もかもが黄色一色に染められた世界だった。
「え、どこなのここ? 砂漠?」
「いや、砂漠じゃないな……」
ヨーヘーはその場に膝をつき、左手で細かな粒子を掬い上げる。砂粒にしてはあまりに細かすぎる。それは小麦粉か何かのように、穏やかに駆け抜けていく風に乗って広がりながら宙に溶けていった。
一見すると何なのかわからない。しかし彼には、それが何であるのかわかるような気がした。彼の身体が叫ぶのだ。それはとても危険なものだと。
「これってひょっとして……へっぶし!」
鼻の奥を走り抜けた拒絶反応に呼応して、豪快なくしゃみが放たれる。それが更に、左手に残っていた黄色い粉末を巻き上げた。前後左右、どちらを向いても黄色い世界、その圧倒的な花粉力の前に、花粉症のヨーヘーはすでに死んでいるも同然である。
それは例えるなら前門の狼後門の虎、あるいは四面楚歌、より具体的に言うなら北斗兄弟(ジャギ除く)に囲まれたモヒカンの如き惨状であろう。
「よーへー、どったの?」
対するステラ、花粉症とは無縁の彼女にとっては、地面を構成する物体などさしたる問題ではないらしい。エビフライにのってる白い塊がタルタルソースでなくマヨネーズでした、くらいの違いなのだろう。ちなみに、彼女は食べても気付かない程度の猛者である。
「これ花……へっぶしっ……まずいぞ。このま……へぶしっへぶしっ……何かマス……はっぶしっ!」
まるで言葉になっていない。このままでは花粉に犯されてグチョグチョのドロドロになるのは明白過ぎる定めである。命どころか貞操まで失いかねない一大事かもしれない。
「あははははは、ヨーヘー何言ってるかわかんないし」
そんな人生崖っぷちの幼馴染みを目前にして、大受けで腹を抱える女が一人。もちろん彼の中に殺意が芽生えたのは言うまでもない。
「お困りのようですな?」
背後から不意に聞こえた声に引っ張られるように、二人は同時に振り返った。いかに足元が足音の鳴りにくい花粉砂丘であるとはいえ、気配一つ発することなく近付くなど困難にもほどがある。まして周囲には身を隠す遮蔽物の一つすら見当たらないのだ。例え黄色い電気ネズミが走り抜けたとしても、視界に入った瞬間に見付かってしまうだろう。それを避けるためには、完全に背後を維持したまま近付くより他に方法はない。
しかも、しかもである。声を掛けてきたボロ布を身に纏い口元にガスマスクテイストな大きなマスクをしたユパ様みたいな白髪の老人は、悠然と胡坐をかいているのだ。二人にとっては、まるで突然背後に現れたとしか思えなかった。
「お爺ちゃん、一体どこから現れたの?」
「まるでこちらが転移でもしてきたかのような物言いだな。まぁ良い。そう思いたくばそれも一興というものだ。しかしお嬢さん、そんなことを気にしていて良いのかね?」
「どういうこと?」
男は眉一つ動かさずに、ゆっくりと左手を持ち上げる。
「君の相方が死にそうだが」
くしゃみ地獄がエンドレスでフィーバー状態である。
「あぁ、気にしないで。軟弱なヨーヘーは花粉症だから」
「花粉症……」
男の眉間に一瞬皺が寄る。しかしそれはすぐに消え、何かを思い出したように自らの懐へと手を入れる
「とりあえず、これをやろう」
そして差し出したのは、彼がしているものと同じタイプのマスクだった。しかも二つある。
「どど、どーも……へっぶし!」
礼を言うのも早々に、ヨーヘーは男の手からマスクを受け取る、というより奪う。
「あ、私はいいよ。何ともないから」
「そう言わずに付けておけ。それとも何か、この老いぼれが君の使用済みマスクを後でくんかくんかするとでも思うのかね?」
「……ていっ」
とりあえず叩き落した。
「のわっ、何てことを。貴重なマスクが花粉で穢れる!」
「すでに十分穢れてるわっ!」
「失礼なっ。人の善意を無下に――」
「おおおおーーーっ!」
男の言葉はマスクを装着したヨーヘーの雄叫びに遮られる。まるで人間でもやめるかのような声を発する彼に、二人の冷たい視線が突き刺さる。
だが、その視線を浴びて尚、ヨーヘーのテンションは落ちなかった。
快適なのである。
「このマスク、凄いなコレ」
「そうだろうとも。コレがなければ、我々人間は外を歩くこともままならん。というより、マスクも無しにどうしてこんな場所に居るのだ?」
「それは――」
事情を説明しようとして、思い出す。自分の立っているここが、BFの中なのだということを。
「すいません。ご説明しますんで、色々と話を聞かせてもらって構いませんか?」
ヨーヘーの表情に真剣な気配を汲み取ったのか、老人の表情にも張りが宿る。
「構わんが、一つ条件がある」
「条件? 何ですか?」
「ワシを負ぶって家まで連れて行ってくりゃれ」
そう言って両手を突き出す爺さんを、二人の男女が冷たく見下ろす。
「そそ、そんな目をするなー。仕方ないだろ。お前達が突然目の前に現れたりするから、腰抜かしたんじゃないかぁ!」
異邦人の大きな溜め息が、黄色い風に溶けた。
「お察しの通り、ここは日本だよ。いや、かつて日本だった場所、と言った方が正しいな。国など、もう無いに等しい」
小さな小屋、というより黄色いエスキモーハウスのような避難所に到着した三人は、奥に男を座らせて正対し、手短に情報の共有を行った。とはいえ二人は架空世界に飛び込んだ異邦人である。この不自然極まりない状況を理路整然と納得させるだけの言葉を持ち合わせてはいない。
「それにしても、異界からの旅行者とは驚いたな。そこはマスクがなくとも生きていけるような場所なのかね?」
「えぇ……というか、信じてくださるので?」
ヨーヘーの懸念はもっともな話である。
「信じたいものだな。大地が黄色以外の色に染まっている世界があると言うのなら」
「で、ここって何でこんなに黄色いの? 町は? 他には誰も居ないの?」
一面の黄色に思考停止していたステラも、自分の立っている大地の異常性にようやく気付いたのか、男に食ってかかる。
「そうだな。異邦人であるのなら聞かせてやろう。この世界に何が起きたのかを」
語りモードが絶賛稼働中である。
「降り続ける杉花粉は、瞬く間に大地を黄色く覆った。平地は僅か数ヶ月で完全に染められ、文明は沈んだ。旧文明の遺産は、今や五十メートルに及ぶ花粉層の下にある」
「いやいやいやいやっ、何でそんなことになったの? どうして黙って見てたの? というか五十メートルって、どんだけ降り続いたのよっ」
いきなりツッコミどころ満載である。
「人も動物も、どんどん死滅していった。あの不治の病――花粉症によって」
「死んだ? え、花粉症で? 何それ怖過ぎ。もしかしてヨーヘーもこのまま花粉症を放っておいたら死ぬの?」
「いや、さすがに死なないと思うぞ」
エキサイティングするステラとは対照的に、ヨーヘーは奇妙なほど冷静だ。何かを見極めているようにも映る。
「花粉症を甘く見てはいかん。ワシは見てきたのだ。花粉症によって命の灯火を消されていく、あの哀れな者達を」
「鼻水の出し過ぎで脱水症状とか、くしゃみが止まらなくて呼吸困難とか、そういうヤツ?」
嫌な死に方である。
「そんな程度で人は死なんよ。彼らは花粉に脳を犯され、狂ったように花粉の海を泳ぎ続け、そして息絶えた」
「花粉怖い!」
「そうだろう。だがな娘さん、それでも十年前までは、肩を寄せあって生きていく分には問題なかったのだ。人々は花粉を活用し、花粉を食べ、花粉を友として生きていけた。あの『花粉帝国』が現れるまでは」
「かふんていこく?」
聞き慣れない単語過ぎて、もはや彼女の脳内では変換されないようである。
「左様、だが連中のことを話す前に、まずは花粉人のことを話さねばなるまい」
「かふんじん?」
もはや何の言語を話しているのかすら判然としないかのような表情である。
「花粉人はワシが子供の頃――五十年ほど前にどこからともなく現れた連中だ。それは手足と頭があるだけののっぺりした存在で、目も口も耳もない。だが意思の疎通はできるらしく、ワシらの言うことを何となく理解しているようだった」
「花粉を固めてできた人間、みたいなものですか?」
興味を引かれたのか、ヨーヘーが口を挟む。
「いや、人間というよりはぬいぐるみに近いだろうな。大きさは二本足で立っても大人の膝くらいしかない。それがちょこまかと動くものだから、得体の知れない存在ながらも愛嬌があった。それ故、人間の社会にも容易に溶け込んだ」
自動的に動く花粉人形、とでも言うべき代物のようである。
「どうやって動いてるの、それ?」
ステラの疑問は当然のものだが、この状況においては些事でもある。
「わからん。だが、何かしらの意思はあるように思えたな。もちろん、連中が何を考えているのかなど知る由もない。しかし少なくとも十年前までは、人間ともそれなりに仲良くやっていた」
「何があったんです? 十年前に」
ヨーヘーの問いに、男は眉根を寄せる。それは嫌悪感と悲壮感が入り混じった、絶望と相対した時のような顔であるように見えた。
「皇帝が、現れたのだ。奴は花粉人を纏め、巨大な都市を造った。そして人間達を攫い始めた。かつては賑わったこの辺りも、今となってはワシを含めて数名が散在するのみだ」
「攫うって、何のために?」
「恐らくは奴隷として働かせるためだろう。花粉人の言葉はいつだって意味不明かつ無理難題のオンパレードだ。そしてそれに応じなければ、力づくで連れ去ろうとする。まともな要求ではあるまいよ」
得体の知れない惨状を聞いて、さすがのステラも不安そうに表情を曇らせる。とはいえ、こんな場所に父親が居ると知れば、それは当然の反応かもしれない。
「実はオレ達、人を捜しているんです。記録によると五時間くらい前に来ていると思うのですが、見知らぬ人間が居たとか、そういった心当たりはありませんか?」
「白髪交じりのチョビ髭オヤジなんだけど」
少し踏み込んで襟首捕まえて戻るつもりだった二人にしてみれば、この状況は予想外の想定外である。
「……すまん。今日はキミ達以外の人間を見かけてはいないのだ。だがあるいは――」
言いかけて何かに気付き、その視線を簡素な入り口へと向ける。
「丁度いい。連中に直接聞いてみよう」
「へ、連中って?」
微かに届く足音に気付かなかったステラは、大きく首を傾げる。
「懲りずに来たのさ。ワシを攫おうと企む花粉人がな」
立ち上がる男は、そう言ってニヤリと笑った。