第二話
王都の下町。パンを焼く香ばしい匂いと、鍛冶屋が鉄を打つ音が混じり合う、活気に満ちた一角。その一番奥まった路地裏に、わたくしは小さな工房を構えた。
看板に掲げた名前は、『エマの気まぐれ工房』。
……我ながら、なかなかのセンスだと思う。
「ふふっ、ふふふふふ……!」
工房中に、わたくしの引きつった笑い声が響く。
無理もない。だって、最高に幸せなのだから。
公爵令嬢時代に着ていたシルクのドレスは、とうの昔に売り払った。今は、動きやすくて汚れてもいい作業着がわたくしの正装。完璧に結い上げていた髪は無造作にまとめ、顔には油の汚れ。爪の中は真っ黒だ。
(もし今のわたくしを母が見たら、卒倒するどころか、三日三晩寝込むに違いないわね!)
それがどうしたというのだろう。
目の前には、分解された魔道具の部品たち。愛おしい歯車、美しい術式が刻まれた魔石。これらに囲まれているだけで、わたくしの心は満たされた。
工房を開いて一月。最初の仕事は、近所のおばあちゃんから頼まれた「魔力灯の修理」だった。ちょちょいと改良して、元の三倍は長持ちするようにしてあげたら、お礼に大量のクッキーを貰ってしまった。
それが口コミで広がり、今では「自動で動く箒が欲しい」だの「絶対に焦げ付かない鍋が欲しい」だの、細々とした依頼が舞い込むようになっていた。
(生活は質素になったけれど、毎日が楽しい! これよ、これこそがわたくしの生きたかった人生!)
そんなある日の午後だった。
工房の扉が、重々しい音を立てて開かれた。
「……やっているか」
そこに立っていたのは、全身から「堅物」というオーラを뿜わせている、長身の男性だった。漆黒の騎士服に身を包み、鋭い眼光は氷のように冷たい。その威圧感に、思わず工房の空気がピリッと引き締まった。
(うわ、なんだか怖そうな人が来た……)
わたくしは愛用のスパナを握りしめ、警戒しながら応対する。
「い、いらっしゃいませ。何かご用でしょうか?」
男は無言で、カウンターにずしりと重い袋を置いた。中から出てきたのは、ひどく損傷した訓練用の魔道具だった。おそらく、剣の衝撃を吸収するためのものだろう。
「これを直せるか。ついでに、もっと頑丈に、反応速度も上げたい。予算はこれだけだ」
男はぶっきらぼうに言うと、数枚の金貨をカウンターに置いた。
かなりの大金だ。
わたくしは依頼品を手に取り、じっくりと観察する。
ふむふむ、なるほど。構造は悪くないけれど、術式の組み方が甘い。これじゃあ、強い衝撃を受けたらすぐに壊れてしまうだろう。魔力の伝達効率も悪い。
(というか、設計が古いわね。これじゃ騎士様たちの訓練効率も上がらないでしょうに)
わたくしは、つい夢中になって早口で語り始めていた。
「お客様、これ、修理するだけでは勿体ないですよ。衝撃吸収の術式を並列化して、さらに魔力循環のバイパスを追加すれば、耐久性は五倍、反応速度は十倍まで引き上げられます。あと、この魔石の純度だと……」
「……ほう」
男が、初めて興味深そうな声を漏らした。
その氷のような瞳が、少しだけ見開かれている。
「君は、何者だ」
「え? ただの魔道具師ですが……」
わたくしがきょとんと答えると、男は何かを考えるように押し黙った。
そして、重々しく口を開く。
「……好きにやれ。予算は気にしなくていい。最高の性能を求める」
「ほ、本当ですか!? やった!」
わたくしは思わずガッツポーズをした。最高の性能! なんて素晴らしい響きだろう!
採算度外視で、自分の持てる技術のすべてを注ぎ込めるなんて!
それから三日三晩、わたくしは寝食も忘れて魔道具の改良に没頭した。
そして約束の日。工房に再び現れた男に、完成品を差し出した。
「お待たせしました! 名付けて、『エマスペシャル改』です!」
「……その名前はどうなんだ」
男は呆れたように呟きながらも、改良された魔道具を手に取った。見た目は以前とさほど変わらない。だが、彼ほどの使い手なら、その内部に秘められた圧倒的な性能の違いに気づくはずだ。
彼は魔力を流し込み、軽く起動させる。
その瞬間、彼の氷の瞳が、驚きに見開かれた。
「……信じられん。なんだ、この滑らかな魔力循環は。それに、この応答性……」
「ふふん。伊達に徹夜はしておりませんから」
わたくしが胸を張ると、男は初めて、その口元にかすかな笑みを浮かべた。ほんの一瞬だったけれど、その表情の変化は、どんな賛辞よりもわたくしを喜ばせた。
「素晴らしい腕だ。私はカイ・ランシング。王都騎士団の団長をしている」
「き、騎士団長!?」
まさか、目の前の堅物な男性が、あの「氷の騎士」と噂されるカイ・ランシング騎士団長だったとは! 平民出身でありながら、実力だけでその地位までのし上がった、王都の英雄。
「今後も、騎士団の魔道具の整備を君に頼みたい。正式に依頼させてもらう」
「は、はい! 喜んで!」
この日を境に、カイ様は工房の常連になった。
最初は仕事の依頼だけだったけれど、いつしか彼は、依頼がなくても工房に顔を出すようになった。
何も言わず、ただ椅子に座って、わたくしが作業するのをじっと眺めている。
その視線は、不思議と居心地が悪くなかった。
彼は、わたくしの汚れた作業着も、ボサボサの髪も、気にする素振りを見せない。それどころか、新しい術式について夢中で語るわたくしの話を、真剣な眼差しで聞いてくれるのだ。
「エマ」
「はい、なんでしょうカイ様」
「……君は、楽しそうだな」
ある日、油まみれで歯車を磨いていたわたくしに、彼がぽつりと言った。
「はい、楽しいです。魔道具に触れている時が、一番幸せですから」
わたくしが心の底からそう言うと、カイ様はまた、あの時と同じように、ほんの少しだけ口元を緩ませた。
(この人は、わたくしが公爵令嬢だったことなんて、知らないんだろうな)
完璧な淑女でも、誰かの婚約者でもない。
ただの魔道具師エマとして、その技術と知識を評価してくれる。
それが、どれほどわたくしの心を軽くしたことか。
そんな穏やかな日々が続く一方で、王宮では小さな変化が起き始めていた。
わたくしが去った後、アルフォンス殿下の執務が滞ることが増えたらしい。今まで当たり前のように揃っていた資料がなかったり、外交文書の草案に不備があったり。
「一体どうなっているんだ! 前はもっとスムーズに進んでいたはずだろう!」
殿下の苛立つ声が、側近たちを困らせているという噂を、市場での買い物ついでに耳にした。
(あらあら。あなた様が楽をできていたのは、誰かさんが夜なべをして、完璧な下準備をしていたからなのですよ?)
わたくしは鼻で笑いながら、熱くなったハンダゴテを握り直す。
過去を振り返るつもりはない。わたくしの居場所は、もうここなのだから。
カイ様が持ち込む依頼は、日に日に難易度を増していった。そして、わたくしが作った魔道具は、騎士団の活動に欠かせないものとなり、いつしか団員たちの間で「路地裏の天才職人」として噂されるようになっていた。
その日も、カイ様は難しい顔で工房にやってきた。
「隣国との国境付近で、魔物の不審な動きがある。広範囲を探知できる魔道具は作れないだろうか」
それは、国家機密にも関わるであろう、重大な依頼だった。
けれど、わたくしの心は、困難な挑戦を前に、武者震いしていた。
(面白くなってきたじゃない)
わたくしはニヤリと笑い、設計図を広げる。
この小さな工房から、国の運命を左右するようなものが生まれようとしている。
そして、その価値を唯一見抜いてくれたのが、目の前にいる氷の騎士様だなんて。
運命とは、なんと面白いものだろう。
公爵令嬢エマ・ウォルフォードの物語は終わったけれど、魔道具師エマの物語は、今、始まったばかりなのだから。




