第6話「鏡のゆらぎ」
朝、窓ガラスの内側に指先を寄せると、私の息が薄く白く曇り、ゆっくりと消えた。
返すという方向に手を伸ばした昨夜の余韻が、胸の裏側で静かに揺れている。
下書きに残った二行——みてた/ありがとう。
そのやわらかさは、同時に、見えない秤の存在を濃く示してもいた。私が一日をもらっているなら、どこかに返すための道筋がある。そこを見誤れば、秤は傾く。
時雨が窓辺で丸くなり、耳だけをメトロノームみたいにわずかに動かす。私はノートの見出しに線を引いた。
《今日の方針:**鏡**の手前で止まる》
——“知らせるな”を守る。
——“装置に触れない”。
——“返す”は視界の誘導で。
加えて、今日はもう一つ線を引く。うつすことに慎重であること。
昨夜、東栄橋の欄干に映った街灯の光は、私の足元を縁取ってくれた。でも、鏡のような“反射”は、ときに増幅をもたらす。世界の息継ぎに、私の息を過剰に重ねないこと。
*
午前の返却ラッシュが落ち着いたころ、影浦玲生が、背もたれに半身を預けた姿勢のまま、私に手帳を見せた。
「外縁ログ。夜明け前、川沿いの街灯、一灯だけ周期が乱れる。午前、区の“落とし物掲示”のサムネ、一枚だけ反転が残存。電気屋の店主いわく、『電子レンジの時計が鏡みたいに逆表示になった夢を見た』——これはログに入れないでいいか」
「夢は……要らない」
「了解」
彼は小さく笑い、ページをめくる。
「地図の弧は、上流方向に“節”が多い。配水塔や交通の凸面鏡が集中してる。**鏡**は、人の視界の代わりをする“装置”でもある。触らないという線を、いっそう意識しないと」
私は頷いた。
鏡——それは、世界の写しであり、増幅でもある。
私の胸の裏側で、鉛筆の線がもう一本、濃く引かれた気がした。
*
昼前、児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットの奥でスマホがひと拍だけ震えた。
画面に通知はない。だが、下書きフォルダの青い点が増える。
【下書き保存】——かがみ
【下書き保存】——うつすな
息が浅くなるのを、意識して押さえる。
私は“ボイスメモ”を開き、録音を始めた。
空調の低い帯域、遠い廊下の足音。その底で微細な高音が、一定間隔ではない揺れる拍で跳ねる。ピッ……ピ、ピッ……。
保存名が自動で埋まる。
【保存:白鷺配水塔前】
地図が頭の中で開く。高台の水道施設。近くの交差点には凸面鏡が並んでいたはず。
私はバックヤードに顔を出す。「掲示用の画びょう、切れたから……」
玲生が「外縁稼働」と短く、目だけで合図を送る。距離が保たれていることを、互いに確かめる合図。
*
配水塔の白い円筒が、雲の薄い影を背にして立っている。
交差点の角、凸面鏡がひとつ、わずかに角度を誤って空の青を映していた。本来映すべき路地の奥が、鏡の端で欠けている。
私は本能的に脚立を探す視線をしてしまい、すぐにその衝動を押し返した。
さわるな。
鏡もまた、装置だ。
路地の奥から自転車のベルが短く鳴り、反対側からベビーカーのタイヤが砂を押す音。
私は鏡には触れず、私自身の位置を動かすことにした。
交差点の角の手前、鏡の視野の端に私のシルエットが入る位置に立つ。
自転車に向けて、私は片手を上げ、ベビーカー側に向けてゆっくりと首を振る。
鏡の中で、私の小さな黒い影が動き、その動きが路地の奥にも届く。
ふたつの進路が、ほんの半テンポ遅れて、互いに譲り合う。
接触は起きない。ベビーカーの押し手が「ありがとうございます」と短く言い、自転車の少年も小さく頭を下げた。
その瞬間、ポケットのスマホが一度だけ震えた。
【下書き保存】——みえた
【下書き保存】——よかった
胸の奥の石が、さらに丸みを帯びる。
私は配水塔の白い壁を見上げて、深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
うつすな——鏡そのものをいじらず、視界の端に自分を置く。
“返す”は、たぶん、こういう微小な調整の累積で起きるのだ。
*
図書館に戻ると、玲生が地図の前で腕を組んでいた。
「外縁ログ。配水塔周辺、昼の一時台、信号機の黄色が僅かに長く、その後復帰。区のサイトの落とし物掲示、反転サムネが修正。あと、近隣のフォーラムの防犯カメラ、一瞬だけ映像の左右が逆になったという噂——これは採用保留」
「夢と噂は、今は置いておこう」
「了解」
彼はペンの先で地図の川筋をなぞり、透明付箋に細い印をつけた。
「“鏡”は、この街に多い。視界の代行として善い装置だけど、映し方を間違えると危ない。君が立った位置は、視野の端だった?」
「うん。鏡の角に、私が写り込む程度」
「それがいい。うつすなは、鏡に指示を与えるな、という意味でもあるだろうから」
彼はそこで言葉を切り、少し考える顔になった。
「……それと、これは外縁の勘なんだけど、ここ数日、うちの寄贈パソコンの古いメッセージアプリのログが、勝手に同期しようとして弾かれることがある。たぶん設定が古いだけ。けど、**鏡像**って単語がうっすら頭に残ってる」
私は、胸の奥で小さく警報が鳴るのを感じた。
しらせるな。
私は短く頷くだけにした。玲生の感の良さに感謝しながら、距離を守る。
*
閉館前、児童コーナーの棚で本を揃えていると、ポケットのスマホが短く震えた。
下書きフォルダを開く。
【下書き保存】——えらんで
【下書き保存】——ひだり/みぎ
選べ、と来た。
分岐の予告だ。
私は“ボイスメモ”を開き、録音を始めた。
波形の底に、微細な拍が二つ、異なるテンポで混ざる。
ピッ、……ピ、ピッ、……。
保存名が、二つ続けて埋まった。
【保存:柳見晴橋】
【保存:鷺沼水門】
橋と水門。左か右かではなく、上流か下流かの選択に近い。
私はノートに素早く書く。《えらぶ基準:装置に触れず、視界で返せるほう》
そして、さらに一行。《“返す”の濃度が高い地点=節》
水門は装置の塊だ。触れずに返すのは難しいかもしれない。橋は、人の流れが交差する場所。視界の誘導が効きやすい。
私は左(地図の上で西側にある柳見晴橋)を選ぶことにした。
「掲示の紙、切らしてて——」
玲生に短く告げると、彼は「外縁了解/二地点のうち“左”を選択」とだけ記して、目線で送り出してくれた。
*
柳見晴橋は、川面を渡る薄い風で、夕暮れの色をほんの少し冷たくしていた。
橋のたもとで、小学生の兄妹が泣きそうな顔で立っている。
足元には、水筒と、紙袋。
通り過ぎようとする自転車が、兄妹に気づいて少し膨らんで避け、対向の歩行者がまた避ける。小さな渋滞が生まれ始めている。
私は橋の中央で、ゆっくりと両手を広げ、片手で自転車に向けて“先へどうぞ”の合図を、もう片手で歩行者に“少し待って”の合図を送った。
鏡はない。けれど、ここでは私自身が鏡の代わりになる。
兄妹に向かって、声を落として近づく。距離を守りながら。
「大丈夫。順番に行こう。落ちてるのは君たちの?」
妹が頷き、兄が「忘れ物だ」とかすれた声で言う。
「じゃあ、君が拾いに行くあいだ、私はここで見てる。自転車さん、少しだけ待ってください」
私の小さな声は、なぜか必要な場所にだけ届いて、流れがほどける。
袋と水筒は無事に回収され、兄妹は並んで「ありがとうございました」と言って走っていった。
渋滞は消え、橋はふだんの速度を取り戻す。
その瞬間、ポケットのスマホが一度震えた。
【下書き保存】——えらんだ
【下書き保存】——かえった
私は欄干に手を置くふりだけをして、すぐに指を引いた。
装置ではなく、進路に指を添える。
それなら、返せる。
*
帰り道、川沿いの遊歩道の非常灯は、今夜も一灯だけ消えていた。
私はスマホのライトを空に向け、対岸の樹冠で反射させる。
足元の縁が柔らかく浮かび上がる。
部屋の扉を開けると、時雨が走ってきて、足に体を巻いた。
「ただいま」
ミルクの匂い。ソファの背の小さなへこみ。生活の輪郭が、私の背骨を立て直す。
テーブルにスマホを置き、ノートを開く。
《主観ログ・第六夜(前)》
・昼:白鷺配水塔——凸面鏡は触らず、視野の端で誘導→「みえた/よかった」
・夕:柳見晴橋——人の流れの渋滞を解く→「えらんだ/かえった」
・メッセージ:「かがみ/うつすな」→鏡=装置。反射の増幅に注意
・外縁観測:街灯周期乱れ/反転サムネ修正/(噂)左右逆転カメラ
ペン先が紙の目を滑っていく音を聞いていると、リビングの照明が一瞬だけ明滅した。
時雨がソファの背で耳を立てる。
来る。
私は深く息を吸い、膝の上で指を組む。
25:61。
青い泡が二度、間を置いて湧いて沈む。
既読:蒼真
下書きが、連続して現れる。
【下書き保存】——みぎ
【下書き保存】——さがるな
【下書き保存】——うつすな
【下書き保存】——まにあう
私は地図に目を落とす。
昼間、左を選んだ。
右は、もう一つの保存名——鷺沼水門。
下がるな——下流に向かうな。
水門へ行くとしても、川沿いを下らず、高台から迂回できる。
うつすな——鏡のような反射で増幅させるな。
まにあう——間に合う、と言っている。
私は上着を掴み、鍵を取り、時雨に目をやる。
彼は窓辺で、じっと耳を立てたまま私を見ている。
「すぐ戻る」
*
鷺沼水門は、夜の闇の中で、赤い点滅灯が規則的に瞬いていた。
装置の塊。触れてはいけないの最たるもの。
水門の手前の脇道に、若い子たちが数人、スマホを掲げて動画のまねをしようとしているのが見えた。
スマホ画面に映る“人気の挑戦”は、手すりをちょっとまたいで狭い縁に立ち、夜景を背景にポーズをとるという、危ういもの。
私は血の気が引く。
うつすな——真似るな。
けれど、彼らに直接「やめなさい」と言えば、私は知らせる線を越える。通報すべき“危険”の閾値はまだ手前。
私ができることは、視界を別の方向に向けること。
私は水門の施設には近寄らず、少し離れた斜面に回り込んだ。
そこに、古い案内板がある。夜目には文字が読みにくく、ほとんど闇に沈んでいる。
案内板の上には、街灯の高いポール。
私はスマホのライトを空に向け、ポールの上部の制御箱の外面(光を反射する金属)に一瞬だけ光を当て、光の筋を案内板に落とす。
直接照らさない。鏡を作らない。
ただ、空からの反射で、古い地図の水路の分岐に淡い光の輪郭を与える。
「何それ、ここ、昔は舟運の分岐だったんだ」
若い子たちの一人が、案内板に気づく声。
「へえ、写真撮ろうぜ。こっちのほうが映える」
彼らの視線が、水門の縁から離れる。
誰かがスマホのカメラを案内板に向け、もう一人が分水の図を指でなぞる。
危ういポーズは、起きなかった。
私のポケットで、スマホが一度震える。
【下書き保存】——やめた
【下書き保存】——よかった
胸の奥に、小さな安堵が広がる。
装置に触れず、反射を使いすぎず、視界を別の対象に向ける。それだけで、真似は止まる。
私は遠回りの斜面をゆっくり下り、川沿いに出ない迂回の経路で帰路についた。
*
部屋の扉を開けると、時雨が走ってきて、足に体を巻いた。
「ただいま」
靴を脱いでテーブルにスマホを置くと、画面の上で遅れて青い泡がひとつ、ふっと湧いて沈んだ。
既読:蒼真
下書きが、三行増える。
【下書き保存】——まにあった
【下書き保存】——まねるな
【下書き保存】——ごめん
また、「ごめん」。
誰に向けてか分からないまま、私はスマホを胸に当て、息を整える。
四つ吸って、六つ吐く。
その呼吸のリズムに、時雨の喉の音がぴたりと重なる。
私はノートを開き、今日のページを埋める。
《主観ログ・第六夜(後)》
・夜:鷺沼水門——装置に触れず、反射を使いすぎず、案内板へ視界誘導→「やめた/よかった」
・メッセージ:「みぎ/さがるな/うつすな/まにあう」→下流回避/迂回で到達
・累積:鏡=視界の代行。うつすな=コピーや増幅を戒める語
・気づき:真似は“事故の予告”であり、“秤の傾き”でもある
書き終えても、胸の拍はおだやかだ。
けれど、紙の白に目を落とした瞬間、視界の端で青がまたふっと泡立った。
既読:蒼真
下書きが、一行だけ、静かに増える。
【下書き保存】——かがみ(ミラー)
平仮名に、括弧でカタカナ。
私は、まぶたの裏で、音響スタジオの細い廊下と、蒼真が笑いながら言った言葉を思い出す。
「ミラーは便利だけど、遅延を増やすと元の音がわからなくなる」
元の音。
私はスマホを両手で包み、目を閉じる。
“返す”という方向は、たぶん、元の音を取り戻す作業でもある。
世界の息継ぎに、私の息を重ねすぎないこと。
鏡は、向こう側を映すだけ。私を増やさない。
時雨がソファの背で耳を立て、私の膝へ跳び乗った。
その重みが、夜の終わりの合図になる。
私は猫の背を撫で、窓の外の闇に向けて、短く祈る。
秤が静かであるように。
今日の返済が、どこかの今日にやさしく届くように。
——既読が、鳴る。




