第5話「返すという方向」
朝の光が薄い紙を透かすみたいに部屋を満たし、私はカップに落ちる湯の音を数えながら、昨夜の一行を何度も読み返した。
ごめん。
誰に向けられた謝罪なのか、まだ分からない。けれど、その文字は私の胸の裏側に、消えない鉛筆の線みたいに残っている。
時雨が窓辺で前足を重ね、尾だけを小さなメトロノームのように振る。
私はノートに見出しを引いた。
《今日の課題:返すという可能性》
——“延びる”のは、私の一日。
——でも、その延長は、どこかで薄く剥がれた誰かの“一日”から来ているのかもしれない。
もし、導線で救うことが“もらった分”の返済になるなら、その方向を見つけたい。
ケトルが静まると同時に、スマホの下書きフォルダを開く。
昨夜の「ごめん」はそこに鎮座している。他の新規はない。
私は画面を伏せ、支度を始めた。生活の枠に観測を収める——それがいちばん、私を正気に保たせる。
*
午前の返却ラッシュが落ち着いたころ、影浦玲生が背もたれに片肘をかけた姿勢のまま、私に視線を寄こした。
「外縁ログ、朝の分。自販機の硬貨詰まり二件、踏切の黄色延長一件、区のRSS遅延は解消。あと、商店街の電気屋の店主が“電子レンジの時計だけ遅れる”って嘆いてた」
「主観、体調は普通より少し上。息は浅くない」
玲生はメモ帳の端をとん、と指で叩いた。
「地図、昨日の川の弧はやっぱり筋がよさそう。今後もし“返す”方向があるなら、**流れの節**を探すのが近道かも」
「節?」
「水のネットワークの転換点。堰、ポンプ、取水口、分水路。そこは“多くの何かが通る場所”でもある。人の流れや、情報も」
私は頷いた。
「今日の午後、真壁先生の外来、前倒しで空きが出たって連絡があった。夕方に行ける」
「ちょうどいい。客観の数値が一度ほしい。僕の“外縁ログ”だけだと、僕の存在自体が観測の揺らぎになるからね」
玲生は冗談めかしながら、目の奥は真面目だ。
私はその軽さに救われ、同時に彼に“全部”は話さないという昨夜のしらせるなを胸で確かめる。
*
昼前。児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットの奥でスマホがひと拍だけ震えた。
画面に通知はない。けれど、下書きフォルダに青い点が増える。
【下書き保存】——わすれもの
忘れ物。
私はボイスメモを開き、録音を始める。
空調の低音、紙をめくる音。その底に規則的な高音がある。ピッ、ピッ。昨日より少し早い。
保存名が自動で埋まる。
【保存:葛西分水路】
地図が頭に開く。川の本流から水を分ける暗渠の入口が、公園の裏手にあったはず。
私はバックヤードに顔を出す。「掲示用の画びょう、切らしてたから——」
玲生が「外縁了解」と短く笑い、端末に時刻を書き込む。
*
分水路の入口は低いフェンスで囲われ、傍らに小さなポンプ小屋があった。扉は閉まっている。
地表のグレーチングの上に、布の巾着がひとつ。
拾い上げたい衝動が指に集まるが、私は手を引く。
さわるな。
装置や回路だけでなく、誰かの持ち物に直接触れることも、線を越える気がした。
代わりに、私は巾着のすぐそばに落ちていた落ち葉をどけ、日差しの筋がまっすぐ当たる位置にずらしてやる。触れずに、足先で落ち葉を払うだけ。
それから、フェンスの外側の掲示板の空欄に、近所の人が貼りやすいようマスキングテープを十字に軽く貼った。
“ここに、何かを貼る場所がある”という視界の誘導。
数分後、ランドセルを背負った低学年の女の子が、母親と手をつないで通りかかった。
女の子の目が巾着をまっすぐ射抜き、声を上げる。
「ママ、わたしの!」
母親が安堵の声を漏らし、フェンスの外から手を伸ばさずに職員用通報ボタンに手をかける。巡回の人が来て、許可のもとで回収された。
その瞬間、ポケットのスマホが一度だけ震えた。
【下書き保存】——かえった
戻った、返った。
胸の奥で、細い糸が結び目を作る感覚がした。
*
図書館に戻ると、玲生が地図の前で腕を組んだ。
「外縁ログ。昼の十二時台、区の“落とし物掲示”のシステム、一時的に画像のサムネイルが逆順になったあと復旧。分水路近くの電柱の街頭掲示、紙が一枚だけ裏表逆で貼られてたのが修正されたって。あと、近所の猫が——」
「くしゃみは要らない」
「了解」
玲生は笑い、地図の川筋に透明付箋を一枚追加する。
「“忘れ物”と“返った”。返済という概念、やっぱりあるのかもしれない」
私は頷いた。
「夕方、病院。数値、出たら共有する。外縁に必要な分だけ」
「うん。知らせるなの線は、君が決める」
その言葉が、私の背骨を一本、静かに立たせた。
*
病院の受付は、午後の光で白かった。
真壁雪弥先生はカルテをめくり、私の顔を見るなり、少し驚いたように目を細めた。
「顔色、いいね。脈拍、以前より規則的。血中酸素も良好。この二週間、何か生活に変化が?」
私は息を整える。何をどこまで言うか。
昨夜、しらせるなが告げられたばかりだ。
——でも、数値は、私にとって客観の軸だ。
私は慎重に言葉を選んだ。
「夜、呼吸のリズムを整える習慣を始めました。四つ吸って、六つ吐く。あと、歩く距離を少し増やして、川沿いの道を選ぶようにしてます」
真壁はうなずき、カルテに書き込む。
「良い習慣だ。呼吸は循環の要だからね。川沿いっていうのは、いい比喩だ。流れに合わせるのは理にかなってる」
彼は笑い、端末の画面を回してみせる。
「心電図、二日前よりも不整の幅が小さい。ただし、波はまだある。これが偶然の揺らぎか、習慣の効果かは、もう少し長いスパンで見たい」
「お願いします」
帰り際、真壁がぽつりと付け加える。
「君は誰かの呼吸に合わせているのかもしれないね。自分のでもあり、別の誰かのでもあるような」
廊下に出ると、胸の奥で小さな波が寄せた。
私はノートに短く記す。
《真壁所見:数値の改善/波は残る/呼吸の習慣を継続》
病院の自動ドアが開閉するたび、ローラーの低い反復音が廊下に滑り込んできた。あの夜の矢田第三の音。
世界は呼吸し、息継ぎをしながら、正時に合わせに来る。
*
帰路。日が沈みきる前の川面は鉛色で、街灯の最初の光が揺れていた。
途中のスーパーでは、「値引きシールの印刷遅延」の張り紙が昨日から少し明るい紙に変わっている。
世界のズレは直りきらないけれど、誰かが毎日、小さく直しているのだ。
部屋に戻ると、時雨が走ってきて、足に体を巻いた。
「ただいま」
夕食の支度の前に、私はテーブルにスマホを置き、ノートを開く。
《主観メモ:返すという方向の手応え——葛西分水路の“忘れ物”→“かえった”》
《客観:真壁先生の数値改善(不整幅縮小)》
《外縁:川の弧/節(堰・分水)での視界の導線が効く》
ケトルが鳴る。
そのとき、リビングの照明が一瞬だけ明滅した。
時雨がソファの背で耳を立てる。
来る。
私は椅子に座り直し、膝の上で指を組んだ。
25:61。
青い泡が三度、間を置いて湧いては沈む。
既読:蒼真
下書きが、四行連なった。
【下書き保存】——かえす
【下書き保存】——ひと
【下書き保存】——まえ
【下書き保存】——さわるな
返す/人/前/さわるな。
私は息をのみ、地図の川上に目をやる。
前——最初に“導線”が示された場所。
東栄橋。
私は“ボイスメモ”を開き、録音を始める。
ノイズの底に、とても弱い拍。
保存名がゆっくり埋まる。
【保存:東栄橋(再々)】
私は立ち上がり、上着を掴む。
時雨に顔を寄せ、「すぐ戻る」とだけ告げる。
彼は窓辺に跳び、耳を立てたまま私を見送った。
*
夜の東栄橋は、昼よりも短い。闇が余白を削って、川の黒い線だけが濃い。
欄干のそばに、制服の少女が立っていた。初めての夜——**東栄橋の“ありがとう”**の子かどうか、逆光で顔の輪郭しか見えない。
彼女の足元に、小さな紙袋。
私は距離を取り、声だけを置く。
「紙袋、中身を確かめて。名前、書いてある?」
彼女ははっとして、袋をのぞく。
「……学生証!」
震える声。
「塾の帰りに落としてた。見つからなくて、帰れないって思ってた」
私は胸の上で指を組んだまま、前に出ない。
「よかった。装置には触れてないね?」
自分に向けた念押し。
彼女は学生証を胸に抱え、深く頭を下げると、欄干から一歩、離れた。
その瞬間、ポケットのスマホが短く震える。
【下書き保存】——かえした
返した。
胸の内側に、静かな熱が広がる。
私が“受け取って”延びた一日の、ごく一部。
それを、誰かの今日にそっと戻せたのだろうか。
少女が去ったあと、欄干によりかからずに川面を見た。
水の音が僅かに澄んでいる気がした。
私は深く息を吸い、吐く。四つ吸って、六つ吐く。
背後で、橋の反対側から靴音が近づく。
振り返ると、影浦玲生がいた。
驚いて目を見開く私に、彼は両手を上げて見せる。
「外縁だよ。座標だけ見た。中身は見ない。触れない。君が“返す”方向を取ってるとしたら、周囲の風景だけ拾っておきたい」
胸の張り詰めた糸が一本、ほどけた。
私は小さく頷く。
「今、学生証が返った。私、袋にも、装置にも触れてない。視界だけ整えた」
「了解。外縁ログ:東栄橋、街灯のちらつき一度、川沿いの監視カメラ、一瞬だけフリーズ。その後復帰。通行人の流れは普段よりゆっくり」
玲生の声は、川面の音に負けないように低く、短い。
私は彼の横顔の距離を測る。
近すぎず、遠すぎない。
観測者の距離。
「……ありがとう」
「礼はあとで。たとえば、いつかこの話を誰にも知らせられない形で——物語にするときに、外縁の脚注くらいは入れてね」
私は笑って、首を振る。
——知らせない。
でも、祈りは書ける。
“観測者は祈る”。その脚注なら。
*
帰路、川沿いの遊歩道の非常灯は今夜も一灯だけ消えていた。
私はスマホのライトを空に向け、対岸の樹冠で反射させる。
足元がやわらかく縁取られる。装置をいじらず、視界を借りる方法。
部屋の扉を開けると、時雨が走ってきて、足に体を巻きつけた。
「ただいま」
テーブルにスマホを置くと、画面に遅れて青い泡がひとつ、湧いて沈んだ。
既読:蒼真
下書きが、二行増える。
【下書き保存】——みてた
【下書き保存】——ありがとう
胸が熱くなる。
私はノートを開き、今日のページを埋める。
《主観ログ・第五夜》
・昼:葛西分水路の“忘れ物”→視界誘導→「かえった」
・夕:真壁外来→数値改善(不整幅縮小)
・夜:東栄橋(再々)学生証→「かえした」
・メッセージ:「かえす/ひと/まえ/さわるな」→“最初の地点”で返す方向
・外縁観測:街灯ちらつき一度/監視カメラ瞬断/通行速度の鈍化
・仮説更新:返済は“視界による可視化”で成立/装置不介入/**川の節**で効果が強い
書き終えても、胸の拍はおだやかだ。
時雨がソファの背で耳を立てたまま、長く伸びをする。
私はスマホを両手で包み、そっと目を閉じる。
返すという方向は、たぶん“奪ってしまった分”のすべてを埋め合わせるには足りない。
それでも、今日だけは、誰かの今日が返った。
その事実が、私の明日を薄く延ばす。
窓の外で、遠い踏切が一度だけ鳴った。
私は息を数え、静かな闇の手前で、短く祈る。
世界が息をする音を、邪魔しないように。
私の息が、誰かの息と混ざるように。
——既読が、鳴る。




