自惚れ男はもうごめん。何その「俺に惚れるなよ」みたいな態度?
お読みくだされば恐悦至極に存じます。(ノ_ _)ノ
出会ったのは西陽が斜めに差し込む、放課後の図書室だった。隣のクラスの転校生・エンシオと共通の推し作家をきっかけに意気投合した。
私は最初、ただの趣味が合う仲間だと思っていた。けれど、彼は次第に「これ、気に入ると思うから」と、入手困難な古装版の詩集や、自分自身の抒情的な感想がびっしり書き込まれたノートを何度も贈ってくるようになった。
正直、戸惑いはあった。趣味が合うのは確かだけれど、彼が差し出す熱意は単なる友人への親愛を超えていて、どこか私を追い詰めるような重さを含んでいた。私はそんな彼の好意をなんと表現したら良いのか、どう受け止めたら良いのか、その時は分からなかった。
本当はここで距離を取るべきだったのかもしれない。けれど、それを選べばこの心地よい関係が終わる気がしたから、私は決めきれなかった。避けていたのだと思う。
(私を信頼して、大切な本や自分の内面をさらけ出してくれているのよね?
もしこれが彼なりの求愛なのだとしたら、私も相応の覚悟を持って、彼を男として見られるかどうかを真剣に考えなければならないわ……)
私は次第に、彼との「趣味の合う友人」という関係を壊したくない自分と、向けられた好意に対して誠実な答えを出さなければならないという、生真面目な義務感の狭間で揺れ始めていた。
そんな折に誘われたのが王都で話題の古典悲劇の観劇だった。
「フェリシティ、いいかい?
この世界の悲劇はただの娯楽じゃない。かつての動乱の歴史を風化させないための、いわば生きた教科書なんだ。不協和音を多用した旋律で混沌とした時代を表現する、音楽史的にも極めて価値の高い傑作なんだよ。歴史の闇を正視してこそ、人は今の輝きを守る知恵を得られる。
ねぇ、隣で見てほしい。きっと君も好きだと思う、この物語が示す文化の深淵が」
(ちょっと何を言ってるのか分からないわ)
私はそのチケットを指先でなぞりながら一晩悩んだ。
これに行かなかったら彼を拒絶したことになって今の友情すら失うのか、それとも行って一歩踏み出してみるのか。
私は「まずは彼の世界を知り、彼を異性として意識できるのか考えよう」と自分に言い聞かせ、当日を迎えた。
観劇の日。
舞台の上では運命に翻弄される老王と一族が激しい愛憎の言葉を交わしていた。
隣に座るエンシオは上下黒一色の渋い装いそのままに、物語の構造や音楽の技法を冷徹に分析するような眼差しで舞台を見つめている。
一方で私は別の意味で舞台に釘付けだった。
(見て、あの古風な様式の仕立て。あの袖口の細密な刺繍、手作業でしか出せないはずの立体感が完璧に再現されているわ。重厚な生地が動くたびに放つ光沢、なんて見事な工芸品なのかしら!)
私は歴史の教訓よりも衣装の再現度や当時の風俗の妙に感心し、別の視点から鑑賞を楽しんでいた。
しかし、隣に座るエンシオの反応は私の予想とは違っていた。彼は時折、舞台のクライマックスでもないのに私の方を向き、とろけるような甘い眼差しで私の横顔を盗み見ては芝居がかった深いため息をつくのだ。
幕間、劇場の昂揚感に包まれたロビーで彼は私の顔を覗き込み、距離を詰めて囁いた。
「ねえ、フェリシティ。僕たち、これって傍から見たら完璧なデートだよね。
君がこうして隣で僕と同じ歴史の深淵を見つめてくれているだけで、僕はもう、言葉にできないほど幸せなんだ。
舞台の上の偽物の恋人たちよりも、今の僕たちの方がずっと美しく、真実味があると思わない?」
(私は歴史より、あのドレスの構造に夢中だったのだけれど)
「…エンシオ様、それは。私たちはまだ、そういう約束を交わしたわけでは……」
「いいんだ、何も言わなくて。衣装が示す当時の身分序列について考えていたんだろう? 君のそういう、慎重で思慮深いところが大好きなんだ。
焦らなくていい、僕は君をずっと、僕だけの特別な場所で大切にしたいと思っているんだから」
彼は私の戸惑いや違和感をすべて恋に落ちる直前の乙女の羞恥と勝手に解釈し、優雅に私の手を取って、その甲に唇を寄せた。その感触に私は甘やかさよりも、何か決定的なズレに対する恐怖を覚えた。
彼を異性として見られるのか、それともやはり、一生の趣味を語り合える友として留めておくべきなのか。
その夜、私は彼から借りた詩集を何度も読み返した。彼がわざわざ赤い線を引いた箇所、余白に書き込まれた「愛とは自己を捧げる儀式である」という独りよがりな言葉。それを一つ一つ、自分の心に照らし合わせてみる。
(もし彼と付き合ったら、私は彼のこの過剰な熱量を毎日同じ熱量で返し続けなければならないよね。それは私にできることなの……?)
結局、私は一睡もできずに朝を迎えた。クマの浮いた蒼白い顔を必死に化粧で隠しながら私は決意を固めていた。
今日、彼に会って私の正直な気持ちを話そう。
まだ恋には至っていないけれど、あなたの誠実さには感謝している。でも、そんなに急げない、と。
なのに。
休み明けの月曜日。校門付近の大きな庭園で見かけたのは二学年下の妹・チェルシーの腰に手を回して歩くエンシオの姿だった。
チェルシーは以前から、私とエンシオが図書室で話しているのを遠目で見ては、「あの方、本当にお金持ちそうで素敵ね。いつも上下、黒のお衣装だけど、上質の絹だわ。…お姉様とは合わないんじゃない?」と、棘のある言葉を呟いていた。
まさか、この観劇からわずか一日の間に何かが起きるとは思わなかった。
「あ、お姉様。おはよう。顔色が最悪ですよ? 昨夜、あまり眠れなかったんじゃありません? 」
チェルシーが勝ち誇ったような、それでいてどこか「愚かな姉」を見下すような笑みを浮かべて声をかけてくる。
「フェリシティか。
ちょうどいい。驚かせてしまったかもしれないが、僕はチェルシーと付き合うことになったんだ」
エンシオは昨日まで私に向けていた熱い眼差しを、今は微塵の躊躇もなくチェルシーへと注いでいる。その瞳には一欠片も申し訳なさも揺らいでない。
「彼女、僕の詩を読んで涙を流してくれてね。昨日、彼女の方から真っ直ぐに想いをぶつけられたんだ。
『お姉様に気兼ねして言えなかったけれど、ずっと貴方だけを見ていた』とね。
その時、僕は雷に打たれたような衝撃を受けた。僕を本当に、魂の底から理解し求めてくれるのは、フェリシティ、君ではなくチェルシーだったんだって。
君との時間は僕にとっては、この運命に辿り着くための、前振りに過ぎなかったんだよ」
私は絶句した。
昨日の「デートだよね」という囁きは一体どこへ消えたのか。
私が一晩中一人で抱えていた、あの身を削るような葛藤の時間は何だったのか。
彼の「大切にしたい」という言葉は別の誰かに即座にスライドできる程度の、誰にでも使い回せる軽いラベルだったのか。
あまりの切り替えの早さに思考が真っ白になる。
——いや、違う。最初から彼は一度もこちらを見ていなかったのだ。
私は満足げに立ち去ろうとする彼を反射的に呼び止めた。
せめて、彼が私に求めていた「誠実さ」の正体が何だったのか、確かめずにはいられなかったのだ。
「待って、エンシオ様。
昨日の言葉、一体どういうつもりで口にしたの? 貴方は私にあれはデートだと言った。私、貴方のその言葉を重く受け止めて、どう応えるべきか、ずっと悩んで眠れずにいたのよ」
振り返った彼が浮かべたのは、あろうことか深い慈悲に満ちた「可哀想なものを見る」憐れみの顔だった。
「フェリシティ。……君が僕との時間に淡い期待を寄せていたのは知っているよ。僕という価値ある男を逃したくないという、その必死な焦りもね」
「そんな話じゃなくて!
貴方の態度の急変に戸惑っているのよ。昨日までのあの熱意は全部嘘だったの?」
「わかっているよ。
でもね、フェリシティ。君の態度は少し慎重すぎた。いや、傲慢すぎたと言ってもいいだろう。
チェルシーのように素直に僕の愛を飲み込めない君の性格は僕には重荷だったんだ。君は僕の愛を値踏みして、自分が選ぶ立場にいると勘違いして、僕を焦らせることで優越感に浸っていた。
違うかい? 結局、君は僕を愛していたわけじゃなく、僕に愛されている自分を愛していただけなんだ」
エンシオは私が彼との関係を壊したくない一心で誠実であろうとした時間を、一言「値踏み」と切り捨て、勝手に私の胸にドロドロとした執着のレッテルを貼り付けた。
「……そう」
それだけ返して、私は口を閉じた。
違う、と即座に言い切れない自分がいるのが、何より腹立たしかった。
彼が私に求めていたのは「対等な対話」ではなく、「自分という太陽を追い求めるひまわり」でしかなかったのだ。
「僕はこれから、自分をより高めるために隣国へ留学する。
君も……その、素直になれない理屈っぽい性格を改めた方がいい。これ以上僕を追いかけて、自分を惨めにするのはやめなよ。君のような執拗で可愛げのない女、今のままでは誰も救い出せないよ。
僕への未練を早く断ち切って、少しは妹の、その純粋で一途な想いの、爪の垢でも煎じて飲むんだね」
彼は満足げに、私を「教え諭してやった哀れな女」として完璧に処理し、軽やかな足取りでチェルシーを連れて去っていった。チェルシーは去り際に、私にだけ聞こえるような小さな声で「お姉様は考え過ぎなのよ。だから幸せを逃すの」と囁いた。
呆然と立ち尽くす私の横で、木の幹に寄りかかっていたエンシオの親友のソロが、堪えきれないといった風に肩を大きく揺らして笑い出した。
「あーあ、終わったね。あいつ、冷めるとああなるんだよ。
散々だねぇ、フェリシティ。エンシオは君が今にも縋り付いてくるストーカーだと思い込んでる。
今のアイツに、何を言っても無駄だよ。エンシオの中では君はもう『選ばれなかった可哀想な女』として完結しちゃってるからさ」
ソロは私の顔を覗き込み、私の頬に触れようとして、ニヤつきながら続けた。
「まあ、どうしても寂しくて死にそうなら、僕が相手くらいはしてあげようか? 君のその『重い愛』、僕なら余裕で受け止めてあげられるし、エンシオより僕の方が女の扱いを知っているよ。
どう? 」
その薄ら笑いと、すべてをわかったような口振りに、私はようやく、すとんと胸のつかえが落ちるのを感じた。
ああ、そうか。
やっぱり、彼を「趣味の合う友人」以上に思えなかった私の直感は、これ以上ないほど正しかったのだ。
(……それでも、あのまま答えを出さずにいた自分が、何も間違っていなかったとは思えないけれど)
彼らにとって、女の誠実さや葛藤、ましてや「対等な友情」なんて、最初からどうでもよかったのだ。
自分の差し出した熱量に対して、即座に「自分を気持ちよくさせる、わかりやすい反応」を返してくれる駒が欲しいだけ。私が真面目に悩めば悩むほど、彼らはそれを「自分への依存」や「執着」と脳内で変換して悦に入る。
「男って、どうしてあんなに幸せなほど自惚れられるのかしら」
私が費やした不眠の夜も、慎重に選ぼうとした返答も、彼らにとってはすべて「自分という素晴らしい物語を彩るための、スパイス」に変換されてしまう。
私が誠実であろうとすればするほど、彼らの自惚れを加速させる燃料になっていたのだ。
「ソロ様。貴方のその自惚れも相当なものね。人の心配をする前に、ご自分のその浅はかな性格を心配したら?
鏡を見てからおっしゃったらどうかしら」
吐き捨てるようにそう言うと、私はソロの呆然とした顔を背に、ゆっくりと、しかし確かな足取りで歩き出した。
私はただ、静かな図書室で穏やかな時間を取り戻したかっただけなのだ。
帰ったら、あのセンスの合わなかった詩集を暖炉に放り込んで、今夜こそ泥のように深く深く眠ってやろう。
隣国へ行くエンシオが向こうで誰に「自分を改めろ」と筋違いの説教を垂れようが、妹のチェルシーが後を追って行こうが、もうフェリシティには微塵も関係のないことだった。
親切でした事が自惚れられたことよくあります。
本当に気はないのに。そもそも好みでないのに…。




