第一話
シャンデリアの光が降り注ぎ、磨き上げられた大理石の床に、着飾った貴族たちの影が踊る。王宮の夜会は、甘い花の香りと虚飾に満ちた会話で満たされていた。
わたくし、エマ・ウォルフォードは、そんな喧騒の中心にいながら、完璧な微笑みを顔に貼り付けていた。背筋はどこまでもまっすぐに。指先の一本一本の動きまで、計算され尽くした淑女の作法に則って。
(あぁ、つまらない。実に、つまらない)
内心でどれだけ毒づこうとも、表情筋はピクリとも動かない。それが、ウォルフォード公爵家が十年以上もの歳月をかけて、わたくしに叩き込んだ「完璧な淑女」という名の呪いだったから。
「エマ」
凛とした、しかしどこか冷たさを孕んだ声に呼びかけられ、わたくしはゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、この国の第二王子にして、わたくしの婚約者であるアルフォンス殿下。金色の髪を光に煌めかせ、誰もがうっとりと見惚れる美貌を持つ、絵本の中の王子様そのもののような方。
その隣には、潤んだ瞳で殿下を見上げる、庇護欲をそそる可憐な男爵令嬢、リリアナ様の姿があった。
(あ、来た。ようやく、この茶番が終わるのね)
周囲がさざ波のようにざわめき、すべての視線がわたくしたちに突き刺さるのを感じる。好奇、同情、そして嘲笑。その全てを、わたくしは完璧な微笑みで受け流す。
アルフォンス殿下が、糾弾するように声を張り上げた。
「エマ・ウォルフォード! 君との婚約を、今この場を以て破棄させてもらう!」
その言葉を待っていたかのように、会場は水を打ったように静まり返る。
殿下は勝ち誇ったように、隣のリリアナ様の肩を抱き寄せた。
「君は、あまりにも完璧すぎた。美しいだけの、感情のない人形だ。私がどれだけ心を砕いても、君のその仮面が微笑むだけで、心からの笑顔を見せたことなど一度もなかった!」
人形。
なんと的確な表現だろう。わたくしは感心すら覚えた。
そう、わたくしはずっと人形を演じてきたのだから。
殿下は続ける。
「だが、私は真実の愛を見つけた。リリアナこそが、私の心を温めてくれる唯一の女性なのだ! 彼女は君のように堅苦しくなく、素直に感情を表現してくれる。これこそが、私が求めていた妃の姿だ!」
リリアナ様が、殿下の腕の中で「そんな……アルフォンス様……!」と、頬を染めてか細い声をあげる。見事な三文芝居だ。拍手でも送りたい気分になる。
(真実の愛、ねぇ……。あなたの言う真実の愛って、いつでもどこでもあなたを褒めそやし、あなたの愚かな自尊心を満たしてくれる相手ということでしょうに)
わたくしが作り上げた完璧な報告書を、さも自分が考えたかのように発表していたのはどなただったかしら。わたくしが調整した他国との交渉を、自分の手柄だと吹聴していたのはどなただったかしら。
あなたはただ、自分より優れた人間が隣にいるのが我慢ならなかっただけ。わたくしがあなたのプライドを傷つけないよう、どれだけ細心の注意を払ってきたか、気付きもしないで。
でも、もうそれも終わり。
わたくしは、スカートの裾を優雅につまみ、最も美しいとされる淑女の礼をしてみせた。
「アルフォンス殿下。そのご決断、謹んでお受けいたします」
「なっ……!?」
予想外だったのだろう。殿下は目を見開いて絶句している。
泣いて縋り付くか、せめて取り乱すと思っていたに違いない。
わたくしは顔を上げ、貼り付けた微笑みを崩さずに言った。
「殿下とリリアナ様の未来に、神のご加護があらんことを。心よりお祝い申し上げますわ」
完璧な、非の打ち所のない対応。
けれど、それはもう、わたくしが「完璧な淑女」として振る舞う、最後の義務だった。
幼い頃から、わたくしは母に言われ続けてきた。
「あなたは公爵令嬢として、完璧でなければなりません」
「感情を表に出すなど、はしたないことです」
「王家に嫁ぐのですから、王子殿下より目立ってはいけません。三歩下がって影となり、殿下を支えるのです」
好きだった本を読む時間も、庭で土いじりをする時間も、全て取り上げられた。
唯一、心の慰めだったのは、誰にも知られず、屋根裏部屋でこっそりと魔道具を分解し、その仕組みを解き明かすことだけ。複雑な術式、精巧な歯車、魔力の流れ……。その世界に没頭している時だけが、本当のわたくしでいられた。
けれど、それも、王子妃教育が本格化するにつれて、厳しく禁じられた。
「淑女にふさわしくない」と、わたくしの大切な工具も、書き溜めた設計図も、全て燃やされてしまった。
あの日の絶望を、わたくしは忘れない。
心を殺し、感情を捨て、ただひたすらに「完璧な人形」になることだけを強いられた日々。
その全てが、今、終わるのだ。
(ああ、なんて晴れやかな気分!)
婚約破棄を突きつけられた、悲劇の令嬢。
その仮面の下で、わたくしの心は歓喜の歌を歌っていた。
もう、誰かのための人形にならなくていい。
もう、息苦しい淑女の仮面を被らなくていい。
「では、わたくしはこれにて失礼いたします」
わたくしは、唖然とするアルフォンス殿下と、勝ち誇った顔をしながらもどこか拍子抜けしているリリアナ様に背を向けた。
周囲の貴族たちが、蜘蛛の子を散らすように道を開ける。
その背中に、同情や侮蔑の視線が突き刺さるのを感じる。
けれど、わたくしの足取りは、信じられないほど軽やかだった。
(さようなら、窮屈な鳥かご)
(さようなら、偽りのわたくし)
王宮の扉を開けた先に広がる夜の闇は、絶望の色ではなかった。
それは、無限の可能性を秘めた、自由の始まりの色だった。
これから、わたくしはどう生きようか。
そうだ、まずは小さな工房を借りよう。
ずっと我慢していた魔道具作りを、心ゆくまでやるんだ。
油と金属の匂いにまみれて、徹夜で設計図を引く。最高じゃないか。
公爵令嬢エマ・ウォルフォードは、今夜、死んだ。
そして、ただのエマとして、わたくしは生まれ変わるのだ。
夜風が、涙の代わりに頬を撫でていく。
わたくしは、誰にも見咎められることのない夜の闇の中で、十数年ぶりに、心の底から笑ったのだった。
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